172 :第31話「絵師と司書の狂騒祭(前編)」 ◆LsUrNEsQeQ :04/04/02 01:05 ID:vSYScx+w
麻帆良学園都市に出現した異常な領域の特徴は、人がその内部に侵入できないこと、そして内
部にいた人間を、半ば強制的に外に排除することである。それは日本の法、または麻帆良独自の
ルールによって行われた措置ではない。重力や遠心力、コリオリの力などの物理的な力によるも
のでも、また地震の直前に動物が逃走するような本能的な行動でもない。一般の考え方では、そ
の現象を正確に説明することは不可能だろう。
普段と同じパターンで入浴していたり、コンビニに夜食を買いに行っていたり、テレビを見ていた
りしていた住民が突然、抵抗し難い不可視の力によって動かされ、街のある一定のラインまで押し
出されてしまう。日常生活を送るほぼ全員が、ある者は車で、ある者は徒歩で、ある者は自転車
で、また葉加瀬聡美はセグウェイに乗って、訳が分からないまま数百メートルから1キロメートル以
上の移動を余儀なくされた。
そして今、住んでいた場所に帰れなくなった麻帆良の住民たちは、仲間同士で集まって他愛もな
い雑談に興じながら、事態が動くのを待っている状態である―――
「と、いうのが今、私たちが置かれている状況ネ」
学年トップのチャオ・リンシェンは集まったクラスメイトたちに状況を解説しながら、目の前に広が
る無人の学園都市を観察していた。周囲には住民が溢れ返り、道路まで占領されている状態であ
る。先ほどから絶えず、一部の住民が自宅に戻ろうと試みているのだが、チャオがいる位置から1
0メートルほど先のポイントを越えることができず、首を傾げて引き返してくる。
「えええ~。いったい、どうなってるのー?」
「あらあら、どうしたの夏美ちゃん。いつもにも増して取り乱しているわね」
女子寮が半壊した事件から約一週間、寮の住民は6つの施設にランダムに振り分けられて、寮
が直るまで生活することになった。チャオ・夏美・千鶴・夕映は同じ施設で暮らしていたのだが、今
回の騒動で追い出されて1キロメートル先まで散歩することになった。
おろおろしている村上夏美の相手をしていた那波千鶴は、にっこりと微笑んでチャオを見た。
「でも野宿は困るわね。今夜はあやかの部屋にお邪魔でもしようかしら」
「駄目。いいんちょも部屋から追い出されて今、ハカセといっしょに街を移動中。夕映の方はど
う?」
「えーと、駄目です。みんな、連絡がつきません」
綾瀬夕映は携帯でハルナたちに連絡を取ろうとしていた。ハルナ、のどか、桜子、円、美砂は
同じ施設で生活しているはずである。しかし、誰も携帯には出なかった。
「こういう時は、長瀬さんの意見を求めたいのですが……」夕映が長瀬楓の携帯にかけてみると
鳴滝姉妹が出た。本人は携帯を置いて外出したらしい。長谷川千雨なら携帯で小声で話ながらパ
ソコンをしていると言う双子だったが、千雨が役に立つとは思えなかった。双子に状況を正確に説
明するのも面倒だったので、夕映は電話を切ってしまう。「どこ行っちゃったんでしょう……」
楓が隠密行動時の千雨専用にもう一つ携帯を買ったのは、誰にも知らされていなかった。
「クーはどうネ?」
「とても楽しそうでした。無人都市への侵入を試みているようです。しかし、役に立つ意見は……」
「やっぱり?」
苦笑するチャオの横で、夕映ははあ、と溜息をついた。
「あっ、アスナ、待ってよ―――」
その時、夏美が声を上げた。
「どうしましたか?」夕映が夏美の方を向いた。
「今ね、アスナがいたの」夏美が暗闇を指差した。「声かけたら、逃げるように行っちゃった」
