49 :小笠 ◆q0WnNvkpLQ :2006/08/28(月) 17:13:10 ID:gPsf5SVo
「七夕」
或る日の夕暮れのことである。
その日の龍宮真名は久方振りに、仕事仲間と目す桜咲刹那と学校からの帰路に就いていた。
このところ日照の時間は日を追うごと延び、夕食近い時間となった今もまだ太陽の赤が景色をオレンジに似た色に染めていた。
マフラーを換えた背の低い車が残響音を土産に通り過ぎていった。
麻帆良学園大、自動車部のものであろう。
なんでもない退屈な、しかし平穏な一日、中学生らしいといえばその通りの一日だった。
あと少し歩けば寮という距離に、夏服となった制服の肩を並べて黙々と二人歩いていた。
別段、どちらから一緒に帰ろうと誘い合わせた訳では無い。
親友、というほど馴れ合う関係でも無い。
だが声も掛けずに素通りするほど、互いに知らない仲でも無い。
一緒に帰ることになったのは只の偶然と言うに他ならなかった。
が、どこか龍宮は居心地が好い様な、悪い様な、ある種の緊張に似た感情を持て余していた。
緊張、というのもまた完全に的確な表現とは異なる。
赤の他人が横に近づいた時に感じる緊張とは、似て非なるものであった。
少なくとも以前の刹那を前にして、抱くことの無かった感情である。
横を歩く刹那はまだ口を開くことが無い。
「………」
早足の刹那がいつに無くゆっくりと歩いている。
龍宮はちらりと横の背の小さい刹那を見やった。
身長の差で、見下ろすような格好になる。
刹那は少し俯き加減に歩いていた。
しかし、それは悲しみに暮れているようなものではなく、太陽の加減か、頬をほんのり赤く染めた、見方によっては微笑を浮かべているようにも見える、美しい仕草だった。
刹那もまた日増しにまた女らしくなっているようだった。
世間という光と風を知って開花していく蕾のように、彼女もまた、花開こうとしていた。
勿論そうなっていく仲間、知人を見て悪い気がしている筈も無い。
寧ろ人間的に成長していく仲間を喜ばしいこととして受け止めていくべきだった。
女の色気、まさにそういえるものを、刹那は無意識的に発していた。
それは恐らく彼女、刹那が大事にしてやまないお嬢様、との関係にあることは龍宮のみならず、誰の目にも明らかだった。
女子校という場で、手を繋いだり、じゃれあったりするのが格別珍しい訳ではない。
しかし、彼女らは、友愛以上の、肉体的なものにまで達しているに相違無いのは公然のことであった。
そのことを問い詰めるクラスメイトもいた。
そうすると決まって二人は頬を赤らめて、やんわりと微笑みながら、信憑性の無い否定を繰り返すのだった。
「…ところで、だ」
沈黙を破ったのは龍宮からだった。
発した言葉は自らも気づいたら口から出ていた、そういう類の発言だった。
沈黙に耐え切れなくなった、といえばその通りでもあった。
そしてどこか苛立っても、いた。
「……?」
刹那が龍宮に振り返った。
精確には、見上げた。
目線に殺気はまるで無い。
エヴァンジェリンは以前の刹那を抜き身の刀に例えたらしい。
よく出来た比喩であったと思う。
が、今、横にいる、まさに乙女の目線からは色使いにも似た愛らしさが、本人の無意識下で発せられていた。
「お嬢様とはうまくやっているのか?」
龍宮自身、我ながら間が抜けた質問だと思った。
といっても特別話題があって話しかけたのでもなければ、他に聞くことも無かった。
同時に、何故か歯痒い思いをしていたこともまた事実だった。
「……!?いや、うん、まあ…な」
瑞々しい頬をより一層上気させながら、刹那が答える。
これもまた以前は見せたことのない顔だった。
日を追うごと、乙女が綺麗になっていく。
子供の細身から、柔らかな肉付きがだんだんとついてきているのも、見て取れた。
生地の薄い夏服が去年まで無かった刹那の胸の膨らみを現していた。
艶やかに紅を主張する唇。
成長、といえばそれまででもあったが、ただ日時の経過だけでは説明のつかない急激な変化であった。
既に幼い頃に男を知った龍宮には、刹那の変化を敏感に感じ取ることが出来ていた。
女が女の肌を知る、ということは龍宮の預かり知らぬ領域だったとしても。
「…そうか。いや、それなら善い」
「…なんだ、それは」
唐突に切り出した会話を、自ら放り出した龍宮が可笑しくて、刹那は少し笑みを漏らした。
「…あ」
それから碌な会話も無く寮へと着いた頃、玄関に短冊が飾ってあったのを見つけた。
「そうか、今日は七夕か…」
龍宮は一言呟いて、短冊につけられた数々の願い事に目を通していった。
年頃らしい、『彼氏が出来ますように』といったものに混じって、一つ目を引くものがあった。
「…せっちゃんといつまでも仲良しでいられますように。近衛木乃香」
龍宮に朗々と読み上げられたのがなんとも気恥ずかしかったのか、刹那は赤面し、あらぬ方向へ視線を泳がせた。
「大事に想われてるな」
皮肉めいた自身の言を刹那がどう受け取ったのは、龍宮には瞬時にはわからなかった。
だが、一寸の逡巡の後、龍宮に視線を戻した刹那の面に、晴々とした決意と覚悟の念を受け取った。
「ああ。…この先も。何時までも」
黒い瞳に揺るがない決意を感じながら、彼女が戦いに身を置きながらも、年頃らしさを取り戻していることを悟った。
のみならず、今まで自身を経験豊富と自負していた矜持が、音も無く消失していた。
彼女は龍宮と同じ世界に身を置きながら、全く違うものになろうとしていた。
刹那は先に寮の部屋へと戻っていった。
その後姿を見送りながら、龍宮はまた、自身もまた彼女と同じ年齢であったことを今更ながらに思い出していた。
溜息をついた。
が、沈んだ心持では全く無かった。
おろか、爽快さにも似た生命力を、刹那から貰えた気さえしていた。
ただその時の龍宮は、彼女の後姿をずっと見送っていたかったのであった。
日没の空に真白い月が出ていた。
(了)
最終更新:2012年01月31日 14:27