今回の魔女が生み出した結界は、お菓子だらけの結界だった。
キャンディにドーナツ、ポテトチップスにチョコレート。壁も天井も、何処を見てもお
菓子だらけで、所々に手術器具が並んでいる。普通なら薬を入れておく筈の小瓶の中には、
お菓子や苺などの果物が入って並べられていた。
なのはだってお菓子は好きな方だし、別に病院が苦手という訳でもない。二年前は、割
と長期間の入院生活をしていたくらいだ。だけれども、異常なまでのお菓子と病院という
組み合わせは、何処か不気味で、気持ち悪いとすら思ってしまう。
それはなのはがかつて入った薔薇の空間だって同じだ。薔薇は美しいと思うが、何処を
見ても薔薇ばかりでは気味が悪い。こう感じてしまうのは、もしかしたらなのはの肌が、
魔女が放つ威圧感や負の感情を、本能的に感じ過ぎているからなのかも知れない。
しかし、それ以上になのはに居心地が悪いと感じさせてしまうのは、目の前で繰り
広げられる二人の睨み合いによる所が大きかった。
「もう一度言うわ。今回の獲物は私が狩る……あなた達は手を引いて」
「そうは行かないと言っているでしょう。美樹さんを迎えに行かないと」
ほむらはいつも通り、何を考えているのかも分からぬ凪いだ表情でマミに詰め寄るが、
マミは一歩も引き下がる様子もなく、挑戦的な態度でほむらを睨んでいた。
なのはとまどかはと言うと、二人してどうすればいいのかも分からずに、ただ見守る
ことくらいしか出来なかった。
そもそも、なのは達がここでマミ達と出会ったのは完全な偶然だった。ほむらの進む道
の先にマミ達が居るだなんて思う筈も無かったし、出会い頭にこんなにも険悪な雰囲気が
漂うだなんて、もっと思っていなかった。
聞けば十数分前、この病院で孵化直前のグリーフシードを偶然発見したのは、まどかと
さやかの二人らしい。今はまだ魔女は孵化していないが、もしも魔女が孵化してしまえば、
病院に入院する大勢の患者の命が犠牲になってしまう。そんな結果は最悪中の最悪だ。
故に、さやかが目印として孵化直前のグリーフシードの元に残り、まどかが急いでマミ
を呼んで来たらしい。
だとすればこんな所でいがみ合っている場合ではないのではと思うが、どうやらマミと
ほむらの相性はそれ程良くはないようである。マミはほむらの言葉に聞く耳を持たないし、
ほむらはマミをこの先には進ませる気はないらしい。
「あなたが手を引いてくれるなら、美樹さやかとキュゥべえ、それから高町なのはの安全
も私が保証するわ」
「そんな話、信用すると思って?」
マミの手が、綺麗に巻かれた金の髪の毛を軽く払った。その指に嵌められたソウルジェ
ムの指輪が一瞬煌めいたかと思えば、ほむらの周囲から飛び出したのは、マミの魔力を伴
った赤い帯だった。魔力で出来た帯は硬く素早く、ほむらに次の一手を打たせる事なく、
その身体を全方位から絡め取った。
ほむらの顔が苦痛に歪む。身体を締め上げられ、吊るし上げられ、自由を完全に奪われ
たのだ。四肢が完全に封じられたとあっては、然しものほむらと言えども出来る事など何
もない。ほむらはそれでも、声を張り上げた。
「ば、馬鹿ッ……、こんな事やってる場合じゃ……!」
「勿論怪我させるつもりはないけど、あんまり暴れたら保証しかねるわ」
「今度の魔女は、これまでの奴とは訳が違う……!」
「大人しくしてたら、帰りにちゃんと解放してあげる」
二人の会話は噛み合わない。マミには最初からほむらの言葉に耳を貸すつもりはないよ
うだったし、そうなれば、拘束されて言葉しか使えないほむらに出来る事などは、本当の
意味で何もなくなってしまう。
マミはそれ以上の興味を失ったかのように、まどかの手を引いて結界の奥へと消えて行
