あの男の事が許せないか?
 かつてストレイト・クーガーから問われたその問いに、今ならばスバル・ナカジマはハッキリと答えられただろう。
 ああ、許せない。許せないとも、許していいはずなどないと。
 ハッキリと憤怒と憎悪の念をもって、そう迷わずに答えることが彼女には出来た。
 この男が、自分から大切な者を奪い、大切な者を傷つけた。
 故にこそ、許せない。
 絶対に……絶対にッ!
 だからこそ――

「カァァァズゥマァァァアアアアアアアアアアア!」

 相手の、その憎き仇である獣の名を、あらん限りの憎悪を込めて叫ぶ。
 その怒りを、握り固め振り被ったその拳へと込めながら。
 眼前に迫り来る黄金に怯む事すらなく、空色の発光と共にスバルは相手を目掛けて突っ込んだ。
 黄金と空色。アルターと魔法。拳と拳。
 二つの激突が閃光と震動、そして地を割り、雲海を切り裂こうが、如何なる現象を発生させようが一切関係ない。
 もはや今のスバル・ナカジマは眼前のこの獣以外には何も見えてはいなかったのだから。
 そう――


 ――あたしは、こいつを殺したい。

 

魔法少女リリカルなのはs.CRY.ed
第10話 スバル・ナカジマ

 

 ――話は暫しこれより遡る。

 

「非合法の……格闘興行?」
「ええ、クーガーの情報によれば……アルター使い同士で闘わせる非合法の賭け試合らしいです」

 車を飛ばしクーガーの齎した情報通りにやって来たこの地で行われているのだというその行い。
 同じアルター使いという立場の橘からすれば、それがあまり面白い事ではないことくらいは水守もスバルも彼の様子を見ていれば察せられる。
 元来、人間が争いを好んで観戦する嗜好を持ち合わせているという事実は古代ローマの例を見る限りでも明らか。それに限ったことでもなく、テレビで行われている格闘試合だってルールや規模の程度差はどうであれ同じもの。殊更に珍しいことでもない。
 ましてや此処は文字通りの無法の大地、そんなものが今更行われていることを知ったところで「まあ、あったとしてもおかしくはない」と納得できるものでしかない。
 ボクシングやレスリングのようなルールや高潔な精神に則ったものでなかろうとも、観客からすれば刺激が強いだけの過激な娯楽も同じ。故にこそ、一々目くじらを立てていたところで仕方がない。
 だが元来生真面目な性格が揃いも揃った三人組である彼らにとっては、これは少々気分を害する品の無いものだと捉えているだけである。

 しかしそれだけの理由で前を進む橘がいつも以上に固い雰囲気を発しているわけではない。むしろ他にある別の理由の方が大きい。

「この辺りは再隆起の現象の影響でまったく整備されていませんからね、ホールドも手を出せない現状ですし」

 故にこそ警戒すべき無法地帯。警戒は払い過ぎて困ることもない、とまさに言っていいような場所柄だ。
 このゲートを潜った地下施設へと入る入り口でさえも、銃器で武装した屈強な男たちが見張りで立たされているような徹底振りだ。
 入場はクーガーが齎してくれた情報の中の条件と、幾ばくかの入場料という金を掴ませることで事なきを得られたが、此処から先の内部で揉め事など起こそうものなら身の安全が保証されないことくらいは充分に理解できていた。

「ですから、お二人もくれぐれも警戒は怠らぬように」

 女性二人を引率する男としての責任感と自負心を示している橘は頼もしくも映りはするが、けれどそれにしても少し気張りすぎなのではないかと思わないスバルでもない。
 けれど魔導師としても……なのはの後を継ぐと決めた者としても、むしろ二人は自分が護らねばとスバルは密かに気合を込め直してもいた。
 そんな二人に挟まれた水守だけが不安と共に此処を訪れた淡い期待へと心を逸らせてもいる。
 最近になって此処に現れたという滅法強いアルター使い……それが本当に劉鳳なのだろうか、水守の心境は多少不安でもあった。
 あの自分たち以上に絵に描いた様に生真面目な性格の彼がこんなところで賭け試合などに身を投じているのだろうか?
 あまり想像できない姿だが、けれど万に一つだろうとも彼だという可能性とて零ではないのだ。
 ならば逢って確かめたい……その自らの内にある欲求を彼女もまた否定できなかった。

 そうして三者三様に内心の決意や思いを固めながら、歓声が既にこちらにまで届いてきている通路の奥へと進み、そして辿り着いた。

 熱を帯びた歓声。多種多様な雑多な人間が埋め尽くす観客席。
 そしてそこから見下ろす、その賭け試合の舞台となるコロシアム。
 熱狂に沸き立つその光景を、辿り着き呆然と見回す三人を他所に、どうやら折りもよくその件の試合が幕を開けようとしているらしい。

 既にリングには一人、屈強な体つきをした男が好戦的な笑みを浮かべて拳を鳴らしながら、自分の潜ってきたゲートとは反対側にある対戦者が潜ってくるゲートを、その相手の登場を今か今かと待ち望んでいるように窺っている。
 ……アレがその噂のアルター使いなのか? と当然ながらその見知らぬ男の姿に落胆に近いものを抱いている水守の姿を見て、慌てたスバルはどう彼女を慰めようかと考えながら口を開こうとする。

「あの、みも―――」
「どうやら、対戦者が出てくるようですよ」

 しかし口を開きかけたスバルの言葉を遮るように、男の立っている方向とは反対側のゲートの方に視線を向けていた橘が、二人に注意を促がすかのようにそう告げてくる。
 橘の言葉に二人もハッとなって視線を慌ててそちらのゲートの方へと向ける。


 音を立てて開いていくゲートの中、靴音を響かせながらゆっくりとリングに向かって進み出てくる一つの影。
 一体何者か、その正体を確かめようと注意深く観察するかのように視線を向けていた三人の目は驚いたように見開かれる。
 席から立ち上がり更に熱を増す観客たちの歓声が響く中、これから己が闘う舞台となるリングへと現れたその男は、ただ無言のまま片目を瞑ったその視線を眩しそうに顰めながら、己を照らし出す照明を見上げている。

「――あの人はッ!?」
「カズマッ!?」

 思わず水守と橘が身を乗り出すように驚きを顕にしているその脇で、その件の人物を視界に納めているスバルは呆然と見開いた視線のままにありえないとでも言いたげにただ一言、無意識にその言葉を零すのみ。

「…………嘘」

 今は最も会いたくない、そう願っていたはずの己の感情を激しく持て余す相手との、それは皮肉にも劇的な再会だった。

 

 熱狂的な歓声が己の入場を出迎えて沸き起こる。
 しかしながら彼―――カズマにとってすれば耳障りで喧しいと感じこそすれ、それ以外の感情を抱く余地もない。
 結局、ここに戻ってきちまったか。
 否、此処こそが……此処くらいしか己の生きる場所は無いだろうと再確認を抱くだけだ。
 ああ、照明が眩しいな。手を伸ばしても到底届かぬ高みから己の姿を照らしているソレを、カズマは左目しか開かないその片目のままに眩しそうに見上げる。
 だがいつまで経ってもゲートの傍からそうして前に出ようとしないこちらに苛立ったように観客たちから罵声の言葉が煽るように飛んでくる。
 ……ああ、五月蝿えな。急かさなくてもちゃんと行ってやるよ。
 どうせ他に進むべき道も無ければ帰る場所もない。
 ならば争いを求めて、くたばりそこなった無様な獣は釣られるように進むのみ。
 そうして歩みを再開してリングの中央に向かうカズマを挑戦者の男は不敵な表情も顕に見据えてくる。
 顔を覚える心算もなければ、記憶に刻む心算も毛頭ない、一山幾らで当てつけられたかのような雑魚であることは間違いない。
 カズマ自身もまたそう認識している。己が決して手こずるような相手でもないくらいのことは。
 だというのに、相手が身構え己がアルターを顕現しようとしているのに何故自分は戦う準備もしようとすらしていないのか。
 食指が動かない……それも正直な理由の一つではある。
 けれどそれ以上に、理由があるとするのなら―――