「明日菜さんが? 彼女はまだ入院しているはずですね。どうしてここに……」
「うーん、なんでだろ? なんか落ち付かない様子で、心配そうに無人の街を見てたよ」
夕映は思考に浸かりながら状況を繋げようとするが、上手くいかない。
「お手上げですね」
「考えても分からないから、神様になって上から見てみるネ」
「何をする気です?」
麻帆良の地図を広げたチャオが、ペンでチェックをし始めた。
「私たちがここ、いいんちょたちがここ、クーたちがここ、アキラたちがここ、和美がここ………」
連絡がついた友人たちは、全員が「それ以上先に進めないポイント」の前にいる。それらの点を
線で結んでいくと、地図の上に巨大な円ができた。
「ああ……バリアでも張られているみたいですね」夕映が地図を覗き込む。「綺麗な円です」
「バリアか。確かにそんな感じネ。大きさは地図の縮尺からして……半径約1.2キロメートルの人
払いのバリアが、麻帆良のド真ん中に発生している……」
「……って、この状況は尋常ではないですよ、ここは安全ですか?」
「さあ、何とも言えないネ。ただ……」チャオが微笑む。「私と夕映がどちらも無事で済まないなら、
この辺りにいる人は全滅ネ」
「何を言っているんです?」夕映が表情を変えずに言った。「私はただの、本好きの学生ですよ」
「あらあら、みんな、なんだか大変そうねぇ―――」
千鶴がまったく大変そうでない口調でそう言った。
*
麻帆良学園都市、人払いの結界の中心。
桜子、亜子、のどか、そしてハルナがその場にいる。
亜子の周囲はクレーター状に地面が凹んでいて、横には崩壊した歩道橋が道路にめり込んでい
る。桜子は全裸で失神しており、亜子の足下には桜子の仮契約カードが落ちている。のどかは失
神した桜子を見て少し怯えているようである。ハルナはリュックのように背負える白い翼を装備し
た状態で、亜子をじっと見つめていた。
「亜子ちゃんに何があったか気になるねー。名前を吐かせて情報を手に入れたい」
ハルナはアーテクファクトのスケッチブックを翳し、にたりと嗤った。
亜子は負傷した肩を押さえ、痛みが残る足をぺちぺち叩いて、ハルナを警戒しつつ荒い呼気を
整えていく。
「えーと……『魔法銃』、『びりびり』、『ブラックリスト』」
スケッチブックがぱらぱらと捲れて光が溢れだし、3枚のページがひらりとハルナの前に舞い上
がった。その、厚さ数ミリメートルの紙から、ずぶずぶと質量が浮かび上がってくる。ハルナはそ
れらを、そのまま一気に紙から引きずり出した。
一つは黒光りするロッド状の物体である。先端には電極のような金具が露出しており、握る位置
にはスイッチがいくつか付いていた。ハルナが指でスイッチを入れると、バチバチと青白い火花が
金具の間で散る。防犯グッズのスタンガンのようなものらしい。
他に現れたのは、筒のような銃口を持ち、綺麗な装飾が施された銃と、手帳サイズの真っ黒なカ
バーが付いた本だった。この時の亜子は知らなかったが、銃は木乃香に脅されたカモが取り寄せ
た本に載っていた骨董品で、ネギも同じものを持っていた。
「消費した分を、最新のページにコピー」
スケッチブックが数秒間青く輝き、そして普通の状態に戻った。
(あれが、ハルナのアーティファクト……)
茶々丸から話は聞いていたハルナのアーティファクト「魔法のスケッチブック」、その能力は描い
た絵のストックと、その具現化が主であるらしい。しかし茶々丸は、描いた絵を別のページにコピ
ーできるという機能が、一番の脅威であると報告していた。
(それって、いくらでも武器を創れるってことやな……)
亜子はそう解釈し、何が出てくるか分からないスケッチブックから一定の距離をとる。
