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350 名前:桃と青空 1[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:26:20 ID:NzwmvZcV
夏目×多軌 投下します。
夏目の葛藤に気付かされた多軌が、体当たりでその解消に努める話。
薄味だけど一応エロあり。
非エロ部分が長いので、飛ばしたい方は9からどうぞ。

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「ごめんください。お見舞いに伺いました」
玄関の戸がからりと開いた音と、続いて聞こえてきた優しげな少女の声に、藤原塔子は急いで立ち

上がる。
出てみると思ったとおり、汗まみれの顔をつやつやと火照らせた少女が、ひんやり薄暗い玄関に立

っていた。
彼女は塔子の顔を見ると、それまで自分の頬を片手でひらひらと扇いでいたのを慌てて止め、手を

目一杯突き出して袋に入った桃を差し出す。
「あの、これどうぞ! とっても甘いんです!」
まるで真夏の青空のように溌剌とした少女の仕草に、塔子はつい破顔する。
「まあ、ありがとう。おいしそうね。でもこんなに気を使わないで。だって多軌さんの顔を見るだけでも、

貴志君は少し元気になるの」
「そうなんですか?」
パッと顔を輝かせて少女は身を乗り出す。
「ええ。だからどうぞ何も持たずに来てちょうだい……あら、よく冷えてるわねえ。すぐ剥いて持って行

くから、一緒にあがっていって、ね」
「いえ、そんな。私はけっこうです」
「そう? 残念だわ。一緒に食べる人がいると、貴志君も少し食欲が出るみたいなんだけど……」
「あの!」
喜んだり恐縮したりをころころ繰り返していた少女は息を止め、こくりと喉を鳴らした。
「えと。じゃ、あの……いただきます。すみません」
小さな声で、でもとても嬉しそうに言うと靴を脱ぎ、玄関をあがった。そのままいそいそと階段に進む。
が、二、三歩進んだところで慌てて戻り、丁寧に靴を揃え直した。そして今度ははっきりと小走りに

なって階段を駆け上がっていった。
やがて戸を開けて閉める音がした。
ねだるような猫の声も賑やかに聞こえた。

351 名前:桃と青空 2[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:32:39 ID:NzwmvZcV

話は日曜日に遡る。
その日、多軌はいつものように割れ鏡の妖事件の際に描いた陣を消して歩いていた。
もう随分前の事件だが、まだ後始末が終わっていなかった。なにしろあの時は必死で、できるだけ
多 く、と所構わず描いて歩いたのだ。場所をはっきり覚えていないこともある。それでも妖にとっても
人にとっても迷惑なものを、放置は出来ない。記憶を頼りに訪ねては一つ一つ消す地道な作業を、多
軌は根気よく続けていた。
しかしその日多軌が消しかけた陣の中に見たものは、彼女にとってどうにも見過ごせないものだっ
た。
『夏目君、あのね、ワンちゃんが……とびきりカワイイふっかふかの、ちっちゃいワンちゃんの妖が!』
目をウルウルさせた多軌がその妖について報告に来たとき、夏目は内心苦笑しながらその話を聞
いた。多軌はかわいいものに目が無い。特にふかふかと手触りの良い生き物が大好きなのだ。そう
いうかわいいものについて語るとき、普段は年齢の割に落ち着いて大人びて見える多軌が、途端に
年齢マイナス十歳くらいに見えるから面白い。
まるで童女のように目をきらきらと光らせ、身振り手振りを交えての報告が続く。
「こう、耳がピンと立っていて、尻尾がくるくるっとしているの。色は一匹は茶色と黒のぶち。一匹は白
と黒。一匹は全部茶色。一匹は白と茶……」
「ちょっと待て、一体何匹いたんだ」
それまで多軌を敬遠して箪笥の上に逃げていたニャンコ先生が、突然飛び降りて尋ねた。
「五匹よ」
「ごひき!」
夏目は驚いた。集団でいる妖というものはそう多くは無い。二匹とか三匹ならまだしも、五匹とは珍
しい。
「で、その犬どもが何かしたのか」
顔を顰めたニャンコ先生の問いに、今度は多軌が少し驚いたようだった。
「え? いいえ、別に……あ、でも」
小首を傾げ考え考え話す。
「した、というわけではないのだけれど。でもちょっとその辺りの妖たちには嫌がられているように思え
たわ。犬たちの後から追いかけてきた妖が、忌々しそうにぶつぶつ言っていたのが聞こえたの」
「ぶつぶつ?」
「ええ。なんでもその犬達は、だいぶ前にとても強い妖怪の子分になったらしいの。そのことをカサに
着て、悪戯が過ぎることがあるみたい。たいした力も無いくせに、虎の威を借る狐と同じ、なんて言わ
れていたから」
「やはりな」
「やはり、って。ニャンコ先生、心当たりがあるのか?」
「ああ。五匹の犬と聞いてピンと来た。夏目、そのワン公どもを子分にしたのは妖ではない。レイコだ」
「え」
「やつらは元々そう力のある妖怪ではなかった。その上ちょっと阿呆でな、あっちで毟られこっちで騙
され、ろくな目に会っては来なかった。が、レイコのやつが面白がって少々の間面倒を見てやったも
ので、すっかり懐いた犬どもは自ら友人帳に載せてくれ、と言い出したらしい」
「なんてことを。自分の命を握られるっていうのに」
「まあ、レイコの子分だと名乗れば、こいつに手を出すのはまずいかな、と一瞬相手も考える。そこで
逃げるなりなんなり出来るなら、小物にとっては利は少なくない……が、主が死んだとも知らずに悪
乗りしているのは愚かだな。そのうち痛い目に会うぞ」
夏目は顔を顰めると立ち上がった。
「多軌。悪いけど、その犬の妖のいたところに案内してくれないか」
「え? 今から?」
「うん。早い方が良い。何かあってからじゃ遅いんだ」
「わかったわ」