 

「カズマ!?」
「……どうして?」

 目の前で行われている光景がただただ信じられぬといった様子で目を見開き、驚愕の言葉を漏らしているのは橘とスバルの二名である。
 負けず劣らずと言った様子で他の外野からも激しい野次が飛んではいるが、二人の……否、水守も含めて彼を知っている三人にとっての驚きはそれら有象無象の比ではない。

 試合は一方的な展開だった。
 一方的に、アルターすらも出さず抵抗らしい抵抗も見せぬままにカズマが攻撃を受け続けていた。

 前評判では何処で仕入れてきた情報かは知らないが、カズマがこれまで何人もホーリー隊員を倒してきたという評判から、カズマが圧倒的人気だった。
 事実、スバルや橘の目から見てもあの対戦者はホーリー隊員のレベルにも及ばないようなネイティブアルターであることは明らか。
 橘を下し、劉鳳と互角に渡り合い……そしてなのはを殺した男が相手をするにはあまりにも役者不足だと言わざるを得ない。
 本来なら瞬時に、そうカズマの圧倒的な勝利で終わっていてもおかしくはない。むしろそうでない方がおかしいくらいだ。
 ……だというのに、眼前であのいいように無様にやられているあの光景は何だ?
 思わず拳を握り固めながら、リングで無様を晒しているカズマに怒鳴りつけたくなる衝動をスバルは必死に押さえ込む。
 そんなスバルの内心が分かるのかどうかは不明だが、先程から水守がそんなスバルを心配そうに何度も窺っていた。

 

「いいのかよ、こんなバトルで!?」

 そうは言いながらもこちらをボコるアルターの猛攻を止めようとはせずに、むしろサンドバックと化しているこちらを嘲るように叫んでくる挑戦者。
 ……痛ぇ。ああ痛え。
 けれど痛みが感じられる内は正常、そしてこの程度の攻撃では命の危機にもほど遠いことくらいは他ならぬカズマ自身がはっきりと自覚していた。
 甘くて、温い。
 吐き気がするほどに手緩い。蚊が刺すとまでは言い切れないが……それでも不足にも程がある攻撃だというのは確かだ。

 アイツの攻撃はもっと速くて、鋭かった。
 アイツの攻撃はもっと多彩で、重かった。

 故に足りない。あまりにも足りなさ過ぎる。
 ならどうして、さっさと終わりにしない?
 不足と分かりきっているというのなら、茶番が承知の上だというのなら、どうしてこれを終わらせようともしない。無抵抗を続けるのだ。

(……償い? ハッ、そんな殊勝なタマでもねえだろ)

 自らでも持て余すこの“らしく”のなさ。
 本当に自分はどうしてしまったというのだろうか?

(………むしろ、俺が聞きたいね)

 答えなどない。出てくるはずもない。
 八ヶ月前のあの日から、それは既に永久に失ってしまったと言ってもいいのだから。
 多分、彼女は自分に失望しているだろう。
 この様だ、そんな自覚くらいはカズマにもあった。
 だがそうだとしても―――

 挑戦者のアルターがカズマの体に密着し叩きつけるようにコロシアムの壁に押し込み、そのまま押し潰そうと圧迫をかけてくる。
 ミシミシと悲鳴を上げる己の体。もしかしたらこれでミンチにでもなれるかとそんな淡い幻想を一瞬とはいえカズマは抱いた。
 けれどそれも相手は途中でやめてしまう。何だよ焦らすなよと思わず文句を上げそうにもなりながらも、見れば相手は反撃してこいよと言わんばかりにまるでこちらを誘っている。
 ここまでやられれば“シェルブリット”のカズマであれば普通はキレる。そして容赦もせずに相手を叩き伏せているだろう。


 ……だが、もはやそんな獣も死んだも同然。


 背負うものも、護るべきものも、もはや何処にだってありもしない。
 残ったのは振るう理由すらも持て余す牙と爪だけだ。
 そしてソレを振るうこと自体に今の己は迷走している。
 つくづく煮え切らない、自身でも腐りきっていると自覚のある思いも抱きながら、惰性と言っていい動作で立ち上がり、相手に向かって進み始める。
 観客たちが漸くそこでカズマの反撃かと期待するかのような歓声を顕にする。正直、喧しくて煩わしい。
 そんなどうでもいい歓声を無視しながら幽鬼のような覚束ない足取りで相手の目前まで接近し―――

 ―――左右から相手のアルターにプレス機のように挟まれた。

 ……流石に、コレは効いた。
 圧迫から解放されると同時、ふんばりが効かぬように思わず地面へ向かって無様に倒れこみかけていくカズマ。

 その瞬間、カズマの脳裏へと走ったのは―――

 

『―――カズくん』

 ……やめろ。

『―――カズマ』

 ……思い出させるな。

『―――カズマ君』

 ……もう、背負いきれねえんだよ。

 

「アホらしい試合だ。もう終わりにしてやるよ!」

 ギリギリで倒れこむのを何とか踏ん張っている、もはやそれしか出来ないであろう相手を心底嘲笑うように見据えながら、男は眼前のカズマへとトドメだと言わんばかりに最後の猛攻をかける。
 一対のL字を連想させるその具現型アルターを一つに纏めるように結合。
 それを遙か上空へと飛翔させそこから相手に向けて叩き込むフィニッシュを決めるべき雄叫びを上げる。
 上空から今にも襲い掛からんとしてくる相手のアルターを、カズマは徐にその視線を上へと上げながら確認する。

 ―――同時、その姿がどうしてもアレと被って見えてしまった。

 空の上からこちらを見下ろし、攻撃を叩き込んできたアレに。
 結局、求めていた決着も付けられぬままに取り逃したアレに。

 真・絶影……そしてあの白き魔法使いの姿に、ソレはダブって見えてしまった。


「………俺に、ソレを………」

 思わずポツリと呟きを漏らすカズマに、対戦者が何をブツブツ言っているのかとでもいった様子に怪訝な態度も顕にする。
 しかしそんなもの、もはやカズマにとっては知ったことではない。
 それよりも―――

「……ソレを――――チラつかせてきてんじゃねぇぇぇえええええええええええええ!!」

 その絶叫と同時、瞬間的にカズマを中心に発生した黄金色の光が荒れ狂う暴風のようにコロシアム内に吹き荒れて蹂躙する。
 一体何事かと異常事態に観客席の観客たち、そしてカズマと対峙していた対戦相手もまた戸惑いを顕にする。

「これは……ッ!?」
「な、何だっていうんだ!?」

 そしてそれはカズマの変わり果てた様に戸惑いを顕にしていたスバルたちもまた同じだった。
 黄金の暴風が荒れ狂う中、水守の身を必死に護るように庇いながらそれでもスバルが視線を逸らさなかったのやはりコロシアムである。
 そのリングの中心、いつの間にかアルターを顕現させながら唯一人勝者として立っているあの男の姿からスバルは目を離せなかった。