「でも、確かに亜子ちゃんに何があったかは気になるけど、明日菜のところに行かせてくれたら、と
りあえずは見逃してあげてもいいよ。今の目的は明日菜だし。ね? のどか」
のどかを見ながら、ハルナが言った。
「あ、それはもう無駄やで」亜子はハルナに言う。「ウチがアスナに、あんたらが攻めてくるって伝え
たから、とっくに逃げてるやろな。どこに逃げたかはウチにも分からへん」
「………」
「………」
「………」
「亜子ちゃんさあ」ハルナが微笑んだ。「喧嘩売りまくりだねえ。喧嘩は嫌いじゃなかったの?」
「ど、どうしてですかー」のどかが前に出る。「ネギせんせーの問題は、亜子さんには関係ありませ
ん! どうして、どうして邪魔するんですか? 私はただ……」
のどかと亜子、ハルナと亜子、ハルナとのどか、
視線が交差する。
「特別やからね」
亜子は自嘲気味に笑った。
「特別?」
のどかが繰り返す。
「まあ、あんたらに、ウチみたいに手遅れになって欲しくないのもあるけど、正直、ネギ先生とアス
ナはウチとっては特別やから……いろいろあったけど、ウチを助けようとしてくれたし……」
亜子は乾いた笑みで、
「ウチ……もう終ったも同然やけど……」
飢えたような目で、
淡々と言った。
「あの二人がいてくれたら……まだ頑張れる気がする……生きていける気がする……」
「………」
「………え、えーと……」
のどかがコメントに困ってハルナを見る。
「ふふふふ、今の亜子ちゃんて何だか重いよねー。何があったか知らないけどさー、なんかおかし
くなっちゃったって言うか、悟っちゃったって言うか―――」
ハルナは愉快そうに、亜子を見て微笑んだ。
「実際、明日菜たちもさー、そんな変な重い荷物背負ってるやつに頼られるなんて―――」
「はっきり言って迷惑だと思うよ」
「……そ、そんな、こと……ない、わ……」
亜子の顔に、少し動揺が浮かんだ。ハルナは亜子の反応を見てにやりと嗤う。
「迷惑だよ。絶対に、迷惑」
ハルナは亜子に言う。
「結局、その荷物をネギ先生と明日菜にも持って欲しいってことでしょ? 否定しても駄目だよ、亜
子ちゃんの顔にそう書いてあるもの。ウチはとっても辛いから助けてください。慰めてください。支
えてください―――ってね。二人に優しく、傷口ぺろぺろ舐めてもらいたいんでしょ?」
最後の言葉は亜子に向けたジョークのつもりらしいが、亜子は反応しない。
「そんなの無駄だと思うよ。最初は親身になってくれるかも知れないけどさー、そのうちに絶対ウザ
がられるって。うん、断言してもいいよ。で、そこで相談なんだけど、私たちの仲間にならない?」
のどかが驚いてハルナを見る。
「木乃香と仮契約すればさ、そのやたら巨大な魔力も使いこなせるかも知れないよ? そうすれば
亜子ちゃんは―――」
「あんたらと仲間になる気はあらへん。いっしょにせんといて」
微笑みながら、ハルナの笑顔が固まる。
「何とでも言ってええ。ただ、ウチにはもう、これ以外に道はないんよ―――」
亜子はそれだけ言った。
「ふうん」
ハルナは、今度は面白くなさそうな顔でそれだけ言った。そして。
「これぐらいなら、のどかでも使えるでしょ。一応持っとき」
ハルナがスタンガンと銃と本を投げ、のどかの足下に次々と落ちる。のどかは少しだけ戸惑った
ような顔をしたが、すぐに武器を掻き集めて銃と本をポケットに入れ、スタンガンを両手で持った。
「拾ったら、次は……邪魔だから桜子ちゃんを遠くに運んで、後はどっかに隠れてな」
「え……」のどかの動きが少し止まった。「う、うん。そうするー。頑張ってね……」
のどかは小走りで、桜子の方に走っていった。亜子は「邪魔だから」がどちらに向けられたのか
