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龍興記ネタ解説2」を以下のとおり復元します。
[[龍興記>龍興記解説]] > [[ネタ解説1>龍興記ネタ解説]] &bold(){ネタ解説2}
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#center(){[[▲ネタ解説1>>龍興記ネタ解説]]}
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*初回ノ伍
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:天道チュートリアル/大叔父上/次を担うニューホープ|肆と伍の間にあたる9月4日、「天道」体験版が出ている。うp主はさっそく「天道」変態チュートリアル動画「[[新録画実験ノ壱>>http://www.nicovideo.jp/watch/sm8155724]]」をうpした。チュートリアル担当は北条氏政と幻庵。幻庵は隙を見せると昔話をしたがるキャラになっている。氏政が妙ににやけた顔だが、これはチュートリアル専用のグラ。チュートリアルには脱線防止措置がされているらしいが、うp主は抜け道? を見つけてしまったようだ。脱線への執念、おそるべし。&br()
#なお、チュートリアルが進むと氏政は立派に成長する(覚醒の片鱗を見せる[[チュートリアル13(ただし「新録画実験ノ弐」)>>http://www.nicovideo.jp/watch/sm8291383]]→北条家を導く[[チュートリアル18(最終回)>>http://www.nicovideo.jp/watch/sm8269884]])。残念ながら龍興の期待は裏切られたようだ。
:このブルジョワめ/まじっすか|らきすたネタ。相変わらずのかがみん萌え。
:江戸っ子|画面の背景に映っているのは江戸周辺。近世の江戸っ子は、高価な「初鰹」の入手にこだわったり、「ホトトギスの初音」を人より早く聞くことを自慢するなど、「旬」に極度に敏感な文化を持っていた。
:蓋を開けたら阿鼻叫喚/周りがなんと言おうと楽しんだ者勝ち/恐ろしき次第|「ああ、昔はよかった……」。コーエーの新作がボロカスに叩かれるのは、歴ゲ板・三戦板界隈ではデフォルト。「革新」だっていろいろ言われた。文句を言いながら、なんだかんだで楽しむのだろうと思う。
:畠山の家老衆/仲いいなあいつら|能登守護・畠山家の「重臣」といっても、主君に絶対服従の家来ではなく、それぞれに所領と軍事力を持ち、自力で権益を確保し得る「独立の領主」であることをまず確認しておきたい。複雑怪奇な能州情勢は、老舗の能登畠山サイト「[[能登畠山氏七尾の歴史>http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/index.html]]」に詳述されているので、そちらを参照していただきたい。&br()
&font(red){《畠山七人衆の登場》}能登畠山家の最盛期を築いた名君・畠山義総が1545年に没すると、義総の下で統制されていた重臣・国人たちの抗争が起こり、能登国内は乱れに乱れた。抗争の中心にいたのは、先代の畠山義総に信任された実力者&bold(){温井総貞}と、守護代家出身の&bold(){遊佐続光(美作守)}であり、穴水の国人領主(もともと畠山の家来筋ではない)&bold(){長続連(対馬守)}も強力な軍事力でその存在を示していた。義総の跡を継いだ義続にこの騒乱を収める力はなく、重臣たちは結局自力で事態を収拾してしまう。1551年、義続は隠居して息子の義綱に家督を譲り、能登の国政は温井・遊佐・長ら「畠山七人衆」と呼ばれる重臣たちの合議組織で進めるようになった。&br()
&font(red){《温井+長 vs 遊佐》}合議組織ができたとはいえ、構成する面々が仲良く話し合って政治を進めていたわけではなく、時には武力衝突に至るのは従来どおりだった。1553年、温井総貞は長続連などほかの重臣たちとともに、政敵の遊佐を大槻一宮合戦で破る。遊佐は国外逃亡し、温井総貞は事実上能登に君臨することになるのである。&br()
&font(red){《長+遊佐 vs 温井》}畠山義綱は温井総貞の専横を快く思わず、他の重臣たち(長とか)と謀議の上、温井総貞を暗殺した。1555年のことである。温井一族は義綱陣営と争い、内戦は5年ばかり続くことになる。この内戦のさなか、総貞と対立していた遊佐続光は能登に復帰して義綱の重臣に収まっている。結局温井一族は敗れて能登国外へと逃れていく。その中には、総貞の孫の&bold(){温井景隆(備中守)}の姿もあった。&br()