 

 結果から見れば、それはカズマの逆転勝利だった。
 それに沸き立つように最前までの野次すらも超える歓声がコロシアム内に響く中、その祝福を与えられている当人だけはそれらに微塵の感慨すらも抱いてはいない。
 むしろ………

「……結局、こうなっちまうのかよ」

 本気でボコられて無様に負けてやろうかとも考えていた。
 けれど結局、蓋を開けて見れば繰り返し、また勝ったのは自分だった。
 生き汚いだとか負けず嫌いだとか、そんなもの以上に、ただただ再び醜態を顕にしながらも立ち続けている己が只管に無様に思えた。
 何だかんだと衝動や理由を言い訳に、雑魚共相手から勝利を続けている己をカズマはたまらなく惨めに感じずにはいられなかった。

 


「成程、NP3228―――カズマ。そして劉鳳。……この二人が共鳴して『向こう側』の扉を開けてしまった」

 これが再隆起の原因ですか、と無常矜持はマーティン・ジグマールへと提出させた調査報告書の真実を拝見しながら呟く。
 やれやれ、こんな情報を今まで隠し通してきたというのも随分と強かな性格だと、無常はジグマールを改めて再評価もしていた。
 優秀ではあるが決して忠犬というわけではない。……成程、やはり先手を打って部隊を取り上げておいて正解であったと改めて思う。
 顎で使う分には優秀だが、野心をその身へと抱かされたままでは厄介。無論、完全に手なずけられるとは思っていないが、今後ともこの男は生かさず殺さずの傀儡としておくのが無難だろうと無常は判断した。

「しかしながら両名とも現在は行方不明。我が隊のイーリャンの“絶対知覚”を以ってしても発見できずといった状況です」
「『向こう側』を覗いた者は生体情報に影響を受ける……貴方程の人がそれをご存知ないとはとても思えません」
「……何故、そのようなことを?」

 ジグマールのその問いに無常は「簡単ですよ」と笑いながら、得意気にサングラスを外したその裸眼をジグマールへと向けながら告げた。

「私も覗いて来たからですよ………『向こう側』の領域を、ね」

 その言葉の証明とでも言うように無常矜持の瞳の奥底に垣間見えたのは虹色の光。
 ジグマール自身も良く知る、アルターの発現を行う時に現れるあの輝きであった。

 

「……成程、イーリャンの“絶対知覚”に反応しなかったのはそれが理由か」

 報告を終えて無常の執務室から退室すると共に、ジグマールは納得したようにそんな呟きを漏らしていた。
 無常矜持………本土からやって来たアルター使い。
 つまりはあの男も自分と同じ、あの忌まわしき『精製』の被験者なのだろう。
 『向こう側』の領域へとアクセスする為に、かの領域からより多くの情報を引き出すためにと行われている人体実験。
 アルター能力を更なる高みへと至らせる為の処置……などと言えば聞こえはいいがダース部隊をはじめとした用途に応じて能力を無理矢理に捻じ曲げる行いや、能力者の身体の負荷値を無視した強引な能力の強化などが実状だ。
 一部の成功者の裏側に存在している数多の犠牲者……廃人はおろか命そのものを落とすことすらも当たり前の非情の行い。
 今でもジグマールを悪夢へと苛ませるソレは、今も現実として本土で行なわれていることだ。

「ネイティブアルターたちを、その本土へと送る役割を果たしている私が非難できた義理ではないが」

 悪行の片棒を担ぐなどと言ったものではない。実質、己はその尖兵だ。
 数多の犠牲者を己が目的の為に生み出し、今も尚、逆らうことなく提供している自分が何かを言えた義理でもないのは明らかだ。
 故にこそ、その部分の罪からは目を逸らしはしない。
 自分を非難できるのは、これに関わっていない正道を歩んでいる者達だけだろう。

「……そう、あの高町君や桐生君のような者達だけだ」

 だからこそ、あの青臭い小娘たちの己への非難を決してジグマールは否定しなかったのだ。
 無力であり、稚拙であれど、それでも彼女たちのような人間には悪魔に魂を売ったような人間を辞めたも同じ自分を非難する資格はあった。

「……或いは、非難されることで己が逃げ出せないということを自覚したかっただけか」

 どちらにしろ、決して自分は救われるような……否、救われていいような人間でもないなと己の執務室へと戻り席へと身を沈めながら改めて思う。

「……どちらにしろ、奴を“絶対知覚”で補足出来ない以上は私にアドバンテージは何一つも無いということか」

 『向こう側』を垣間見た者は生体情報に影響を受ける……先程、無常が言っていたその言葉通りそうである以上は無常に“絶対知覚”は通じないということだ。
 つまりイーリャンの能力を用いて自分が構築してきた情報戦における絶対性……その有利を失ったことにも等しい。
 部下たちの大半を取り上げられ、残りの人数ももはや少ない。切れるカードは実質的に既に限られているといってもいい。
 事実上の詰み、投了以外の道はもはや絶望的とも言ってしまっていいだろう。
 だがそれでも―――

『ジグマール隊長。機動六課のシグナム二尉が面会を求めていますが?』
「ああ、私が呼んだんだ。通してくれ」

 通信へと応えるその直後、執務室の扉が開く。
 そこに立っているのは機動六課の制服を纏った緋色の髪をポニーテールへと束ねた一人の女性。

「機動六課、シグナム二尉。呼び出しに応じて参上しました」
「ああ、わざわざ済まないね。どうぞ、そちらにかけてくれ」

 見本にでも出来そうな見事な直立の敬礼を示すシグナムにジグマールはソファーへとかけてくれるよう勧める。
 その言葉に恐縮ですと応じるように腰掛けるシグナムに、ジグマールは彼女の対面へと移動しながら覚悟を決める。

 ……さて、彼女たちは自分と共に死んでくれるだろうかと。

 

「……クーガーの情報は劉鳳ではなくカズマだったんですね」

 念の為とこの地下施設の各地に“エタニティ・エイト”を飛ばして情報収集を終えながら改めて橘はそう呟く。
 水守もスバルもそれに応える表情は重たげだ。それには無理もないと橘もまた思っていた。
 水守は探し人の行方を結局は掴めぬまま。しかも今回は情報の確度からも期待が大きかった分、落胆もまた激しいのだろう。
 そしてスバルに至っては………

「……大丈夫ですか、スバルさん?」
「え、あ、はい!……すみません、社長。ボーっとしちゃって」

 ボーっとしていたと言うよりはむしろ深く物思いに沈んでいた様子だったと橘は思った。
 ……しかし、それも無理は無いだろう。
 何せカズマは彼女にとって今は師の仇も同じなのだから。
 橘とてクーガーから頼まれてスバルの身を預かった時に大まかな事情は聞いている。またこの八ヶ月の間に自分や水守にスバルやマッハキャリバーから色々と説明してくれた話もちゃんと聞いていた。
 故に、凡その状況と……スバルの心情を察するくらいは出来る。
 あの場でカズマを目撃し、そしてあの様に色々と驚いて冷静さを自分自身で欠いていたが、もう少し早くスバルに何がしかのフォローの言葉をかけるべきだったと後悔していた。
 けれど今更になっては遅い。気の遣い方が決して上手いとは言えない割にもそれでも他人を優しく気遣える社員は、今更に橘が何かを言ったところで余計に気にするだけだ。
 歯がゆいな、そう正直に橘は感じていた。

