169 :「あの夜をもう一度」 ◆FePZUCQ9Q6 :2006/06/17(土) 23:43:41 ID:Bweolf0s
「……ウチ、なんで、こんな場所におるんやろ。確か、長瀬さんといっしょに……」
亜子は生まれたままの姿で、十字架に縛り付けられていた。
意識がはっきりしていない。何も分からない。
眠い。
極限の疲労が、身体を蝕んでいた。
薄く開いた目が、再び閉じかかる。
「眠らせないわ」
声が聞こえたので、目をもう少し開けてみる。
1人の少女が亜子の顔を覗き込んでいた。
誰か分からない。知らない顔だ。
「忌まわしい月の眷族め」
少女の顔が歪んだ。
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都市に逃げ込めば何とかなる。
きっと誰かが何とかしてくれる。
そう思っていたから、総本山崩壊後に都市部に逃げた。
しかし、それは甘かった。脅威は、悪夢は、どこまでもいつまでも、彼方から此方まで追いかけてきた。
テレビの画面には、夜によく見る顔が映る。
≪えー、この時間は予定を変更して報道特別番組をお送りしております。安全保障会議が招集されたことに関して、新しい情報
が入りました「京都の一部地域が何らかの武力攻撃を受けている」という声明が、たった今、政府から出されました。聞き間違い
ではありません。京都の一部地域が、今、武力による攻撃を受けています。情報が錯綜しておりますが、間もなく対策本部から
中継で会見が始まる予定です。近郊の方は手荷物を纏め、指示に従って速やかに行動してください。なお、電話が不通になって
いるという情報もあります。伝言などはご覧のアドレスを、あっ、今、新しい情報が入りました。政府は在日米軍に―――≫
テレビが灰色のノイズに変わる。
彼方に立ち昇る総本山の爆発煙。総本山爆発と同時に、この街には巨岩の雨が降り注いだ。
混乱の最中に都市に潜り込んできた「危険因子」に誰も気付くことはなく、それが致命的になった。
人が人を食らっていた。
逃げ惑う人々を食べているのも元は人だった。
彼らは人間を貪りながらみるみる増殖して、ついには警官隊の防衛線を圧倒し始め、ついに呑み込んでしまう。
彼らは銃にも倒れず、首に噛み付き、噴いた血を啜る。
その地区は完全に、壊滅状態になった。
「ハアアアアッ!」
刹那は握り締めた鉄パイプで、近づいてきた男を殴り倒した。
無意識に気を込めているのは、まさに戦闘方法を身体が覚えているということだが、記憶がないので本来の能力にはほど遠い。
渾身の一撃。しかし男は唸り声を上げて立ち上がる。
普通の人間なら脳漿が噴き出している一撃も、怪物と化した男には通じない。
濁った目で刹那を睨み、剥き出しの牙から涎を垂らして間合いを詰める。
吸血鬼―――誰もが知る恐るべき怪物は、人間に別の中身を詰めた肉食獣。
それが今、大量発生している。
刹那の背後の電話ボックスには、意識の無い木乃香がもたれている。彼女を守らなければならない。
失われた記憶に存在している彼女は、とても大切で愛しい人であると、守る術を叩き込まれた肉体が訴えかける。
「刹那姐さんっ! これ以上ここにいるのは無理だ! もっと人のいない場所に!」
木乃香の服の中に隠れている、カモの叫び声。横転した車が、燃える家屋が、逃げる人が、追う吸血鬼が、爆音が、銃声が、
悲鳴が、視界を奪う黒い煙が。何もかもが、もうここは駄目だと語りかけてくるようだった。
「ん、あれは―――」
闇夜の空に舞う踊る黒い影が、一直線に落下してくる。
「にゃあっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」
吸血鬼化アウトブレイクの引き金になった、「亜子の心中の椎名桜子」。
人々から手当たり次第に血を吸い続け、吸血鬼による騒乱を招いた元凶。
桜子は容赦なく、アーティファクトを刹那に向けて振り下ろしてきた。巨大なピコピコハンマー。破裂音に近い音と地面に伝わる
衝撃、そして、ワンテンポおいて始めるのは、都市の崩壊。
アスファルト舗装された道路が光に包まれ、それはそのままビルディングや家屋に浸透するように広がっていく。それが弾けた。
半径数百メートルの人工物が光に包まれ、砂と化して砕け散る。
対魔力耐性が強い材質の学園都市ならまだしも、普通の建築物などひとたまりも無い。桜子のアーティファクトの、「武装解除」
能力に侵食されて塵に変わっていく。彼女のいた場所は完全に破壊され尽くされており、無事なのは虫などの生物だけである。
それは人間の創ったものを全て塵と化すことができる、恐るべき能力だった。
「うぐうう……」
砂の中で、刹那は頭から血を流して倒れていた。
衝撃は何とか受け流せたものの、反動で頭部を強く打ってしまった。
「お、おい、テメエ……何をするつもりだよ!」