少し考えたが、答えは出るはずもない。
「さて、仮名の亜子ちゃん。安心してね。殺さない程度には手加減するから―――」
ハルナは、微笑を浮かべながらゆっくりと眼鏡を外し、そのままケースに入れて懐に仕舞った。
眼鏡を外すとハルナの印象はがらりと変わっていた。端整な顔は普段より大人びて見える。
もっと活き活きとしていたイメージがあったが、目の前にいるハルナは静かで落ち付いている。
冷たい双眸が、品定めをするように亜子の姿を映した。
スケッチブックが風に靡いて、ぱらぱら捲られた。
「………!」亜子が身構える。
氷がどろりと溶解するように、ハルナの唇が歪んで、笑みの形を作った。
「23ページ」ハルナが絵のタイトルではなく、ページ数を言った。
スケッチブックのページが宙に舞い、光を放つ。
一瞬だけ見えたその絵は、集中線というスピード感を出す表現が用いられていた。中央に収束
している線の先にあるのは、まるで遠くから接近してくるかのように描かれている「剣」だった。
「―――!」亜子が後ろに下がる。
スケッチブックから尖った金属が顔を出した。次の瞬間、漫画で端役が使うような質素なデザイ
ンの剣が、しかし弾丸のような勢いで紙上から発射され、亜子に向けて真っ直ぐに飛ぶ。
「―――くっ!」転がるように亜子が横に避ける。黒いマントの端が剣に掠って裂けた。
「『魔法銃』!」
ハルナが亜子に向けて魔法銃を連射し、ドンドンドンと重い音が響き渡った。亜子は止まらずに
走り続け、背後から亜子を追いかけるように小さな爆発が起こる。亜子は爆発の勢いを受け止め
るようにマントを広げ、そのまま一気に飛びあがって円弧を描くコースでハルナに向けて急接近し
た。蝙蝠で編まれたマントは、亜子が使える数少ないエヴァの能力だった。
「『シールド』5連作!」ハルナが叫ぶ。
ハルナと亜子の間に、厚さ4センチ、縦横2メートルほどの曇りガラス状の壁が5枚現れた。それ
らは亜子とハルナの間に勝手に移動し、亜子からハルナを遮った。
「こんなもん!」亜子がスピードに乗って勢い良く蹴りつけ、鈍い音がした。亜子のキックを受けと
めた壁は蜘蛛の巣状のヒビが走り、真っ白になってそのまま砕け散る。亜子はそのまま体当たり
で次の壁を強引に破った。そのまま前に進もうとするが、3枚目の壁が破れずに止まってしまう。
「2枚も破られるとは、怖い、怖い。でも、残念だったね」濁った半透明の壁の向こうで、ハルナが
にやりと嗤う。「悪いけどさあ、私って殴り合いとかするタイプじゃないんだわ。だから―――」
亜子の背後で、ずしん、と重量感のある音がした。
「やりたければ、鬼蜘蛛ちゃんと好きなだけどーぞ。木乃香の呼び出すオリジナルの式神にも勝っ
ちゃった自作の鬼蜘蛛だよ。鳴き声がとってもキュートだから聞いてあげてね」
亜子が振り向くと、数メートルはある巨大な蜘蛛が、黒く濁った目に亜子を映し込んでいた。身体
は硬い装甲に覆われている。無数の脚がわきわきと蠢いて、その巨躯を亜子に向けて走らせた。
「くもっ!」
間の抜けた鳴き声と共に、蜘蛛の巨体が亜子の視界を覆い尽くし、そのまま激突する。
「きゃあああっ!」
亜子は弾き飛ばされてごろごろと転がり、民家のヨーロッパ調の壁に背中をぶつけて止まった。
「かはっ……あ゛……げほ、ごほっ……」
激突した民家の壁にヒビが走る。衝撃を受けて肺の空気が一気に絞り出され、亜子の呼吸が一
瞬だけ止まった。自分に契約執行しているのでダメージは軽減されているが、それでも十分に痛
い。無意識に背中を丸めて、亜子は地面に頬を付けたまま苦痛が治まるのを待つ。
(……さっきの、何……く、くも?)
