「ぶぇーーーーーーっくしょい!!」

景気のいいダミ声が夜闇の中に響き渡った。
夜の森での大音声は殊更に良く響くらしく、声は波紋のように森の奥へ吸い込まれていく。
ふと木霊に耳を澄ませるように空を見上げると、炎に照らされて紅蓮に染まった木々が風に泳がされている。
今夜は月明かりが強いためか、薄明るい風景とも相まって幻想的とさえ思える風景となっていた。
(綺麗な森だなぁ…。マスマテュリアの永久樹氷の方が綺麗だけど…)
ぼんやりと氷に包まれた故郷を思い出し、ドーチンは深く嘆息した。
聞いた話ではウォードラゴンが放っていた冷気が止んだ事により、マスマテュリア全土を覆っていた氷は瞬く間に溶け出し、そこに住む地人の生活環境も一変したのだという。
あの美しい森を二度と見れないのも残念ではあるが、故郷にいるはずの父と母の安否も気になった…。
どちらにしろ現状ではどちらも確かめる術はないのだが…。
焚き木の爆ぜる音に混じり、ズビビ、と真顔で鼻水を啜る兄を横目で窺う。

「兄さん風邪でも引いたの?」

口にしてしまってから、全くもって限りなく無意味な質問をしてしまった事をドーチンは胸中で素直に認めた。
とはいえ気付くのが遅れるのはいつだって同じだ。更に言えば事が起こる前に気付けた所で事態を好転出来た試しというのもちょっと記憶にない。
何より最悪なのはどちらだったとしても、もはや呪いに近いレベルでろくでもない結末に終わるのは変わらないという事だろう。
そんなこちらの思いになど知らぬという様に、兄が椅子代わりにしていた小さな岩を蹴っ飛ばして立ち上がる。

「笑止!かつてはあの上腕二頭筋爆撃型超巨大暗黒殺人病魔―――――えぇっと…仮にドゲラリオン赤痢菌と命名する!
あの悪魔すらねじ伏せたこのマスマテュリアの闘犬、民族の英雄血者たるこのボルカノ・ボルカン様の超肉体が、たかだか小まめな手洗いとうがい程度でさっくりくたばる軟弱な病原菌如きに侵されるわけがないったらあるまい!
そんな事すら分からんとは兄は悲しいぞ、弟よ!」
こちらの眼前に人差し指をズビシィ!っと突き付け―――ついでに再び垂れだした鼻水を振り乱しながら―――兄が雄雄しく吠える。
「…うん、そうだね。とりあえず鼻水拭こうよ」
手洗いもうがいもロクにしてないじゃない…という言葉は咄嗟に飲み込んでおいた。案の定ろくでもない返答を返され、少し気分が落ち込むが、今さら些細な事である。
ちなみにドゲラリオン赤痢菌がいかなる病原菌なのかが少しだけ気になったが、こちらは些細を通り越して果てしなくどうでもいい事なのですっきりと忘れる事にした。
と、そのまま会話を打ち切ろうとした所で、炎の向こう側からまるでこちらの気持ちを代弁するかのように大きな溜息が聞こえてきた。

