- 229 :『また、ひとつ』1/6:2010/05/15(土)
22:25:23 ID:n6FJMkvk
木漏れ日が眩しい五月。
教室の窓は開け放たれて、爽やかな風がカーテンを揺らす。生徒達がさざめく廊下を歩きながら、私は小さくため息をついた。
「お、多軌」
「田沼君」
二組の前で田沼君と鉢合わせた。その後ろで北本君が西村君を呼んでいる。目的はたぶん同じ。
「まーた休みか、あいつ」
「一昨日なんか来たなと思ったらずーーーっと寝てたぜ。居眠りの記録更新だ、ありゃ」
窓に寄りかかった北本君が呆れたような困ったような顔で首を捻る。西村君が頭の後ろで腕を組んだ。
僅かに仰向いて見上げた空は青が濃くなって、夏の近さを知らせている。横一列に並んだ冬服の背中が、注ぐ日差しで暑いほどだ。
「何か言ってたか?」
「伝言とかはなかったの?」
「なーんにも。田沼も多軌さんも心配してるぞって言ったんだけどなー」
田沼君と私の似たような問いかけに西村君はあーあ、と大きなため息を返す。
「何やってんだろなー、夏目は。おれ達だけならまだしも、多軌さんにまでこんな心配かけてさあ」
「まったくだ。なんというか、罪作りだよな」
うんうん、と頷き合う二人をよそに私と田沼君は目配せをする。
夏目くんはたぶん、また妖に関わっているのだ。少しずつ頼ってくれるようになってきた矢先に、何も言わず欠席が続いて7日目だ。西村君と北本君だってさすがにおかしいと思うだろう。
今週分のノートとプリント類を西村君から受け取って、私と田沼君は藤原家を訪ねることにした。
- 230 :『また、ひとつ』2/6:2010/05/15(土)
22:26:13 ID:n6FJMkvk
- 「田沼君は、初めて?」
「ああ、多軌はよく来るんだろ?」
まるでどこかのカフェとかの話みたいだけれど、藤原家のことだ。意外にも夏目くんは田沼君を招いたことがなかったらしい。私だって数える程度だけれど。
「おれにも、藤原さんにもいつまでも気を遣ってるんだよな。夏目は」
「そうね、ほんとうに」
本当にな、独り言のように田沼君は呟いた。
こんにちは、と玄関で訪いを告げると、はーい、と軽やかな声で引き戸が開かれた。
割烹着の前で手を拭きながら、塔子さんがにっこりと相好を崩した。
「まあ、多軌さん!いらっしゃい。あら、そちらは?」
「田沼です。貴志君には仲良くしてもらっています」
「あらあらそう!嬉しいわ。でもごめんなさいね、貴志君、出かけているの」
「そうですか……あの、じゃあ元気なんですね、夏目くん」
「──ええ、そうね。元気、元気よきっと」
塔子さんが頬に手をあてて俯いた。普段と変わらぬ──と思っていた──優しい笑顔が翳って、心なしか顔が青い。受け取ったノートをぎゅっ、と胸に押しつけてから口を開いた。
「あのね、多軌さん。田沼君。貴志君ね──家にはいないの」
「えっ」
「どうかしたんですか?」
「四月の──終わり頃ね、お友達の家に泊まるって言ってそれから帰ってないのよ。電話は毎日あるの。ちゃんとご飯は食べました、学校でこんなことがあった、すみませんもう少ししたら帰ります──って。やっぱり、多軌さん達も聞いていないのね」
驚いた。連休明けから休みだったんじゃなくて、連休中もいなかったのか。なら、半月近く藤原家には戻っていないことになる。
「友達って、名前とかは」
「知ってるかしら。名取さんって礼儀正しい……」
「えっ」
知っている。カイを探してくれた名取さんなら───妖を祓うひとだ。
夏目くんは私達に言えない何かをしていて、藤原さんから離れたんだ。ということは、それはおそらく。
───危険なんだ。
だから話さない。名取さんを知らない田沼君が訝しげにこっちを見たから、後で話すわとうわの空で答えた。
