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店を飛び出して闇雲に人混みを駈け、気がつくと千宏は人気のない倉庫街に戻ってきていた。息が苦しかった。足を止めて呼吸を整え、ふと顔を上げればはるか彼方に小さくニャトリの工房が見える。 人混みをすり抜けて走ることに関してはイヌよりヒトの方が優れているようで、ハンスはまだ追いついてきていなかった。「……くそ」 小さく罵り声を上げ、千宏は作り物の虎耳を引き剥がす。「こんなもの……!」 つけていたって、トラになれるわけではない。ただトラの姿を借りて、ヒトである自分を、弱者である自分を、周囲の目から誤魔化しているだけだ。その行為自体がそもそも千宏の目指すトラの信念からかけ離れているというのに、どうしてトラの誇りなどと口にする事が出来るだろう。 見ないふりをしてきた矛盾が、今になって千宏の背にへばりつく。 ひどく惨めだった。ヒトである自分が。なにより、ヒトであることを誇れない自分自身が。「チヒロ!」 ようやく追いついてきたハンスが、千宏の肩を掴んで乱暴に引き寄せた。かなり加減を忘れたその力に、千宏は小さく悲鳴を上げる。「ちょっと――!」「何を考えてるんだ一体!!」 痛いじゃない、と怒鳴ろうとした千宏より余程鋭くハンスが怒鳴った。 緑色に濁った沼のような、そんな重たい印象を与える瞳に、あせりとも苛立ちともつかない感情が揺れている。 思わず黙った千宏の肩を強く掴み、ハンスは震えた声を出す。「あんたは……自分が大事じゃないのか? ほんの少しも、自分をかわいいとは思わないのか。人目がある場所であんな事を叫んだら、どうなるかくらい分かってるだろう!? 自分がヒトだと宣伝するようなまねをして、ここは危険な国だとあれ程念を押したはずだ!」 先ほどの店での事だ。千宏がカアシュに向かって怒鳴った言葉に、ハンスは腹を立てているらしい。「その上……その直後に護衛の俺から離れるなんて……!」 正体の見えない、だが我慢できない苛立ちが喉を這い上がってくる。千宏は唇をゆがめて笑った。「……だから何? そんなのあたしの勝手じゃない」 ハンスがわずかに目を見開く。「……なに?」「あたしがどこで、どんな危険なことをやらかそうと、それを守るのがあんたの仕事でしょ? それともなに? 自分が楽をしたいからって、守りにくくなるようなことをするなとでも言い出すわけ」「ち……違う……! 俺はただ……!」「ただ、あたしのことを心配してるとでも言うの? やめてよね。そんなの、守りきる自信のない弱虫の言い訳じゃない! それとも報酬に見合わない危険をおかすのは御免だって言いたいの? それとも、ヒトなんかを守るためにそこまで必死になりたくない?」 わずかに力の緩んだハンスの手を、千宏は乱暴に振り払った。ハンスは狼狽えたような表情で、千宏に延ばしかけた手を下ろす。 そのハンスを、千宏は鼻先で嗤った。「大丈夫。ちゃんとわかってるよ。守ってもらいたいなら、言うとおりにしろって言うんでしょ? 当然だよね。あんたがいなきゃ、あたしは一人でまともに外も歩けない。お客だって取れないから稼ぐことだってできない。おまけに新しい護衛だって雇えるかどうかわからないもの。面倒をかけさせるなって、そういうことを言いたいんでしょ? 身の程をわきまえろってさ!」 楽に稼げる仕事だから、気まぐれで“雇われてやっている”。それが現在のハンスの立場だ。カブラ達の庇護がなくなり、テペウの保護下にもなくなった今、ハンスが少しその気になれば千宏は簡単に奴隷に落ち、誰にも救ってはもらえない。 雇い主と、その護衛。ひどくうすっぺらく、滑稽な関係だった。二人の間に確たる絆など何一つ存在しない。賃金さえ、まともに千宏から受け取るよりも、千宏を売り払った方が余程効率よく大金を得られるだろう。 ならば千宏はせいぜいハンスに媚を売り、捨てられぬように、売られぬように、殺されぬように振舞わなければならない。 それこそ、まるでペットか奴隷のように――。「――あんたは」 ぐっと、ハンスが腰に下げた剣の柄を握りこみ、低く押し殺した声を出す。「俺を信じたんじゃないのか……?」 責めるような、縋るような視線で射竦められ、千宏はわずかにたじろいだ。「俺が護衛をやり遂げると。ちゃんとあんたに従うと。そう、信じてくれたんじゃなかったのか!」 信頼と愛情さえなくさなければ、イヌは絶対に裏切らないと聞いていた。