カモの声を聞いて覚醒した刹那は、頭を押さえながら起き上がり、桜子と木乃香の姿を探した。
しかし、その姿を見つけたとき、刹那は再び、頭に強い衝撃を受けた。
実際に殴られたわけではなかったが、殴られたように錯覚した。
「やっと、みつけた。私のご主人様♪」
桜子は騎士のように木乃香の肉体の前に跪きながら、その白い腕に鋭い牙を突き立てようとしていた。
まるで褒美を貰っているように、神妙に木乃香の腕を、ぺろぺろと舐めている。
桜子は笑っていた。そして歌っていた。
刹那は桜子の歌声を聴いたのは初めてだったが、澄んでよく通る声だった。
「貴女は太陽眩い光「私は道具の虫眼鏡「太陽映して虫眼鏡は熱く「紙を焦がし穴を「あけてやろうよ「もう誰にも閉じれないほ
ど大きく大きく「この前開けようとしたように「また楽しいことをしよう「もう一度始めよう「血と暴力のお祭りを「気に入らない奴食
べてしまえ「嬲り殺してしまえ「あの時のように「とっても楽しかった女子寮のように「でも私は亜子ちゃんから生まれた存在「空
っぽなんだ「女子寮の知識はあるけど記憶はないの「私が楽しんでいたのは知ってるけど「それを私は知らないの「だからもう
一度やってみようじゃない「壊れて壊れて壊れるまで―――」
桜子は刹那の方をちらりと見て、にやりと笑う。
「まずはあいつで遊んであげよう。壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れるまで」
「ああ」
刹那の頭の中で、何かが爆発した。
「あああっ!」
刹那の頭の中に、何かが流れ込んでくる。
「アーッ!」
近衛の姫とその護衛。
最強の従者。
女子寮。
千雨と楓。
亜子のこと。
その後。
全てを思い出した。
あの悪夢の全てを。
楓と千雨と3人で、全てが終わったらもう一度コーヒーを飲もうと語り合った、あの千雨の部屋での同盟を―――。
全ての始まりとなった女子寮の、あの事件を。
「ああああああああああああああああああああっ!」
刹那は絶望の声を上げた。記憶が戻ったとき、再び木乃香は吸血鬼にされようとしていた。
木乃香が吸血鬼化したことでどれだけの被害が出たことだろう。そして自分はまたしても、すぐ近くにいながらそれを止めるこ
とができない。前と同じだ。前もまた、止められるポジションにいながら、結局は止められなかった。
「いっただっきま~~~~~~~~~す♪」
桜子が涎を滴らせながらあんぐりと、人の拳が入りそうな大口を解放した。
近づこうとする刹那を、桜子に噛まれた元人間たちが阻む。
桜子の牙が木乃香の肌に、ゆっくりと迫っていく。
そして牙は、ガチンと虚しく空気を噛んだ。
「止めてええええええええええええええええええええええええっ! もう止めてええええええええええええええええっ!」
刹那は錯乱気味に大声で叫んでいた。ここでまた木乃香が吸血鬼になれば、またしても同じことが繰り返されてしまう。自分
がどうなるかは分からないが、もう一度同じことを繰り返されれば、もう自分は耐えられない。
「まあ、コーヒーでも飲んで落ち着けよ。桜咲」
千雨が出してくれたコーヒーカップには、黒い液体がたぷたぷと満ちている。刹那はじっとそれを見ていた。そして、ごくりと飲
む。砂糖もミルクも入っておらず、とても苦い。しかし、少しだけ気持ちが落ち着くような気がしたので、もうもう一口飲んだ。
「あ、ありがとう……でも、ちょっと苦いかもしれない、です」
千雨の部屋のソファーに座りながら、刹那はふう、と一息ついた。お尻に敷いていたのは巨大なキャロットクッション。どこか
で見たと思ったら、そうだ、あの時だ。女子寮の事件で、千雨の部屋で作戦会議をしていたときに見たのだ。
「それにしても、無人都市で隕石が落ちたのが3週間前、女子寮の事件は一ヶ月前にもなるのか。女子寮で桜咲がどっかいっ
ちまって、見つかったと思ったら、関西に帰っちまいやがるし、今度は口止め料だとか言ってお金置いてまた行っちまうし、やっ
と、3人でコーヒー飲めたな。ちょっとは腰を据えて動けよ。ストレスで早死にしちまうぞ」
「そうでござるよ。急がば回れというでござろう」
正面に座っているのは楓だった。後ろのベッドにはすやすやと眠っている木乃香の姿もある。そうだ。あのときとは違う。あの
時は3人だったが、今は木乃香もここにいる。あの時とは、何もかもが異なるのだ。刹那は、ここにいていいのだ。
千雨の部屋は地味なものと派手なものの差がすごかったが、不思議と落ち着ける空間であった。
「あの……」
「何だ?」
「どうしたでござるかな?」
「それで、ここ、どこですか……どうして私、こんなところにいるんですか……」
「おろおろするなよ、達人の名が泣くぞ」
千雨は笑いながら、刹那の横に座る。楓も笑っている。木乃香は眠っている。
「ここは京都でござるよ。お主は、自分のいた場所から数メートルほどしか動いてはいない」