った。魔女が創り出した結界なんて、一寸先は闇だ。マミとまどかの姿は、程なくしてな
のはの視界からも消え去った。
「ほむらちゃん……」
見上げたほむらは、らしくもない表情で歯噛みしていた。どんな窮地にだって畏れすら
見せないと思われたほむらの余裕は、こうも簡単に打ち砕かれてしまうのだ。
だけれども、マミの判断を間違っているとも思えないなのはに、下手人であるマミを責
める事など出来はしない。
そもそも、マミ達魔法少女組の間での暁美ほむらの共通見解は「悪人」である。利己的
な理由でその力を振るい、キュゥべえをも傷め付けた悪の魔法少女だと、少なくともマミ
らはそう考えているのだ。
そんな悪人が、一刻も早く救出するべき人が居る状況で現れたなら、誰だって警戒する
ものだ。それなら、邪魔をされる前に怪我をさせない程度に拘束してしまえばいいと思う
のはマミのみならず普通の考えだと思うし、寧ろ正解に近いとさえ思う。
だけれど、それは仮に暁美ほむらを本当の悪人と定義した場合の結論だ。なのはは、ほ
むらを心からの悪人だなどとは思っていないのだから、マミの行動を間違いだと否定する
事は出来ないまでも、正解だと肯定する事も出来なかった。
では、この状況で自分が出す答えとは、一体何か。
マミとは違う、なのはが信じる正解の対応とは、一体何か。
それは、至って簡単な方法――腹を割った「話し合い」である。
「ねえ、教えてほむらちゃん。ほむらちゃんは一体、何をするつもりだったの?」
「さっき言ったでしょう。今日、ここに現れる魔女を、私がこの手で狩るつもりだった」
「どうしてそんなに自分の力で魔女を倒そうとするの? やっぱり、手柄が欲しいから?」
「そんなものは必要ないわ。巴マミがそれを欲しがるなら、好きに持っていけばいい」
「なら、どうして……」
問うが、結論は見えない。
相も変わらずの遠回しな発言は、事の真相へと繋がる道のりを険しくするだけだった。
だけれども、ここで諦めては話は何にも進まないままだ。その気になればここで自分がほ
むらを救う事は容易に出来るだろうが、それをするのはせめて、今彼女が何をしようとし
ていたのかを見極めてからでなければならない。
なのはは、目的の無い力を振るうのが嫌だった。
「今日現れる魔女には、今の巴マミでは勝てないわ」
「どうして……そんな事、やってみなくちゃわからないじゃない!」
「分かるわ、残念だけど。二人を守りながら、巴マミがあの魔女に勝つのは不可能だって」
「そんな事っ……、なら……どうすればマミさんを助ける事が出来るっていうの?」
「この拘束さえ解ければ、まだ間に合うかも……――ッ!?」
拘束から逃れようと、赤い帯の中で身悶えしたほむらが、苦しそうな呻きを漏らした。
ほむらが足掻けば足掻く程、マミの拘束魔法はきつくその身体を拘束するのだ。帯がぎ
しりと軋みを上げる度、ほむらの華奢な身体は締め上げられ、体力は消耗されてゆく。
それは、一度拘束されてしまえば、逃れる事の叶わない蜘蛛の巣のように思われた。
「じゃあ……ほむらちゃんは、マミさんを助けようとしていたの?」
「巴マミが死ねば、また同じ事の繰り返しになる……最悪の未来に繋がってしまう。それ
じゃあ、意味がないのよ……」
その言葉を聞いて、なのははほっと安心した。
きっとほむらの言葉に嘘はないのだと思う。「また」というのが何を指すのかは分から
ないが、あのほむらがなのはからの信頼を得る為だけにこんな狂言を言うとは思えないし、
そもそもなのはに「マミを救いたい」などと打ち明けた所で、なのはに力が無ければほむ
らを救う事など出来はしないのだから、ほむらにしてみれば無力ななのはにそれを打ち明
ける意味はない。
ほむらはもう、抵抗する事すらも諦めた様子だった。力無く項垂れて、その表情には、