352 名前:桃と青空 3[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:34:41 ID:NzwmvZcV

『レイコ』とか『ユウジンチョウ』という言葉は夏目とニャンコ先生の会話にはしばしば登場するものだ。
『レイコ』とは夏目の祖母で、『ユウジンチョウ』はその祖母の遺品らしいのだが、詳しいことは多軌
は知らない。その話題を夏目はあまり好まない様子なので、それ以上のことを強いて尋ねることもし
なかった。
ほどなくして訪れた場所で、夏目は何かに聞き耳を立てるような真剣な眼差しになった。唇を噛み
締めじっと佇む。横顔が厳しい。いつ誰に対しても穏やかな態度を取る夏目だが、時折別人かと思う
ほどその表情は激しくなる。この前そんな彼を見たのはいつだったかしら、などとぼんやり思う。
風の音と木の葉、草の葉のざわめき。それ以外、多軌には何も聞こえない時間が過ぎていく。ニャ
ンコ先生は蝶を追ったりバッタを食べたり、至ってのん気に構えているものの、一緒になってはしゃぐ
のも不謹慎な気がする。
そうしてどれくらいたった頃か、夏目は顔を上げるとニャンコ先生を呼び、小声で指図した。
「先生。あの用水路の向こう。大きな榎が見えるだろう? こいつらの話によれば、あの榎の下藪に
巣があるらしい。そこまでオレが行っても良いけど、たぶん出てこないか逃げられるかするだろう。済
まないけど、ここまで追って来てくれ」
「なに? 私に牧羊犬の真似をしろというのか!」
「いや、牧羊犬だなんて。そんな賢くないだろう、先生は……なんだ、出来ないのか。なら出来ないっ
て素直に言えば良いのに」
「ふざけるな! 犬畜生ごときに遅れを取る私ではないは」
唸るなりパッと姿が消えて、多軌は目を丸くした。
いや、消えたのではなく常人の目には見えない姿に変化したのだ。それは理解している。こいつら、
と言ったのが、このあたりにいるであろう妖の声を聞いたものだということも、理解している。理解し
ているがやはり驚く。
と。
「多軌。済まない。先生に何か美味いものをやりたいんだ。ここからなら七辻屋が近い。あそこの薄皮
饅頭を五個ばかり買ってきてくれないか」
「七辻屋の薄皮饅頭、五個ね。了解」
それが自分を遠ざける口実なのだとは気がついたが、抗わずに立ち去った。
見られたくないんだ、とはっきり言えば自分が傷つく、と配慮してのことだとわかっている。誰かの
困難には躊躇無く手を差し伸べ、共に悩み考えてくれる癖に、自分のこととなると途端に他人を遠ざ
けて、関わらないでくれ、と線を引く。そういう人だ。夏目貴志という少年は。
その不器用な心遣いが、寂しくないといえば嘘になる。が、頑なな気持ちを敢えて抉じ開けてやろ
うと思えるほど、自分は彼を知っているわけでもない。知りたいという気持ちはあっても、そうすること
で傷つけてしまったらと思うと、やはり躊躇う。その点は彼と同じだ。気持ちがわかる―――
そう思って素直に従った。

353 名前:桃と青空 4[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:36:45 ID:NzwmvZcV

だが、戻ってきてみると大変なことが起きていた。
「どこへ行っていた」
険しい顔のニャンコ先生が、前肢の傷をべろべろと舐めながらじろりと睨む。その傍らでは……
「夏目君!」
夏目は固く目を瞑って倒れ伏し、声をかけても揺すってもぴくりとも動かなかった。見回すと酷い有
様だ。頬と腕には大きな噛み傷。服には無数の犬の足跡。靴も酷く噛まれたらしく穴が開いている。
「何があったの? まさか妖怪に殺さ……」
「阿呆。生きておるわ。ただ、あいつら思った以上に強くなっていてな。嫌がるのを押さえつけてなん
とか名は返したが、一度に五匹はさすがに無理があった。こいつは力を使い果たしてこの様だし、私
もすぐには動けん」
「私一人では運べないし……そうだ、藤原さんを呼んで来るわ。二人なら何とかできると思うから」
「それしかなかろうな」
「……待て」
立ち上がった多軌の足を掴んだのは、倒れたままの夏目だった。
「気がついた? 良かった。待ってて。今、藤原さんを呼んでくるから……」
「違う。だめだ。塔子さんは―――だめだ。絶対」
う、と呻き立ち上がる。支えようとする多軌の手は取らない。
「大丈夫だ……少し、眩暈がしただけだから……ゆっくり歩けば、このくらい……」
だが五歩も歩かぬうちに、躓いて転ぶ。立ち上がろうと必死にもがくが、手も足も思うようにはなら
ないらしい。
多軌は成す術も無くおろおろと、傍らに立つことしかできずにいる。
「はあ……まったく、阿呆でかなわんな」
大きく溜息をついたニャンコ先生だったが、ふと視線を落とし、多軌が落とした包みを見つけた。
「これは?」
「薄皮饅頭よ。夏目君がニャンコ先生にあげたいって言うから、ついさっき買って来たの」
「そんなものがあるなら早く言わぬか」
べろりと舌なめずりをした先生は包みを開けるとたちまち五個を平らげる。そして、これなら家までな
んとか、と呟くと、多軌に夏目の身体を少しだけ支えてくれと言った。
「帰るぞ、夏目」
言われたとおりにした多軌は、ふっとニャンコ先生の姿が消えると同時に、自分の膝が軽くなったこ
とに気がついた。夏目の身体は宙に浮き、そのままするすると滑るように移動する。
「後は私が良いようにしておく。心配はいらん。帰れ」
一陣の風とともにそんな声が聞こえたが、そのときにはもう、夏目の姿は遠くなっていた。