「……けど、どうしてカズマさんはこんな所であんなことをしているのでしょうか?」

 不自然に重たい沈黙の空気が張り詰めてしまった中で、水守がスバルの方を気遣うように窺いながらも感じた疑問を問うように静寂を破る。
 その言葉にスバルも俯いたままではあったが確かにピクリと反応していた。
 そんなスバルに橘は視線を向けながら、やがて意を決したように顔を上げてそれに答えた。

「……僕には彼が戦っている理由、何となくですが分かる気がします」

 その言葉に二人が思わず「え?」と言った様子でその視線を同時に橘へと向けてくる。
 二人の視線が集中し、それに応じるように頷きながら橘は次の言葉を発しかけ――突如浮遊させたままであった“エタニティ・エイト”を、その宝玉を三つ操作すると共にスバルと水守の後ろへと飛ばす。

「ちぃ! アルター使いかよ!?」

 後方から聞こえてきたそんな声にスバルと水守も驚きながら思わず振り向いていた。
 そこには鉄パイプなどの武器を構えた男たちが眼前で牽制する様に浮遊する宝玉を前にたじろいでいた。

「折角の上玉が二人も居るってのによぉ……」
「行こうぜ、連れがヤバすぎる」

 口々にそんな愚痴を零しながら、男たちは諦めたようにこの場からそのまま立ち去っていく。
 恐らく、水守やスバルを攫おうとでもしようと不意打ちの機会を狙っていたのを気付いた橘が阻止したのだろう。

「まったく、ウチの社員たちに手を出そうなんて……此処はあんな人たちばかりですか」

 不愉快だと言った様子で不快気に鼻を鳴らす橘。社員を護ろうとしてくれた社長の姿が二人にも少しだけ眩しく見えた瞬間であった。

「……っと、余計な事で話が逸れてしまいましたね」

 話を戻しましょう、と橘はそんなスバルたちの視線に気付いているのかいないのか、気にした様子もないままに言った通りに最前までの続き……カズマが戦っている理由とやらを語り始める。

「僕はアルター能力を持っていることを半ば諦めて受け入れていましたが、しかしカズマはそれを肯定し続けてきた」

 望んでアルター使いで在り続けた者とそうでない者。
 橘は後者であり、カズマは前者だ。
 かつて、二度に渡る戦いや地下道を脱出する為に協力するまで正直に言えば、橘から見てもカズマという男は理解不能だった。
 しかし言葉と拳を交わし、背中を預けあって協力している内に、何となくではあったが、段々とやがてそんなカズマの考えも理解できるようになったのだという。
 ……尤も、それは同じアルター使いであり、そして同じ男であるからかもしれないがと橘は注釈のようにそう告げてきた。

「カズマがカズマでいられたのはアルター能力があったからなんです。彼にとってアルターとは決して己とは切っても切り離せない、そういうものだから」

 故にこそ捨てられない。
 だから戦いにしか使えないからこそ、戦いを求める。

「けどそんなことって!」

 思わず反論するように声を荒げるスバルに、しかし橘は彼女に向かって静かに首を振りながら告げる。

「彼にとってアルターを使うということは、“生きる”という行為そのものなんでしょう」

 呼吸をすることに、食べ物を食べることに……それらを通じて生きるという行為そのものに生物は何故とは問い質したりはしない。
 カズマにとって戦いというのは、それと同じことなのだと橘はスバルへと語った。

 ……それがどれ程彼女にとって残酷な答えかは、橘とて分かりきっていた。

 

「……じゃあ、なのはさんは一体何の為に死んだっていうんですか?」

 

 そう、スバルにとっては恩師の死の意味にさえ直結してしまう理由だ。
 だからこそ、そう思ってやりきれない気持ちが抑えきれずに仕方がなくなることくらいは充分に分かっていた。

「……スバルさん」

 水守が悲しげに同情するようにスバルに向けて何を言っていいか分からないように遣る瀬無い気持ちも顕にしていた。
 水守にとってもなのはは友達だったのだ。だからこそ、スバルの気持ちが痛いほどによく分かるのだろう。

「……生きる為に戦うって、そんなのって―――ッ!?」

 じゃああの時に命懸けでカズマを止めようとしたなのはの想いは、その結果は一体どうなってしまうというのだ。
 ふざけるな、とスバルは怒りを抑えきれないように力任せに柵を拳で叩きつける。
 ガンッと甲高い音が響く中で、しかし水守には彼女を慰めるべき言葉も今は思いつかない様子だった。
 それは橘も同じ。だからこそ―――

「……確かに、そんな生き方は僕らには出来そうにもありません。けれどそれが彼にとっての……彼自身の生き方なんでしょう」

 恐らくは違えることもできないのだろう、その事実を橘は淡々とした態度のままに静かに告げる他になかった。

 

「……あの、食事……」
「…………」

 ファニが持ってきたトレイを差し出すように示しても、相変わらずその男は黙して語らぬままに壁に背を預けながら座り込み、淡々と反対側の壁かもしくは天井を見つめているだけだった。
 この男が此処へ流れ着いてきて、そして圧倒的な強さでチャンピオンに君臨してからも、これだけは決して変わらぬままだった。
 世話係を上から申し付けられて以降、何を語りかけようが無反応に無言、構うなという無言の重圧を発しながら誰も寄せ付けようともせずにこの檻の様な部屋に籠もりっぱなしだ。
 手間がかからなくていい、興行主たちはむしろそんな彼の様子に喜んでいたが、ファニからすればこの男は自分にとっての憧れも同じ。折角、誰よりも近い位置で接せられるのだから色々と彼から話を聞いてみたいという願望があった。
 此処に来るまでは何をしていたのか?
 どうやったらそんなに強くなれるのか?
 純粋に、そんな問いを投げかけてみたいという欲求がいつもある。
 しかし………

「……ここに、置いておきますね。……量、多目にしときましたから」
「…………」

 ファニが何かを語りかけてくることすらも拒絶するかのような無言の反応。
 それを察していて……そして憧れと同時に恐れをも抱いているだけに何も言えないのだ。
 それはどうやら今日も変わらない。それを実感しながら、食事のトレイを部屋の入り口の前に置いたファニは扉の外へと出て行く。
 本来なら、自分の役目はこれで終わり。後は黙って扉を閉めて部屋の前で番をしていればそれでいい。
 けれど………

「あの、オレさっきのバトル観ました」

 扉を閉めもせずに、急にそんな事を言い出した理由は何故だったのかそれはファニ自身にも分からない。
 いや、きっとさっきのバトルの余韻に興奮していて……そして思ってしまったからだ。

「すげーって思いました。……オレにもアルター能力があったら、こんな所にいなくてもいいのにって……」

 アレだけの凄まじい力。何者をも黙らせることも出来る圧倒的な力。
 もし自分にもあんな力があったら……幼きファニはそんな願望を抑え切れなかった。
 きっとアルター能力さえあれば、誰にも縛られずに、理不尽に虐げられることもなく自由に生きられるはずなのに、と。
 しかし―――

「……くく……くくく……んは……はははははははっ!」

 そんなファニの言葉にまるで耐え切れないとでも言った様子で突如、笑い声を上げ始めるカズマ。
 今まで無反応・無言が当たり前でそれ以外にはありえないような初めての相手の態度にファニは正直戸惑っていた。
 しかし散々笑い尽くした後にカズマは急にまた押し黙ったかと思えば、

「―――失せろ」

 静かに、押し殺した声で、しかし拒否も許さぬ圧倒的な強制力の籠もった言葉でそう告げてきた。
 呆然としていたファニも流石にドスの利いたその脅しには恐れをなしたのか、小さな悲鳴を上げながら慌てて、