&font(red){《長+遊佐+温井 vs 畠山義綱》}義綱は、当主の下への中央集権を目指して側近中心の政治体制を作るが、今度は「既得権益」を持つ重臣たちと対立するようになってしまう。1566年、遊佐続光・長続連らは共謀して畠山義綱を追放し、義綱の子・義慶を傀儡当主に擁立する。この政変ののち、温井景隆は能登に帰国して畠山家重臣に列した。これは、遊佐が長を牽制するために引き込んだともいう。&br()
&font(red){《遊佐+温井 vs 長》}1570年代には、能登へは東からは上杉家、西からは織田家の勢力が伸びてくる。長続連はいちはやく信長と通じ、遊佐(親上杉)・温井(親一向宗)を抑えて畠山家中の主導権を握った。1576年からの上杉謙信の能登侵攻に際し、長続連が主導する畠山家は堅城七尾に籠もってよく防いだが、城内では疫病が流行るやら当主義慶をはじめとする畠山一族がばたばた死ぬやら(遊佐・温井による暗殺説あり)という混乱に陥り、そんな状況下で遊佐・温井によるクーデタが発生。長一族は皆殺しにされ、1577年に七尾城は上杉家に降るのだった。&bold(){もうやだこの家中}。&br()
&font(red){《それぞれの結末》}長一族のうち生き残ったのは、織田家に援軍要請の使者として派遣されていた三男の&bold(){長連龍}だけであった。復讐に燃える連龍が先頭に立って織田軍は能登に侵入。遊佐と温井は今度は上杉を裏切り保身のために信長に降伏するが、遊佐は許されずに処刑された(遊佐は城を捨てて逃亡・潜伏したが、連龍に探し出されて処刑されたとも)。温井は越後に逃れて機会をうかがい、本能寺の変後のどさくさの折に能登奪回を目指したが、失敗して討たれることになる。連龍は前田利家の与力として活躍を重ね、のちに加賀藩家老3万3000石・穴水城主に収まる。長家はそのまま幕末まで続き、明治になると男爵に叙せられて華族となる。&br()
#コメントに「3人の義理合計いくつだ」とあったが、78である(遊佐11・長42・温井25)。意外に高い。
:逃がすとしぶとい|畠山義綱は1566年に重臣たちのクーデタにより追放されてしまうが、その後は六角氏の下に身を寄せ、能登の奪回を政治的・軍事的に図るなど、結構しぶとい行動を続けていた。結局能登回復がかなうことはなかったが、遊佐らの傀儡にされた息子たちよりも長生きし、1593年に近江余呉で没した。
:先の借|信玄は村上義清に2度大敗を喫している。上田原の合戦(1548年)では板垣信方・甘利虎泰らを、砥石崩れ(1550年)では横田高松らを失った。
:先祖の因縁に血縁|村上家([[wikipedia>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%8F]])は清和源氏出身で、平安時代から信州更級郡村上郷の領主として土着した一族。北信濃に大きな勢力を誇ったが、鎌倉幕府・室町幕府からは重要な役職を与えられず、不遇をかこった。室町時代初期~中期には信濃守護小笠原氏に不満を持つ勢力の旗頭として、小笠原家との争いを繰り広げた。ただ、室町中期以降は小笠原家の分裂もあり、同盟関係も複雑になっている。後述するように、戦国期の府中小笠原家と村上義清は縁戚になっている。
:先の戦|上田原の合戦(1548年2月)で討ち死にした板垣は諏訪郡代であり、小笠原長時(貞慶の父)はすぐさま諏訪の反武田勢力と呼応して諏訪に侵攻するが、塩尻峠の戦い(1548年7月)で大敗する。小笠原氏はその後も劣勢は覆せず、1550年に村上義清の許に逃れることになる。
:体が安定する/神より秘術を窺い知る|元ネタは[[この動画(ヤゴコロダンス)>>http://www.nicovideo.jp/watch/sm5721428]]。小笠原は八意永琳の「八意式健康術」([[ニコ百>>http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%A4%E3%82%B4%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9]])を修めたらしい。いかなる状況でも上体がぶれなくなるため、射術には有効かもしれない。
:小僧丸/伯父上|村上義清の正室は小笠原長棟の娘。すなわち小笠原貞慶(幼名・小僧丸)の義理の伯父に当たる。信玄に敗れた小笠原長時は、はじめ義兄の村上義清を頼って逃れた。
:信濃は村上の物だ|葛尾城主・村上義清は豪勇で知られた傑物であり、北信濃から東信濃まで勢力を伸ばして村上家の最大版図を築いた。
