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838 名前:名無しさん@ピンキー mailto:sage [2010/02/09(火) 15:47:55 ID:nt560JIO]
『強くつよく』

―その壱―

「どっちにしよう…」
夕暮時の喧騒の中、スーパーで手にしたメモを睨む。
目の前はピンクと茶色で飾られた期間限定特設コーナー。甘い空気を身に纏った女の子達がはしゃいでいる。
「……難問だわ」

「あら、多軌さん。こんにちは」
隣に立ったのは塔子さんだ。
「あ、こんにちは。お久しぶりです」
「クリスマスはありがとう、とっても楽しかったわ。あんなに賑やかなの、何年ぶりかだったのよ」
「私も楽しかったです」

夏目君の少し照れた表情や藤原夫妻と楽しげに話す姿を見られたし、塔子さんお手製のご馳走はとても美味しかった。
それに、と帰り道の『こと』を思い出して頬が熱くなる──私ったらまたこんなこと考えて!塔子さんに変に思われちゃうじゃない!
一人妄想で赤くなっていると、塔子さんが感慨深げに口を開く。
「貴志君も嬉しそうだったし」
もっと嬉しそうに笑う塔子さんは、本当に夏目君が大切でならないのだろう──私も同じです、塔子さん。
「またいらしてね」
「はい、ぜひ」

話ながら並んで歩く塔子さんのエコバックに葱と大根がのぞいている。今夜は鍋かなあ。
「(きっとニャンコ先生も一緒に鍋を食べるのね、ふふ)」
皆で食卓を囲んでいる姿を想像してちょっと和む。

「貴志君とはお出かけしたりしないの?」
塔子さんの突然の問いに私は一瞬固まった。
「え、あの…それはまだ…」
実は何度か誘おうとしているけれど、出かけた先で妖に遭ってしまったら夏目君が気にするだろうな、と未だ踏み切れずにいた。

「バレンタインデーは?あ、ごめんなさい。失礼よね」
「いえ、そんなこと。バレンタインは…チョコ、あげようと思っていて」
そう口にすると照れるのは、好きな男の子の『お母さん』に話している気分になるからだろうか。

「そうだわ!」
突然ぱん、と手を打った塔子さんは目を輝かせている。
「日曜日はお暇?」
「今週、ですか?はい」
「じゃあね、お願いがあるの」
お願い?何だろう。
座ってお話しましょうと腕をとられながら、夏目君はどんなチョコが好きなのかな、と思った。



839 名前:名無しさん@ピンキー mailto:sage [2010/02/09(火) 15:48:28 ID:nt560JIO]
―その弐―

夕食の後片付けをしていた塔子さんが振り向いて言った。
「そうそう、貴志君。多軌さんにお願いしちゃったの。日曜日に一緒にお洋服買いに行って来てね♪」
「……塔子さん、今何て言ったんですか」
「貴志君もおとしごろだし、もう少しおしゃれしなくちゃ」
「あの、塔子さんが買ってくれたのがたくさんありますから」
平日は制服だし、休日ぶんも足りている。ここに来る前を思えば贅沢な程だ。

──いや待て、そうじゃないぞ。
「…一緒にって言いましたか?」
「もちろん、多軌さんと一緒によ♪」
「え、あの、と、塔子さんっ?!」
多軌と──二人で買い物?!どうしてそんな話になっているんだ?!。

塔子さんは満面の笑みを浮かべて、こっそりついてっちゃおうかしら、などと危険な発言をしている。

「ち、ちょっと待って下さい!日曜日って……明後日?!」
「良かったな貴志。デートじゃないか」
今日は一緒に帰宅した滋さんも、新聞から顔をあげる。
「デ…デートって滋さんっ!」
──何だこの展開っ!
「本当は貴志が誘うものだぞ」
「そうねえ、余計なことしちゃったかしら。じゃあ次は貴志君の番ね」
──せめて、おれの意思を確認してください。

