ユーノ・スクライア
大字波羅宿/耶部集落
初日/6時12分22秒
―――ウォォォォォォォォォ……
十分程前からだ。この赤い水がはびこる異界に羽生蛇村を追いやったサイレンが、どこからともなく再び鳴り響いていた。
―――ウォォォォォォォォォ……
脳髄から湧き上がるような頭痛に顔をしかめて、ユーノは廃屋の影から明け方の空を仰ぎ見た。
生物の咆哮のようにも聞こえるこのサイレン。少なくとも機械による無機質なものには聞こえない。
(このサイレンは、一体なんなんだ?)
サイレンは頭痛の他に、喉の渇きも誘発していた。ワゴンで覚醒して以来、何も喉を通していない上に疲労も合間って、一刻も早く喉を潤したいという欲求に駆られる。
しかし村の川、湧き水、水道水、とにかくここにある水という水の全ては、鮮やかな赤に染まり切っていた。
否応無しに血を彷彿させるような赤色。それらは先に山の上から見た、赤い海を満たしているものと同じ水に違いない。
(このサイレン、まるであの赤い水を飲むように誘ってるみたいだ……)
苦しみから逃れる術を目の前にぶら下げてわざと苦しませているような、ユーノはそんな意図をサイレンから感じ取った。
だがそもそも、血の色をした水なんて見た目からして気持ちが悪くて、とても飲む気になれなかった。
赤い水を飲むとどうなるのか、少なからずよからぬ異変を身体にもたらされるであろうことは容易に想像ができる。
しかしこのまま異界に留まって喉の渇きが進めば、いずれどうなるかだなんてわかったものでは無いことも確かだ。
(一刻も早くみんなを探して、ここから脱出する手立てを探さないと)
だがワゴンから脱出してからさまよい続けて数時間が経つ。
それだけの時間の中を移動に費やしたにも関わらず、ユーノは仲間どころか人間にすら会えていなかった。
出会うのは元々人間だったと思われる、目から血を流した屍のような肌をした人々だけ。
彼等はホラー映画のゾンビのように、ユーノを見つけるやいなや真っ先に襲いかかって来た。
そのゾンビを日本風に言うなら彼等は屍人とでも呼ぶべきだろうか。
ただ、屍人はゾンビとは違って言葉をいくらか喋るほか道具を使える知能は残っていた。それに最も特筆すべき点は、彼等は不死身であることだ。
傷つけても傷つけてもいずれ再生、復活をして何事も無かったかのように再び活動を再開する。
(まさか不死の生命が実在するなんて……)
ユーノは驚きを隠せなかった。
それはおとぎ話や空想の世界での話でしか存在し得なく、長年無限書庫を担当して来たユーノからしても、不死の生命体が確かに存在していたという事案や文献、証拠は見たことが無かったからだ。
(他人の視界を盗み見る能力を授かったのもここに来てからだし……分からないことが多すぎるな)
ユーノは廃屋の影から顔を出して周りの様子を伺った。
現在ユーノは、打ち捨てられて崩れかかった廃屋が建ち並ぶ集落にいた。
その集落は今、歩く屍達という新たな住民による支配を受けている。
ワゴンを出てから人気の無い山を下り続け、屍人を避けながらやっとのこと人里に出たと思えば、そこはこの屍人達で溢れている廃れた集落だった。
当然、そこに迷い込んだユーノは彼等にとって排除されるべき存在に当たる。
(でも寄りによってこんな所に辿り着くなんて、ツいてないなぁ)
思わず嘆息を漏らしたユーノ。その手に持っているのは、錆び切ったシャベルだ。
山中で拾ったものをそのまま武器として活用していたのだが、その先端は屍人達を何度も殴打したためにひしゃげて、血で赤く染まっている。
武器はシャベル一本のユーノに対して、相手の屍人は集落内に複数いる上に、何人かは拳銃や猟銃を所持している。
そんなユーノが彼等に見つかれば、すぐに仲間を呼ばれて袋叩きに遭うだろう。
そうすればあっという間に死に追いやられてしまうだろうことは容易に想像が出来る。
ここ最近は前線どころか元より戦うこと自体が無く、ずっと無限書庫で仕事をしてきたユーノ。
