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2-205 「海へ」

205 :『海へ』1/6:2010/05/14(金) 12:16:53 ID:nmIE4Z1W
「夏目、屋台だ屋台!イカを買え!」
ぽてぽてと軽やかとは言い難い足音で、丸い姿が一足先を行く。
「きゃあ待って先生!」
抱っこしてあげるのにっ、とタキは悲鳴をあげて追いかけた。夏目が笑いながら後をのんびりと歩いていく。
「先生……食べ過ぎは消化に悪いんだぞ」
至福といった体でタキが買ったイカを齧る先生はまさにあれだ。
(中年……)
(中年だわ……)
同じ思いで顔を見合わせ苦笑い。
「砂浜、降りてみようよ」
さあ、と潮風がタキのキャスケットを浮かせ髪をなびかせた。それを慌てて押さえて、嬉しくてはしゃいでしまった声にタキははにかんだ。夏目が眩しそうに手を翳し空を仰ぐ。
「──ああ、そうだな」
先生に行って来るねと言い置いて階段を降りる。
春の淡い陽光を映した海はふわふわとした絨毯のようだ。海沿いの道にも砂浜にも、陽気に誘われた人々が色とりどりの模様めいて散らばる。
波打ち際まで続く乾いた砂が靴の下でさくさくと鳴った。嵐の名残の流木や海藻や正体不明のなにかが、そこかしこで砂に埋もれず存在を主張している。
春休み最初の土曜日、の約束は大荒れの天気のせいで一週遅れになってしまったけれど、かえってそれが幸いしたかのような晴天だ。
「晴れて良かったね」
「ほんとうだ」
いつかまた一緒にと言って、春になったらと約束をした海にこうして二人で来ることが出来た。何度も何度も確かめて、去年の冬より近づいた距離。
夏目の手がタキの左手に触れた。何も言わずにタキはその手を握り返して、そっと指を絡める。
会話の途切れた二人の間を海風が通った。嗅ぎ慣れない潮の匂いと波の音はどうしようもなくタキの胸の奥を騒つかせた。


206 :『海へ』2/6:2010/05/14(金) 12:17:38 ID:nmIE4Z1W
「うわっ」
「きゃあっ」
夏目が突然何かに躓いて前のめりに倒れた。絡めた指を離さなかったタキも引かれるように転んだ。とっさについた夏目の手のひらが赤く擦れている。
「夏目くん大丈夫?!」
「ああ、タキは大丈夫か?」
痛ぇ、と手と服の砂を払う視線がタキの爪先から夏目の足、砂の上と移動してため息になった。タキも目で追うが何もない。ああ、と思った。
「……悪い、汚れただろう?」
「波打ち際じゃないもの。ふふ、一緒に転んじゃった」えっ、と顔をあげた夏目に微笑んだ。今は、見えなくても辛くない。「何かいたの?」
「え、ああ──ちっさい妖がたくさんいて……そこを通ってしまったみたいだ」
「可愛かった?あ、ごめんなさい、つい」
「タキが気にしないでくれ」無神経過ぎたかと謝るタキに今度は夏目が笑った。「魚っぽいやつ。タキに可愛いかって聞かれると、返事に困るが」
「あ、それってひどい」
「はは、悪い。行こうか」
タキはからかう夏目からつんと顎を逸らしてその口元を綻ばせた。見えなかったけれど、話してくれるのが嬉しかった。


207 :『海へ』3/6:2010/05/14(金) 12:18:25 ID:nmIE4Z1W
もう一度砂を叩いて立ち上がろうとした体にまとわりついて、また白いものが舞った。(あ、さっきの)伸ばした夏目の指先をすり抜ける。
「夏目くん、どうしたの?」
「何か……蝶みたいなものが」
「蝶?どこに?」
タキには見えていない。そうだ、これは。くら、と微かに眩暈がした。
いつの間にか傍に来ていた先生がつまらなそうに欠伸をする。「名取だな」
「立たない方がいいよ」
声の方に振り向こうとして夏目はよろめいた。驚いてタキが支える。
「海のモノは慣れないときついんだ、夏目。猫ちゃんも久しぶり。相変わらず絡まれてるね」
「──悪かったですね」
やあ、と砂を踏んで現われたのはすらりとした人影。帽子も眼鏡も無い姿がいつになく洒落た雰囲気の、名取だ。
「おや、そちらのお嬢さんは?」
「多軌と言います。初めまして」
「これはご丁寧に、私は名取。夏目君の友人、だよ」
眼鏡の代わりに前髪を掻き上げ愛想良く微笑む名取こそ相変わらずだ。促されて防波堤に座りながら、夏目は呆れてため息をついた。隣でタキが不思議そうにしている。
「胡散臭さ全開だな、小僧」
「早々に随分とご挨拶だね、猫ちゃん?」
今にも火花を散らしそうな二人を夏目は止める。大人のくせに大人気ない。
「止せって先生。──ええと、どうしたんですか、こんなところで?」
「ロケに来ていたらイカを食べる丸い生物が見えてね。ちょうど君に用があったんだけど──お邪魔だったかな」名取がちらりと隣を見やる。視線の意味に気づいたかタキが先生を抱いて立ち上がった。
「私、飲み物買ってくるね。先生と一緒にいってもいい?」
ああ、と頷いてその背を見送りながら、夏目は友人帳と同様にタキや田沼のことも話していなかったのを、今更のように思い出した。