「あの……決定ですか?」
「ええ、決定よ♪」
滋さん塔子さんもすごく楽しげで──無理だ、おれには断れない。

タキに逢えるのは嬉しい。けれど、緊張してぎこちなくなるのは確実だ。前にもあったよな、こんなこと。
大丈夫かなおれ、と食卓に突っ伏した。



840 名前:名無しさん@ピンキー mailto:sage [2010/02/09(火) 15:50:53 ID:nt560JIO]
―その参―

日曜の午後。やわらかな日射しがもう近い春を教えてくれる。
「貴志君ー多軌さん来たわよー♪」
「はい」
弾んだ塔子さんの声に、静かな返事と階段を降りる足音がして夏目君が現れた。
「…こんにちは」
「……やあ」
お互いに気恥ずかしさでろくに挨拶も出来ずにいると、塔子さんに玄関前に並ばせられた。外にはにこやかな滋さん。
「お似合いの二人ね♪」
これから記念写真でも撮りそうな勢いで、塔子さん達は結婚式に招待された親戚みたいな感想だ。

「でも、何か足りないわ」
「手を繋いでないからじゃないか?」
『え?』
夏目君がピシッと凍りつく。私は反対に火が出そうです、滋さんっ!
「まあそうだわ♪さすが滋さん」
「(…ちょっと待ってっ)」
焦る私を余所に塔子さんによって私と夏目君の手が繋ぎ合わされた。
「(き、きゃああーっ!)」

これでよし、と背中を押されて門へ向かう。
「いってらっしゃい、気をつけてね♪」
満面の笑みで送り出された。


「いい見物だな、夏目」
いつからそこにいたのか、ニャンコ先生が塀の上でニヤニヤしながら夏目君を見下ろしていた。
「(か、可愛い…っ!でも落っこちないでね)」
一瞬恥ずかしさを忘れてハラハラしてしまう。
「さあ恥をさらしてこい」
先生が短い手をほれほれ、と振る。
「…そういう先生は何やってんだよ。また腰打つぞ」
「阿呆が。モヤシと違って学習するのだ、私は」
「くっ……殴ってやりたいのに手が届かない」

──ああ、殴るなんて駄目よ。こんなに可愛いのに!
「せっ、先生にもチョコがあるの!」
「…何?よし寄越せ」
『すた』とはいかず『どす』と『どさ』の中間くらいの音でニャンコ先生が飛び降りる。
「ブランデー入りよ」
「中々良いセレクトだ。夏目も見習え」
「イカ焼きのことを根に持つような酔いどれ中年ニャンコに、気遣いはいらないぞ、タキ」
「…ほう、勝負するか」
「…また豆投げるぞ」
じり、と睨み合う二人を止めに入る。
「チョコ溶けちゃうから、先生」
「……まあいい。タキに免じて許してやろう」
先生はふん、と鼻で笑って家の方へ戻っていく。背中に妙に馴染んでいるチョコの箱を載せて。



841 名前:名無しさん@ピンキー mailto:sage [2010/02/09(火) 15:52:52 ID:nt560JIO]
―その四―

「…緊張は少し解れたけれど」
先生のせいで、そう困った様に笑う夏目君の頬が斜め後ろから見ても赤い。
「(ちょっと、照れてくれてるのかな)」
それなら嬉しい。
「えーと、タキは手…このままで良いのか?」
そういえば……ずっと繋いだままだった!──でも、こんなチャンスを逃してたまるものですか!
「ええ、このままで良いの」
顔はずっと熱いし、緊張してるのなんてばればれだと思うけれど、平常心を装って微笑む。
まだ少し冷たい風が微かに花の香りを含んで、髪を揺らしていく。夏目君が眩しそうな顔をした。
「…どこかで、桃が咲いてるのね」
繋いだ手をしっかりと握り直す。
「さあ、行きましょう」
私は、訪れる春に負けない気持ちで笑った。


「(…そうは言ったけれど)」
やっぱり照れくさくて並んで歩くのが精一杯。
「(全然話せない…)」
しかもバレンタイン当日で休日、周りはカップルだらけとくればそれは倍増する。
でも、目的は果たさなくちゃ。

「ええと、夏目君はどんな服がいいの?」
「あまり知らないんだ…適当に案内してくれるか?」
「じゃあ…この辺から」
何度か見た私服から推測してお店を選んだ。

「えーと、これとかかな」
夏目君がシャツを手に取ろうとして止まる。
「どうしたの?」
「いや……この場合、手はどうするものなんだ?」
夏目君の左手と私の右手は繋がれたままだ。
「…とりあえず、離していいんじゃないかしら」
「ああ…」
す、と手を離しお互い僅かに外側に移動する。
店内に手を繋いだまま入ってしまった、その事実がまた面映ゆい。でも。
「(…ちょっと残念)」