:否、我等の物ぞ|真田氏は、古代以来東信濃(佐久郡・小県郡)に基盤を持っていた豪族・海野一族から出ている。東信濃は15世紀後半以来村上と武田の角逐の場となり、海野一族は衰退。1541年に海野平の戦いで海野棟綱が武田・村上連合軍に敗れ、上州に逃れた。海野一族の真田幸隆(棟綱の子ともいう)にとって東信濃の奪回は悲願であり、史実では武田信玄と結ぶことで果たしている。
:(CM)|戦国ブックガイドこと「[[戦国時代が舞台の小説・漫画紹介>>戦国時代が舞台の小説・漫画紹介解説]]」。うp主マイリストにも書かれているが、歴戦ネタとしてではない、史実人物・小笠原貞慶も魅力的な生涯を送った人物。貞慶を主人公とした小説があってもいい。
:軍☆神|[[☆を入れるな☆を>>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/345.html#id_8294019e]]。
:人選からして/勝組/姪でも連れて来い|武田・上杉の精鋭の中では、成田長忠(統率45、武勇51、知略38)の援軍は「いないよりまし」程度。成田家は武蔵国忍の小領主であり、戦乱の関東にあってめまぐるしく立場を変え、当主の娘(甲斐姫)が秀吉の側室に迎えられたり、関が原で東軍についたりで、戦国を泳ぎ抜いて命脈を保った(ただし江戸初期に改易)。近年は『のぼうの城』で注目されたりしているため、一応は「勝ち組」と言えるかもしれない。長忠の父・長泰は、上杉謙信の関東管領就任式の際に下馬しなかったため、謙信に烏帽子を打ち落とされる屈辱を受けたといい、成田家と謙信の間には因縁がある。長忠の兄・氏長の娘である甲斐姫は、豊臣家の大軍を向こうにまわした美貌の女傑として有名だが、この年代ではまだ生まれていない。
:はい消えた|元ネタはテレビ番組「なるほど!ザ・ワールド」。(レギュラー番組としては)1981~96年放送。DIO様はおそらく無関係。
//↑乍勝手修正させていただきました>解説者様 
//↑愛川欽也の顔がすぐ浮かんだのに……。あやふや記憶に頼るのは危ういことですね。もとよりwikiは共同編集であり、わたし(解説初版執筆者)が私する物ではありませんので、勝手も何もございません。丁寧なご挨拶、恐縮です。
:小僧丸「天文13」|元ネタは八意永琳のスペルカード“天呪「アポロ13」”と思われる。あるいは“天丸「壺中の天地」”“秘術「天文密葬法」”あたりとも複合されているかもしれない。「小僧丸」は小笠原貞慶の幼名。天文13年は1544年だが、貞慶は天文15年(1546年)生まれのため、年号の意味ではかかっていないようだ。あるいは「射」の名手ということでゴルゴ13を想起させようとしている……のかもしれない。&br()
#年号の「天文」の読みは「てんぶん」が正しいとされているが、「てんもん」も許容されているらしい。
//うp主註:半兵衛の生年と記憶が途中でごっちゃに成ったらしいが、解説に解説をするのも無粋なのでコメントアウト
:別動画での怨念の跳ね返り|多くの動画において小笠原貞慶は、家宝を奪われたり処断されたり追放されたり爆弾にされたりしている。怨念も降り積もっているだろう。
:軍☆神最強装備|「革新」において、宇佐美が謙信の部隊に入ると、謙信唯一の欠点・知謀を補って手がつけられなくなる。宇佐美の愛称が「うさみみ」なところから装備あつかいされることも。
:水と相性が悪い|宇佐美定満は長尾政景と野尻湖で舟遊び中に「水死」した。水は宇佐美の死亡フラグ。
:霧には強いぞ|第四次川中島の合戦の際には霧が味方となり、上杉軍は八幡原合戦の武田本陣を衝くことに成功している。これは勘助の死亡フラグ。
:禁術「百万手式」|小笠原流には「百手式」あるいは「百々手式」という儀式がある(ももてしき。参考:[[小笠原流弓馬術礼法公式サイト>http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/lessons/hosha/momote/momote.html]])。本来は10人の射手が10手(=20本)の矢を射る(100手)ことで、魔物を鎮める神事である。「百手式」はそこそこ大きな神社などにも年中行事として奉納されているようなので、禁断の儀式というわけではないようだが、「百万手式」の実現はさすがに難しかろう。「百手式」は射手が入れ替わり間断なく矢を射るもので、見ごたえがあるらしい。「百」が「百万」になっているのは、伊吹萃香のスペルカード「百万鬼夜行」からのネタだろうか。
:新作の情報次第|「信長の野望 天道」は9月18日に発売。

