82 :1:2010/03/18(木) 00:36:16 ID:Q/W3PM7+
『声を聞かせて』
「来ないわね」
「来ないかも」
「来ないのよ」
午後一時から三回言った。
間もなく、五時。これでも会富はこらえたのだ。
もう人気のない『植物園特設展・世界の花たち』の会場入り口横の長椅子で、隣に座っている女の子の為に。
「来ないわ。行きましょう、国府」
立ち上がったジャケットの裾が遠慮がちに掴まれる。
「ごめんなさい、会富。私、もう少し待っていたいの」
前髪を揺らして国府がちょっとだけ笑う。
(こんな顔させたら許さないって言ったのに、何してるのよ。辛島)
「辛島君が来た時に、誰もいなかったらきっと困るわ」
会富は心の中で、辛島をグーで思いっ切り殴った。
国府が辛いなら、手を握って走って帰りたい。
なのに、国府は笑って辛島を待つのだ。
「…バイト」
「え?」
「急病人でも出て辛島が代わりに行ってるのよ、きっと。国府の気が済むまでつきあうわ」
「会富…もう、大好き」
「じゃあギュウッてして」
ふわりと温かい腕が肩に回る。──国府。私は他の誰よりも、あなたに幸せになって欲しい。
「…飲みもの、買ってくるわ。何がいい?」
「ええと、ミルクティー」
気分を変えようと会富は立ち上がった。少し冷えてきたからホットにしよう、そう決めて管理棟へ足を向けた。
83 :2:2010/03/18(木) 00:36:55 ID:Q/W3PM7+
「…ありがとう、会富」
国府は優しい友達の背を見送って小さく呟いた。
一緒に待ってくれている会富に申し訳ないが、辛島はたぶん来られない。
(きっと…呼び出しね)
数える程の待ち合わせに0班の仕事以外で遅れた事は無いのだ。
もし一時間待って辛島が来なければ国府は帰宅し、連絡を待つと二人で決めていた。
でも今日は事情が違う。
会富に聞かされたことが胸に凝って離れない。辛島が自分を避けた理由。
その時は恥ずかしさだけだった。けれど家に帰って一人になって愕然とした。
ただでさえ言葉を選ぶ辛島に、自分の存在は負担を重ねるだけではないのか。
我慢しないでと会富は言う。
逆だわ、と国府は思う。
辛島が飲み込む言葉の数を増やし、我慢させて追い込んだのは自分──その考えはループし出口には辿り着かない。
(自分が情けない…)
知りたいと、傍にいたいと言ったのは国府だ。なにものにも負けないとも。
ならば出口がなくたって結論は一つだ。弱気になってどうする。だから会えるまで待つ。
「会って、言わなくちゃ」
ぐっと目をつぶったその時、ザザッと背後の植え込みが音を立てた。
84 :3:2010/03/18(木) 00:37:33 ID:Q/W3PM7+
「うわ、会富!」
自販機に小銭を落とし込もうとしていた会富は驚きに目を見開いたのち、半眼で裏側から登場した辛島を睨んだ。
「…辛島。何でそんな場所にいるのよ。待ち合わせは向こう…」
「悪い、とりあえずここを出……国府さんは?!」
「だから待ち合わせは特設展の入り口だってば」
「まさか…一人?」
「辛島がここにいるなら一人ね」
思いっきり込められた嫌味に返している余裕も躊躇う暇もなかった。
「ヤバい!会富!」鼻をつまんだ。「一緒に来てくれ。国府さんが危ない」
有無を言わさず手首を掴む。
「は?何言って」
もう答えずに会富を連れて辛島は駆け出した。
(…国府さん)
思いだけが先走り、自分の足すらもどかしい。
斜め後ろで転びそうに走りながら会富が何か言っている。
──もし国府さんが。
最悪の想像に口が渇いてうまく息が出来ない。訓練の半分も走っていないのに心臓がうるさい。
もう、すぐそこが案内板で確認した特設展の入り口。
辛島は目の端に長椅子を捉えると、たったひとりの姿を探した。
(国府さん!)