だから千宏はあの日、あの雨の中、千宏はハンスを拾ったのだ。 だがそれも、確信があってのことではない。あの時はカブラ達がいたからこそ、無茶とも言えることが出来たのだ。それは、信頼とはだいぶ違う。「なんだ……今更。俺みたいな犯罪者を側に置いて、あいつらより俺を選んで、あんたに信頼されてると思い込ませておいて、今更なんだ……!」「なんだ……って……」「俺はあんたをいつだって売り飛ばせる。あんたを殺すことも簡単だし、あんたに首輪をつけて奴隷することだって出来る。そんなのははじめから分かってただろう! 最初からそうだった! それでもあんたは俺を信じた。俺に自分がヒトだと明かし、無防備な姿を見せて、あんたが俺を信じてると俺に思い込ませた! だから俺は――だから、あんたを守ると決めたのに……!」 こんどは千宏が目を見開き、言葉を失うばんだった。 呆然としている千宏から視線を外し、ハンスは静かに地面を睨む。「……俺は弱い」 ぽつりと言って、ハンスは静かに目頭を覆う。広い肩が震えていた。まるで怯えるように耳を伏せ、尻尾を脚に巻きつけている。「命令に従うことだけをひたすら叩き込まれた最下級兵だ。魔法だってろくに使えないし、剣で切りかかっても素手のトラにあっさり負けた。俺には、どんな状況でもあんたを守り通せるような実力がないんだ……」 だから、とハンスはますます声を小さくする。「俺があんたを守るためには、あんたの行動を制限しないとだめなんだ。驚異を排除できないから、あんたを隠すしかできない……それでも! あんたを守るためなら俺は、なんだってすると決めたのに……!」 それなのに、とハンスは奥歯を噛み締める。「主のように振舞って、俺の主に“成って”おいて、今更奴隷の言葉を吐くのか。絶対的な弱者のくせに、それでも真っ直ぐに前を見るあんただから、俺はついていくと決めたのに。ヒトのくせに、たかが性奴隷のくせに、それでも誇りを持ち続けるあんただから、おれはあんたの信頼を俺の誇りに出来たのに!!」 千宏はぽかんと口を開き、険しい表情のハンスを眺める。 千宏は思い出していた。あれは、確か初めて客を取った夜だっただろうか。「でもハンス……確かあんた、『雇われてやってるんだ』って……」 そう、はっきりと断言したのではなかったか。 ハンスが間の抜けた表情を浮かべ、慌てたように千宏から視線を反らす。「あ、あの時と今とでは……! じょ、状況が違う……だろう……」「あー……個人的なお楽しみの最中だったもんね……」「そういう話をしてるんじゃない!」 ハンスが実に犬らしく吼えた。「どうして分からないんだ……! だから、俺は……だから……くそっ!」 苛立たしげに罵って、ハンスはガシガシと耳の後ろを掻き毟る。 ふっと、肩から力が抜けて、千宏は思わず微笑んでいた。「……あほくさ……」 言って、千宏は再び偽物のトラ耳を頭につける。 少し、目標がぶれてしまっていたようだ。誰が認めてくれないだとか、理想の自分になれないだとか――そんな事は二の次だ。千宏には唯一、決して揺らがない目的が存在する。 そもそも、現状で認めてもらえないのは当然ではないか。自分はまだ何一つ成していない。何一つ示していない。その状況で自分を認めてくれないからといじけてダダをこねるなど、まったく馬鹿馬鹿しかった。 なによりこんなにも身近に、自分をただ『ヒト』として――奴隷ではなく、絶対的弱者でもなく、長所も短所も存在する、一つの種族として見てくれる者いるというのに。「ねえハンス」「……なんだ」「あたしあんたを騙してた」 ハンスが鼻の頭に皺を寄せ、緊張した様子で耳を立てる。その、ふかふかとした毛並みに手を伸ばし、千宏はわしわしとハンスの耳の後ろをかいた。「あたし、あんたの事なんかぜーんぜん信頼してなかった」「な……!」「でも、今は凄く信頼してる」 背伸びをして、ハンスの首を抱き寄せる。するとハンスは明らかに全身を緊張させ、半ば反射的に尻尾を掴んだ。尻尾を振ってしまうのが、ハンスとしては我慢できないらしい。 こうして、ハンスに救われたのは二度目だろうか。 千宏は護衛を求めていた。そしてハンスは信頼と主を求めていた。利害は完全に一致している。ならばハンスは、決して千宏を裏切らない。「あんたがいてよかった。ありがとう」 ハンスの手がおろおろと空中をさまよい、そのあげくぽんぽんと千宏の頭を叩く。 ようやく、少し頭がすっきりしてきた。 