「ご、ごめんなさい!」

 そう叫びながら扉を閉めて逃げるように走り去っていった。
 扉が閉まるその先で逃げ出すように走り去っていくその姿を、カズマはつまらぬものでも見るような視線でただ見つめ続けていた。

 

 鬱陶しい世話係のガキが去って数秒後、とりあえず出された飯でも喰うかとカズマは重たい腰を浮かせて立ち上がり、入り口の前に置いてあるトレイにまで移動。
 成程、確かにファニが言った通りいつもに比べれば心なしか量が多いというのも直ぐに分かった。
 しかしながら無論のことそんな事実にカズマがありがたみを感じることなどありえるはずもなく。
 重たく痛い、ろくに動かすことも躊躇わせる右腕を使わぬまま、左手で持ったスプーンを使って掻き入れる様に食事を自らの口へと流し込んでいく。
 ガツガツと食器のぶつかる耳障りな音と食べ物を咀嚼する荒いカズマの息遣いだけが静寂に支配された部屋の中で響く。
 その光景、食べ物に喰らいつくような彼の様は何と―――

『―――まるで獣ですね』

 呆れたように、それ以上に品がないとでも蔑むかのように突如響きだす第三の声。
 ピクリとそれに反応したカズマは食べ物へと喰らいついていた動作を止めると共に、片目だけとなったその鋭い視線をこの檻の中に唯一存在する鎮座した家具であるベッドの方角へと向けた。

「……何か言ったか?」
『獣のようで品性に欠けると言ったのですよ』

 問い返すカズマのドスの利いた鋭い言葉に返ってきたのは温かみの欠如した、どこか機械的とも感じられる女性の声。
 しかしそんな人物などこの場には何処にも居ない。……そう、この檻の中に存在する人間はカズマ一人だけのはずだ。
 ならば先程からのこの声の主は何者だと言うのか……

「………」

 入り口の前でむんずと座り込んでいたカズマは無言で立ち上がると共に、荒々しい足音を立てながらベッドへと近寄っていく。
 そして白いシーツの上に無造作に放置されているソレを掴みあげると共に告げる。

「……喧嘩売ってるのか、テメエ?」
『私が今まで一度でも貴方に対し喧嘩腰でなかったことなどありましたか? 覚えが悪いですね、頭も悪ければ記憶力も悪い……本当にあなたは刹那に生きているだけの獣だ』

 ドスの利いた睨みと言葉に、しかし臆する様子も無くそれを上回る辛辣さに満ちた言葉をソレは返す。
 流石にカズマもそれには苛立つ……否、我慢ならぬのか掴んでいるソレに握り潰さんばかりの力を込めようとする。
 この男が本気で力を込めればそれこそ次の瞬間には己の身など粉々となろうということくらいはソレも理解できている。
 しかしながらソレにはその事実すらも何ら恐れを抱いた様子では無い。
 それどころか………

『……どうしました? もっと力を込めたらどうですか、それで終わりです。得意なんでしょう、そうやって力で他者を黙らせるやり方が?』
「――ッ!?……うるせえッ!」

 ソレ―――赤い宝玉が言ってくるその言葉を黙らせるようにカズマは叫んだ後、力任せにソレを部屋の隅へと投げ捨てた。
 地面にバウンドし転がる音を立てながら赤い宝石は部屋の隅にまで転がっていく。
 しかし宝石の方にはそんな仕打ちを受けてすらまるで懲りた様子というものすら無さそうに、

『根性無しですね。今更、この私一つ叩き潰すのがそんなに怖いわけですか?』
「……マジ黙らねえと本気で叩き壊すぞ」
『ご自由に。それを行った瞬間があなたにとって本当の意味で敗北となるだけですから』

 私はそれで一向に構いません、そんなふてぶてしいとも言えそうな憎たらしい言葉でしつこく挑発を向けてくるだけだった。
 カズマはそれこそ本気でソレを実行してやろうかと半ば無意識に動きかけるも、残った理性を総動員して何とか踏み止まる。
 らしくない、実に己らしくない。腹立たしさと溜め込むストレスからそれをハッキリと自覚は出来ていたが、それでもそれを実行するわけにもいかなかった。
 それが……それだけが、何も残らなかったカズマに唯一残ったモノだったから。
 もう何も背負えない。傷付くのも重さで苦しむのも沢山だ。
 だがそれでも……己という存在に意味や価値が無くなる事だけは我慢ならない。
 口の減らない心底憎らしくて喧しい石ころでも、それでもソレはカズマの罪の証であると同時にカズマ自身の存在を認めている唯一の残りものだ。
 故に、手放せない。
 己でも訳の分からないふざけた理屈だと思いながらも、そんな弱い考えに縋りつかねば己を保てなくなった今のカズマにとっては必要な物だったのだ。

 

 そしてレイジングハートもまた思う。
 つくづくこの男には失望させられる、と。
 腑抜けが、そう吐き捨ててやりたい気持ちになるし実際幾度か面と向かって吐き捨ててやったというのに、それでもこの男は苛立たしげに歯噛みを示して見せてもそれだけだ。
 精々八つ当たりのようにこの身を床なり壁なり叩きつけるだけ。拳で粉砕すれば遙かに容易に黙らせられるというのにそれを行おうともしない。

(……マスターにそうしたように、それがあなたの専門分野でしょうが)

 なのに彼女にはそれを行っておきながら自分にはそれを躊躇う……ふざけるのも大概にしろとレイジングハートの苛立ちは益々積もるばかりだった。
 やるならばやればいい。それがレイジングハートの本心だ。別に今更に主を失い自分だけが無様に生き残ってしまったこの身など何ら惜しいものではない。
 むしろさっさと壊れてしまって黄泉路で待っているであろう主へと一刻も早く合流したいというのがレイジングハートの切なる願望だった。
 だというのに………

 

 それは最後の一撃を放とうとしていた直前、ほんの一瞬のやり取り。

「レイジングハート……もし……もし、ね。私がここでレイジングハートより先に倒れたたら……その時は――」

 自分が潰え、それでも相棒たる杖だけでも残ったその時。
 ありえるはずもない、ありえていいはずもない事態。
 レイジングハートにしてみれば許容できぬその結末。だがその結末がもし訪れてしまった場合の自分へと託したい最後の想い。
 主からの正真正銘の……最後の願い事。
 それは――

 

(……やはりあなたは酷い人です、マスター)

 あんな残酷な『願い』を最期に押し付けて自分を置き去りに先に逝ってしまうなど。
 魔法少女の魔法の杖を自負しているからこそ……否、高町なのはと共に戦い、支え続けてきたものとして、だからこそソレを無碍には出来ない。
 この身がこうして無様に存在し続ける限りは、レイジングハートは高町なのはの最期の願いを可能な限り全うしなければならない責務がある。
 その為には……どうしてもこの憎き男と共にいなければならない。

(……憎い、か)

 人間でもないデバイスでしかないこの身が、あの融合騎たる『祝福の風』たちでもあるまいにそんな人間のような感情を抱くなど……
 そう、感情など機械であるこの身が抱くはずなど無いし、抱いていいものであるはずがないのに……

(……だというのに、それを自覚させるのがあなたというのが本当に皮肉だ)