208 :『海へ』4/6:2010/05/14(金) 12:19:15 ID:nmIE4Z1W
「──もしかして彼女、かな」
「え、いや、そのう──はい」唐突な問いに俯いたのを、耳まで真っ赤だよと指摘され夏目は口を尖らせた。「からかわないでください」
「ごめんごめん、初々しくてつい。夏目も隅におけないね、羨ましい」
「名取さんだって」
「そうだ、用というのはね」名取がわざとらしく話題を変えた。
「『カイ』の居場所を特定した。──ああ、誤解しないで。会いに行くなら手を貸そう、と言いたかったんだ」
「カイの?!本当ですか?ただで?」
「君にはどうも信用がないなあ。でも今回は正解だよ夏目。交換条件だ──仕事の内容は請けてくれたら話す」
「え」
「了解なら来週、君の家に迎えに行くよ。八白岳まで送る。日帰りは無理だから旅費、宿泊費、必要経費はすべて名取家が持とう。請けてくれるね?」
「──名取さん」
「君を巻き込むのは避けたい。だが時間がないんだ、夏目」
名取の低い声が微かに冷たさを帯びた。夏目を見る鋭い瞳は、妖を見る目だと思った。
「危険、なんですか」
「彼女には──話したのかい?」
組んだ指の向こう側に口元を隠し、名取が話と視線を逸らした。風に髪が乱れて、その横顔の表情は読み取れない。頬から項へと痣の妖がしゅるしゅると降りていった。
「──知っています」
「へえ」すっと目が薄く眇められた。「ちょっと意外だ。でも──安心したよ」
「安心、ですか?」
「夏目は時々、妖に混じって帰ってこないような気がするからね。──大切かい?」
「はい。おれのせいで転んでも笑ってくれます」
「そうか、良かった」
「でも……いつか、傷つけてしまいそうで」
タキには見えないモノの恐さや不安は夏目の傍らに常にある。たった今の名取の依頼だってそうだ。それはこの先もおそらく変わらない。
迷惑だなんて思わない、そう言ってくれても巻き込むのは嫌で、傍にいたいと伝えることすら夏目は躊躇う。「───恐い、です」
「見えてしまうのは誰のせいでもないよ。何が最善かなんて私も分からない。大切だ。巻き込みたくない。守りたい。難しい言葉で難しいことだね」
「……はい」
「私も君も、隠すつもりが無いのに、言えないことが他人より多いのかもしれない。嘘をつかずにいられるひとなら──伝えてごらん」
名取がまた海を眺めて少しだけ笑ったのが、夏目には何故かさみしそうに見えた。
「──できるでしょうか」
笑っていてと、傷つかずにと、泣かずにと、幸せでと、それから──傍にいてほしいと。大切なひと達にそう伝えられれば、守れるだろうか。今度は間違うことなく。きらきらと光る波を名取と同じように見て、夏目は小さく息を吸った。
「君ならきっと大丈夫だ、夏目」
「はい──名取さん。仕事、手伝わせてください」
「そうか、助かるよ」
組んだ膝の上で頬杖をついた名取がこらえるように目を閉じた。手の甲には消せない痣がじっと佇んでいた。