カアシュがトラの誇りを重んじ、千宏の助力を断ると言うならば、それでいい。何も無理に好意を押し付けようとは思わない。 だが千宏にだって誇りがある。「行こうハンス――日が暮れるまでに、ちょっとやる事ができた」 笑って、千宏はハンスから体を離して踵を返した。**「よう、戻ったのか」 宿に戻ったカアシュを出迎えたのは、ソファでつまらなそうに本を捲っているブルックだった。朝早くに出かけていったはずのカブラは、まだ帰っていないのか姿がない。「カブラは?」 訊くと、ブルックは肩をすくめてカアシュを見た。「いつもどおりだ。少し前に帰ってきたが、またすぐに出かけてった。あとニ、三日探してダメだったら街を移動しよう。ここはまだ猫の国の入り口だからな。気長に探せばまぁ、その内見つかるだろう」 そうか、と答えてカアシュは松葉杖を進める。 猫の国は物価が高い。今期の狩で手に入れた物をここで売ればそれなりの稼ぎにはなるだろうが、長期間猫の国に滞在するとなると、さすがに経済的に苦しくなってくる。 いざとなったら適当に仕事を見つけて稼ぐとカブラ達は言うが、片足の無いカアシュにはそれを手伝うこともできない。「……どうした?」「え?」「何かあったんだろ。面に書いてあるぞ」「書いてねぇよ」「いや、書いてあるな」 言って、ブルックは本を閉じた。「どうしたんだよ。チヒロが追いかけてでもきたか?」 やりかねない雰囲気だったからな、と笑いながら、ブルックがテーブルの酒瓶に口を付ける。 カアシュは固まったまま動く事すら出来なかった。 液体を嚥下する音がしばし続き、ブルックは酒瓶をテーブルに戻す。それからだいぶ間を空けて、「おい……今のは冗談だぞ」 と恐る恐る呟いた。「ああ……だよな」 ようやく答えて、カアシュはベッドに腰を下ろす。そのカアシュに、ブルックは体ごと振り向いた。「どこにいた」「……港」 ブルックは頭を抱えて天井を仰いだ。「なに考えんだあの馬鹿……! おい、見間違いじゃないのか? ネコの女なら似た背格好のやつはごろごろしてる」「間違いようがねぇよ。会って話したんだ……」「話をしたのか!?」「海に突き落とされてな」 その時の千宏を思い出し、カアシュは小さく吹き出した。「……もう、全部知ってたよ。俺の義足は作れないって……」「……そうか」「金、出してくれるってよ……そう言ってきたんだ」 ブルックは目を見開く。「それでお前……どうしたんだ」「断ったよ」 一瞬口を開きかけ、ブルックは肩を落とす。それが安堵なのか落胆なのか、カアシュには見分ける事が出来なかった。「なんなんだろうなぁ……あいつ俺達に犯されそうになってよ、声も出ないくらい怯えて泣いてたんだぜ……? それが身体を売ってまで稼いでよ、そこまでして必要な金だったはずなのに、喧嘩別れした俺のためにそれを使っちまおうって言うんだ」 簡単に頷く事など、出来るはずがなかった。 首輪をつけて奴隷を装い、毎晩男に身体を開き、ヒトの千宏が文字通り命がけで稼いだ金を、どうしてトラである自分があてに出来ると言うのだ。「あいつがトラならよかったのになぁ……」 言って、カアシュは首の後ろを撫でた。トラでなくてもいい。とにかくヒトでさえなかったら、カアシュは喜んで申し出を受ける事が出来ただろう。 カアシュは怒りに燃える千宏の瞳と、今にも泣き出しそうに震えた声を思い出し、失ってしまった左足を静かに撫でた。「怒って当然だよな……」 ヒトである。ただ、それだけの理由だ。 千宏にはカアシュを救う力があり、救いたいと思う気持ちがある。だというのにカアシュは、こんな所まで追いかけてきて、笑顔で差し伸べてくれた友人の手を、千宏がヒトであるというだけで跳ね除けたのだ。その行為は、千宏の誇りをどれ程傷つけたことだろう。千宏の言うとおりだった。自分は、千宏を友達などと思っていない。ただ自分は、自分よりも弱い存在が欲しかっただけなのだ。「なあ、ブルック」「なんだ?」「俺……ハンターやめるよ……」 顎を落として、ブルックが振り返る。「なんだ、突然……」 冗談にしてもたちが悪いぞと低く唸るブルックに、カアシュは静かに首を振る。「突然じゃねぇよ。ずっと、ニャトリの奴らに言われた時から分かってたことじゃねぇか。俺みたいな体格のトラがまともな義足を作ろうと思ったら、とんでもねぇ額がいる。そうでなければ、粗悪品の間に合わせを作るしかないってよ」「だから、それをなんとかするために今頑張ってるんじゃねぇかよ! 