亜子の口からどろりと唾液の塊が零れ落ちる。体当たりされただけなのに、まるで車に轢かれた
ような衝撃に襲われた。亜子は車に轢かれた経験はないが、おそらく似た感じだと思われる。
「くも。くもぉ? くっもー」
「………」
亜子が見上げた先には、「大丈夫?」とでも言いたげな可愛い声を出して、先程の蜘蛛がいた。
「ひっ! あ、あっちに行きやっ! ち、ちょうあ゛っ! ぐう! い、いや…あ゛っ! うあ゛っ!」、
鬼蜘蛛が巨大な脚を数本振り上げ、バシバシと倒れた亜子に叩き付けた。振り下ろされる重量
の一撃一撃が強い。連続する骨まで砕かれそうな衝撃に、肉体が軋むのが伝わってくる。
「ひぎいっ! あ゛っ、あ゛……ごほっ、はあ、はあ、あ゛っ! うあ゛っ!」
大きな太鼓を叩いているようなリズムで、鈍い衝撃が亜子の身体を襲う。細い脚や腰を打たれる
度に、亜子から悲痛な声が漏れた。胸や腹を打たれると悲鳴も出せない。ガードしようとしたが、3
回ほど攻撃を防ぐと亜子に腕は内出血だらけになり、痺れて動かなくなった。しかし亜子は泣きな
がら、その動かない腕でガードし続けるしかなくなっていた。
「あ゛あ゛っ! ごほ、げほ、げほ、はあ゛っ! ぐっ! あ゛……いやああ、あ゛あ゛あ゛っ!」
腹を何度も打たれ、身体が自然にくの字に曲がっていく。口内に唾液と胃液に加えて血の味が
広がり始めた。負傷した肩も何度も打たれ、傷口が少しずつ広がって血が溢れ出てくる。打たれる
と亜子の身体は、埃といっしょに少し浮かび上がる。しかし次の一撃で固い地面に叩き付けられ、
次の一撃で再び浮かぶ。障壁が反発しているせいだったが、最早扱いはサッカーボールと変わら
ない。泣き叫びながら蜘蛛に攻撃を止めるよう訴える亜子に対し、鬼蜘蛛は腹への強烈な一撃で
応える。亜子の口から胃の中身が飛び出した。
「げほっ! えほ、げほ、ごほ……はああっ!、はあ゛あ゛っ!、あ゛あ゛あ゛っ!」
口から吐瀉物を垂れ流しながら悶える亜子の身体を、鬼蜘蛛が脚で押さえる。そして2本の脚で
亜子の首を挟んで、鬼蜘蛛が亜子の身体を持ち上げる。
「うう゛う゛う゛……う゛あ゛あっ! 止め……あ゛っ、あ゛ぐゔゔゔゔゔゔ、ゔゔゔ―――」
首を巨大な脚で挟まれた亜子が、脚を掴んで必死に暴れる。喉を潰される苦しさに亜子の顔が
歪み、足がばたばたと空中を蹴るが、鬼蜘蛛は無視してさらに亜子を高く持ち上げ、別の脚で亜
子の顔を殴打した。
「や゛あ゛あ゛―――あ゛ぶっ……! ……あ゛……はぁ……ゔあ゛っ! ゔっ!」
亜子の唇が切れて鼻血が少し飛んだ。脳まで揺さぶられる衝撃に意識がぶれる。二度、三度と
殴打が繰り返され、亜子の顔が左右に振れて悲鳴を撒き散らした。次は真上から脚が頭に振り下
ろされて、ガン、ガン、と鈍い衝撃に2回襲われる。髪の毛の間から血が顔に流れ落ちた。
「――――――っ!」
世界が反転した。
放り投げられたと分かった時には、道路のアスファルトがすぐそこまで迫ってきていた。こういうと
きに、受身をとれという話はよく聞くが、亜子は受身など知らない。どこから落下したのかはよく分
からなかったが、激突した音の後に亜子は道路にキスをし、そのまま勢いでごろごろと転がる。止
まった時には、生きているかどうかも分からなかった。
仰向けで倒れた亜子の逆さまの視界に、ハルナがいた。
「準備運動は終ったの? 亜子ちゃん―――」
ハルナは四階建ての建物の屋上に立っていた。ハルナの周囲には無数のスケッチブックのペー