夏目君がここだけで決めようとするので、何軒か連れ回す事にする。
「(手…私から繋いでみようかな)」
お店を出る夏目君は半歩だけ私より早い。小さく二歩踏み出して隣に並び、手のひらを合わせてそっと握る。「(うわ……やっぱり恥ずかしいっ!)」
でも、繋いでいたい。そう思って目をあげると。
驚いた夏目君の顔が、かああああっという効果音が聞こえそうなくらい一気に朱に染まった。
「え、タキ、あの」
口籠もって目を逸らす。
「(あ…夏目君、可愛い)」
私の中の恥ずかしさがくすぐったい様な嬉しい様な気分に変わった。
「せっかくだもの、ね」
にっこりと笑う私は、今すごく余裕に見えているかもしれない。



842 名前:名無しさん@ピンキー mailto:sage [2010/02/09(火) 15:54:17 ID:nt560JIO]
―その伍―

「(夏目君が見る服……やっぱり何だかチンピラっぽいわ)」
どの店に入っても、手に取る服がちょっと派手なのだ。総柄のシャツだったり、龍とか花とか存在感のある和柄だったり。
普段控え目な夏目君にしては意外な一面が微笑ましい。
「あ…」
隅には縮緬細工があった。「(この髪飾り、和風で素敵)」
だけど、今日は夏目君の買い物を塔子さんに頼まれたんだもの。選ぶお手伝いをしなくちゃ。
試しに広げて見たTシャツは渦巻きに蛸。隣は……招き猫。
「(もしかして流行ってるのかしら)」
「タキ……悪いがそれは着ないぞ」
じっくりと眺めていたのを気に入ったと勘違いされたかな。
「あ、ううん。…これとかどうかしら」
グレーに藍染の縦ラインが袖に入ったジップアップパーカは夏目君に似合いそうだ。
「袖の長さがよく分からないな…」
胸にあてて袖口を持つとずり落ちてしまうからだろう、夏目君が困った表情を浮かべる。
──今こそ、手伝うべきよね。
「あの、合わせようか?」「…じゃあ」
パーカを受け取って胸に合わせる為にほんの少し背伸びをすると手が肩に触れる。
目の前には夏目君の顔。長い睫毛に縁取られた色素の薄い瞳も、さらさらと柔らかな髪も。──何度もキスした唇も。
「(うわ…これ、恥ずかしい)」
手を繋ぐのもやっと慣れて来たのに、また頬が熱くなる。
夏目君が両袖を掴んで前に出すと、まるで抱きしめられるみたいな体勢になってしまった。
とくん。心臓が跳ねる。
「どう…かな」
とくん。正面の夏目君が軽く目を逸らしてくれていて良かった、見つめられたら息が止まりそう。
「似合うと、思うわ」
とくん。俯かないと喋れない。
「…タキがそう思うなら、これがいいな」
とくん。夏目君の声も微かに震えている。
──このまま、抱きしめて欲しい──そう思った。

「サイズいかがですかー?」
店員の声に我に返ってさっと離れる。
「…これください」
「かしこまりましたーお会計こちらですー」
ふう、とお互いにため息をついて。
「…ふふ」
何故だか、顔を見合せて笑った。

結局、私がすすめたパーカと、夏目君が選んだ左肩から裾に向かって桜の花が散ったシャツを買った。
「(…今度どこかに誘ったら、着てきてくれるかなあ)」
想像したら嬉しくなって顔がほころぶ。
お店に入る度に離していた手も、いつの間にか繋いだままになった。
当たり前過ぎるくらい当たり前なのかもしれないけれど、嬉しい。
「(夏目君も、そうだといいなあ)」



843 名前:名無しさん@ピンキー mailto:sage [2010/02/09(火) 15:55:08 ID:nt560JIO]
―その禄―

「あれ?」
夏目君が突然立ち止まった。
「どうかした?」
隣に並ぶと僅かに目線を上げる程度の身長差で、その目が少し先に固定されていた。
「いや、知り合いに似てるなと……やっぱり緒方だ」
そこには、緩くふわふわと揺れる長い髪の──女の子だ。その子の唇が『やあ』と動いて軽く手を上げる。