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*初回ノ陸
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:妖精さん|大元のネタはアイルランドの妖精レプラコーン。地中に住み宝の在り処を知り、靴職人の作りかけの靴を主人が寝ている間に完成させるという。そこから派生して寝ぼけて記憶にない状態で仕事を片してしまう状態を言うようになった。もちろん碌な出来ではない。
:あたいったら最強ね|元ネタは東方projectに登場する氷の妖精チルノ。[[⑨=バカ>>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/130.html#id_4643a676]]扱い。
:実際には水軍を得るまでに/海を得て幾許もなく|挙げられているのは、史実における駿河侵攻の代償。信玄は1568年に駿河へ侵攻し、その後1年半ほどをかけて平定、念願の海を得て、伊丹氏などの水軍を配下に加えた。信玄はその後間もない1573年、信州駒場(長野県下伊那郡阿智村)で没している。
:明日はホームランだ|元ネタは吉野家のCM。松井秀喜が牛丼を食べて一言。
:柏崎より七尾っぽい|柏崎は目の前に日本海が広がるが、七尾は七尾湾に面している。入り江を抱えたグラにはイメージ的に近いかも。
:悲しいけどこれ戦国なのよね|元ネタはガンダム。スレッガー中尉の「悲しいけどこれ戦争なのよね」。
:本家は小笠原密着、三男は武藤の両天秤|真田家といえば両天秤。幸隆の長男は真田信綱、三男は武藤家(信玄の母方・大井家の一族)を継いだ真田昌幸。
:木曽は美濃|古代から中世にかけて、木曽谷は美濃国恵那郡の一部とみなされていた時期もあった。美濃と信濃との境界も不分明で、しばしば争いになったりもしたらしい。木曽谷全域が信濃国との認識が定着するのは戦国期、信玄がこの地に影響力を及ぼしてからであるという([[wikipedia>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E8%B0%B7]])。近年では、「木曽路はすべて山の中である」と記した島崎藤村の故郷、木曽路最南端の馬籠(旧長野県木曽郡山口村)が、2005年にすったもんだのすえ岐阜県中津川市に編入されたことが記憶に新しい。
:蜂の仔も触れそうにない|少年時代の信玄は芋虫が嫌いで、これを治すために馬場信房が「こんな芋虫にも触れないとは臆病な」と挑発して触らせたという逸話がある。信玄は力を入れすぎて握りつぶしたとも、指先まで血の気が引いて真っ青になったとも。木曽をはじめとする信州の山間部では、蜂の子・ざざ虫・いなごといった虫を加工した食品(佃煮など)が貴重な蛋白源として発達した。
:もふもふ兜/本当に使っている明確な記憶|グラにも描かれている「諏訪法性の兜」は、信玄が諏訪明神から授かったものと言われ、川中島の合戦の際に身に付けていたという。もっとも、武田=諏訪法性の兜のイメージが定着したのは江戸時代中期の人形浄瑠璃「本朝二十四孝・狐入りの段」に登場してからという。この作品は、謙信の娘で勝頼の許婚である「八重垣姫」が、上杉家が返さない武田家の家宝「諏訪法性の兜」を武田家に返すべく奮闘するというラブ&ファンタジーな物語。諏訪湖には八重垣姫の銅像が建てられている。
:直江津のオカマバー|直江津金魚。元ネタは「[[魔理沙遊興記>魔理沙遊興記解説]]」。
:郷に似て暖かい/今頃どうしておるやら|虎胤の流転については[[初回ノ弐>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/685.html#id_205f1e61]]参照。ゲーム上の年代(1562年)からまもなく、原虎胤は1564年没、高城胤吉は1565年没。
:三河者はどう翻っても関わらぬ遠き地|史実の徳川家は、約30年後に関東に関わるわけで。
:真田家の旗に長家の紋|長家の紋は銭九曜(参照:「[[武家家伝 長家>http://harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/tyou_k.html]]」)。
:覚醒|前回解説にもあるとおり、義綱はけっこうしぶとい。
:滅亡してからハッスル|龍興も滅亡してからむしろ生き生きとしている武将である。