心の中で叫んだ。
85 :4:2010/03/18(木) 00:38:42 ID:Q/W3PM7+
「その子を離せ」
長椅子横の植え込みをかきわけて出て来た川口が、国府の後ろを睨んだ。
髪を掴まれ、引きずるようにされた国府は声が出ない。
──恐い。
「…狐はどこだ」
「さてね。その子が関係ないのは確かだが」
(辛島君を狙ってるんだ)
国府は、身体中の血が全部爪先から流れ出ていく気がした。何とかして逃れなくちゃ足手まといになる、でもどうしたら。
「…痛っ」
ぐいっとまた髪が引かれて顎が上がる。
「関係ないかは狐に決めてもらうさ」
(私…辛島君)
国府は、肩にかけたバッグを握った。
「会富はここに」
「何で…国府が捕まってるの」
看板の陰から辛島が把握した状況は、向かって左手、会場の閉じた入り口近くに国府と男。対峙して僅かにこちらに背を向けた川口。
(この距離なら大丈夫だ、一言で済む。いつもと同じように)
なのに。
さっきから心拍数は上がりっ放しで手が震える。もしかしなくても、これは──恐いんだ。
「…国府さん」
──ああそうか、僕は君を。
「わかったんでしょう」
会富がとても小さく呟いた。任せるから必ず助けなさいよ、続いたその声は震えていた。
「耳に手を」
それだけ言って辛島は踏み出した。世界中でいちばん大切な国府の元へ。
86 :5:2010/03/18(木) 00:39:37 ID:Q/W3PM7+
とんっ、と。
軽やかに白いものが川口の隣に立つ。
「辛島君!」
「狐…か!?」
「辛島くっ…」
国府は息が止まる。──辛島君だ。来てくれた。
辛島は息を飲む。国府は背後の男に髪を掴まれていた。───お前。
血が沸騰すると反対に頭は一気に冷えた。辛島は足を止めて息を吸い込む。
男が腕を振り上げた。
川口が耳に手をあて踏み切った。
国府が一瞬顎を下げ、両耳を押さえてそのまま、思い切り後ろに振り戻した。
すべてが同時。
「国府さんから…『離れろーーーっっ!』」
それはおそらく辛島の記憶する中で、今まででいちばんの大声。
カラン、と不吉な音を立てて何かが落ちたと同時に、顎を押さえた男が後退りして硬直した。辛島は地面を数歩蹴って男の耳に言葉を吹き込む。
『おやすみ』
ゆっくりと悪夢でも見て来い、そう思いながら。
「まさか頭突きをするとは…」
「ご、ごめんなさい…」
「国府さん…無茶しないでくれ」
「で、この悪人顔は誰なの国府」
「きゃーっっ会富っ!」
国府の隣で会話を眺めていた会富の、皮肉たっぷりの物言いに国府が目を回した。苦笑した川口が説明を引き受ける。
「私は川口と言って、これでも警察だよ。二人とは…ちょっとした知り合いでね」
「……まあいいわ。で、辛島。ここにいるってことはバイトは終わったのよね?」
「え…っとまだ…」
「辛島君。バイト先には話しておくから一緒にいてあげなさい」
どうやら状況を悟ったらしい川口が代わって答えた。隣の辛島にだけ聞こえるように囁く。
「…自分から離れてはいけないよ」
「…はい」
じゃあまた、と携帯を取出し男を軽々と担いだ川口が去ると、薄闇が降りて輪郭がぼんやりとし始めた園内には三人が残された。
87 :6:2010/03/18(木) 00:40:51 ID:Q/W3PM7+
「…国府さん、会富も。遅くなってご…痛ぇ!」
「きゃーーっ!会富やめて!」
謝罪の言葉は、会富にグーで殴られ遮られた。
「礼は言わないわ。…30分あるわね。行ってらっしゃい」
じゃあね、とひらひらと手を振る。国府が戸惑う。
「え、会富」
「私は文具店で見積書と請求書と領収書買って帰るわ。辛島、礼を差し引いても高いわよ」
「…ありがとう」
「大事にしなさいよ…私からとったんだから」
会富は出口に向かう。
さっき辛島は国府を助けだしたあと、なりふり構わず抱きしめた。国府が目を回して大声で叫ぶまで抱きしめたままだった。
(気づくのが遅いのよ、もや島)
会富は心の中で毒づく。
いつ失うかわからない大切なものから、自分から離れるなんて会富には馬鹿げたことにしか思えない。
会えなくなってから後悔したって遅いのだ。なら、傷つけたって傷ついたって、歯をくいしばって涙を落として、それで繰り返し後悔して。
(離れなければいいんだわ)
会富は空を見上げた。まだ星は出ていなかった。
「…どうか幸せに」