「中学の時、藤原さんの所に来る…何軒前かな、同じクラスだった」
「用があるみたいよ」
「え…でも」
「行ってきて。私そこに座って待ってるね」
たったそれだけの言葉なのに胸がどきどきする。
くるりと回れ右をして少し離れたベンチに座った。
女の子に向かって歩いていく夏目君の背中と、たった今まで繋いでいた手を見送る。
「(このまま、どこかに行ってしまう訳じゃないのに)」
何だろうこの気持ち。胸の奥がそわそわしてざわざわして落ち着かない。
女の子がこっちを見た。軽く会釈する。
手のひらが汗ばみ、いつの間にか俯いていたことに気づく。
これ以上、夏目君が他の女の子と話しているのを見たくない。
「(私…やきもち妬いてるんだ)」
その感情は嫉妬と言える程濃くは無く、独占欲と言うには曖昧だけれど。
私。
ほんの少し思わぬ方に離れただけで息が詰まる程に切ない。
戻ってきて、ここに。

「…ごめん」
小走りで戻って来た夏目君が謝った。でも、何だか嬉しそうでまた少し胸が痛くなる。
駄目、笑わなくちゃ。
この気持ちは知られたくないもの。
「ううん。お話、できた?」
「ああ」
「買い物もしたし、そろそろ帰りましょう。きっと塔子さん待ってるわ」
笑顔を作る──お願い、気づかないで。
「そうだな」
夏目君が微笑んだ。



844 名前:名無しさん@ピンキー mailto:sage [2010/02/09(火) 15:58:48 ID:nt560JIO]
―その七―

夕暮れの街を少し外れて藤原家へ向かう道を辿る。
手は繋いだまま、それが少し、苦しい。
さわさわと木の葉ずれが聞こえる。道端の大きな木は今も葉を残し、その足元に影を作っていた。通り過ぎるとすう、と周囲が陰る。
はっとした。

──このままなんて帰れない。
「(自分で…決着をつけなくちゃ)」
足を止めて深呼吸する。
「どうした?タキ」
「夏目君。これ、貰ってくれる?」
答えを待たずに、バッグから取り出した箱の包装を破き、パッケージを開けてチョコを二つ摘み出す。残りは箱ごとコートのポケットに突っ込んだ。

一つは夏目君の口に、もう一つは私の口に。

そしてそのまま。
夏目君の腰に腕を回し、僅かに背伸びをして。
キスをした。
それは私から私への宣戦布告。

唇を隙間から舌でこじ開ける様にして、口の中で溶け、唾液と混ざってとろりと滑らかになったチョコを押し込む。
息をする時を与えずに夏目君の口の中からもう一つを探り出し、舌で自分の口へ戻す。
息苦しくて頭がくらくらする。夏目君の匂いとチョコの匂いで私の中はいっぱいになる。胸がどくどくと早鐘を打つ。

「ん…っ」
夏目君が声にならない声をあげるけれど、駄目よ。まだ離さないの。
その行為を何度も繰り返し、二つのチョコが完全に溶けて無くなって。
お互いの舌がゆっくりと絡んだ。
「…ふ」
やっと唇を離す。
「…はっ」
口の端に残ったチョコもゆっくりと舐めとると、夏目君が息をついた。



845 名前:名無しさん@ピンキー mailto:sage [2010/02/09(火) 16:04:05 ID:nt560JIO]
―その八―

腕をそっと外してそのままタキの手を握る。
向かい合って両手を繋いだ状態になると、長い睫毛が瞳に淡い陰を落としていた。

「もしかして…緒方?」
タキが僅かに俯く。
「不安にさせた?」
繋いだ両手の指を絡め、そっと頬を耳たぶに寄せて囁く。
「…やきもち、なの」
小さな呟きにそうか、と答えて続ける。
「さっき、緒方に言われたんだけど」
握ったタキの手にほんの少し力が入る。
「おれをちゃんと見てくれるひとが見つかったかって。……いるよって答えたんだ」
お互いの睫毛が重なる程の距離に顔を近づける。
「タキ、君だよ」
「…知ってる」
何かを決意したようにタキの瞳は煌めく。
「夏目君の気持ちは全部知ってるわ。大丈夫」
続く小さな呟きは負けないから、と聞こえた。