:小笠原家と小笠原流|小笠原貞慶はいとこの赤沢経直(小笠原貞経)に小笠原流の古伝の一切を譲ったという。領主(大名)としての小笠原家と弓馬礼法の家元としての小笠原家を分けたのである。ちなみに「小笠原流」を掲げる流派はいくつかあり、「赤沢経直が貞慶から家元の地位を譲られた」とするのは、「小笠原流」最大勢力で経直の系譜を引く「小笠原弓馬術礼法」の掲げる所伝。
:奔馬|「八意式健康術」の元動画(動画:[[【東方】八意式健康術【手描き乗馬】>>http://www.nicovideo.jp/watch/sm4419531]])は、タイトルからも伺えるように「乗馬マシンシリーズ」([[ニコニコ大百科>>http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B9%97%E9%A6%AC%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA]])に現れた作品だった。小笠原流は流鏑馬をやっていたりするので、乗馬運動を鍛えるのは間違いではない。
:サクマー、ヤクマール、ミシュクマー|信長の野望・革新で「クマ」がつく武将は&bold(){佐久間氏(信盛、盛政、柴田勝政、安政)}、大熊朝秀、熊谷氏(信直、元直)、角隈石宗、神代勝利、隈部親永、&bold(){薬丸兼将}、&bold(){御宿政友}、松平氏の妙高院(熊姫)

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*初回ノ柒
|&nicovideo(sm8423164)|&nicovideo(sm8423656)|
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:小笠原右近と父子の数代|信玄の前に立ちふさがった猛将長時。信長・家康・秀吉に仕えて、旧領復帰・出奔・改易・帰参・大名復活と波乱の生涯を送った貞慶。大坂夏の陣は天王寺口の戦いで家康本陣を守って散った秀政・忠脩親子。父と兄の死により家督を継ぎ豊前小倉藩15万石の基礎を築いた忠真。戦国から江戸初期にかけての小笠原一族の物語はもっと知られてもいい。「家宝ネタ」が入り口でもいいから。
:先の関白秀次公|うp主が[[history-reproduction>history-reproduction解説]]で手がけた「[[秀次事件>【HR】秀次事件解説]]」。
:応仁期に武将と武将以外で一名ずつ/片方は「時」|「時」の人は山名宗全であろう。「例」(先例)にこだわる公家に対して、「時」(現実)を見据えて対処していくことの重要性を説いたという逸話がある。もう一人(武将ではない人物)はいろいろ詮索できそうだが、ここはうp主の秘密の趣向を楽しみたい。
:嘉吉の変|1441年に発生した、赤松満祐による将軍足利義教殺害事件とその後の赤松氏討伐戦。[[wikipedia>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%AE%E4%B9%B1]]参照。「くじ引き将軍」と揶揄されながら「万人恐怖」と称される強権的な中央集権を成し遂げた足利義教、80歳にして将軍殺しを決行した幕府の最長老・赤松満祐、赤松氏討伐軍の主力を率いた山名持豊(のちの宗全)、将軍暗殺の混乱の中で発生した嘉吉の徳政一揆、この一件で没落した赤松残党による「後南朝」からの神器奪回とお家再興(1443年)など、周辺人物・事件も含めて興味深い。
:八王の乱|三国を統一した晋(西晋)における皇族同士の内乱(291~306年)。西晋を崩壊に導き、中国大陸を長きわたる分裂と流血の時代に投げ込んだきっかけとなった事件である。大陸規模のお家騒動をされた日には、さしもの能登畠山家も霞んでしまう。[[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%B9%B1]]も参照。三国志の物語が「晋による統一」という意外な結末で終わり、多くの犠牲の果てに英雄たちが望んだ平穏が訪れたかと思いきや、実はまだまだ動乱の序曲にすぎなかったのである。鬱展開もいいところ。中国大陸の分裂は、隋による統一(589年)まであと300年ほど続く。
:影響の大きい初期の作品|愛称で呼ばれる作品群。それぞれ、[[OMIKATA(足利義輝の野望)>足利義輝の野望解説]]、[[霧雨(霧雨の野望)>霧雨の野望解説]] [[顔君主(君主は陶濬)>君主は陶濬 解説]]、[[山賊志(三國志Ⅳで中国征服)>三國志Ⅳで中国征服解説]]、[[ダメ殿軍神(ダメ殿・憲政を軍神に仕立て上げる )>軍神憲政解説]]。