354 名前:桃と青空 5[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:38:49 ID:NzwmvZcV

翌日から、多軌の藤原家通いが始まった。今日で五日。一日も休まず通うのを、藤原夫妻は大層
歓迎してくれた。だが。
「気にしなくて良いのに」
部屋に入ると夏目は布団の中で困ったように顔を歪めた。
昨日辺りから漸く少し持ち直してきたが、まだ目の下には隈が濃く、顔色も青白くて生気が無い。
それなのに塔子が桃を運んでくると起き上がり、恐縮して受け取っている。
その様を眺めながら、多軌はここ数日で急に自覚するようになってきたある感情を噛み締め直す。
「でも……そういうわけにはいかないわ。いつもいつも、巻き込んでしまってばかりだし」
多軌はそう答えると、思い出したようにポケットから茹で卵を取り出し殻を剥く。はい、と差し出すと、
ニャンコ先生はむしゃむしゃと貪り食いながら言い出す。
「そうそう。今回も元はといえばお前が持ち込んだ話だ。まさか、妖が絡んだら何でも夏目に持ち込め
ば良いと思……ぐえっ!」
「先生は黙っていてくれ」
細い腕のどこにそんな力があるのか。横たわったまま拳一つで先生を黙らせた夏目は、慣れた様
子で自分の机の前に座った多軌に向かって言い募る。
「多軌。本当に良いんだ。今回のことは俺が悪いんだ。俺が深く考えず行動したからこうなっただけで、
多軌はただ、かわいい妖を見つけたから教えに来てくれただけじゃないか。何も悪くない。気にするな」
「……ありがとう。でも、夏目君のクラス、とても進みが早いもの。誰か手伝った方が良いでしょ?」
多軌は帰る素振りを見せない。そのまま夏目のノートを幾冊か選び出すと、持ってきた自分のノート
からその日に進んだ単元分を丁寧に書き写し始める。
クラスが違うと進み方ももちろん違うのだが、毎日二組がどこまで進んだか聞きに来るぜ、と昨日見
舞いに来てくれた西村と北本が、意味深な顔で言っていた。違うんだ、と否定しても訳知り顔の微笑
で返された。
まずい、と思った。
多軌は友人だ。数少ない『見える』ことを知る、そしてそれを奇異の目で見ない、かけがえのない友
人なのだ。恋人、などと誤解されては困る。大変に困る。自分が困るのではない。多軌が困る。
入学当初、無口で付き合いが悪い子だ、と敬遠されていたらしい多軌。いくらかわいいからってあ
の態度は無いでしょう、とあからさまに嫌う女子もいたそうだ。その原因になった祟りから漸く開放さ
れ、本来の明るくてお喋り好きの優しい女の子にやっと戻れた。仲良しもたくさん増え、女の子同志
連れ立って歩く姿を見かけるたびに、こちらまで嬉しい気持ちになった。
それなのに今更、自分のような薄気味の悪い人間が恋人だ、などと噂が立っては、多軌にとって良
かろうはずが無い。
夏目は努めて元気な声を出す。
「大丈夫。治ったら田沼から借りるよ」
「田沼君は一組じゃない」
「西村だって貸してくれるし」
「それでも……あ、桃、残してる。だめよ、食べないと」
振り返った多軌は先ほど塔子が運んできたきり、ほとんど手付かずのままにされている桃の皿を見
つけた。
枕元に座り、手に取る。
「はい、あーん」
「え」
「食べさせてあげる」
「ちょ……やめてくれ。自分で食べられる」
夏目は情けない顔で起き上がると半ば涙目で桃を食べた。
つるんとしていて冷たくて甘い。たぶん、美味いな、といって笑うところだ。でも何か、喉に引っかか
る気がして上手く飲み込めない。おいしい、と素直に言えない。
もそもそと桃を齧る自分をじっと見守る多軌の視線に、まっすぐ目を合わせることはとうとう出来なか
った。
そんな自分を眺めるもう一つの視線が部屋の隅からあることにも、気付くことはなかった。

355 名前:桃と青空 6[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:40:56 ID:NzwmvZcV