 もし神という存在が本当にいるとするならば、それはきっと心底に底意地が悪い性格をしているのだろうなとレイジングハートは思う。
 だってあの魔法使いの小さな願いを潰えさせないために成立しているこの現状という奇跡そのものこそが、レイジングハートからしてみれば最も望んではいない形なのだから。
 ああ、だからこそとレイジングハートは思うのだ。
 いっそのこと、もう無能と主から失望されたとしても構わないから、この茶番など放棄してさっさと壊れて機能停止してしまいたい、と。

 ……尤も、願いを叶える魔法の杖自身の願いを叶える存在などというモノがこの世にあるはずもないのだが。

 

 記憶喪失の青年――由詑かなみが聞き認識している名前は劉鳳――は瞬く間の内に町の人間たちから信頼され、慕われる存在となった。
 それも当然ではあるだろう。あのような無法者たちから虐げられていた自分たちを助けてくれた彼は言わば英雄のようなものだったのだから。
 尊敬され囃し立てられること自体を劉鳳当人は戸惑ってもいた。人として当然の事をやったまでだ、そう思って行動した結果に過ぎなかったのだから。
 彼にとって最も幸いだったのは、この一件で爪弾きにされて追い出されることなくこの町に受け入れてもらえたことだった。
 記憶喪失を自覚している劉鳳としても、やはり己が何者であるかということを確かめたいのはある種当然の欲求でもある。
 しかしながら断片的にしか思い出せない記憶は曖昧であり、そしてあれ以降に他に何か思い出すという兆候も無い。
 残された唯一の手掛かりはあの時の幻……記憶の中の名前と合致するならば高町なのは、か。彼女が自分へと託した一つの願いだけである。

 あの少女――由詑かなみを護ること。

 それが己が記憶を取り戻す切っ掛けにもなると信じて、劉鳳はかなみを護ることを誓った。


「……けれど今はそれと同じくらいに思うことがあるんです。この町の人々を護りたい、と」

 星空に照らされた岩場、由詑かなみとそれを見上げるように並んで座りながら劉鳳は隣に座る彼女へとそう告げていた。
 かなみがこちらに視線を向けてくる。劉鳳は若干の苦笑を浮かべながら言葉の続きを語りだしていく。

「記憶のない僕を追い出しもせずに受け入れてくれた……ただそれだけでも本当に恩を感じているんです。皆さんはそれだけじゃなく、こんな自分を頼ってきてくれますし」

 誰かに己の力を必要としてもらうこと、それが存外に悪くないことだと漏らす劉鳳。
 井の中の蛙の心算も、お山の大将でも、ましてや箱庭の中の英雄でもなく。
 ただ此処に居ていいと自分の存在を認めてくれて、受け入れてくれること。

「……何て言えばいいんでしょうか、言葉にし辛い表現なんですが、この町の人々は……」

 優しい、は当然として他にもっと当て嵌まるような言葉があったはずなのだ。
 かつて、それを求めていたはずの自分としては尚更に此処の人達からソレを感じられて嬉しかった。
 ……かつて求めていた? いったいどういうことか、と自分の思考の端に無意識に浮かび上がっていたその疑問に脇道に逸れるかのように悩み始めていたその時だった。

「この町の人たちは……きっと、温かいんだと思います」

 悩み始める劉鳳を見て口を挟もうとしたのかどうかは分からない。或いは率直に思ったことをかなみは口に出しただけなのかもしれない。
 しかしながら劉鳳は脇道にそれかけていた疑問の方をとりあえず放置しておいて、そちらの言葉の方にハッとなったように反応していた。

「……温かい、ですか?」
「はい。……皆、良い人達ばかりですし」

 確かにその通りではある。皆良い人達ばかり、だからこそ劉鳳も護りたいと心から思っているのだしそこを論じる必要もない。
 ただ、そうか……

「……そうですね。あの人たちは、温かいんでしょうね」

 喉にまで引っかかって出てこなかった表現、それを漸く出すことが出来たと言った様子で納得したような微笑を零す劉鳳。
 少女の言う通りだ。彼らは温かい……人間としての温かみがあるのだ。
 或いは、ソレこそを自分はかつて求めていたから、尚更に此処の人たちからそれを感じられて嬉しいと思ったのかもしれない。

「ありがとうございます、かなみさん」
「い、いえ、別にお礼を言われることなんて言ってません」

 礼を述べる劉鳳にかなみは気恥ずかしそうに慌てて首を振りながらそんな言葉を返す。
 正直、記憶喪失という理由があるのかもしれないが初対面時のギャップ差とも合わされば彼にはどう対応していいのかも困っている。
 カズマやなのはと争っていた……その辺りや市街の人たちの着る制服を着ていた事から考えても劉鳳の正体はかなみにも凡そ予想が付く。
 ただでさえ本当は人見知りであり、以前に暴力を眼前にまで曝されたことなどから考えても、恨みはしていないが怖いとは思っている。
 だというのに今度はどういうことか自分を護るといった言動を示してきている。……だからこそ、本当に良くわからないとかなみは戸惑う。

(……きっと悪い人じゃないんだよね)

 むしろどちらかと言えば律儀で真面目な人なのだろう。カズマと争っていたことも含めてもきっとその正義感の高さから対立していたのではないのだろうか、とかなみは思っていた。
 だから本当は悪い人じゃない。いつまでもこうして親切にしてくれる彼を警戒したまま他人行儀に接するのも悪いのかもしれないともかなみは思い始めてもいた。
 彼女自身にその自覚があったのかは不明だが、それは間違いなくかなみから劉鳳への信頼の芽生えであったのは間違いなかった。

「……そう言えば、敬語」
「え?」
「どうして、いつも敬語なんですか?」

 思い出したように不思議そうにそう尋ねてきたかなみの言葉に劉鳳もまた自分自身気付いていなかったと言った様子でハッとなってもいた。
 どうして彼女を相手に敬語口調なのか……

「……そうですね。敬語を使うというのは相手の事を敬っているか、もしくはよく分からなかったり警戒したりしているから、かもしれませんね」

 そう自分自身で告げながら劉鳳は思う。自分がこの少女へと敬語を使っている理由は前者なのか、或いは後者なのか。
 かなみもまた思う。彼へと自分が敬語を使っている理由は前者なのか、或いは後者なのか。

 そして、二人が出した結論は――

「だったら……もう、敬語は必要ないです。ううん、必要ないね」
「ありませんか?……というか、ないのかな?」

 互いが互いへと若干の戸惑いと照れを見せながらも、それでもハッキリと相手へと視線を交わし合いながらに訂正した言葉を紡いでいく。

「ないかも」
「ないか」

 何だか何処かこそばゆい、けれど同時に決して悪くもなくどこか心地良いとも思える奇妙な感覚。
 不思議だ、そう正直に両者は思い、だからこそ微笑みを交し合う。

「星がこんなに近い……届いちゃいそう」

 そう言って嬉しそうに笑いながら星空に両手を伸ばす由詑かなみ。
 劉鳳の脳裏へと過ぎったのは、自分の中で大切な宝物として仕舞い込んでいたはずの、遠い昔に知り合った何処かの誰かの幼い姿。
 かなみの姿とその少女の姿を思わずにダブらせながら、しかしハッとなったように劉鳳は首を振る。

「かなみさん」
「かなみでいいです……えっと、劉鳳さん?」

 確信がない故にどこか不安そうにそう呼んでくるこちらの名に、劉鳳は頷く。

「僕がそう呼ばれていたとかなみが言うのなら、僕は劉鳳だ」

 よしんば本当の名前かどうかは別として、少なくとも彼女とそして町の人たちを護ると約束したのは劉鳳というこの名前だ。
 ならば自分はその劉鳳として、改めてその誓いを果たすのみ。