:九州席捲/偉大なる先人|[[九州席巻>>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/317.html#id_811fb19c]]は無理ゲーとして名高い。「[[S4全なし河野家>>S4上級全なし河野家解説]]の人」ことコナン氏がZOOMEでクリア動画を上げている([[http://circle.zoome.jp/nobu12playvideo/media/66/]])

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*第弐回ノ壱
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:世の中、どんな形であれ結果をださないと意味ないんじゃね?|龍興自身のことでもあるのだろう。暗君として評価されているのも結果を出さなかったから。城を失っての後の奮闘は視聴者の知るところだが(まだご存じない方は[[竹中半兵衛の憂鬱 大尾>>http://www.nicovideo.jp/watch/sm5940859]]参照)、いくらがんばったところで結果を残していないために、その努力が世の中で広く評価されているとは言いがたい。
:結構万能/足軽は第一線、弓と内政を最高級|太田牛一は、信長に直仕した「弓三張」と呼ばれる弓の名手の一人であった。1564年の堂洞城攻め際には弓の働きを信長に褒められた――と太田牛一著『信長公記』に書いてある。金ヶ崎の退き口にも活躍する一方、織豊政権で代官や奉行の職務もこなす、すぐれた吏僚でもあった。『太閤立志伝V』では、統率37、武力79、政務62、智謀66、魅力71で礼法3、弁舌3、弓は4という能力値。「統率だけ低い」というのも珍しい。
:浅井の大殿、じゃなかった下野殿|「人は城」は1555年5月スタート。まだ隠居させられていない。
:あんたの甥、ひょっとしたら孫|龍興の母は近江の方。浅井久政の娘(養女)とも妹ともいう。ただ、久政(1526年生まれ)・義龍(1527年生まれ)・龍興(1548年生まれ)という生年を信じるならば「近江の方=久政の実の娘」は厳しい(久政と龍興が22歳差)。よって、久政の養女(実は久政の妹)という説が有力なようだ。
:ゲーム内の年代|1555年当時、龍興(幼名・喜太郎)は8歳である。
:親父に似てでかい|[[斎藤義龍>>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/253.html#id_3d621091]]([[wikipedia>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%BE%A9%E9%BE%8D]])は巨体の持ち主で、「六尺五寸殿」と呼ばれたという(身長6尺5寸=約197cm)。
:半兵衛も浅井家には世話になってる|稲葉山城奪取の一件(1564年)の後、半兵衛は浅井長政の客分になっていたことがある。もちろん、1555年の久政たちが知りようがない。
:前作では|前作「竹中半兵衛の憂鬱」。古くから暗君の謗りを受ける久政だが、近年は再評価を唱える声もある。
:天下を左右するのがごろごろ|北近江出身者では石田三成・藤堂高虎が著名。このほか、増田長盛・脇坂安治・宮部継潤・田中吉政・片桐且元・大谷吉継(異説あり)などもこの地域出身。
:懐かしい景色だな|浅井家とは、前作「竹中半兵衛の憂鬱」からの長い付き合い。
:磯野ー、戦しよーぜ!|元ネタはサザエさんから、中島の「磯野ー、野球しよーぜ」。サザエさんの先祖には、幕末期に「磯野藻屑源素太皆」という人物がいたことが知られるので、あの磯野家は源姓である。[[武家家伝>>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/om_isono.html]]によると磯野員昌の磯野氏には源姓という説があるらしい(もしくは菅原姓)。おそらく偶然であろう。
:守りに入ると死亡フラグ/出たら出たで半々くらい|堅城・小谷に本拠を構えた浅井氏であったが、北の朝倉・南の六角・東の土岐斎藤といった強大な勢力に脅かされ、亮政も久政も外交に苦慮している。しかし、浅井亮政が一介の国人から上り詰め北江の支配者の地位を掴み取った時、六角氏に背いた長政が「野良田表の合戦」に勝利した時、信長に「志賀の陣」で窮地にまで追い詰めた時……攻め続ける浅井家は輝いていた。姉川の合戦で躓くのだが。
:ノーカン|紙芝居(ストーリー)上で登場する雨森弥兵衛清貞だが、「革新」には登場しない。よってノーカウント。&br()#「天道」デフォルトでも登場しないが、公式サイトで「タイアップ武将」として配布されている。復活おめでとう!