──国府。仕方ないから辛島も。
88 :7:2010/03/18(木) 00:42:37 ID:Q/W3PM7+
「…行こうか」
辛島は国府に手を差し出す。おずおずと伸ばされた手が指先に触れて、辛島はしっかりと繋いだ。
植物のほかに呼吸するのは辛島と国府だけ。室内だから風は無いと思うのに、さやさやと木の葉ずれが聞こえる。
「…暗くなってしまった」
辛島が国府を見る。
「夜も綺麗ね」
国府が微笑んで答えた。
「…今日はごめん」
「ううん。辛島君と会えたから」
「…会富にお礼しなくちゃな」
「そうね。何がいいかなあ」
ふふ、と口元を綻ばせた。
「会富ね、辛島君は来ないって言うの。そのくせ、急病人の代わりに辛島君がバイトしてるんだって」
「…いい娘だね」
「とっても」
「会富から…聞いた?」
「…うん」
一息遅れた答えはそのまま国府の感情を表す。
室内灯で照らされた頬が紅潮していた。
辛島は立ち止まった。
「国府さんにしたいことがある」
「え」
「いろんなこと。僕は君が好きだ。離れてから後悔するのはごめんだ」
やっとわかった、辛島は続ける。
「一度手に入れてしまったら…離れられないんだ」
国府の手をぐっと引いて、よろけた彼女をきつく抱きしめた。
「え…か、からしま、くん」
国府が動揺し、腕をすり抜けようとするが辛島は離さない。可憐な花のような香りの髪に顔を埋めた。
辛島の胸に密着した国府の胸は、言葉の意味を理解してとくんと鳴る。
顔が熱い。
たった一度だけの、初めてのキスを思い出した。
89 :8:2010/03/18(木) 00:44:05 ID:Q/W3PM7+
「どうすれば、いいんだろう」
慎重に選ばれていた言葉が途切れた。続く言葉を探すのか、続かないのか。
少し待って国府は口を開いた。胸がどきどきする。
「私ね…辛島君が好き」
「うん」
「会富に聞いてから、私が辛島君の負担になってるのかもと思ってた」
「…それは違うよ」
国府は微笑んだ。
「私もわかったの」
──離れたくない、それだけしかいらない。
「だからね……してみて」
「えっ」
伏せられていた辛島の顔が動いた。耳朶にかかる息が少し乱れた。
「してみて困ったら…やり直せばいいと思うの」
「…うん」
「時間はあるわ。私は、離れないもの」
辛島が顔を上げた。抱きあっているせいで瞳に映るお互いが見えるほどに近い。
「…そうだね」
「そうよ」
国府は爪先立ちで、少し高い位置にある辛島の唇にキスをした。勇気を出しても、ただ重ねるしか出来なかったけれど。
「キスして欲しい時は頬に触れて。抱きしめて欲しい時は腕を広げて」
もっとしたい時は。そう言って国府は辛島の腕を解き、右手首をそっと掴んだ。
制服の上から自分の胸に置く。そこから鼓動が伝わるように。辛島が目に見えて動揺した。
「国府さ…」
「言葉を…飲み込むのではなくて、触れて伝えて」
「…うん」
「それでも伝えたいと思う言葉は言って欲しいの。辛島君のきれいな声を聞かせて」
とても身勝手で無責任かもしれないけれど。
「うん」
そのままもう一度抱きしめられて、三回目のキスをした。少しだけ長い、まだ幼い唇だけのキスを。
90 :9:2010/03/18(木) 00:45:29 ID:Q/W3PM7+
帰り道、繋いだ手があたたかい。外は少し風が出ていた。
「髪、大丈夫?」
「え?」
「あいつに掴まれてたから」
そっと、国府の髪に触れてみる。柔らかい、さらさらとしたその手触りにどぎまぎした。
「うん、大丈夫」
「…国府さんは、本当にいいの?」
内心の動揺を隠して、辛島は何気ない風に訊ねた。もちろん、その意味はたったひとつ。
「…うん。だって、やってみなくちゃわからないわ」
「…やって…って国府さん、ごめん鼻血が出そうだ」
鼻を押さえた辛島が、国府から離れて横を向いた。手の隙間の頬は赤い。
「えっ…あの…きゃーーーっっ!違うのそういう意味じゃなくてっ」
自分の言葉を辛島がどう聞いたか、遅れて気づいた国府は叫んでしまった。必死で訂正しようにもどうしようもない。
その慌てぶりに、辛島がうひゃひゃひゃと下品な笑い方をして、それで。
「さっきの続き…楽しみにしてる」
きれいなきれいな声が、囁かれた耳元から、国府の中に広がった。
それは、赤い花が開くように。
最終更新:2010年03月20日 02:03