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トビウオの青年ハルの待機中の生活範囲は、青龍殿の敷地内にある道場と、そこに併設された寮の周辺におおむね限定される。「…はよーございまー…」「はいおはよう」 まだ半分夢の中のような状態でふらふらと洗顔に向かう後輩に挨拶を返し、ハルは朝の寮内廊下を巡回していた。並んでいる部屋の扉をひとつひとつ叩き、はっきりした返事があれば素通りし、返事がなかったり不明瞭だったときは扉を薄く開いて中をあらためていく。 返答のない部屋の一つを覗くと、部屋の主はまだ布団を被っていた。布団の端からぴょんと覗く『提灯』だけがひらひら踊っている姿はなんともユーモラスだったが、ハルは心を鬼にして室内に踏み込んだ。「起床っ!」 枕元で一喝すると、アンコウの少年はびくりと布団の中から飛び起きた。驚きのあまり頭の提灯がぴしっと真上を向いて硬直していたので、ハルは笑いを噛み殺すのに苦労した。それは落ち物の書物に時折登場する『アホ毛』なる器官の挙動にとてもよく似ていた。「あ、お、おはようございます!」「はいおはよう、顔洗ってこい」「は、はいっ!」 慌しく部屋を飛び出す少年を見送ると、ハルは気を取り直して次の部屋をあらために向かった。 これは当番制のモーニングサービスのようなもので、この寮の朝の風物詩だ。 当然ハル以外が当番の時にはハルが一喝されて起こされたこともあるし、当番によっては板切れを持参して叩き起こすなど乱暴な手段を使う者もいるが、これも規則正しい朝の為である。 どうせなら野郎を叩き起こすより、寝ぼけ眼の女の子を襲…もとい、やさしく起こしてあげたいもんだなぁ…というのが、健康優良児ハルの偽らざる本心だった。「断る」「え、いまの口に出してた?」「うむ、言い直した分際で厚顔にも『偽らざる本心』と抜かしているあたりまでばっちりな」「そ、そっかぁ…いやあ参っ た わ ば」 朝食の席で早速アルマの鉄拳制裁が下るのも、わりと日常茶飯事の光景なので皆やさしくスルーしていたという。 基礎鍛錬が一段落した後、ハルはぶすっとした顔で中庭の石に腰を下ろしていた。「お疲れ様です先輩。あ、これどうぞ」 今朝起こしたアンコウの少年が小走りに駆けてきて、水を汲んだ柄杓を差し出してきた。おう、とだけ返事をして受け取ると、ハルはぐいっと水を飲み干して残った雫を柄杓から払った。「ありがとな、えっと……お前なんてったっけ?」「はいっ、マトーと言います」 はきはきと答えるマトーの頭頂部で、相変わらず自己主張の激しいアホ毛提灯がぴょこぴょこと踊っていた。気になる。「マトーね…あー、俺は」「ハル先輩ですよね、『虹の翼』の」「うわ、勘弁してくれ! 自分でつけといてなんだけど、ないわーその二つ名」「よ、よく似合ってますけど…」「いやだって、この羽根の色目立つばっかで俺の仕事には向かねぇんだもん…目立つのはエルとかアルマみたいな前衛役がやればいいの」 エルの名前を口に出したことで不機嫌のモトを思い出してしまい、ハルはふかぶかと嘆息した。「? どうかされたんですか?」「あーいや…同僚が最近付き合い悪くてなぁ。察するにオンナが原因だと考えると、どうにも憂鬱になるのだよ」「はあ…」 そう、先日脱皮で休んだ直後からナキエルが以前にも増して挙動不審になってきたのだ。 以前はなんとなく浮かれた感じだったのが、最近は帰宅前になるとどことなく緊張した雰囲気を漂わせるようになり、こちらの言う事にも上の空になりだしている。 これは、例のヒト召使となんらかの進展があったとみるべきだろう羨ましい。 ただ悪いことには、ハル同様にその変化を感じ取ったらしいアルマが、ここ数日急速に不機嫌になっているのである。当然、そのとばっちりはすべてハルにいくのだった。具体的には鉄拳制裁の頻度が増えた。八つ当たりというか、沸点が下がってるというか。 今朝の一件だって、以前なら鼻で笑って軽くスルーするくらいの小ネタにすぎなかったのである。いや、スルーはスルーで時には傷つくけど。「…このままでは身が持たん」「は?」「いやこっちの話。すまんね、後輩に愚痴ってもしょうがないことだった」「いえ、お力になれなくてすみません」「いーのいーの気にしなくて、マトーは素直ないい後輩だねぇ」「いえ、そんな…」 赤くなってもじもじしているマトーを見て、ああ、これでこいつが女の子ならなぁ…と思わずにいられないハルだった。たとえマダラでも男はあいにくハルの守備範囲外である。