諦めと苛立ちにも見える暗い陰りが挿していた。
まだ、諦めるのは早いよ。そう思って、なのははほむらに手を差し伸べた。
「たった一つだけ、助かる方法があるよ」
「……何のつもりかしら。あなたに一体、何が出来ると言うの」
「出来るよ、何だって。私には、想いを貫く為の力と、空を駆ける翼があるから」
そう。この力がある限り、なのははきっと、何だって出来るのだと思う。
目の前で泣いている人が居る限り、目の前で助けを求める人が居る限り、なのはにはや
るべき事がある。この胸にあるのは、哀しみを終わらせる勇気の誓い。この手の力は、涙
を撃ち抜く奇跡の魔法。
ほむらがそんなにも哀しい顔をするなら、なのははその哀しみを撃ち抜くまでだ。そし
て、それはマミの命をも救う事になるのであれば、迷いなんて一片たりとも存在しない。
「きっと助けるから。マミさんの事も、あなたの事も」
「あなたは一体、何を言っているの……?」
ほむらは、最悪の未来に繋がると言った。だけれども、未来なんてものは、誰にも分か
りはしないのだと、なのはは思う。仮に決められた未来があったとしても、そんなものは
自分達の力でいくらだって変えて行ける。
一人で無理なら二人で。二人で無理なら共に戦う仲間達と共に、だ。みんなの絆が一つ
になれば、それは必ず未来へと続いてゆく、光差す道となる。
抗えぬ運命など存在しない。決められた運命など存在しない。もしもここでマミが魔女
に負ける事が運命だというのなら、そんな下らない運命は全力全開でブチ壊してやればい
い。今までだって、ずっとそうしてみんなで一緒に歩んで来たのだ。
今更それが不可能だなどとは、誰にも言わせはしない。
結んだ絆は、どんな奴にだって壊させはしない。
「未来は変えられるって、私が証明するから――」
胸元の赤き宝玉を掲げれば、それはなのはの想いに応えるように眩く瞬いた。
物語は、まだ何も始まってはいない。自分達の全ては、まだ始まってもいないのだ。
なれば、こんな所で始まってもいない物語を終わらせはしないし、終わらせるつもりだ
って毛頭ない。みんなで未来の扉を叩いて、その先に待つ果てのない道をこれからも走り
続けて行くのだ。
「――だから! これが終わったら、一緒に始めよう……私達の、未来を!」
桜色の閃光は、なのはの周囲の全てを覆い隠した。
この空間そのものを形作るお菓子の山を、そこらをひっきりなしに歩き回っていた小さ
な使い魔共を、赤の帯に拘束されながらもなのはを見詰めるほむらの顔を。なのはの身体
から満ち溢れる魔力の光が、何もかもを飲み込んで、全ての視界を遮った。
愛機レイジングハートを掴み取ったなのはの身体を、光が包み込んだ。光は形をとって、
見滝原中学女子に指定された制服は、瞬く間に新たな形へと作り変えられてゆく。目も覚
めるような純白過ぎる純白に鮮やかな青が彩られたドレスは、暗過ぎるこの空間において
は天使の如き輝きを放って見えた。
胸元で、黄金の装甲が煌めいた。青の袖は、高速回転するビスによって形を留められ、
金属質な鋼の手甲となった。握り締めた魔道師の杖の穂先、その根元には、白と青の羽根
が取り付けられて、機械仕掛けの魔法少女への変身は完了した。
高町なのはの魔力光が放つ輝きは、薄暗い魔女空間では余りにも眩し過ぎる。溢れ出た
魔力は、純白の羽根となって二人の間に舞い上がって、まるで夜空を照らす星光のように
全てを明るく照らしてくれた。
数秒程、時間が止まったような沈黙が流れて、やがてなのはの周囲に四つの輝きが浮か
んだ。眩し過ぎて、最早限りなく白銀に近い光に見えるが、それは見まごう事なくなのは
の魔力の強さに応じて煌めき、膨らみ続ける桜色の魔力スフィア。