「桜咲が記憶喪失だって言うから、一番印象に残っていそうな場所を、チャオに言って創ってもらったんだ」
「ここはチャオ殿の技術による触れる幻覚でできた、仮想女子寮でござる。実物と全く変わらぬ」
「お前と、近衛と、あの吸血鬼だけを、位相の異なる空間にあるらしいこの場所にコピペしたんだよ」
楓と千雨はお互いの顔を見て肩をすくめる。
「しかし、これだけ大層なセットを創って、お主の記憶が戻る手伝いをしようと思ったら」
「やっと発見できたら、こっちが何もしなくても、勝手に戻ってやがるしな」
「え? あれ? じゃあ、えーと……きゅ、吸血鬼もいっしょにって……」
「いや、あいつは新しい吸血鬼の王になってやがったから、放置するわけにもいかないって話になって」
「こちら側に連れてきたござる」
「え……ええっ!」
そのとき、刹那の名を叫ぶ桜子の声が聞こえてきた。
「お呼びのようだぜ。近衛はここに置いておいたほうがいいな」
扉を開けて外に出ると、そこに―――巨大なピコピコハンマーを持った桜子が立っている。
「桜咲さんだけじゃなくて、長瀬さんと千雨ちゃんまでいる!」
吸血鬼の桜子は獲物の多さにじゅるりと涎を垂らす。
「よう、久しぶりだな」
千雨がひらひらと手を振った。
「もう一度女子寮で、お前と会うことになるとは思わなかったぞ」
「しかし、あの時のようにカエルの幻覚はもう使えない」
楓も笑う。
「前のようにはいかないでござる」
刹那は千雨と楓の間に、割って入る。まずは、千雨と手を繋ぐ。
「あの時とは、違う―――」
噛み締めるように刹那は言う。次に、楓と手を繋ぐ。
「お嬢様も、長谷川さんも、長瀬さんも、みんないっしょだ―――」
あのとき、誤った選択肢。
次はもう、誤らない。
「完全に決着つけようぜ!」
千雨が笑って刹那の顔を見る。
「私たちの」
「拙者たちの」
「まだ終わっていなかった」
「あの、女子寮の夜を―――」
「何をごちゃごちゃごちゃごちゃと! 3人になったところで、みーんな、私のご飯になるんだもんね―――っ!」
桜子がピコピコハンマーを手に3人に飛びかかる。
「あ、そうそう」
千雨が笑う。
「言ってなかったけど、ここに移すときにお前の力はほとんど封じたから、今はただの人と変わらないぜ」
「あぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
言い終わる前に、刹那のアッパーを食らった桜子はロケットのように真上に吹き上がり、、天井を破ってどこかへ飛んでいった。
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「フゥーっ! フゥーっ! フゥーっ! 反則だ……こんなの、イカサマだよ……」
恐らくはチャオの飛行機だろう。かつて桜子がいた場所には小型ジェットが停まっていて、刹那や千雨たちがそれに乗り込ん
でいる。桜子の仲間だった吸血鬼もどうやら駆逐されてしまったらしく、何もいない。
両腕は折れていて動かない。身体中が壊れかけていて、裂けて、砕けて、潰れて、全身が血で真っ赤に染まっている。しかし、
ゆっくりとだが回復してきてはいる。おそらく、あと2分ほどで立てるようになる。5分ほどで全回復するだろう。吸血鬼の桜子の
回復力は尋常ではないのだ。
這うように動いている桜子の前に、2人の影が現れる。
「ここまで損傷しているのに動けるなんて、計算以上ですね」
「ふむ、それだけ、和泉さんの恐怖の力が大きいいうことネ。「巫女」の異能で具現化したサンプル、確かに面白そうではあるが、
しかし―――今の私たちは、お前ごときにこれ以上構っている暇はないネ。だから―――」
聡美の横に立っているチャオは、手のひらを桜子の前でそっと広げた。
そこには、毒々しい色をしたアメーバが蠢いている。それは、かつて小田原が使っていたものを、チャオが再現したものだ。
「最初から存在していないのだから、無に還るのが一番ネ」
チャオは桜子を見下ろし、冷酷に呟いた。
「殺傷した人々と、破壊した都市に対して、罰を与えるネ。とろかせ、ビブリオっち」
アメーバが桜子の顔に落下して、そこから腐らせていく。
猛スピードで壊死していく細胞数は、吸血鬼の回復力を上回っていた。
「ひぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
悲鳴と共に桜子は溶かされていく。ごろごろ、ごろごろ、のたうちまわりながら、壊死していく。
逃れようとする桜子を、アメーバが一気に包み込む。
「私たちは「巫女」を討ち、攫われた和泉さんを助けないといけないネ。もし、それまで生きてられたら、許してやってもいいヨ」
チャオと聡美が闇に消える。
悲鳴はその後、2分続き、途切れた。
再開することは永遠になかった。
最終更新:2012年01月31日 15:24