「うるっさいなぁ。前から思ってたんだけど、いちいち叫ばなきゃ喋れないのかよお前…」
…まぁそろそろ何か一言来るだろうなとは思っていた所だ。
嫌々ながらも皮肉の出所へと視線を向ける。そこには極端に生地の少ない服装に身を包んだ赤い髪の少女が、兄の方へ半眼を寄せていた。
彼女の名はアギト。
自分達がこの地に飛ばされて最初に出会った少女、に連れられて行った先で紹介された彼女の旅の連れらしい。
…少女。少女だ。どっちかって言うと『小』女だけど。丁度手の平に乗るくらいの…。
(慣れって怖いけど、必要なモノだよね…)
気にしなければなんて事はない。と、ある意味自己暗示に近い思いで念じる。
大体今まで散々味わってきた奇天烈な経験に比べれば、いまさら人間のサイズの問題くらいでどうこう思うほうがおかしな話なのだ。
「ぬ。何だ、居たのか貴様」
…かと言ってこれほどナチュラルに受け入れてしまうのも如何なものかとも思うが…。ちなみに兄は初対面の時から全く変わらずこの対応である。
人としての器を褒めるべきか、頭に残ってるネジの数を心配するべきか。迷いどころではあった。
「…フツーに喋れんじゃん。まぁいいよ。とにかくもう少し静かにしろよな。あたしはともかくゼストの旦那が起きちまう」
きっかり一段階表情を険悪にしながらも、意外にもアギトは落ち着いた対応を見せる。
いつもなら今の一言でもう大体で兄の三分の一くらいは焦げていてもおかしくないのだが…。
(――――まぁ理由なんて割りとハッキリしてるんだけど…)
この歩く火炎放射器(命名は兄である)が自分自身の事以外で自重を覚えるとしたら、ルーテシアと、もう一人。
彼女の気遣わしげな視線の先で寝息を立てている男が絡んだ時以外に在り得ないのだから…。
(そんなにか弱い人にも見えないんだけどね…)
心中で呟きながらアギトに習ってそちらを見やる。
全身を覆うような深い灰色のコートに登山用のような大きく無骨なブーツ、おまけにフードを頭からすっぽりと被っている男。
この暗い森の中、火灯りが無ければ完全に同化してしまいそうな出で立ちだった。
他に特徴と呼べるほどのものは特に無いが、あえて挙げるとするならばその長躯か。
実際、自分が見てきた人間種族の中でもかなり大きい部類に入ると思う。―――――もっとも地人からすれば人間種族自体が巨人そのものなのだが。
ともあれ、彼の事は実はそれほどよく知っているわけではない。
昔、騎士をやっていたという事。
ある目的があってルーテシア達と行動を共にしている事。
あと、この一ヶ月ちょっと一緒に暮らしてみて分かった事は、彼もルーテシアに負けず劣らずの寡黙者だという事くらいだった。
「おい、ドーチン」
ふと、アギトから声がかかる。ゼストを起こさないよう気遣っての事か囁くような声量で、
「ルーの奴、定期連絡にしては遅すぎねえかな」
定期連絡というのは、ルーテシアに仕事を依頼してくる何かの科学者だかとの話し合いらしい。
ゼストやアギトは何故かその科学者とやらを嫌っているらしく、顔を合わせるだけで露骨に不機嫌になるのを何度か目にした事がある。
ルーテシアもその事に気を使ってか、最近は一人で離れて連絡を取り合うようにしているのだが…。

「そうかな?」
「ちょっと様子見に行って来てくれ」
「僕が?」
「ボルカンに頼み事なんてするわけねーだろ。多分この近くにいるはずだからさ」
さりげなく兄の評価の低さが垣間見えるセリフではあったが、まぁどうでもいい。問題はそこではなく、
「夜の森の中だよ?どうやって探せばいいのさ」
今日は月明かりが強いとはいえ森の中、火の元があるここ以外は一面闇の世界だ。どんなに目を凝らしても木々の輪郭がかすかに見える程度の視界の中で人を探せと言われても正直困る。
更に言うなら、夜食用にと、ついさっき焚き木の中に放り込んだばかりの缶詰のスープも心配だ。何が―――というか誰が―――心配なのかはもはや言うまでもない。
「ルーなら大声で呼びながら適当に歩いてればあっちから転送してくるって。足場が心配なら旦那の荷物の中に確か懐中電灯が入ってたはずだから持ってけよ。使い方はこの間覚えただろ?」
「まぁ…うん」
頷くしかなく、首肯する。
正直行きたくはないのだが、どの道断るわけにはいかないのも事実だ。
この不揃いな面子に拾われてから何だかんだで「食」だけは賄ってもらえているのだ。
この程度の頼みを断っては後々に遺恨を残しかねない。
不承不承といった風で立ち上がり、荷物袋の中を漁って先端にレンズのはめ込まれた棒状の機器を取り出す。
「じゃあ行ってくるね」
「おう。バカ兄貴はあたしが見張っといてやるから早く帰って来いよな」
すでに焚き火の中のスープしか目に入っていない兄を指し示しながら、アギトが言ってくる。
良かった。これなら兄から目を離しても夜食にありつけるかもしれない。
そう少し安堵すると、ドーチンは先ほどルーテシアの消えていった方向に適当にあたりを付け、森の中へ足を踏み出した。
「あ、そうだ。さっき旦那がこの辺野犬が出るかもって言ってたから気を付けて行けよ」
「……………………」