ジが乱舞し、まるで餌をねだる鳥の大群のように、一種のおぞましさを伴って群れている。
「さっきの剣を最新200ページにコピーしてみたの。単純な絵だから数秒だったけど」
真っ白い。雪のような紙。紙吹雪。
幻想的。
さっきの、飛んでくる剣。
ハルナが笑みを浮かべて、亜子を見下している。
冷酷が刃のように研ぎ澄まされている。
悪魔が、理性の仮面を被っている。
「『飛剣』200連作―――」
ハルナの周りの紙が、一斉に発光する。
現れる無数の、鈍い光。
「……う、そ」
現れたのは、雨のような200本の剣。
そのまま、亜子に引き寄せられるように、
近づいてくる。
「あ、あぁ―――っ!」
周りにドスドスと突き刺さる剣を見て、亜子が慌てて起きあがる。しかし回避は間に合わない。亜
子は身体をマントで隠して顔を手で守りながら、剣の雨に対して背中を向けて丸める。
ガキィン! ガキガキガキガキン! と背中から障壁が反発する音が聞こえた。
「あ゛っ、あ゛、あ゛、ぐ、あ゛、うあ゛、はあ゛、あ゛、あ゛ぐ、あ゛っ……」
痛みが連続して亜子を襲った。亜子の障壁に当たり、反発した剣が転がり落ちては消えていく。
剣の嵐は止まず、足の周りが刺さった剣で埋まる。少しずつ標準が合ってきて剣が亜子に集中し
出した。ピンポイントで同じ場所を何度も突かれ、障壁がだんだん弱くなってくる。連続する叩くよう
な痛みに混じって、焼けた鉄を当てられるような痛みが少しずつ増えてきた。反発した剣の先に、
赤い液体が付着し始める。
「あ゛……あ゛う……」
「んっふー。200連発なら、流石に障壁も抜けたかな?」
最後の一本が転がっていく。亜子はそのまま千鳥足でハルナから離れようと動き始めた。マント
は穴だらけで雑巾のようになり、着ていたボンテージは背中がズタズタになって血がじわりと滲ん
できている。蜘蛛にやられて蒼く腫れた脚にも裂傷だらけで、赤い筋が何本も伝っていた。剣は深
く刺さりはしなかったが、ダメージは酷い。
「あら、鬼蜘蛛の方が好みだったかな? じゃあ、最新ページ30に『鬼蜘蛛』をコピー」
ハルナがいやらしく嗤いながらそう唱えると、スケッチブックが10秒ほど蒼く光り、その後に蜘蛛
の大群30匹を吐き出した。
「んー。ちょっと少ないかな? 最新ページ20に『鬼蜘蛛』をコピー」
スケッチブックが6秒ほど蒼く光り、その後に蜘蛛の大群20匹をさらに吐き出した。
あっと言う間に50匹の蜘蛛の大群を、ハルナは創ってしまう。
「そ、そんなん……はんそく……やん……」
ハルナの周辺を埋め尽くした蜘蛛の大群を呆然と眺めながら、亜子は小声で呟いた。
「なんで? 少年漫画みたいに一対一で殴り合いするとでも思ったの? 亜子ちゃんに合わせる必
要なんて何もないんだよ? ていうか、信じないかもしれないけど、私って本気出せば麻帆良ごと
消せちゃうの。これでも手加減してるんだから、感謝ならともかく反則なんて心外すぎー」
「あ……ああ……」
亜子がふらふらしながら、後ろに一歩、また一歩下がっていく。
逃げてはいけないと分かっていても、足は止まらなかった。茶々丸に殺されるかもしれないと忠
告されても、覚悟はできていたつもりだった。自暴自棄だとエヴァに言われても笑って肯定した。
みんなを助けたかった。
自分のように手遅れの人をもう生みたくはなかった。
もう、酷い事を繰り返したくはなかった。
そして、
もう何も残されていないから、
捨て身で、最後の希望に縋りつこうと……。
ネギ先生と明日菜に、
助けを求めようと、