209 :『海へ』5/6:2010/05/14(金) 12:20:06 ID:nmIE4Z1W
先生の代わりにペットボトルを抱えてタキが戻ると、夏目が倒れていた。
「夏目くん!」
慌てて駆け寄って抱き起こすが意識がない。肩から掛けたバッグを探ってミネラルウォーターでハンカチを濡らした。
「軟弱な奴だ──まあ、少し休めば目を覚ますだろうさ」
隣にちょこんと座った先生がタキを見上げる。名取は『慣れないときつい』と言っていた。たぶん転んだ時に妖にあてられた、ということだろう。
あの時は嬉しかったのに、その思いは波が引くように急に小さくなっていく。
傍にいなかったことが悔しくてタキは唇を噛んだ。名取は仕事中の様子だったのだ。夏目が一人になることも、気分が悪くなることも予想出来たはずなのに、名取に気を遣って離れてしまったから。
「──お前のせいじゃないだろうが」
タキの心を読んだみたいに先生が閉じていた目を片方だけ開いた。慰めてくれるの、とタキはその頭を撫でた。右手で膝の上に寝かせた夏目の額のハンカチを直す。
「ええ、でも──離れてしまったのは私だわ。こんな時くらい、役に立ちたいのに」
「こいつは黙っていれば迷惑にならんと思っているからな──阿呆なんだ、阿呆」
「夏目くん、先生には話すの?」
「面倒ごとばかりさ」
「──そう」
タキは黙って海を眺めた。空の色も海の色も、少し淡くなり始めていた。いつの間にか夕暮れが近い。
何か出来るような気になっていたのがもどかしい。きっとこれから何度も思い知らされるのだ。役立たずな自分を───見えないことを。
先生が本当にお前達は面倒だな、と呟いてぽす、と砂浜に飛び降りた。
「どこに行くの、先生」
「暇だな、散歩してくる。──タキ。知りたければ聞かんとわからんぞ」目を瞠るタキに背を向けて先生は歩いて行く。「相手が夏目じゃ尚更だ。先は長い」
「──うん」
遠ざかる後ろ姿にタキは小さく頷いて、前を向いた。

210 :『海へ』6/6:2010/05/14(金) 12:21:00 ID:nmIE4Z1W
夏目が身動ぎする。「夏目くん」覗き込むようにしてそっと名前を呼んだ。「大丈夫?」
「……おれ」
「倒れてたの。もう少し休んだほうがいいわ」
「ああ、でも」
起き上がろうとした夏目の額からハンカチが落ちた。長い睫毛の陰の瞳は、いつもと違って霞がかったようにぼんやりとしている。夏目の手がする、と膝の外側を撫でてタキはきゃ、と悲鳴をあげた。
「ごっ、ごめん!」
「きゃあ、急に動いちゃ駄目よ!」
起き上がろうとした夏目を覆い被さるようにして押さえた。胸が当っている気がするが恥ずかしがってはいられない。観念したか、もがいていた夏目がおとなしくなった。
体を離すと目を閉じている。顔色は海を映したみたいにまだ少し青ざめていた。
「……悪い」
「気にしないで」
(いいのに)気を遣わせたことを詫びる夏目に、目を閉じていては見えないだろうけれど、タキは微笑む。(夏目くんだから、いいのになあ)
「ほんとうに、ごめん。いつも」
「ううん」タキはかぶりを振って夏目に聞こえないように呟いた。「どうしたら、いいのかなあ」
「え?」
夏目が閉じていた目を開いた。暮れかけた水色と淡い橙色がその瞳を彩って、真ん中にはタキが映っていた。
潮騒が聞こえる。波が寄せて引くたびに少しずつ今日が攫われていく。切ないような、嬉しいような、待ち遠しいような気持ちは何故だろう。
(私──夏目くんが好きだな。離れたくないな。一緒にいたいなあ)
嬉しくても悲しくても楽しくてもさみしくても痛くても辛くても、ただ。(あなたの傍に)
「───私ね、夏目くん。普通の恋人になりたいとは思わないの。ただ、手を繋いでいたいの」だからね、そう続ける瞳にはきっと夏目が映っている。「楽しかったよ」
タキは夏目の髪をそっと撫でた。何度も何度も。
その指に夏目が手を伸ばし触れた。タキはそれを引き寄せて夕日で火照った頬に当てると、少し低い夏目の体温がしみ込んでいく。
やっぱりタキはあたたかいな、そう夏目の唇が動いた。
「カイに逢いに行こう」
「えっ……」
「名取さんが教えてくれた。一緒に行ってくれるか、タキ」
「うん──行こう」
タキは、ふわりと蕾が解れるように微笑んだ。
「俯いてたら気づけなかった。おれは、タキに笑っていてほしい──今みたいに」にっこりと、タキが出会った時みたいに夏目が笑った。
「タキの傍にいたいよ。ずっと」
項に滑らせた手でタキは抱き寄せられ、そっと唇が重なった。


傍にいたいひとがいるから。
だからきっと、
明日は切なくて嬉しくて待ち遠しいのだ。
二人を隔てるものは、今、ここに。
何一つない。
最終更新:2010年07月25日 22:22
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