「ね、良かったらあがっていって頂戴。なんだか家の中が……さみしくて」
考え込む私に、塔子さんが頼りなく笑った。
- 231 :『また、ひとつ』3/6:2010/05/15(土)
22:27:02 ID:n6FJMkvk
- お茶をいただいて少し塔子さんと話をして、私は夏目くんの部屋にいる。塔子さんは私に留守番とノートを託して買い物に出かけた。
田沼君は、「夏目にまだ誘われていないから」と挨拶だけで帰った。そんなちょっと頑固なところは夏目くんと似ている。
「貴志君のお部屋にね、入れないの」
本当は毎日お掃除しておきたいんだけれど、と食卓で湯呑みを抱えるようにしながら塔子さんは眉を寄せて呟いた。夏目くんがいない部屋はさみしくて、不安になるのだそうだ。
窓際にぽつんと先生の座布団が置いてある。机の上には綺麗に揃えられたルーズリーフ。それでも時々は掃除に入るのだろう、埃なんかは見えない。でも、それだけ。ぎゅう、と箒の柄を強く握る塔子さんの姿が浮かんだ。
何年も不在が続いているみたいに、部屋の持ち主の気配が希薄なのだ。だからきっと、こんなにさみしい。
「──夏目くん」
さみしいよ。そう声に出さずに零した。ねえ知っている?塔子さんも、西村君と北本君、田沼君も私も、夏目くんがいないとさみしいんだよ。
一緒に涙も零れそうになって慌てて人差し指で拭った。ふと息をはいたら、背中でからりと窓が開く音がして、私は振り向いた。
夏目くんが窓の桟を乗り越えるところだった。
- 232 :『また、ひとつ』4/6:2010/05/15(土)
22:27:53 ID:n6FJMkvk
- 「夏目くん!」
「うわっタキ!」
驚いて叫んだ夏目くんが、はっと口を押さえたせいでバランスを崩した。とっさに駆け寄って腕を思い切り引いたその勢いで、折り重なるように部屋の中に転がり込んだ。
その後から軽やかに畳に降り立った先生が伸びをする。「何をやっとるんだ、ドン臭い奴め」
「いっ、てぇ……何でタキがいるんだ」
額を押さえる夏目くんにしっかりと抱きつく。事情を聞くまでは離さないんだから!
「何でもいいからそこに正座!逃げないでね!」
机の前の畳を指差す。素直に座った夏目くんは叱られた子どもみたいに項垂れた。私は手足をばたつかせるニャンコ先生を抱いて向かい合う。
促されて夏目くんはぽつぽつと話した。本当に名取さんのところにいること。名取家は隣の榊市にあること。荷物やノートを取りに何度か忍び込んでいたこと。どうしても藤原さん達には逢えないこと。
そして───妖に関わっていること。
「こいつは本当に阿呆だろう、タキ」
黙って聞いていた先生が大きくため息をついた。優しいんだと思うわ、そう言って耳の間を撫でてあげる。
「塔子さん、さみしいって言ってたよ。西村君達も心配してる」
「──分かってる」
「私や田沼君じゃ力にはなれないのね」
「──ごめん」
ううん、と首を振る。分かっていたけれど少しだけ胸が痛んだ。でも、私まで沈んだ顔をしていてはだめだ。
辛そうだった塔子さんのぶんも私は笑った。夏目くんが安心して帰ってこられるように。
窓の外ですっかり青葉になった桜が風に枝を揺らしている。いつの間にかもう初夏だよ、夏目くん。
「気をつけてね。はい、ノート。いつも通り西村君から。結構進んでるみたいよ」
「ああ──有り難う」
「ね、夏目くん」
「ん?何だ?」
「風が気持ちいいから、今度みんなで屋上でお弁当食べよう。田沼君も、西村君も北本君も、笹田さんも誘って」
夏目くんが話さないと決めたことなら聞かないわ。でも、必ずここに帰ってきて。「待ってるから、ね」
ああ、そう微笑んで夏目くんは私の頭を撫でてくれた。妖の祟りから救い上げてくれたあの時みたいに。
それから、軽く触れるだけのキスを残して夏目くんは出ていった。