もしかしたら、助けてくれるかもしれないと……。
心の中で、ほんの少しだけ思っていた。
でも、
もう、ダメだった。
強くなったと思ったのに
身体的な苦痛で、簡単に屈してしまう。
止まれない。
下がる足はだんだん速くなり、やがて走り出した。
「うぐっ! うぅ……あ、足が……」
両足がずきりと痛んでよろめき、亜子はそのまま倒れてしまう。怪我が酷く、立ったり歩いたりは
できても、最早思ったようには走れなかった。亜子の心がぶるりと震える。自覚はしていないが、
いつも友達からは運動ができると言われてきた亜子である。それが、走ることもできない。これは
思った以上の窮地かもしれない。
「ちょっとちょっと」ハルナが嗤う。「戦意喪失が早すぎない?」
亜子は気にせずに蝙蝠で編んだマントを広げて逃げようとする。
「あ゛うっ!」
しかし、亜子は再び無様に地面に転がった。倒れて動けなくなった亜子の、穴だらけでボロボロ
のマントが、風に煽られて虚しく揺れた。
「………うっ、うぅ……ううう……いやっ……いやや……」
亜子が痣だらけの両腕を伸ばし、ずるずると虫のように這って逃げていく。傷だらけの身体を必
死に動かして、何とかこの場から逃れようと足掻く。
*
「なんて言うかさ、死にかけたゴキブリみたいだねえ……私の可愛い鬼蜘蛛ちゃんとは大違い」
ハルナは哀れみのこもった目で亜子を見下し、命令を下した。
「さあ鬼蜘蛛ちゃん。亜子ちゃんを適当に可愛がってあげてちょーだい」
「くも! くも! くもぉぉ!」
ハルナの近くにいた鬼蜘蛛が、何かをねだるように顔をハルナに近づけた。
「ふふふっ。甘えんぼなんだからー。えっ? 戦うのが不安なの? ……大丈夫よ」
鬼蜘蛛の固い顔に、ハルナはそっと柔らかい唇を付けた。
ハルナは気持ちの全てを込め、鬼蜘蛛の口をゆっくりと満たしていく。
自分の描いた絵と触れ合える幸せが、ハルナの心も満たしていった。
描いた絵は、みんな絵師の分身である。
「みんなも、できればコピーなんかじゃなくて、一枚一枚描いてあげたんだけど……」
ハルナは泣きそうな顔で蜘蛛の大群を見渡した。
「今の私じゃあ、まだ無理なの。まだまだ未熟だからね。でもいつか、コピーなんて使わなく
ていいように、みんなを、きっちり描き上げて見せるから―――今は、ごめん」
鬼蜘蛛たちが奮い立ち、一斉に亜子に襲いかかった。
*
「のどかー、のどかー、どこよ?」
向こうで蜘蛛の大群が亜子に押し寄せていて、泣き声に近い悲鳴が断続的に聞こえてくる。ハ
ルナはそれをしばらく見物しており、たまに10匹ぐらい蜘蛛を増やしたりしていたが、視線を
逸らしてのどかを呼んだ。
「な、何ぃ?」恐る恐る、建物の影から顔を出すのどか。「もう、終ったの?」
「何びびってるのよ、あんた」ハルナは呆れたように笑う。「あんな弱いの、怖がることないって」
「……うん。そう、だね……」俯いて低い声でのどかは言う。
「別に、亜子さんが怖いわけじゃないんだけど……」
怯えた声は、ハルナに届く前に消えていった。
「あー、のどか。これ」ハルナの指した先には、バットや剣などの武器が山積みにされていた。「さ
っき渡したやつでもいいけど、好きなの使っていいから、あんたも亜子ちゃんと戦ってきなよ」
「え、ええっ!?」のどかは驚きの声を上げた。「む、無理だよー」
「大丈夫だって、もう亜子ちゃん戦意なんかないんだから。殴ってでも蹴ってでも亜子ちゃんの名
前を聞き出せばいいの。怖がることないよ。危なかったら助けてあげるし、鬼蜘蛛ちゃんもいるし」