別に戦闘に関して自信が全く無いというわけでは無いが、対する相手は死をも超越した存在だ。
仮に彼等屍人達が、赤い水によって生まれた者だとしら、自分も死後、彼等と同じ様な形態で復活するかもしれない。
だがあんな知能を感じさせないような無様な形での不死身など、ユーノはまっぴらごめんだった。
(とにかく長居は出来ないな。早くこの集落を出たいんだけど……)
そう思いつつ、屍人がいないことを確認して屈みながら廃屋の壁沿いに移動する。ユーノが隠れていたのは『中島』と表札を掛けられた家屋だ。
この集落は山を階段状に切り開いた土地に建ててあり、各々の段に建てられた家屋は全部で数件しかない、非常に小さな集落だった。
だが小さな村と言えど、長い雨と日本独特の湿気がもたらした濃い靄のせいで、見通しは非常に悪い。
ユーノは目を凝らしながら中島家の裏手を通り、段と段を繋げる小さな坂を登った。
そしてすぐそばにあった『吉村』と書かれた表札を掛けられている、雨戸が外れて大きく口を開けている廃屋の中に身を滑り込ませた。
そこで身を潜めてから、ユーノは目をつぶり、意識を研ぎ澄ました。脳内に誰かの視界が映る。点けたての古いテレビのように、音声と映像が徐々に鮮明になっていく。
――ほっは ぁ ひぃひ ひ ひはぁ っ は――
呼吸か笑い声か、区別がつかないような耳障りな吐息が聞こえ、廃屋の屋根の上で猟銃を手に辺りを見張っている視界が映し出された。
この狙撃手こそ、ユーノが堂々と表を移動できない大きな要因だった。
(……しかも退路が無い)
ユーノの背後には小高い山のようなものがそびえており、とても登れそうにない。それに他の視界も見た限り、静かにしていれば狙撃手に見つからずに済む道には全て屍人が配置されていた。
唯一屍人がいなくて抜け出せる道と言えば、狙撃手がいる家屋とその隣の家の間。つまり狙撃手の足元を通ることになる。
(……でも、行くしか無いよね)
どちらにしろこの場に留まっていても、いずれかは彼等と戦闘になる。なら退路があるだけマシ、そこに賭けてみるべきだろう。
目をつぶり、屍人達の視界を見回す。機を見てから、シャベルを握り締め、ユーノは緊張した面持ちで吉村家から顔を出した。
(よし、今だ!)
ユーノは吉村家から飛び出し、なるべく足音をたてず、だが出来るだけ早足に木々の生い茂る集落の中を横切って行く。
そして無事、目的地の廃屋の玄関辺りにたどり着いた。廃屋の表札には『川崎』と書かれている。
その川崎家のちょうど真横、川崎家より一段下の段に、狙撃手のいる家屋が建っていた。
幸運にもユーノが身を潜めている川崎家の玄関口と、狙撃手のいる家屋の間には木造の倉庫が建っており、狙撃手からユーノのいる位置は倉庫に隠れて見えなかった。
(よ、よし……それでこれからどうやってこの集落を抜けるかだけど……ん?)
その時、ふと足元に落ちていた何かが目に入った。それは寂れた廃村には似つかわしい、真新しいカードだった。
思わずそれを拾い上げ、表面に付着していた泥を払う。青みがかった色をしているプラスチック製のカード。カード上部には大きく『城聖大学職員証』とある。
(職員証……教授か?)
その下には『文学部 文化史学科民俗学講師』と、スーツを着たふさふさとした髪型が特徴的な男の顔写真があった。名前は『竹内多聞』と書いてある。
真新しい職員証を見る限り、この竹内という人物もこの村に迷い込んでいるのだろう。
(やっぱり他にも人がいたんだ)
自分以外にも人間がいることに、ユーノは思わず安堵した。職業を見た限りだと、自分と同じような理由でこの村に来たに違いない。
それに考古学を専攻する自分との共通点もあり、仲間意識が自然と芽生えた。
(出来ればまだ生きている内に会いたいな……力を合わせればこの状況をどうにかできるかもしれない)
まだ希望が潰えてるわけじゃない。そう思い直して、自分を奮起するようにユーノは職員証を握った。
ぱぁん
しかしその時、突如ユーノの足元の土に甲高い音をたてて弾丸がめり込んだ。
(き、気付かれた!?)