「タキ」
桃を食べる、たったそれだけの動作でも疲れたらしい夏目はすぐに横になり、そのままとろとろと眠
りに入った。
静かになった部屋でせっせとノートの写しを続ける多軌に、突然声をかけたのはニャンコ先生だった。
「お前、夢を覗いてみないか」
「夢?」
「そうだ。こいつの」
顎をしゃくった先には目を閉じて横たわる夏目がいる。
「こいつの今見ている夢がどんなものか、ちょっと覗いてみないか。面白いぞ」
「ふふ。そんなことけしかけたってバレたら、先生、また怒られるわよ」
微笑んで、冗談に受け流そうとした。
が、先生は、黒々とした丸い瞳で多軌の目の中を覗きこむ。じりっとにじり寄る姿に、多軌は気圧さ
れ少し仰け反る。
「かまわん」
「せんせ…い……?」
「怒られようとかまわんよ。それがこいつのためになるなら」
先生の声が、耳に水が入ったときのようなぼやけたものになった。
と、思ったときには多軌は暗くてぶよぶよとした空間に一人、立っていた。
(何? 何が起きたの? 先生?)
うろたえて仕切りと見回すが、何も見えず聞こえない。肌に当たる空気がゼリーのように淀んで、質
感があるのに重さの無い、なんとも言えない空間だ。
(先生! 気持ち悪いわ。出して。お願い、ここから出して!)
叫んだ声はそのまま暗闇ゼリーの中に融けていく。これは大変、ともう一度叫ぼうとしたそのときだ
った。
奇妙なものが見えて、聞こえた。
『嘘つき』
『嘘つきは泥棒の始まりなんだぜー』
『せんせー、夏目君がまた、変な嘘つきます』
『夏目君、何でそういう気味悪い嘘をつくの!』
『お友達を恐がらせるの、そんなに楽しい?』
小学生と思しき子どもたちと大人の影。そして彼らの作る輪の中に、一人佇む少年。
(あれ……夏目君?)
色素の薄い髪と血色の悪い顔、特徴的な瞳、痛々しいほど細い手足。間違いない。確かに夏目の
幼い頃の姿と思われる。
彼は唇を噛み締め拳を握り、自分を責める人々の真ん中に立っている。罵る言葉と謂れの無い中
傷と、異端のものを見る侮蔑の視線を絶え間なく浴びながら。その虚ろな面に浮かぶのは、諦めな
のか、悲しみなのか。
と、今度は反対側で声がした。
『頭おかしいんじゃない』
『どうしたの?』
『夏目がさ、一つ目の黒い服着た子どもがいるって言うんだ』
『天井に張り付いてこっち見てるって』
『ぷっ。馬鹿みたい。なんでそんな、すぐばれる嘘つくのかね』
『転校ばっかしてるって言うから、手っ取り早く人の気を惹きたいんでしょ』
『あー、いるいる、そういうタイプ。ありえないこと言えば誰か注目してくれる、みたいな』
『うざいよね。そういうのって』
今度は中学生くらいの少年少女。小学生たちよりもさらに酷い、人の心を抉るような言葉が飛び交
っている。
その中にあってやはり夏目は、唇を噛んでただ俯いていた。もう視線も見えない。長くなった前髪に
隠し誰にも表情を読ませなくなった彼は、ともすれば人形に見えてしまうほど、感情のない姿を晒し、
そこにただいる。
(これはなに? 夏目君の記憶? こんな……こんな酷いこと、ずっと言われてきたの?)
駆け出して飛び込んで、彼を心無い人々から遠ざけなくては。
そう思った多軌だったが、周りの空気はやけに重いままだ。身動きが取れず焦りばかり募る。

356 名前:桃と青空 7[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:43:01 ID:NzwmvZcV

ところが、そんな多軌の今度は真下で、もう一つの情景が展開し始める。
『そうそう、五組の多軌さん、二組の夏目君と付き合ってるんだって?』
ぎょっとして下を覗く。暗すぎて顔も姿も定かではないが、制服だけは間違いなく自分たちの通う高
校のものだとわかる。
『へえ。多軌さんてあの、かわいいけどちょっと付き合い悪い子?』
『付き合い悪いって言うか、お高くとまってるって言うか、ね』
『うん。話しかけてもろくに返事もしないし。ていうか、自分から話かけること、あるの?』
『たまにあるけど絶対名前で呼ばないんだよね、他人のこと。ねえ、とか、あなた、とか言うだけで』
『感じワル……そのくせ夏目君にはニコニコするんだ。へえ』
『するする。夏目君もまんざらでもないんじゃない。いつも一人で何にも無いところに向かってぶつぶ
つ言っているくせに、多軌さんに話しかけられたときだけはすごい笑顔で応えていたし』
『まー、良いんじゃない。変人同志、どうぞご勝手にってことで』
あはは、と嫌味たっぷりな声が尾を引いて消えていく。普段にこやかに接してくれている友人の誰
かなのだろう。その誰かが、影ではあんなことを……
ショックというより、胸の中を薄ら寒い風が吹き抜けていくような空しさを感じた。ずるずると、闇の中
で座り込む。
誰も、本当のことなど知りはしない。
彼に『見える』風景も、自分が『見てしまった』もののことも。それがために命を狙われる恐ろしさも、
だからこそ他人を巻き込むまいと必死になる気持ちも―――
ああ、と多軌は唇を噛んだ。
だからだ。何も知らない人たちから、無責任に向けられる悪意。その凶暴さを、自分は知らなかった。
けれど彼は知っていたのだ。踏みにじられ、苦しめられ続けた彼だからこそ気付けた。そして彼は、
その凶暴な渦に自分を……
「巻き込みたくなかったのね」
思わず口に出たその言葉と同時に、目が覚めた。
はっと身を起こすと、自分はまだ夏目の部屋にいた。彼の机の前に座り、ノートを広げたままうつ伏
して寝ていたらしい。ああ、いけない、と慌てて姿勢を正す。と、傍らのものに気がついた。
「ニャンコ先生……」
今の夢は、本当なの? と尋ねようとした多軌だったが、猫の表情を見て黙る。
「さあな。夢などというものは他愛も無いものだからな。どこまでが本当でどこからが妄想だか、そん
なことはわからんよ。誰にも。だがな」
ニャンコ先生はひらりと机に飛び乗ると、顔を多軌にぐいと近づけた。
「こいつはいつも、起きて欲しくないことばかりを夢に見ている。普通は起きて欲しいことを見るもんだ
ろう。そのあたり、救いようの無い阿呆だとは思うが、なんとかできるものならしてやりたいのさ」
「それって、どういう意味?」
「わからんか。お前がうろちょろしていると、夏目のやつ、気が休まらんのだ。自分ひとり疎まれるなら
慣れている。だがお前がセットで巻き込まれたらどうしようかと、気にしてもしようの無い心配ばかり
で……」
心配ばかりでどうなのか……続いたはずの先生の言葉を多軌は聞いていなかった。
話半ばで狂ったようにばたばたとノートを閉じまとめると、後ろも見ずに飛び出して行ったのだ。
と、と、と…と階段を足早に降りていく足音が消えてしばらくすると、夏目がゆっくりと寝返りを打った。
「なんだ。起きておったのか」
机から飛び降りたニャンコ先生は、よっこらしょと今度は夏目の顔を覗き込もうとした。だが。
「いや、寝ていた」
夏目は薄い夏布団に深く潜り込みながら言った。
「多軌の足音で目が覚めたんだ。良かった。帰ったんだな。良かった」
最後の、良かった、は鼻声だった。聞いたニャンコ先生の動作が止まった。少しの間があった。ほん
の数秒、誰も不思議とも思わないほどの短い間。
だがすぐに先生は、とことこと窓辺に行った。ガラス戸を開け、身を乗り出す。
「どこ行くんだ、先生」
「ん? 飲み会だ。八つ原で宴会があるんだ。行って来る」
ひょい、と出て行った窓を閉めるものはいない。夕方の風が舞い込み、多軌が一冊だけ閉じ忘れて
いったノートをぱらりと捲る。
西日が襖を朱に染めて、まもなく沈もうとしていた。