「…俺もカノジョ欲しいなぁ…」 切実な独白だった。「ふむ、それで私にたかりにきたと」「いや、たかるだなんて人聞きの悪い…ともかく、もう一人くらい暇を出す予定とかないんスか?」 何の用だかカールのお大尽がまた青龍殿に顔を出していたので、ハルはそれとなく…というよりかなり直截にそんなことを尋ねてみた。「リストラというのはかなり苦肉の策ですから、そう何度もできるものではありません。今回暇を出した者の行き先はもう皆決まってしまいましたし、何より貴方にはもうお近づきのしるしとして差し上げた物があると聞きましたが?」 カールの訪問を知るなり稽古そっちのけで側仕えに戻ってしまったシアが、じとーっとした目を向けつつ冷たく言い放った。言葉の裏に「このケダモノ」というちくちくとした悪意が篭っている。「いやあ、そこを突かれると痛いなぁ……あ、あの菓子折は美味しく戴きました、はい」「では、カール様のお手を煩わせる理由はないですね」 話を打ち切る方向に持っていこうとする従者を、主人がふと引き止めた。「まあ待ちなさいシア、これで彼には結構世話になっているのだよ」「? そうなのですか?」「勿論だとも……時にハル君、今日が何の日かご存知かな?」 勿論知っていた。なぜなら、それもまたハルの憂鬱の原因のひとつだからである。「ええ知ってますとも……ていうかそのこれ見よがしなチョコの山はなにかの嫌がらせですか?」 なるべく視界におさめまいとしていたのだが、カールの側に付き従うシアの手に、チョコレートとおぼしき包みがぎっしり詰まった袋が提げられていた。 聖バレンタインデー…ヒト世界の聖人が、男女の仲を取り持ったがために処刑されたとされる日。 そんな日がなんだって男女のキャッキャウフフの種にされなくてはならないのか。全国の非モテ男と、血だるまになって死んでいった聖人に申し訳無いとは思わないのか! 早くあやまっテ!(筆者注:余談ながら、件の聖人ウァレンティヌスとその殉教に関しては史実かどうかがあやふや である為、教会の定める正式な聖人暦からバレンタインデーは除外されているんだそうな)「嫌がらせ? 何を言うんだい、これは君たちにあげる分だよ」「…へ?」 唖然とするハルの手に、ぽんとチョコレートの入った包みが手渡された。「私の家ではね、世話になった男性には健康と童心を忘れぬようチョコレートを、そして女性には美しくあれと花を一輪贈るならわしになっているのだよ」 なるほど、たしかにシアの胸元を見ればカールに贈られたらしい薔薇が一輪。「そんなローカルルールあるなんて、金持ちはやっぱり違うなあ…(ズレてる的な意味で)」「はっはっは、そう誉めないでくれ。例の件ではまたよろしく頼むよ」「は、万事抜かりなく」「…カール様、例の件とは?」「さあさあ、先は長いぞシア。遅れずついてきなさい」「は、はいっ。……??」 この二人の悪巧みについては、また語ることもあろうが今回は触れないでおく。「しかし、今日一個目のチョコレートが野郎からとは……これが最初で最後だったら哀しすぎるな」 持てる者と持たざる者にくっきりと明暗分かれつつある休憩時間の情景を眺めてひとりごちる。 一個も貰えないのも苦痛だが、唯一のチョコが(ローカルルールによるものとはいえ)男からの一個というのも、これはこれで高度な嫌がらせではあるまいか。「あ、先輩!」 なんとなく手の中でチョコの包みをくるくると玩んでいると、マトーがまた小走りにやってきた。「おーマトーくん。今度はどうした?」「あ、あのですね…これ、使ってくださいっ」 意を決したようになにかの包みが差し出される。「え、何これ。開けていい?」「は、はいっ」 がさがさと包みを開くと、それなりに質の良さそうなタオルが出て来た。「お、男の方から贈るバレンタインもあると聞いたので、その……ご、ご迷惑でしたら、捨てても構いませんからっ!」 それだけ言うと、マトーは真っ赤な顔で脱兎のごとく駆け去っていった。 ハルはしばらく茫然としていたが、かろうじて一言呟いた。「……いや、男から贈るってそういう意味じゃないだろ」 男はハルの守備範囲外であった。 …一方その頃…。「ナキエル様、美味しいですか?」「あ、うん……でも、よくチョコが手に入ったね」「カール様が事前に送ってきて下さいまして。はい、あーん♪」「いや、それはちょっと勘弁…」 主役二人は、こんなことやってたという。
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