当然、ユーノはそれに驚き後ずさりをする。すると不意にかかとが何か固いものに乗り上げた。それは材木だった。
「っ……うわわっ!!」
足元にあった材木に足を取られてユーノはバランスを崩し、勢いよく背中から倒れた。
ユーノの身体は川崎家の外れ掛けた雨戸に寄りかかり、経年劣化していた雨戸はそれを受けて大きな音をたてて外れた。
当然、ユーノは川崎家の中に背中から突入することになり、倒れた拍子に後頭部を思い切りぶつけた。頭をさすりながら上体を起こす。
「いたたっ……ってヤ、ヤバい!!」
今の音で確実に他の屍人達にも気付かれただろう。狙撃手もいる中、ここから無闇には動けない。ユーノは慌てて川崎家の中に駆け込んだ。
奥の部屋に入り暗がりの中に身を潜めると、とりあえず『竹内多聞』の職員証をポケットに入れ、すぐさま目をつぶって近辺の屍人達の視界を探る。
―――だ ぁれ だあ ぁは あぁ―――
―――げぇ ひは ひ ひひぃ ひひ―――
既に二体程の屍人が川崎家の前に集まっている。しかもそのうち片方の屍人の手には拳銃が握られていた。
(ったく、やっちゃったなぁ!!)
余計にややこしい状況へ追い込んだ自分への苛立ちを、心の中で吐き捨てる。
このまま追い込まれて死ぬわけにはいかない。
手元のシャベル以外にも何か対抗できる武器は無いかと、藁にもすがる思いで懐中電灯で部屋の中を照らし、棚の中身を漁っていく。しかしここは廃屋、見た限りあるのはガラクタばかりだ。
(やはりそう上手くはいかないか)
そう思っていたところ、ふと箪笥の上に置いてあった細長い木箱が目についた。とりあえずそれを下ろし、蓋を開ける。
中身を見たユーノは、思わず目を見開いた。
「これは……ショットガン?」
ユーノが見つけたのは、古い型の狩猟用散弾銃だった。古い型とは言えどなぜかちゃんと保管されていたらしく、目立って錆び付いている箇所も無い。
箱には猟銃と一緒に、充分な数の弾が詰め込まれた型紙の小箱が入っていた。
「……どうか使えますように」
呟きながら猟銃を手にして、銃身を開き、勘を頼りに弾を込める。間もなく背後から慌ただしく床板を踏む音が聞こえてきた。
懐中電灯を切り、ユーノは息を殺して壁に身を寄せて隠れた。足音が徐々に大きくなる。
「げ はぁ あは は はは ははは」
部屋に入って来たのは拳銃を持っている屍人だった。背中をユーノに見せている辺り、こちらに気付いている様子は無い。ユーノは猟銃の銃口を屍人の後頭部に向けると、迷わず引き金を引いた。
ばぁん、と強烈な発射音が狭い室内に轟きユーノの鼓膜を叩く。同時に発砲時の大きな反動によって銃身が跳ね上がった。
撃たれた屍人は車に引き倒されるような凄まじい勢いで前のめりになって倒れた。
後頭部には抉られたような大きな穴が開き、屍人は間もなくして身体を丸め、それきりぴくりとも動かなくなった。
(よし、使える!)
銃器が手に入ったのは不幸中の幸いだった。これで屍人相手でも、複数人に囲まれたりしない限り有利に立てる。外にいる狙撃手にもある程度対抗できるだろう。
ただ発砲音が大きいため、撃つ度に屍人を引きつけてしまうだろうことが不安だ。
「は ぁはぁ はぁ は ぁ はぁは ぁ」
するともう一体、農夫の格好をした屍人が鎌を手にして部屋に入って来た。屍人はユーノに気付くと、不気味な微笑みを浮かべながら鎌を振り上げて襲いかかってきた。
ユーノはすかさずその顔面に向かって猟銃を突きつけ、引き金を引いた。
再び大きな発砲音と共に弾が炸裂し、屍人の顔に大きな肉の花が咲いた。倒れる屍人を前に、ユーノは手にしている猟銃を見やる。
(質量兵器の使用は違法だけど、非常事態だし相手は不死身だから許されるよね、多分)
そう思いながら、リュックサックを下ろした。小箱から弾を二つ取り出して猟銃に装填し、また何個か弾を取り出すとそれをポケットに入れた。残りは小箱ごとリュックの中に放り込む。
弾も使い過ぎないよう、気を付けなくてはならない。
しかし思わぬところで強力な武器が手に入った。どうやら運はまだまだ自分を見捨ててはいないようだ。
「……さて、行くか」
呟いて猟銃を握り締めると、ユーノは集落脱出を目指して、足早に部屋から出て行った。
最終更新:2013年03月13日 01:17