357 名前:桃と青空 8[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:45:29 ID:NzwmvZcV

翌日も残暑の厳しい日だった。
昼食の後、少し体調が良いように思った夏目は床に入らず机に向かい、好きな本を開いてみること
にした。なんとかふらふらせずに一時間ほど活字を追える。これなら月曜からは登校できるな、と思っ
たところに遠慮がちに声が掛かった。
「貴志君、ちょっと良い?」
するりと戸を開けて入ってきた塔子は、余所行きのブラウスにスカートといういでたちだ。
「どうしました?」
「あのね。町会長さんのお母様がついさっき亡くなったって連絡が来たの。今夜がお通夜で滋さんも
行くと思うのだけれど、喪服が少し傷んでいて。仕立屋さんに聞いたら、すぐ持ってきてもらえば間に
合わせますって言ってくれたから、ちょっと行ってきます」
「そうですか。ああ……俺が行けたら良かったですね」
暑い中を出掛ける塔子の苦労を思って言った。が。
「ふふ。そうね、一緒に行って成人式にはお世話になりますってご挨拶するのも良かったかしら。でも
今日はまだ、そんな身体じゃ無理でしょう。本当はお留守番頼むのも気の毒だけれど」
「大丈夫です。もう本当に良くなりましたから」
「無理しちゃダメよ? 貴志君、夏は特に弱いんだから……あ、そうそう。昨日いただいた桃。シロッ
プに漬けて冷やしてあるから、多軌さんが見えたら一緒に食べて」
「いや、あの、タキは……じゃない、多軌さんは今日は来ないんじゃないかと……」
「あら、そう? じゃ、貴志君、二人分食べてしまっていいわよ。私や滋さんの分は別にしてあるから、
気にしないで」
二人分はとても食えません、とは言えない夏目は、ありがとうございます、と言って笑った。
ほどなく塔子の日傘が遠ざかる。夏目は二階の窓から空を眺めながら、冷たい桃を少しずつ喉に送
る。と、先生が隣にちょこんと座った。
「夏目。大儀そうだな。その桃、食ってやろうか」
「あ? なんだ、先生も食べるのか。ニャンコの癖に」
「ニャンコではないと言っておろうが! つべこべ言わず寄越せ!」
「あーはいはい。じゃあ待ってろ。もうひとつあるから持ってくる……でもそれなら昨日言えば良かった
のに。俺、すごい苦労したんだぞ」
「ふん。お前が女にあーんをされる貴重な機会をみすみす潰すような真似ができるか」
「……むしろ潰して欲しい、そんな恥ずかしい機会は」
「だからだ。お前が恥ずかしいことほど私は楽しいからな」
「黙れ、豚猫」
などとにこやかに喧嘩しながら階下に降りる。台所に行き、冷蔵庫を開けた。
そのときだった。
「ごめんください」
玄関の戸がからりと開き、よく通る少女の声が響いた。
夏目は慌てて冷蔵庫を閉めた。尻尾を思い切り挟まれた先生がギャッと啼いたが、まったく聞こえ
ていない様子で夏目は玄関へ走っていった。

358 名前:桃と青空 9[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:48:21 ID:NzwmvZcV