「じゃあ、リュウくんって呼んでもいい?」
「……いや、流石にそれはちょっと」

 照れ臭い以前の問題として響きに馴染みがなさ過ぎて戸惑う。故に遠慮した。
 けれど――

「……何だか嬉しいかな」
「……嬉しい?」

 自分の呟いた言葉に首を傾げるかなみに、劉鳳は少しだけ頬を赤くした照れた微笑みを見せながら言った。

「自分の名前を……こうして誰かに呼んでもらえるという事が」

 まるでそれに同意するかのように、あの時の女性が嬉しげに微笑んでいるような錯覚が劉鳳の脳裏へと一瞬走っていた。

 


「桐生水守の保護を最優先に?」

 再び無常に呼び出されたジグマールにきた次の指示はそれだった。
 無常は怪訝な顔をするジグマールにただ愉快気にはいと答えるだけである。

「しかし――」
「何を知っていようが所詮は小娘。……貴方には感謝していますよ」

 その言葉の含みにあるのは無論のこと、かつて自分が彼女を独断で拉致監禁したことについてなのだろう。
 相手の言い方、そして態度でジグマールもまたこの指示の背景にある事情を悟る。

「……交渉材料に使いましたね?」
「本土側の最高顧問の桐生忠則氏は娘さんを取り戻す我々の行動を黙認してくださるそうです。……善悪ではなく肉親を取る、限りなく愚かなことですねぇ。――貴方のように」

 宛てつけるかのような嘲笑を激昂するわけでもなくジグマールは無言で流す。
 見え透いた挑発に乗ってやるほど馬鹿ではないし、今更言われずともそんなことは自分自身で納得してきたことだ。
 だというのに……

(眼前の男に今更ながら嫌悪感を抱こうなど……君が知れば自分の事を棚に上げるなと怒るのだろうな、高町君)

 かつて己を非難した彼女の姿を思い出す。無論、だからといって自分が彼女の真似事をするわけでもないし、出来るわけもない。
 ただ思うのだ、やはり少々彼女の事を自分は羨んでいたのだろうと。

「何を言っておられるのやら。兎に角、彼女の身柄は我々の手で早急に」

 しかしそんな事を振り返ったところで意味などない。そんな事を考え続けていることすら時間の無駄。
 マーティン・ジグマールに残された時間はそう多くないのだ。なればこそ、この大地の今と未来を護る為に、自分は出来るだけの事を尽力するのみ。
 精々牙を抜かれた老獪の愚かな足掻きを侮りながら見ていればそれでいい。
 ジグマールのそんなまったく揺らぎもしない毅然とした態度が面白くないのか、無常はつまらなさそうな表情も顕に鼻を鳴らす。

「私の直属の部下を使うのが、お気に召さないので?」

 我々の手で……つまりジグマールに残った僅かなホーリーの手でとそれは言いたいのだろう。
 いい加減、牙を抜かれた事に気づけというのに生意気な反応だと無常は思う。
 もはや何処にも彼のホーリーなどというものは存在しな――

「その直属の部下って言うのはコイツのことで?」

 そんな台詞と共に突如部屋の中に入って来たのはストレイト・クーガー。彼は掴んでいた男を無常に見せ付けるように示した後、床へと放り投げる。

「小野寺!?」
「あっちこっち嗅ぎ回ってたんでちょっと尋問してみたんですが、途中で面倒になって……ねぇ」

 やっちまいましたよ、と悪びれもせずに笑うクーガーにジグマールもその顔によくやったと言わんばかりの満足気な笑みを浮かべながら、

「迅速な処置だ」

 そう評価する。
 その言葉にクーガーはキリッとホーリーの敬礼を示すポーズを取りながら、

「当然です、俺は隊長の部下ですから」

 自信満々な態度も顕にそう答える。
 その二人へと無常は皮肉気な態度を崩すことなく嫌味たらしい言葉を投げかける。

「……中々優秀な部下をお持ちのようだ」

 放っておいた諜報員が一人やられた程度は無常としてもそう実は痛くもなんともない。だが片肺飛行に近い組織に一杯食わされたという事実は彼の高い自尊心に大いに気に入らないという不快感を与えてはいた。

「それが聞き分けのない男で」

 そう言葉を返しながらも、ジグマールはクーガーの方へと言葉に出さぬままにその視線で問う。

 ――彼女たちの方は?

 クーガーは肩を竦める動作と共にそれを無言の態度で答えた。

 ――動き始めています、と。

 


 無常矜持。
 本土からやって来たという治安組織HOLDの特別顧問。
 そして……アルター使い。

『やっぱりプロテクトが厳しいなぁ。……私らやジグマール隊長と同じくらいかそれ以上の機密レベルや』

 正直、中々に探るには骨が折れそうだと溜め息を吐く八神はやて。
 シグナムはそんな彼女に無茶な事だけはしないで欲しいと心配気にその表情を曇らせる。

「……主、くれぐれも」
『分かっとる。こっちはやれる範囲は限られとるし……私も他に仕事も多いからそう手間が割けられんわけやけど……』
「はい、その分は私の方から色々と調べてみますので。主は心配なさらずとも……」

 むしろこのような件に彼女を引き込むこと自体がシグナムにとって不本意だった。
 そもそもの発端たるジグマールからの依頼。彼女たちとて現状と無常に対しては思うところが当然ある。あの得体の知れない男にいい様に扱われる事が快くなかったというのも事実だ。

 ――だからこそ、君たちにも協力して欲しい。

 敵を知り、己を知れば百戦危うからず。
 まずは得体の知れない経歴不明のあの男……その正体を探る。
 そして彼のやろうとしている事は何なのか……その目的を知る。
 その為の情報収集、その協力をシグナムはジグマールから呼び出されたあの時に依頼されたのだ。
 しかしながらホーリーの長たるジグマールにすら秘匿されている情報を、外様の自分たちがおいそれと簡単に入手できるわけもないのは当たり前であり……

『……シグナムの方こそ体張らせた危険な事やらせとるわけやし、私なんかよりよっぽど心配や』
「いえ、この程度の事くらいはまったく問題ありません。しかし主は――」

 はやての言葉を強く否定しながら、無常が組織内部を探るように放っている密偵……その力づくで捕まえて情報を吐かせた一人から彼女は手を離す。
 クーガーと共に行っている直接的行動の一つたる密偵狩り。無論、このような下っ端どれだけ狩ろうが期待できるだけの情報を有していないというのは明らかだ。
 しかしやらないよりはマシ。無常への牽制にもなるという理由から行っているが今のところ情報漏洩の阻止以上の成果は出ていない。
 データベースへのハッキング、それも一応は考えた……が、イーリャン自身が情報戦に後れを取っている事実から考えても、専門分野でない自分がそれを行ったところで意味が無いのは目に見えている。
 残るは八神はやてが有する権限や人脈を介して無常の経歴に探りを入れているという現状だが……これもまだまだ有益な情報を掴めるには至っていない。

『……それでもな、私はやめられへんよ』
「……主」

 ジグマールとは確かにそういう理由から一時的に手を組んではいる。しかしシグナムは最初から彼らと運命共同体となる心算など毛頭ない。
 はやて自身がどう思っているかは知らないが、あくまでもシグナムの優先順位は彼らホーリーでもロストグラウンドでもなく、機動六課だ。
 部隊の存続、権利の確立……それを最優先と望んでいるだけで、その為に彼らと共に一時は危ない橋を渡る覚悟はあるが、それでもそのまま彼らと最後まで共に沈んでいく心算だってない。
 それは予めこの協力を依頼された時にジグマールへと告げ、彼からも納得と了承を貰っている事でもある。
 しかしながら、どうやら彼女の主たる八神はやては必ずしも彼女と同じ見解というわけでもないらしい。