- 233 :『また、ひとつ』5/6:2010/05/15(土)
22:29:31 ID:n6FJMkvk
- 翌日の土曜日は私の誕生日だった。
夏目くんのことで頭がいっぱいですっかり忘れていた私を、母の手料理とケーキとプレゼントで家族はあたたかく祝ってくれた。それはとても嬉しくて幸せな出来事で、やっぱり思い出したのは───夏目くんのことだった。
晩ご飯が済んでから、着替えた私はこっそり家を抜け出す。
外は月が明るい。昼間の暖かさが嘘みたいに夜の空気はひんやりと静かだ。手に持っていたパーカを羽織ると、ちらちらと瞬く星を数えながら、足は自然とあの場所へ向かう。
以前、一晩中陣を描き歩いた草原には当たり前だけれど誰もいない。ここで夏目くんに出逢って、それは私の世界が変わった瞬間だった。
立ち止まった私はしゃがんで拾い上げた短い木の枝で、小さな陣を地面に描いた。
「これが無くても見えれば、ね」
役に立てるのかしら。こうやって昨日からずっと夏目くんのことばかり考えている。
夏目くん、今日も塔子さんに電話した?叱られた?授業が進んでてびっくりしたでしょう?ご飯は何を食べたの?危ない目にあってない?元気?笑っている?帰って来たら全部聞かせてくれる?
夏目くん、私、ひとつ年を重ねたの。夏目くんに初めて逢った時から季節が巡ったわ。今は不安だけれど、恐いけれど、さみしいけれど、大好きなの、逢いたいの。話したいことがたくさんあるの。
「──夏目くん」
「──タキ」
あり得ない声に顔をあげたら、草をかきわけるようにして夏目くんが立っていた。
- 234 :『また、ひとつ』6/6:2010/05/15(土)
22:30:34 ID:n6FJMkvk
- さらさらと夜風が木々を渡る。瑞々しい新緑は冬場みたいに乾いた音じゃない。言葉が出ない私の前で、夏目くんの髪がふわりと揺れた。
「どう──したの」
「歩いてたら人影が見えて。何だか──タキのような気がしたんだ」
「……藤原さんのところに帰るの?」
「いや──タキの家に行くところだった」
「私の家?」
ああ、と夏目くんが頷いて少し躊躇った。月に照らされた影が落ちる足元を見て、風に揺れる草を見て、それから私を見た。
「あの──ごめん。今日、タキの誕生日だったんだな」
「え」
「ノートに、西村と北本から伝言が。一枚に一文字ずつマジックで書いてあったんだ」
「何て書いてあったのか──聞いてもいい?」
「その……『五月十五日は多軌さんの誕生日だぞ!おめでとうくらい言いに行け夏目のばかやろー』」
「……行くと言って聞かんのだ、こいつは。付き合わされる私の身にもなれ」
がさがさと草の間から先生が現れた。うるさいな、と夏目くんは照れたようにまた俯く。それから小さく深呼吸をして手が届く距離まで近づいた。
「──誕生日おめでとう、タキ。何もなくてごめんな。ええと、これ」
どこで摘んできたのか、小さな鈴蘭が夏目くんの手に握られている。そっと受け取ると微かに澄んだ香り。
嬉しくて嬉しくて、笑えなかった。
私はそっと抱き寄せられて、有り難う、は零れた涙でうまく声にならなかった。
「おめでとう、タキ」夏目くんはそう繰り返して、「遅くなってごめん」とまた謝った。
それから、濡れた頬と唇を舐めて軽く舌を絡めて、少しだけ長いキスをしてくれた。
「少し時間がかかるけど、帰って来るからお祝いしよう。待っててくれ、タキ」
「有り難う、夏目くん。でもお祝いはいいよ」
えっ、と不思議そうな夏目くんに今度はちゃんと笑って。
「夏目くんは来てくれたもの。これで──充分」
大好きなひとが、誕生日おめでとうって言ってくれるより嬉しいことなんてないの。
だからね、有り難う夏目くん。
憶えていたいことがまた、ひとつ。
こうして季節を重ねよう。
最終更新:2010年10月29日 18:05