タキの頬を髪を、蜜柑色の夕日が綺麗に染める。
黒い艶やかな瞳も今は黄金色を宿す。
その美しい君に。
もう一度、そっとキスをした。

二人並んで夕焼けに向かって歩く。キスで火照った頬を冷えた風が心地よく撫でていった。
さわさわと野原を渡るのも、葉が落ちて近づく芽吹きの時を待つ梢を揺らすのも同じ風。
「(…綺麗、だな…)」
隣でタキが眩しそうに目を細めている。手のひらにはあたたかいタキの手。
ただ、それだけのことが幸せな時間。
数時間前まであんなに照れていたのに、もう今は手を離したくない。

「…塔子さんに料理教えて貰おうかしら」
タキが空いている手を口元にあてる、その仕草が少し幼く見えて愛らしい。
「どうして?」
「…本当はね、チョコを手作りする筈だったの。でもお店で悩んでいる時に塔子さんに会って」
ふう、とため息。
「緊張してそれどころじゃなくなってしまって、気づいたら今日なんだもの」
あーあ、そう拗ねる顔が大人びていてどきり、とする。
「塔子さんなら、夏目君の好きな食べ物とかを全部知っていて、きっと夏目君の好きな味はみんな塔子さんの手料理なんだわ」
「ライバルがたくさんで大変なのかもしれない、私。……塔子さんと勝負する気なんてないけれど」
そのわざとに見える表情に、思わず笑いたくなった。
「…さっき、家を出る時」
きょとんとした顔でタキがこちらを向く。
「タキが先生にチョコあげただろう?」
「…ええ」
「あの時……ずるいって思ったんだ。おれが先に貰いたかったって。…やきもち、だよなあ」
タキが元々大きな目を更に大きくした。
「タキの一番も最初も初めても全部も最後もおれにしたいんだ。……知らなかっただろう?」
既に桜色になっていたタキの頬がより一層濃く染まった。
──抱きしめて離したくなくなるじゃないか。
そんなに可愛いなんて卑怯だぞ、透。



846 名前:名無しさん@ピンキー mailto:sage [2010/02/09(火) 16:05:08 ID:nt560JIO]
―その仇―

「…春になったら」
「え?」
言おうとした言葉を飲み込む。おれだって負けないからな。
「いや……やっぱり何でもない」


「ただいま」
手を繋いだまま夏目君は言った。
「おかえりなさい」
塔子さんが笑顔で出迎えてくれる。
ちょっと首をかしげたあと、あらあらと子どもに話すみたいな声になった。
「貴志君、口の回りに何かついてますよ。ふふ、子どもみたいね」
私も夏目君も同時にはっ、と顔が紅潮する。
『(さっきの……キスだっ!)』
「いえ、これは…」
夏目君が焦って口元を袖でごしごし擦る。
「(ごめんね、夏目君っ!)」
ちゃんと舐めなくて、なんて今は絶対に謝れないわ!私もそっと唇を指先で拭う。

「さあさあ多軌さん、上がって上がって♪」
うふふ、と背中を押す塔子さんも、家の中で仕様がないなあ、と笑っている滋さんも。
「(全部見透かされてたり…して)」
もしそうだったらどうしよう、と思った。

食卓にはお茶の準備がしてある。湯呑みが四つ。ニャンコ先生はいないらしい。

「どうだった?楽しかったでしょう♪滋さんと二人でね、色々お話してたのよ」
また笑う塔子さんの姿が可愛らしい。
「多軌さんがね、いつかこの家に来てくれたらなあって」
「塔子、それはいくらなんでも早過ぎるぞ」
「滋さんだって、いいなって言ったじゃない!」
恋人同士みたいに言い合う二人が幸せそうで見惚れてしまう。
いいなあ、こんな風になりたい。
そう思ってお茶を一口飲むと、隣から夏目君の声が聞こえた。

「タキ、これ受け取ってくれるかい?」
差し出されたのは、縮緬細工の桜の花の髪飾り。
「え…これ」
もしかして、さっきのお店!
「春になったら、二人で海を見に行こう」
「えっ」
「……手を繋いで。ちゃんとおれから誘うから」

私は驚きの余り声が出ない。鼓動が遠くて自分のものじゃないみたい。
夏目君の瞳が微かに揺れて、はにかむ様な微笑みになった。

塔子さんがまあ、と笑う。
「素敵ね。いってらっしゃい」

最後の最後で、夏目君に負けちゃったみたい。
悔しかったから、とびっきりの笑顔で言った。
「夏目君、大好きよ」


強くつよく刻むわ。
貴方と私に。
最終更新:2010年03月01日 13:13
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