専門家だかなんだか知らねぇが、赤の他人に言われた事にはいそうですかって従って、試してもみねぇで諦めるなんてトラのやることじゃねぇ! そうだろう!」「また、ネコみてぇだって言われるかも知れないけどよ」 カアシュは溜息を吐いた。「意地や誇りじゃ、どうにもなんねぇことだってあるだろ?」 今が、まさにその状況なのだと、カアシュは苦い笑いを浮かべて見せた。「それに、俺にはハンターをやめたって出来る仕事がちゃんとあるんだ。それなのに、向いているわけでもねぇハンターを続けるために、お前ら二人を犠牲にするなんて……」「カアシュ!」 ブルックが立ち上がり、叱り付けるような声を上げる。ソファを乗り越えてカアシュに詰め寄り、ブルックはカアシュの襟元を引っつかんだ。「“犠牲”だなんて、そんなつまんねぇこと考えるんじゃねぇ。俺達はチームだ。一人でも欠けたらなりたたねぇ。だから必死にやってんだ! お前がチームを抜けてみろ、カブラの馬鹿は全部のモンスターに全く同じ戦法で突っ込もうとしやがるぞ!」「俺が抜けたら、他の奴をチームに入れればそれですむ! 俺よりハンターに向いてる奴なんていくらでもいるだろう!」「馬鹿野郎! いったい何処に行きゃあこんなチビのトラにお目にかかれるってんだよ。 チビのクセにハンターやってる大馬鹿野郎に、どこに行けば会えるんだ? 他の種族に馬鹿らしいほど詳しくて、楽して大物を狩るような陰険な作戦を思いつく、弱者の戦い方を知ってるトラが一体何処にいるって言うんだよ!」「だったらトラ以外の種族をチームに入れりゃいいだろう! ネコやネズミなら俺よりよっぽど上等な知識を持ってて、俺より的確な作戦を考える。死の商場に行けよ。許可証持ちのトラがチームに入れてやるって言やあ、いくらでも優秀な人材が集まってくる!」「そんな奴らをまともに信用できるかよ! 俺達が組んで何年になると思ってる。百年だぞカアシュ。百年だ! 一人欠けたからって別の奴を引き入れることなんざできねぇんだよ。俺達はもう、お互いがいる事に慣れきっちまってる。代打はきかねぇんだ。お前を直せる技師を見つけるしか、方法はねぇんだよ!」「じゃあその技師が見つかるまで、俺はずっとお前らのお荷物を続けなきゃなんねぇのかよ!」 叫び返し、カアシュはブルックの腕を振り払った。「脚がないんだぞ……俺にはよ。お前らが俺のために駆けずり回ってる間も、俺には座ってることしかできねぇ。技師を探すって言ったって、見つかるって保証もねぇんだ。すぐに見つかる可能性だってあるさ、だが五年十年みつからなけりゃ、俺は確実にハンターとして使い物にならなくなってる。筋力を元に戻すのに、狩の勘を取り戻すのに、森での地形の変化を把握するのにどれくらいかかると思うんだ!」 それでも、カブラは技師を探すのをやめないだろう。 カアシュの脚を奪ったのは自分だと、カブラは完全に思い込んでいた。「今が引き際だ。ブルック。俺が今諦めるって決断しなきゃ、俺だけじゃなくて三人全員がハンターとして終っちまう。ただ座って毎日待ち続けることも、お前らが俺のために縛られ続けるのも、俺にはとても耐えられねぇ。俺はハンターとして生きた。なら引く時も潔く、ハンターとして引きたい。ハンターをやめた百年後も、お前らの仲間だって胸を張って言いたいんだよ!」 もうこれ以上、自分に失望したくはなかった。 ハンターとして生きられないからといって、トラとしての誇りまで失ってしまったら、自分はきっと立ち直れない。 誇りを失ったトラの末路は悲惨だった。トラは強い種族だ。例えカアシュがトラの中では弱くとも、他の種族から見れば十分に驚異になりうる。トラの誇りとは、決して他者に依存しないこと。弱者を支配しない事。例え群れで暮らそうと、一人で生きる力を持ち続けることだ。 その誇りを失った虎は、容易に暴虐の王者へと堕落する。そして更なる強者に滅ぼされるまで、自身の作り上げた狭い縄張りの中で弱者を嬲り続けるのだ。「……カブラが戻ってきたら、ちゃんと話すよ……それで、次の船で帰る」 ブルックは口を開きかけ、しかし結局何も言わずに上着を羽織る。カアシュは決断したのだ。 ブルックが部屋を出て、カアシュは一人部屋で過ごす。 その日の夜、ブルックもカブラも部屋に戻ってはこなかった。
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