「起きられたのね。良かった。少し顔色も良いみたい」
「ああ……ありがとう」
多軌は夏目の回復を我が事のように喜んだが、疲れるといけないわ、と敷いたままの布団に戻る
ように言った。学校での出来事もいつものようにあれこれと語り出す。
だが、そんな多軌とは対照的に、夏目の態度は落ち着きがなかった。
「あのさ……多軌。その……もう良いからさ」
「何が?」
「ノート。もう月曜からは行くよ。学校。だから本当にもういい」
「違うの」
「え?」
「今日はノートを写しに来たんじゃないの。夏目君に、言いたいことがあったから来たの」
「言いたいこと……」
多軌の口調の底に何かを感じ取り、夏目の顔に怯えが浮かんだ。だが多軌は止めない。どこか思
い詰めた顔で口を開いた。
「夏目君。ずるいわ」
夏目の呼吸が一瞬止まる。
「ずるいわ。前、私に言ったわよね。巻き込むとかそういうの、俺相手には悩まなくていいって。なの
に夏目君は悩むのね」
「いや、多軌。それは……だって、俺は……」
「自分は誰かを巻き込むのを嫌がるのに、誰かに巻き込まれるのはかまわないなんて、ずるい」
夏目は怪訝な目で見返す。何を言い出すのだ、多軌は。理解できない。戸惑いと不安が面を過ぎ
る。その顔に多軌は寄る。目の中を、心を覗きこむ。
「いつもいつも……どうしてそんなに自分の事を虐めるの? やめてよ、そんなの。もうやめて。もう虐
めないで。私の―――」
強い瞳が戸惑い揺れる眼差しを捕らえた。
「私の好きな人を、もうこれ以上、傷つけないで」

揺れていた視線が定まった。見返してくる表情には、こんなとき普通なら浮かぶであろう、はにかみ
や嬉しさは見られない。ただ渡された言葉の真意を量りかね、疑い、恐れる色があるだけ。
「ごめんね。驚かせて。でも知って欲しいの、どうしても。だから……」
肩に手をかけ、引き寄せる。まるで木の人形を抱き寄せるように軽くて感情の無い身体に、多軌の
胸が痛くなる。その痛みを噛み締めながら、目を閉じて息を止め、己が唇を彼のそれにそっと重ねた。
温みを感じて呼吸をすると、仄かに甘い、良い匂いがした。少しだけ舌を差し出し、味わうように舐
める。と、夏目は驚いたのか、びくりと震えて身体を離そうとした。
「だめ」
離すまいと腕に力を込める。
「だめよ。逃げないで」
身体を抱き込んだのとは違う手を、頭の後ろに添える。髪に指を通すと、汗の湿りで固まった感触
があった。多軌は繰り返し指で梳く。何度も繰り返すと徐々に乾いて軽く、サラサラと通りやすくなる。
さらに多軌は夏目の額に、瞼に、頬に、点々と口づけを残して行く。啄ばむように軽やかに。恐がる子
どもを宥めるように、何度も。何度も。
やがて強張っていた夏目の肩から少しずつ少しずつ、力が抜けはじめた。多軌の身体を押し返そう
としていた手も、次第に力を失い弱くなる。掌が離れ、指先も離れ、ついにはするりと滑って床に落ち
た。
すると多軌は夏目を抱いたまま、自ら布団の上に倒れこんだ。
胸を合わせ足を絡めて、全身で寄り添うように夏目に触れる。指先が頬から唇に、口づけの後をな
ぞるように下りていく。そのまま喉元から鎖骨の窪みに滑らせると、そこにも口づけようと胸元に顔を
埋めた。
髪が乱れ、耳朶が覗く。羞恥に火照った色は、この行為が多軌にとって気軽なものではないことを
教えていた。

359 名前:桃と青空 10[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 15:50:51 ID:NzwmvZcV

夏目はそれをぼんやりと見ていた。
多軌の手が、自分のパジャマの前をはだけてもぐりこんでくるのも、ただ眺めた。なぜこんなことを、
と問いたいが、あまりにも真剣な多軌にそれを問うのはかわいそうな気がした。やがて手は薄く浮い
た肋骨を辿り、背に伸びて上から下に。輪郭を覚えようとするかのように往復する。
夏目は目を閉じた。
こんな風に誰かに触れてもらえたのは何時だっただろう、と思った。
いつもいつも遠巻きにされ、線を引かれ、自分を抱き締めるのは自分だけの暮らしに慣れ切って、
そして此処に辿りついた。優しい人、暖かな場所。夢のような時間を与えられるようになって、最近時
々思うことがある。
近づく誰かを遠ざけるのは、巻き込んで傷つけるのが怖かったから。そう思って振り返りもしなかっ
たけれど、でも、本当にそうだったのか。逆ではなかったか、真実は。
傷つく人を見ることに自分自身が耐えられない、いたたまれないから―――
それが本当の理由だったのではないか。
ああ、多軌は、それに気がついたのか。だからこうやって、離れて伝える言葉ではなく、触れてはじ
めて感じることの出来る、身体の温みで教えようと……
そう思った瞬間声が出た。