「高町なのは……あなたは、まさか……そんな!?」
「さあ、行くよほむらちゃん。すぐにそこから解放してあげる!」
ちゃき、と音を立てて、レイジングハートを構える。金の矛先が狙う照準は、縛られ、
吊るし上げられた暁美ほむら。桁違いの空間把握能力を以て操られた魔力スフィアは、高
速で空を駆け抜け、刹那の内にほむらの身体を縛る帯を撃ち貫いた。
如何に強力な魔力で構成されたバインドと言えども、この場に術者の居ない魔法などは、
なのはの敵には成り得ない。撃ち貫かれたマミのバインドは、穿たれた場所から萎むよう
に縮んで行き、あれ程ほむらが苦戦した帯は、あっと言う間に光となって消え去った。
* *
巴マミは、その日始めて、魔女の孵化の瞬間を目撃した。
場所は、他よりも明らかに広く、広大なドーム状の空間だった。周囲にはここに辿り着
くまでの道のりで見かけたお菓子がいくつもいくつも無造作に並んでいて、あちこちから
一本の支柱に支えられた円形のテーブルが伸びている。高さは、人の数倍くらいだろうか。
それは明らかに、人が用いるテーブルなどではなかった。
広大な空間の中心には、一際特別なテーブルがあった。これからお茶会でも始めるつも
りなのか、そのテーブルにだけ二つの長椅子が設置されていて、一対の人形が向かい合っ
て座っている。小さな女の子が好みそうな、可愛らしい雰囲気の人形だ。
マミが目を付けたのは、ピンクの人形の方だった。それが出現すると同時に、ドームの
半円に、真上から墨汁を垂らしたような闇が拡がっていった。闇はすぐに茶色く色付き、
それが溶かされたチョコレートだと判別出来るようになる頃には、薄暗かった空間は人形
と同じ、明るいピンク色に染まった。魔女空間の完成である。
一連の空間の変化から、マミは魔女の正体はピンクの人形であると判断したのだった。
「折角の所悪いけど、一気に決めさせて貰うわよ!!」
標的を見定めたなら、後は攻撃するだけだ。マミの行動は迅速だった。
一足跳びにピンクの人形が鎮座した長椅子の根元まで飛び込んだマミは、両手で構えた
マスケット銃を、鈍器の要領で振り抜いた。全力で放たれたマスケットの打撃攻撃は、人
形が座る長椅子を容易に叩き折って、それまで座っていた場所を失った人形は自由落下を
始める。
抵抗する事なく落下して来た人形を、同じ要領でマミはもう一度殴りつけた。ホームラ
ンバットとなったマスケットの打撃は、本来の使い方とは違っているとはいえども強力だ。
殴られた人形は、その小さな身体を思いきり凹ませて、半円の壁まで吹っ飛び、叩き付
けられた。初動から、ここまでの連続攻撃に掛かった時間はほんの数秒。瞬く間にマミは
先手を取り、抵抗する間すらも与えずに圧勝しようとしていた。
今なら、どんな敵にも負ける気がしない。
その確信が、マミの動きを速く、鋭く変える。
(身体が軽い……こんな幸せな気持ちで戦うのは初めて)
今のマミは、一人ぼっちではない。
損とか得とか、そういう打算無しで、これからもずっと一緒に居てくれると言ってくれ
た仲間がいる。一緒に肩を並べて戦ってくれるパートナーが、今、マミの勝利を信じて後
ろで待ってくれている。負ける事など許されない。カッコ悪い姿など、見せられない。
マミを孤独から連れ出してくれた鹿目まどかの為にも、この勝利はまどかに捧げる。そ
して、終わったら一緒に最高の魔法少女コンビ結成を祝して、パーティをするのだ。美味
しいケーキを食べて、美味しいお茶を飲んで、それから、それから――。
家族を失ってからというもの、ずっと一人ぼっちだったマミにも、ようやく生きて帰る
理由が出来たのだ。なればこそ、こんな魔女なんかにこれ以上割いてやる時間などはない。
(もう、何も怖くない!)