『……私な、思うんや。……この探ってる先に……ジグマール隊長や白ヘビの兄ちゃんが隠しとる何かが……なのはちゃんが死んだ原因に関わっとるんちゃうか……って』

 そのはやての告白にやはりそういうことなのかとシグナムは内心で重い溜め息を吐いた。
 なのはが生前、最後に何を行おうとしていたのか、一体何を知ったのか。
 何の記録にも残されておらず、彼女自身も誰かにそれを話していたわけでもない。
 だからこそ、誰にもなのはが暴走した原因となる理由が分からない。
 それについてはやてが必死にこの八ヶ月の間、捜査し続けていた事実をシグナムも知っている。

『絶対何かがあった。……何かがあったから、それを糺そうとなのはちゃんは動いっとったはずなんや』

 表向きは事故、悲劇の英雄と持て囃された高町なのはの死。
 しかし裏では揶揄されるように侮蔑の的とされた、愚かな暴走による最期という親友に貼られたレッテル。
 それが八神はやてには我慢ならなかった。親友の死を無駄死に扱いし、裏切り者と陰で呼んで嘲笑っている上層部の連中。
 彼らになのはは間違っていなかったはずだと、最期まで正義の為に戦ったはずだというその埋もれたはずの真実を暴き出して突きつける。
 それが護る事が出来なかった親友への唯一の弔いだとはやては信じて疑っていなかった。

「……主、しかし高町は本当に――」
『なのはちゃんは間違ってへん。……間違えるはずもないんや』

 彼女は正しかった。彼女は間違えない。
 だって、そうやって彼女は自分を助けてくれた。救ってくれた。
 ……友達に、なってくれた。

『だから絶対私は――』

 ――なのはちゃんの無念を晴らす。

 それが八神はやてがこの一件でやり遂げねばならない義務だと彼女は告げる。
 シグナムは思う。……主は、高町なのはの死に囚われすぎていると。
 拠り所として失ったものの価値を必死に取り戻そうとするようなその足掻き。
 よくない兆候だという懸念がシグナムにはある。
 ……もし、もし仮になのはがやろうとしていた事、シグナムとて信じたくは無いがなのはがやろうとしていたそれがはやての望まぬものでしかなかったとすれば――

(……最悪、テスタロッサの二の舞にもなりかねない)

 はやては強い娘だと、壊れもせず立ち止まりもせず、悲しみを背負って前へと進んでいけるだけの強い心を持っている。
 しかしそれもまた、彼女自身がそれでも手放さずに信じて持っている拠り所があればこそだ。
 その拠り所が否定されてしまえば、信じるものを根底から破壊される事にもなりかねない。
 既にその前例を悲しいほどにシグナムは見ている。故にこそ、最愛の主までをもそのような末路に辿らせるわけにもいかない。
 自分が何とかしてこの一件にはケリを付ける。結果、それがはやてを謀るような事態に陥ってしまったとしてもそれでも腹を括るしかない。
 最悪の場合はこの命を以って詫びる。故にこそ、覚悟を決める他には無い。
 シャマルをこちらに連れて来なかったことを僥倖だったとシグナムは思う。彼女にははやてへと常に張り付いてもらいメンタルケアと異常の兆候を監視するように伝え、後は綿密に状況を報告し合うように連絡を入れておくこととしよう。
 いかなる手段を用いようとも六課を……はやてを護る。
 夜天の守護騎士として二度と違えられぬ誓いとして、改めてシグナムはそれを胸に刻み直した。


「……分かりました。しかし、主。何度も言いますがくれぐれも無茶な事だけは――」
『ほんまシグナムは過保護やなぁ。保護者はむしろ私の方なんやから……もう少し信頼してくれてもええのに』

 その辺りは不満だといった様子で頬を膨らますはやて。不貞腐れたかのような態度を取っているが、今までずっと無理に気丈であり続けたその姿に比べれば、どこか柔らかい。
 シグナムはその主の様子に苦笑を浮かべつつも、その内心では少しだけ安堵してもいた。

「兎に角、この一件は私の方に一任させてください」
『シグナムは直ぐ自分ばっかで背負う。……疲れるで、そういう生き方は』

 むしろそれは貴女の方でしょうに、とでも窘めようかとも思ったがしかし今の久方ぶりに見せている“らしい”彼女の態度を不用意に崩したくないとシグナムは思った。

『……ところで、話は変わるけど』

 そうこちらへと告げながら切り替える表情は、再び部下や仲間を案じるもう見慣れてしまったその表情だった。

『……フェイトちゃん、どないしとる?』
「テスタロッサは……最近は、安定しているかと」
『……そっか。元気?』

 アレを元気とそう評してもいいのか……それにシグナムは一瞬迷う。
 その様子から察したのだろう、はやての方が罰の悪い表情を浮かべて小さくごめんと謝ってくる。
 彼女が謝罪をする必要などありはしない、そうシグナムとて思いはしたが、口が回らぬ不器用な己では何と言っていいのかすらも分からない。今度、この辺りの機微に関してはヴァイス辺りから教えてもらおうと本気で思った。

『ティアナたちは?』
「現在はホーリーの哨戒任務に従事中です。……隊員たちとの関係も良好とのことですので、特に問題は無いかと」

 今度は心配させぬように先んじて不安要素を見せぬように敢えてそう告げた。
 はやてもそれを聞いてこちらの意図通りに安心したのか、

『……そっか。いや仲が良いんは良いことや。皆仲良しが一番……そうやろ?』
「はい。それは間違いないことかと」

 無論、そんなものは所詮子供の幻想だ。それくらいのことは言っている当人たち自身が一番分かっている。
 だがだとしてもその言葉は、彼女たちが心から望んでいることだということもまた間違いはなかった。
 そうして彼女は部隊員たちの近況を聞きながら……しかし最も聞きたい者達のことを尋ねあぐねているのはその態度から直ぐに分かった。
 それでも、はやてはやがて意を決したように……

『……スバルと……それから、ヴィータは……』
「……目下、捜索中です」

 尤も、それも今では形骸化されたに等しい言葉ではあったが。
 シグナムの返答にはやても残念そうな感情を顔へと浮かべながら、

『………そっか』

 また、そう言って苦笑を浮かべていた。
 今までで一番苦しそうな、それは笑いだった。

『……ほんま、何処行ってもうたんやろな……あの二人』

 スバルは恩師から預かった大切な愛娘。
 ヴィータに至っては彼女自身の身内だ。
 どちらもはやてにとっては、そして六課にとっても大切であるはずの二人。
 この八ヶ月、八神はやてが彼女たちの身を案じた事がなかった事など一度たりともありはしなかった。

「……主」
『やっぱ私じゃ……皆を繋ぎ止められへんのかなぁ』

 なのはを失い、フェイトが病んで、皆が傷つき。
 そして二人が部隊を去った。
 どうしてこうなったのか、何がいったい悪かったのか、何を間違えてしまったのか。
 あの日からずっと、はやてが抱え続けてきたそれは悩みであり苦しみだった。
 大切な者を、護りたいはずの者を、また救えずに取りこぼす。

『……リインフォースに顔向けも出来へんな』

 その言葉に何と言葉を返せばいいのか、今のシグナムにも分からなかった。

 

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最終更新:2010年02月04日 22:05