「あたたかい」

多軌は手を止め、夏目を見上げた。
「タキって、暖かいんだな。知らなかった」
瞳が柔らかに光り、笑みの形に細められた。けれど目尻には少しだけ、涙が滲んでいる。拭かなく
ちゃ、と多軌は指を伸ばす。が、その指は、届く前に夏目の唇で止められた。
「夏目君?」
「ありがとう。でももう、いいよ。タキ。わかったから、もう」
そんなに思い詰めなるな……と、囁かれた気がしたが良くわからなかった。
抱き締められ口づけを返されて、自分のだか彼のだかわからない鼓動がうるさくて、何も聞こえな
かったのだ。
息があがり苦しくなる。苦しいよ、と言いたいのにそれもできない。だからただ、縋りついて頬を寄せ
る。掬い上げるように唇を重ねられ、夢中で舌を絡める。
細い指に髪を梳かれる。さらさらと呆気なく、何の抵抗もなく解けて行く。身体も同じ。額の生え際、
頬と瞼、耳朶に頤。唇が押し当てられるたび、力は抜け息だけが弾む。それだけではない。
「あ……」
気付かれた。恥ずかしさに顔が上げられない。
乳房の先端が固くなり、薄い下着とシャツ越しにもわかるようになってしまっている。どうしようか、と
夏目が止まる。多軌は自分の髪を梳いていた彼の手を取った。真っ赤に頬を染め、それでも導く。触
れて欲しいその場所に。
(ここの方が、もっと暖かいのよ?)
とても口に出せない誘い言葉を心の中で囁いた。
すると夏目はおずおずと、導かれた場所を撫で始めた。指先で膨らみの稜線を辿り、先端をくるりと
撫で、また下りていく。たどたどしく不器用な触れ方なのに、おかしなくらい身体は反応する。ぴくっと
震えるたびに彼も一緒にびくりとするのが、おかしいけれど嬉しくて。浮かれたような気分のままに、
多軌は自分でシャツのボタンを外してしまった。するりと袖を抜き、ブラのホックも外して、肩紐に指を
かけ滑り落とそうと力を込めた。
と、夏目の手が突然重ねられた。
なにかしら、と顔を上げると唇を奪われた。それまでとは違う、深く、強く、追い上げるようなキスだ。
肩紐は夏目の手が外した。

360 名前:桃と青空 11[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 16:00:31 ID:NzwmvZcV

露わになった乳房を、今度は指先ではなく掌が愛撫する。きゅっと絞るように掴まれては開放され、
尖ったところは揉み解すように捏ねられて。やがて身体中の血が沸くような感覚に酔って来る。心通
じた喜びと、もうひとつ秘密を共有できる嬉しさに、全身が小刻みに震えて止まらない。
夏目の手はそんな多軌の身体をくまなく触れていく。しなやかな背中、すべすべとした腹、お尻から
足へかけてのきれいな曲線、すらりと締まった足首から慎ましやかな足指まで。言葉ではなく触れる
皮膚から、心を伝えようとするかのように。
気付けば多軌の衣服は、一つも身に残っていなかった。
肩で息をする夏目の下で、素肌を晒し身体を開き、同じくらい荒い呼吸をただ繰り返す。言葉なんて
何も出てこない。恥ずかしさに腕で目隠しをして顔の半ばも隠してしまう。
もう、あと触れられていないところはひとつだけ。待たされて、焦らされて、熱を持って疼くそこは、酷
く敏感になっている。触られたら気がおかしくなるのではないか。いや、もうすでにおかしいのかもし
れない。彼の手が欲しくてたまらなくて、涙が零れるなんて……
「大丈夫か? 辛かったら、言ってくれよ?」
いつもと変わらない優しい声とともに、何か冷たいものがなかに挿し込まれた。
ひっ、と息がとまり、身が仰け反る。
「タキ?」
気遣う声がもどかしい。大丈夫なのに。ただ、感じてしまって耐えられないだけなのに。
「平気」
カラカラになった喉でやっとそれだけ言うと、腕を伸ばして首筋に絡めた。触れたい、もっと。強く、深
く。そう伝わるように抱き縋る。

361 名前:桃と青空 12[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 16:02:40 ID:NzwmvZcV

夏目はもう何も言わず、濡れてひくつく内部を探りはじめた。
他人の素肌に触れるのも記憶に無いほどなのに、指を入れるなんて当然初めてだ。傷つけるのが
恐くて、どうして良いかわからない。けれど多軌はもっと怖いはずだ。せめて負担が少しでも和らぐよ
うに、できることはしてやりたい。
恐る恐る辿ると先は結構深い。真っ直ぐではなく少し曲がっている。内壁は凸凹していて、時折不
規則にくにゅっと蠢いては指を咬むように締め付ける。そのたびに生温かくぬるつく体液が掌を濡らし、
滴り落ちる。湿った音が微かに響く。
「あっ……!」
突然多軌が声を上げた。一番深い辺りのこりっとしたところに触れた途端だ。びっくりして窺うと、と
ても不思議な表情をしていた。瞳の焦点が合っていない呆けたような蕩けた顔。恍惚と半開きになっ
た口元から覗いた舌が、ちろ、と唇を舐める。すごくかわいい。そしてどこか官能的だ。
もっとそんな顔をさせたくなり、夏目はもう一度同じ場所を探る。多軌は再び声を上げる。同時に身
体が魚のように跳ねる。浅い息がせつなげで苦しそうだ。けれどわかる。これは、この声は苦痛では
なく快楽を、押さえ切れなくて上げる声。もう一度。またもう一度。何度も同じことを繰り返す。そのた
びに、多軌は艶かしく身を捩じらせ声を上げる。気付けばいつのまにか外れた腕は、所在無げにシー
ツの上に放り出されていた。それでもその唇は、切れ切れに自分の名を呼び続ける。もっと近くに、と
呼んでいる―――
夏目は静かに身体から指を抜くと、とっくに勃ちあがっていた自分のもの掴んで宛がった。深呼吸し
て息を止め、空いている手で放り出された手を握った。そのまま腰を進める。やたらときつい感触の
後、ぬるっと入り込んだ感覚があった。と同時に、多軌が胸の下で小さく呻いた。
「タキ、辛いか?」
尋ねてもぎゅっと手を握り返され、首を振られた。
ぐっと押し付けるともう一度。今度は歯を食いしばり、眉間に皺まで寄せて。それでも多軌は握る手
を離さない。まるで、どんなことがあっても二度とこの手は離さない、と宣言するかのように。怖いの
は傷つくことでは無くて、この手を離してしまうこと――そんな多軌の心が繋がった身体から、熱と
ともに伝わる。
心蕩かすその熱は、次第に夏目を駆り立てる。自分の身体が欲するままに、少しずつ動き出す。押
し込むたびに多軌は呻き、抜くたびに身を捩る。かわいそうだと思ったが、もう止めなかった。尋ねな
かった。代わりに何度も彼女の名を呼び、呼び返される自分の名を聞いた。それだけで、たくさんのこ
とを問いかけて、ひたむきな答えを貰っている気がした。
果てしなく長く感じたその時間は、本当はあっという間だったのだろう。
多軌の中に果てたとき、一番奥まで届かせたのは身体なのか、心なのか。
夏目自身にもわからなかった。
けれど、なかなか整わない息のまま微かに笑った多軌の目尻に、涙の痕を見つけたとき、届いた
のはきっと心だ、と思った。
多軌はそのまま目を閉じた。
無邪気な少女の面影を取り戻したその唇に、夏目はもう一度だけ口づけた。