突き付けたマスケットの銃口は、寸分の狂いなく人形を狙い定めていた。
怒涛の勢いで、マミは激しい弾丸の嵐を見舞った。一発撃ったマスケットはすぐに投げ
捨て、次のマスケットを掴んでは撃ちを繰り返す。人の常識で計れる速度を遥かに超えた
圧倒的な速度の射撃は、人形の小さな胴を蜂の巣へと変えた。
それでも魔女は魔女。回復能力は生物の比ではなく、落下するまでに穿たれた穴は大抵
塞がってしまう。だけれども、そんな事はお構いなしにマミは歩を進め、身動き一つ取ら
ずに落下した人形の頭にマスケットを突き付け、ゼロ距離で弾丸を発射した。
人形の頭に気持ちがいいくらいの風穴が空いて、そこから溢れ出した金色の魔力が、無
数の帯となって人形を締め上げ、遥か上方へと吊り上げた。全身を拘束魔法に縛られた魔
女に回避など出来る訳もない。マミは最後の一撃を放つ為、巨大な大砲を作り出した。
大砲から放たれた必殺の一撃は、狙い過たず人形の胴をブチ抜いた。
マミの持てる最高威力の砲撃魔法を受けた人形に、これ以上の戦闘は不可能。そう思わ
れたが、身体を潰された人形は、その小さな口から、巨大な何かを吐き出した。
人間の体よりもずっと大きく長い。胴は黒く、ウツボのようにしなっていた。
何かが出て来た。目の前で起こった事象をそう捉えた時には、既に黒い何かは、マミの
眼前に迫っていた。巨大な身体からは想像もつかない程の速度で、しかしそいつは特に変
わった戦法を用いる事もなく、至って普通な動作で、ただマミに接近したのだった。
「――え?」
時間が止まったように感じたのは、どうしてだろう。勝利を確信していたマミの眼前ま
で迫った黒い魔女は、白塗りの顔でマミを見下ろすと、大きな口を開いていた。口の中に
は白く輝く牙がびっしりと並んでいて、その奥に見える舌は、唾液にぬめっていた。
まるで、これから好物のお菓子を食べる子供の舌のように。
反射的に、直感的に、本能的に。食べられる、と思った。
身動きなんて取れる筈もなくて、マミはただ立ち尽くすだけしか出来なかった。目の前
で大口を開く魔女に意志の全てが集中していたマミは、魔女の遥か後方、チョコレートの
闇に覆われたドームの天井部分で、星々が煌めいた事にも気付かなかった。
魔女の牙がマミの頭を飲み込もうとしたその刹那。夜空に輝く星々の如き輝きの中でも、
一際大きく、そして美しく輝く桜色の星が、人が知覚出来る光量を越えた閃光となって、
地へと降り注いだ。
閃光は、今まさにマミを食い殺そうとしていた魔女の身体を猛烈な勢いで抉り、その巨
体を地へと縫い付ける。凄まじい轟音は、マミの耳を劈かん勢いで唸りを上げて、閃光が
伴った衝撃波は、マミの身体を吹き飛ばさん勢いでこの身を煽った。
最も至近距離でその衝撃を受けたマミが感じたのは、痛みさえ覚える程の衝撃。それは
一瞬思考停止したマミの意識を、急速な勢いで呼び覚ましてくれた。
「一体、何が……!」
見上げたマミの瞳を、眩い輝きが強く刺した。
思わず目を背けたくなる思いを堪えて、それでも空を凝視する。チョコレートで出来た
闇は、最早夜空ですら無くなっていた。眩し過ぎて白銀にしか見えない夜空は、夜を引き
裂いて訪れた夜明けのようであった。
やがて夜明けの光の中心から、何かがゆっくりと舞い降りてくる。
純白の翼は、強い光を伴って美しく瞬いていた。眩しいくらいに輝いて見える白のロン
グスカートは、風に振られてふわりふわりとはためいて見える。優雅に舞い降りるその人
影は、光の天使のように思われた。
「高町……さん?」
舞い降りた天使は、マミの良く知る高町なのはであった。
良く見れば、胸元や腕は、機械の装甲のように見える。持っている杖だって、魔道師の
杖というよりは、赤い宝玉を金属の穂で覆い、それを白と青の機械の装甲で武装した槍の
ように見えた。だけれども、なのはが携えるソレの柄には青いグリップと引き金が付いて