何とも言えず、とりあえず大声は出さずに見つけないとなぁ…などと思いながら、ドーチンは一気に重くなった気分を吐息に乗せて吐き出した。



◆   ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇


背の高い木々の中、円形の光が照らす道を黙々と歩いていく。
道幅はそれなりに広いが、いかんせん足場が悪い。さっきから地面から突き出た石や木の根に何度も蹴躓いている。
視界ゼロで歩くよりは遥かにマシであるが、溜息を止めさせてくれるほどの慰めには程遠かった。
手に持った携帯型の光源に目をやる。こんな技術はキエサルヒマ大陸では見た事がない。
(やっぱり大陸の外まで飛ばされちゃったのかなぁ…。だから天人の遺跡なんかに寝泊りするのは止めようよって言ったのに…)
妙な事になったと、今更ながらにうな垂れる。

事の起こりは一月ほど前。当てもなく兄と共に大陸を放浪している最中、一夜の宿とした遺跡の中で起こった。
火事場泥棒みたいな真似をしたのがそもそもの間違いだったのだろう。―――――誓って弁解させてもらうがやったのは兄である。ボクは止めた。
元々大陸中の遺跡は大陸魔術士同盟の魔術士達によって粗方掘りつくされているのだ。
素人がどんなに一生懸命探った所で、食器の一枚も見つかりっこない…。
(…と、思ってたんだけどなぁ…)
そこがたまたま手付かずの遺跡だったのか、はたまた探索した魔術士が見落としていただけなのかは定かではない。
だが結果として兄は見つけてしまった。床に彫られたとある小さな『文字』。複雑に絡み合うように描かれたその文様には見覚えがあった。
『魔術文字(ウイルドグラフ)』。
かの『天なる人類』ウィールド・ドラゴンが用いたという「魔術」である。
効果の程は多種多様で、それこそ文字の数だけあると言われている。
加えて一時的な効果しか望めない人間の音声魔術と違い、魔術文字は媒体となる文字を傷つけられない限りその効果は、それこそ永続するものさえあるとかなんとか。
更に、魔術文字の最大の特徴は、条件さえ満たせば『誰にでも扱える』という事。
それが加工された特殊な道具ではなく、ただの魔術文字ならば、ただ軌跡をなぞるだけで効果を発揮するものさえあるという――――――


……ここでうっかり顔馴染みの魔術士のウンチクを思い出してしまった事、保身よりも好奇心が勝ってしまった事が運の尽きだった…。

文字をなぞった後の事はもうよく分からない。
ただなぞった文字が光だし、、次第にその光の文字が部屋全体に伸びていって最終的には目を焼かれるかと思うほどに発光しだした時点でもう後悔の極地に達していたのは覚えている。
逃げ出そうにも眼球が潰れそうなほどの白光にただただ両目を押さえてうずくまるしかなく…。
そして一瞬の振動の後、自分達が立っていたのは遺跡の石畳の上ではなく、満天の星空が輝く草原だった…。
…今思えばあの魔術文字はきっと転移の魔術だったんだろう。前にレジボーン温泉にあった遺跡で見たのと同じヤツだ。
その事自体はまぁいい、というか今更どうしようもない。命にかかわる類の魔術じゃなくて良かったと思うしかない。
問題は転移させられた場所がまったく見知らぬ土地だったという事だ。
いや、それだけならまだ楽観視していられただろう…。本当の問題は、「ここがキエサルヒマ大陸ですらない」という事だ。
アギト達に連れられて街に下りた時、本当に驚いた。
キエサルヒマ大陸に築かれていたモノとは桁違いなまでに進歩した文明の姿がそこにはあった。
(ルーテシアに聞いても「そんな所知らない」の一点張りだしなぁ。きっと大陸の外まで飛ばされちゃったって事だよなぁ…。参ったなぁ…。ちゃんと帰れるのかなぁ)
愚痴は抑えられてもため息までは止められない。
そういえば外の世界じゃ人間なんてとっくに絶滅してるみたいな事を誰かが言ってたけど
、あのクラナガンという街一つ見ても繁栄を極めているのは疑いようがない。
(まぁ実際に見てもいない人の話よりも自分の目で見た物を信じるべきだよね、普通は)
なんとも釈然としないが、現状で特に不利益を被っているわけでもないので無理やりにでも納得するしかない。
少なくとも聞き及んだとおりの無人の荒野に投げ出されるよりは百倍マシなのは確かなのだから。
と、ちょうど思考に一通りの区切りがついた所で、ふと気付いた。どこからか小さな音が鳴っている。
それが何なのか疑問に思うよりも早く、アギトの言葉が頭を過ぎった。