362 名前:桃と青空 13[sage] 投稿日:2009/03/08(日) 16:04:47 ID:NzwmvZcV

無心に眠る夏目を眺める。少し反省しながら眺める。
病後の彼に負担はかけまいと思ったが、緊張のせいかへとへとに疲れてしまい、ことが終わったと
きには全く動けなくなっていた。代わりに夏目が最低限の後始末をしてくれたのだが、彼の体力もそ
れまでだったらしく、直後に文字通り死んだように寝入ってしまった。
でも規則正しい呼吸は安らかだ。それを眺められることは幸せだ。
ゆっくりと起伏する胸に目をやる。そこについさっきまで齧りついて、あられもない声を上げていたこ
とを思い出す。カッと顔に血が上る。身体の奥がキリリと疼く。甘くてせつない、なんともいえない余韻
がこみ上げる。
振り払うように首を振った。
そっと布団を抜け出す。寝ている彼を起こさぬよう、少しずつ、少しずつ。途端にウッと唇を噛んだ。
身体のあちこちが軋むように痛くて辛い。けれど初めから覚悟していたこと、泣言は言いたくない。
と。
「そんなに気をつけなくても大丈夫だ」
不意にニャンコ先生の声がした。
「こいつにしては珍しいほど深く眠っている。今は夢すら見ていない。起こす気遣いはまず無かろうよ」
先生は、夏目を挟んで自分と反対側に座っていた。今来たのか。それとももっと前からいたのか。
見られていたなら恥ずかしい。けれどそれを訊くのはさらに恥ずかしい。多軌は頬を染め、黙々と身
支度する。そんな多軌に先生は言う。
「だが解せんな。お前、昨日は一度逃げたくせに、なぜこんなことを」
多軌は手を止め、射抜くような視線に対峙する。
「無理だったの」
「無理?」
「ええ。一度想って……好きになってしまったら、もう元になんて戻れない。無理なのよ」
先生の目がほんの少し、誰にも分からないほど少しだけ、見開かれる。
「昨日、先生に言われてすぐ思ったの。夏目君の負担になんかなりたくない。離れなくちゃ、忘れなきゃ、
って。でもね、それじゃ夏目君はまた一人になるのかしら。また一人だけ、悩んで苦しんで傷つくの
かしら。そんなの、夏目君は良くても私には無理。耐えられないって気がついて」
想いはいつの間にか心に根を張り、揺ぎ無いものになっていた。彼一人を寂しいところにおいておく
などとても耐えられない、それほどに。それなのに目先の心苦しさから自分はひとり、逃れようとした……
「確かに私は非力よ、先生。それどころか傍にいれば夏目君を巻き込んだり、あれこれ気を揉ませる
ことしかできない。でもそれでも傍にいたいって願うのは、いけないことじゃないと思って……夏目君
にも、そう思って欲しかったの」
先生は半眼になり、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん。勝手な。少しは殊勝になったのかと思ったが、とんでもなかったようだ」
「ふふ、ごめんなさい。でも……」
多軌はそっと夏目を振り返る。先生も振り返る。
「少なくとも夏目君が、起きて欲しくないことを夢に見るのは、止められたでしょ?」
「そんなもの、一時さ。すぐ元に戻る」
「だったらまた来るわ。何度でも。そして伝えるから。巻き込んで欲しい人が、一人はここに確実にい
るんだって」
「鬱陶しい。まったく、これだからガキは好かんのだ」
多軌は先生の悪態に晴れやかに笑うと、痛みを庇うようなぎこちない足取りで、ゆっくり部屋を出て
行った。
あとには熟睡する夏目と、退屈な先生が残る。
「ナツメ、桃。早く寄越さんか。こら」
呟いてみるがぴくりともしない。
飲みに行くにもまだ日は高い。夕暮れにならなければ八つ原も、誰もいないただの荒れ野だ。
「やれやれ、どいつもこいつも―――」
もう一度呟かれた先生の声は、けれど憂いではなく喜びを含んでいた。
それが自分でもわかるのか、先生は照れくさそうな顔で前肢を舐めるとごしごしと顔を洗い、そのま
ま布団の隅で丸くなった。
まもなく二つの寝息が重なる。
夏が穏やかに、過ぎて往く。


最終更新:2009年07月05日 04:19
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