いるようだし、それが杖なのか槍なのか銃器なのかは、マミにも検討は付かなかった。
それ以前に、何故なのはが空を飛んでいるのか。何故なのはが魔法少女に変身している
のか。いくつもの疑問が濁流となって押し寄せて、思わずぽかんと見上げてしまうマミで
あったが、そんなマミの表情を見るや、なのはは満足そうに微笑んだ。
「良かった、マミさんが無事で……本当に良かった!」
喜びも束の間だ。天使のように笑いかけるなのはの背後で、巨大な魔女がゆっくりと鎌
首をもたげた。魔女の表情は怒りに歪んで居るように見えたが、トゥーンコミック風の白
塗りの顔の所為で、些か滑稽に見える。だけれど、それはある意味では余計に不気味さを
引き立てるスパイスにも成り得る。
なのはの危機に誰よりも早く気付いたマミは、状況の整理は後回しにして、まず叫んだ。
「高町さん、後ろっ!」
それから、即座にマスケット銃を取り出し構えるが、マミの出る幕ではないようだった。
何の警戒も示さないなのはを喰らおうと、魔女は大口を開けて迫る。だけれども、魔女
の牙がなのはに触れるよりもずっと早く、魔女の頭が爆ぜた。それから、胴、尻尾と、爆
発は次々と連鎖して、赤黒い爆煙を発生させた。先程のなのはの砲撃による魔力爆発とは
明らかに異なった、質量を持った兵器による爆発のように見えた。
魔女は堪らず姿勢を崩し、ぐったりと横たわる。目の前の事実を認識し、なのはの無事
にマミが胸を撫で下ろした時には既に、もう一人の魔法少女がそこにいた。
なのはの白とは対になる、黒の衣装を身に纏い。艶やかな黒髪を優雅に靡かせて佇む彼
女の名は、暁美ほむら。先程確かに、この手で拘束し動きを封じた筈の女だった。
なのはは笑顔。ほむらは無表情。表情は全く違っているけれど、背中合わせに並んだ二
人は、同じ目的の為に手を組んだ仲間のように思われた。
「どういう事!? どうして二人が……まさか、高町さんまで!?」
「にゃはは……これには深い訳があって……えーっと、後できちんと説明しますから」
「その必要はないわ。もうこれ以上、巴マミに出る幕はないから」
「もう、ほむらちゃん……そういう言い方は良くないよ?」
例え魔法少女の姿をしていても、高町なのはは高町なのはのままであった。
いつも通りの優しいなのはのままである事が分かって、マミは少しだけ安堵する。だけ
れど、状況がさっぱりわからない事に変わりはないし、マミの教え子であったなのはがい
つの間にか魔法少女になっていて、しかも敵である筈の暁美ほむらと共に現れたとなれば、
これはどうあっても納得の行く説明が必要だ。
ちらと後ろを見れば、物陰に隠れていたさやかとまどかも、どう反応していいのか分か
らないといった様子で、ただ見ているだけしか出来ないようだった。
「あなたはそこで見ていなさい。あの魔女は、私が狩るわ」
「私達が、の間違いでしょ、ほむらちゃん?」
ほむらは一瞬だけ、不服そうな表情でなのはを見遣るが、しかしそれ以上は何も言わず
に、その姿を掻き消した。何処かへ飛んだとか、移動したとか、そういう事では無く、本
当の意味で消えたのだ。不可解な現象に眉を顰めるマミを後目に、なのははにゃははと苦
笑いをした。
それから、なのはのブーツから光の翼が現出して、なのはも飛び上がった。
まるで大空を飛び回る鳥のように、自由自在に宙を飛び回るなのはを見ていると、魔女
が生み出したこの広大な空間でさえも、小さく狭い箱庭のように思われた。
空を自由に駆け回るなのはを捕らえようと、魔女はその長い身体を屈伸させてなのはに
襲い掛かる。だけれども、どんなに魔女が空を飛び回っても、なのはの速度には敵わない。
捕捉する事など出来はしないし、追い付く事さえも出来てはいない。
それでもなのはを追い掛けていると、魔女の身体が突然爆発した。もんどりうって苦し
む魔女の脇のテーブルに、涼しい顔をしたほむらが着地した。
今回も、ほむらが何処から現れたのを見極める事は出来なかった。突然現れて、突然消