『旦那がさっきこの辺野犬が出るかもって言ってたから気を付けて―――――』


野犬が出るかもって……出るかもって……出るかも……


ぶわぁ…と一気に冷や汗が吹き出てくる。
震える指で慌てて懐中電灯のスイッチを切り、息を殺し、音の出所を探ろうと必死に耳を澄ます。
獣の唸り声でも聞こえたらすぐさま取って返そうと思いながら待つ事、一秒……二秒……。


…………かった。………………グスタ……………ね。………ック・……リズビー?………ぅん…………



闇の奥から聞こえてきたのは予想に反して聞き覚えのある人間の声だった。
「ルーテシア!!」
安堵と相まってつい大声を上げてしまった事に内心で舌を打つが、もはや無用な心配だろうと考え直す。
彼女の傍には常に「アレ」がいる。野犬どころか、大型の獣だって近づいて来やしない。
こちらの声が聞こえたせいだろうか、声は止んでしまっているがよく見ると木々の奥のほうにぼんやりと光が漏れている。
ガサガサと草むらをかき分けて進むと、何秒もしない内に一気に視界が開けた場所に出た。
見回してみると何故かこの周りだけは木々が一本も生えていない。空を見上げれば驚くほど綺麗な星空が地面を照らしていた。
そして、暗闇に慣れた目には強すぎる月の光に漫然と照らされながら、彼女はそこに立ち尽くしていた。
「ドーチン…?」
言いながら紫の髪をふわりとなびかせて振り返ってくる。相変わらず感情の希薄な声音だがかすかに疑問の気配を含ませた言葉。
察するに「どうしてこんな所に居るの?」という所だろう。
「うん。ルーテシアがあんまり遅いから、アギトに見て来いって言われてさ」
そう言うとルーテシアはただ「そう…」とだけ呟き、視線を彼女の正面に浮き出ている画面に戻した。
遠目でよく見えないがおそらくあそこに映っているのはあのスカリエッティとかいう科学者だろう。
「ドクター、私戻るね」
『ああ、長々とすまなかったね。ゆっくりとお休み』
「うん。おやすみなさい」
ルーテシアが画面に向けてヒラヒラと手を振ると、プツンという音を残して画面は消えてなくなってしまった。
…こうして直に目にすると殊更に思う。とんでもない技術だ、と…。
「いこ」
「あ、うん」
そんな感想を抱いてる間に、もう近くまで歩み寄ってきていたルーテシアに言われて慌てて頷く。
懐中電灯のスイッチを入れ、元来た道を戻ろうとして、ハッと動きを止める。
そういえば、どうやってみんなの所に戻ればいいのだろう。
「……こっち」
「え?」
悩んでいると、ルーテシアが無造作にある方向を指で示し、そちらに向かってテクテクと歩き出した。
慌てて懐中電灯のスイッチを入れて、彼女の隣に並ぶ。
「道、覚えてるの?」
「違う。教えてくれるの」
囁きながらルーテシアが前の方を指差す。
「?」
首を傾げつつ懐中電灯を向けると、何か紫色の小さな光が導くように自分達の前を先行していた。
あれについていけばいい、という事だろうか…。
「………………」
「………………」
サクサクと、無言のまま草を踏み分ける音だけが辺りに響く。
なんとなく気まずさ覚えて、ドーチンはチラリと自分の背丈とそう変わらない位置にある横顔を盗み見てみる。
白光に照らされた横顔は、相変わらず感情というものを全て削ぎ落とされたとしか思えないような無表情。
いや、あるいは比喩ではなく本当に感情というものを失っているのかもしれない―――そんな馬鹿げた考えが浮かんでしまうほど、この少女には人間的な部分が欠けているように思える。
なにせ食事をしている時も、アギト達と世間話に興じている時も、いや、思えば最初の出会いからこっち、自分はこの表情以外の彼女を見た覚えが無い。
「…なに?」
「え!?あ、あ~…えーと、その…」
ぼー、と顔を覗きこんでいた所にいきなり声をかけられて思わず顔が赤くなる。
別にやましい気持ちは無いのだが、ただ単に顔を見ていたというのもなんとなく気持ちが悪く、別の事を口にした。
「その…ホラ、今日はずいぶん時間がかかったなぁって思ってさ」
「…なにが?」
「何って…。定時連絡だよ。さっきの人との。いつもはワリとすぐ済むじゃない」
「…ああ、うん。今日は、またドクターにお手伝いを頼まれてたから…」
「お手伝い?」
聞き返すと、ルーテシアは軽く頷き、繰り返してきた。

「おつかいの『お手伝い』だって…」



魔術士オーフェンStrikers第十二話  終

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最終更新:2011年05月22日 01:03