:美作(赤尾)殿のほうが城代には向いて御座ろう/城を乗っ取る|赤尾清綱は浅井家重臣であり、小谷城内に「赤尾曲輪」と呼ばれる居館を持っており、そこに在番していた。「城を乗っ取った」のは、久政の強制隠居の際。
:(平和なCM)|「[[登用プレイ>>登用プレイ解説]]」。兵士たちの血が一滴も流れない平和な乱世。渦巻く謀略と駆け抜ける裏切りの上に「黒い平和」が打ち立てられた。
:六角への意趣返し|一代の英傑亮政によって浅井氏は北近江の実権を握ったが、久政の頃には周辺諸勢力に攻め込まれるなど危地に立たされた。浅井氏は六角氏からは下に見られており(六角氏は近江源氏の流れを汲む近江南半国守護、浅井氏は六角の分家である京極氏に仕えた国人の出身)、従属的な同盟を結ばされることになる(浅井長政の最初の妻・平井氏は、六角家重臣の娘)。きっとストレスも溜まっていただろう。

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*第弐回ノ弐
|&nicovideo(sm8897947)|&nicovideo(sm8898428)|
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:(太田牛一)|うp主が設定したステータスは、統率41、武勇83、知略73、政治79で、義理32。声は猛将タイプ。適正では足軽B、弓A、内政Aが目を惹く。嫌悪武将は[[小瀬秀正(甫庵)>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%80%AC%E7%94%AB%E5%BA%B5]]。牛一のことを「愚にして直」(正直すぎてツマンネ)と評した人物。&br()列伝に曰く、「織田家臣。弓の腕前で頭角を現した後、信長の側近として政治にも携わり、変後は秀吉に仕えた。信長、秀吉、家康等の軍記を残し、特に「信長公記」は有名。」
:近江の代官の事|牛一は信長の下、近江で代官をしていたことがある。もちろん浅井家滅亡後の話。
:[[こやつめ、ハハハ>>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/320.html#id_49e5b503]]|ハハハ。
:吉田先生|六角家家臣で、弓道[[日置流(へきりゅう)>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BD%AE%E6%B5%81]]中興の祖となった吉田重政。弓Sという技能を持つため部隊に同行させると便利で、革新プレーヤーの間では「吉田先生」と呼ばれて親しまれている。(小笠原流を別として)近世に広がったほとんどの弓術流派がこの人につながるというものすごい人。剣術界でたとえれば「剣聖」と目される塚原卜伝・上泉信綱クラスに相当するだろう。
:六角のカリスマ/烏丸六角|後藤賢豊は進藤貞治とともに「六角氏の両藤」と呼ばれた重臣中の重臣。人望も厚かったようで「カリスマ家老」と言えるかも知れない。「烏丸六角」は京都市内を東西に走る六角通(四条通の3本北)と南北に走る烏丸通(地下鉄も走る幹線道路)の交差点。ここにある頂法寺はその本堂の形から「六角堂」と呼ばれ、通りの名もそれに由来する。六角氏は、先祖(近江源氏佐々木氏の嫡流)が鎌倉時代に六角堂付近に屋敷を構えていたことからこれを家名にしたものである。六角堂は華道の「池坊」ゆかりの地でもあり、今も付近に「池坊会館」があるなど華道の中心地のひとつである。
:小僧だが有望そうなの/ウホ謙信|上杉謙信に仕えた河田長親は近江の国人の子と言われ、謙信が上洛した際に見出されて側近に取り立てられたという。智勇兼備の将として知られ各地を転戦、永禄年間からは織田軍に対する越中方面の総司令官として奮戦したが、1581年に死去した。生年はいくつか説があるようだが、革新では1540年生まれと設定されている。美貌の持ち主だったというが、謙信とそういう関係であったかどうかはわからない。