えてゆくのだ。あれがほむらの能力で、ほむらが敵に付くというのなら、あの瞬間移動の
トリックを見極めない事にはマミに勝ち目はない。
今度こそほむらの動きを見極めようとするが、そんなマミの目を奪ったのは、桜色の閃
光だった。先程の閃光よりも小さいが、しかしまるで意志を持ったかのように空を飛び回
る光は、今度はほむらに襲い掛かろうとした魔女の眼前を横切って、翻弄する。
そうしていると、いつの間にか消えていたほむらが、また別のテーブルの上に現れて、
同時に魔女の身体が派手に爆ぜる。だけれども、魔女はしぶとい。先程ピンクの人形が、
口から魔女を吐き出したのと同じ要領で、黒い魔女は再び口から自分を吐き出した。再生
された魔女は、先程までに受けたダメージなどは忘れたように元気そうに飛ぶ。
だけれど、結果は同じだ。今度は、魔女が数メートル飛んだところで、爆発した。
顔が、胴が、尻尾が爆発して、魔女は再び口から新たな身体を吐き出す。何度なのはの
砲撃を受けても、何度ほむらの爆発―恐らくほむらの攻撃だと思う―を受けても、魔女は
幾らでも再生する。これではキリがないと思った、その時であった。
なのはが放った砲撃が、魔女を飲み込み、焼き払った。同時に、ほむらが空間の中心の
テーブル席に現れて――そこに座っていた小さな人形を、真上から踏み潰した。
ぷぎゃ、と音が聞こえて、魔女の再生は止まった。
気付いた時には全てが終わって居た。マミの耳に入って来るのは、爆発音でもなければ、
破壊音ですらない。遠くから聞こえる自動車の走行音と、何処かで鳴く鴉の声だけだ。
お菓子だらけの異質な空間なんて何処にもなくて、マミの目の前にあるのは大きすぎる
病院と、等間隔で並べられた色取り取りの自転車だけだった。
高町なのはも暁美ほむらも、既に見滝原中学の制服姿に戻って居て、つい数十秒前に遡
れば、ここで魔女と魔法少女の戦いが繰り広げられていたなんて、信じられないと思える
程だった。
魔女に勝ったのだという実感は、ない。
事実として、マミは魔女に負けたのだ。命こそ助かったものの、これはなのは達がたま
たま駆け付けてくれたから、今こうしてここに立って居られるというだけの話だ。
自分で倒すつもりで挑んだ魔女だって、いつの間にか彼女らに倒されて居たのだから、
この戦いでマミが成し遂げた事など、実際には何一つない。
あまりにもあっけなさすぎる結末だと思う。命が助かったのは喜ばしい事であるが、そ
れを素直に喜べる程マミは能天気ではない。だけれども、なのはとほむらに対して負の感
情を抱くのも何か違う気がして、マミは気まずそうに俯いた。
後ろを振り向けば、さやかとまどかも、怒っていいのか喜んでいいのかわからない、と
いうような複雑な表情をしていた。多分、今の自分も後ろの二人と同じような表情をして
いるのだと思う。
だけれど、どんなに気分が良くなくても、何かを言わなければ始まらない。今はまず、
なのはとほむらの二人から話を聞く事が先決なのだと思う。マミは顔を上げて、真っ直ぐ
になのはを見据えた。
「……どういう事なのか説明して貰えるかしら、高町さん」
なのはは嫌な顔一つせずに頷くが、ほむらはマミ達にそれ以上の興味などない様子で、
落ちていたグリーフシードを拾い上げた。それから、ちらとマミ達を見渡したほむらは、
何も言わずに立ち去って行った。
なのははほむらを呼び止めようとしたようだったが、結局、何も言わずにその口を閉ざ
した。だけれども、そんななのはの表情は、どうにも釈然としないマミとは違っていて、
とても満足そうだった。
なのははマミの無事を素直に喜んでくれた。その言葉にも、その笑顔にも嘘はないのだ
と思う。それは分かっているのに、分かっているからこそ、そんななのはの笑顔を見てい
ると、自分一人だけが惨めな気持ちになっている気がして、マミは誰にも気付かれないよ
うに緩く歯噛みをした。
最終更新:2011年07月04日 18:09