ノリ気ではなさそうなのどかを亜子の方に行かせて、ハルナはふう、と溜息をついた。
「あんなんだから、いつまでたってもネギ君をモノにできないのよ……」
スケッチブックを開いてペンを取り出し、ハルナは案を練る。
名前の不明な敵と戦うための、のどか専用の武器を創る予定だった。
ところが、いざ創ろうとすると何が良いのか分からない。刀剣、銃器、それとも他の何かか……。
「あー、何か早く創ってあげないと……それで、自信を付けさせてあげなきゃ駄目だよね。うーむ」
頭の中で無数の線がぐにゃぐにゃと動く。
それらは形にならない。漠然としたもの。イメージ。浮かんでは消える。
「あー、駄目だ。思い付かない。やっぱ、もう少し亜子ちゃんと遊ぼうかな」
次はスケッチブックの、どの絵を使おうか考えながら、ハルナはにたりと嗤う。
*
「ちっくしょー、どこまで行っても侵入できないっ! 何かスゴいスクープが転がっている予感がす
るのに! あー、もどかしいなあ!」
朝倉和美は「まほら新聞」という腕章を巻いて、麻帆良の住民たちが作る巨大なドーナツの輪の
外側を、自転車で移動しながら無人都市への侵入を試みていた。まるで見えない壁があるように
前進を阻まれてしまう異常事態、果たしてその先では何が起こっているのだろうか?
「このままじゃあ、報道記者の名がすたるってもんよねぇ……」
悔しそうに唇を噛んだその時、向こうから気合いの篭った声が聞こえてきた。
「うにゃあああああああああ―――っ! 進めないアルかあああああああああ―――っ!」
「………」
そこでは必死になって走っているが、その場から一歩も進めていないクーフェイが汗を流してい
た。どうやら無人都市へ侵入を試みているらしいが、見事に失敗していた。遠くから見るとルーム
ランナーでトレーニングをしているように見える。バカに見えるのは秘密である。
「頑張るんだから……」
春日美空が苦笑しながらそれを眺めている。止めてやれよ、と和美は思ったが、美空も退屈な
のかもしれない。クーを見ていると面白いのだろう。
「やれやれ、ここも侵入できずかー」
「あ、朝倉」美空が和美の方に寄ってきた。
「ん、何か情報あり?」
取材メモを取り出して和美は言う。
「ううん、そうじゃないけど……ここ最近、何が起こってるの? この騒ぎだってなんか、怖い……」
美空は首にかけた十字架を握り締めて言った。
「無人の都市を見てたら、なんかいきなりお化けとかでてきそうで……」
和美も言葉に詰まる。女子寮の半壊に続き、クラスメイトの刹那・木乃香・亜子・エヴァンジェリ
ン・茶々丸と担任のネギが行方不明になっている。確かに一連の事件に関連がある可能性は大
きい。しかし、何も分からないのが現状である。
「大丈夫! 私がついてるアル! 何か変なヤツが出てきてもやっつけてやるアルよ!」
ばてたクーがぜいぜい息を吐きながら、Vサインをして美空と和美を見ている。
「……」
もしかしたらクーは、美空の気を紛らわせてやろうとして、ずっとあんな事をしていたのだろうか。
和美は少し考えたが、報道記者が追求するような問題でもない。
「……ふふふ、そーだね。そりゃいいや」
「頼りにしてるよー。くーふぇ」
和美と美空にも、自然と笑顔が戻ってきた。
人々が見守る中、沈黙を続ける無人都市。
災厄を包み込み、沈黙を続ける無人都市。
内に秘めるは地獄。
外に存在するのは、当たり前の平和。
≪to be continued≫
最終更新:2012年03月03日 23:57