:暗殺とかされない|1563年、六角家重臣後藤賢豊は、主君義治(義賢の子)に観音寺城内で殺害される。義治側の言い分としては「実権を取り戻して中央集権化を図りたかった」などがあるようだが、この事件に対して家臣たち(もともと国人たちは独立性が強い)は動揺や反発を示し、義賢親子は一時観音寺城を追われた挙句、大名の権利に制約が加えた「六角氏式目」を認めさせられるなど、六角氏の支配力は大いに低下する。この一連の騒動を[[観音寺騒動>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E9%A8%92%E5%8B%95]]という。
:判らないことは調べろ/グーグル八分|googleは、「ググる」という言葉が定着するほど基本的なツールとなった検索エンジンの代表。逆にgoogleが検索結果にフィルターをかけてしまうとユーザーは情報に到達できなくなり、ものごとの存在自体が認識されなくなってしまう。これを「村八分」になぞらえて「[[グーグル八分>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E5%85%AB%E5%88%86]]」と言う。
:承禎君/時代考証を間違えただけ|六角義賢が嫡男義治に家督を譲り、承禎と号するのは1559年。
:碌な跡継ぎもなしに|六角義賢は家臣である吉田重政に弓の教授を受け、その家伝を譲られている。なのだが、重政は一旦これを拒んで越前に逃げているし、家伝が絶えることを避けるために四男を京都に逃がしている。主君が権柄づくで弓の「家元」の座を奪ったと言われてもしかたない。
:家のことを悪く言った報い|義賢が家臣に宛てた、斎藤家のことを「出自が胡散臭え」とけなしてる手紙が残っている。この文書のおかげで「“斎藤道三の国盗り”は親子二代で行ったこと」といったことがわかる。
:未来|龍興・半兵衛は、もう来てしまった「未来」の歴史を知っている。メタだからしょうがない。
:(義)父上|朝倉景紀は、大叔父にあたる宗滴の養子になり、敦賀郡司を継いだ人物。この親子はお隣の「[[あずさの天下創世>>http://www5.atwiki.jp/imaska/pages/241.html]]」([[ニコ百>>http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%95%E3%81%AE%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E5%89%B5%E4%B8%96]])で重要なポジションについており、ここでの景紀は「ノリ」として親しまれている。
:同盟なんぞ利害の産物ぞ。従属させるか利で釣るのさえ……|1525年、北近江を制した浅井亮政が美濃土岐氏の紛争にちょっかいを出したとき、朝倉宗滴は六角氏とともに「武力介入」している。宗滴は小谷城に半年間駐留し、浅井家と朝倉家は同盟を結んだ。この同盟を「対等同盟」とみるか「従属同盟」とみるかには諸説ある。
:浅井六角は豊臣になってもカオス|&font(red){《カオスな浅井家》}浅井家は「敗者」でありながら、秀吉がその旧領を治めたり、淀殿が秀吉の側室となった縁もあり、浅井家の縁故者や「近江閥」が豊臣政権中枢に入っている。「浅井長政の落胤」説があり、「根津甚八のモデル」ともされる浅井井頼のような、よくわからない人もいる。&br()
&font(red){《カオスな六角家》}六角義賢は(龍興同様?)信長に対してかなりしぶとい戦いをした人で1598年まで生きた。後年本願寺にかくまわれたとかキリシタンになったとか言われている。義賢の子(義治の弟)の六角高定(義定)はのちに江戸幕府に仕えて旗本となった(高家の六角家は公家出身であり、戦国六角氏の一族ではない)。&br()
六角家は近江源氏佐々木氏嫡流という名門だが、室町後期・戦国時代の系譜は混乱しており、中央政界を動かした有力大名のわりにはっきりしない部分が多い。のちに偽系図や偽歴史書(とみなされているもの)が出回ったりしたことも事態を複雑化させている。六角義賢の系統は分家にすぎず「嫡流」は別にあるという「異説」があり(安祥松平とか伊作島津とか平戸松浦とか、実権を握った有力分家が嫡流を圧倒すること自体はよくあること)、その説では「嫡流」とされる六角義郷という人物はたしかに秀吉に召し出されている。しかし、彼らの所伝(とされている物語)、たとえば「羽柴秀吉は流浪時代に六角嫡流六角義秀に仕え、諱を賜った」とかなんとか話を史実とみるのには否定的である。&s(){しかしがんばっている人がいて}
:朝倉の馬鹿息子も六角出の説|朝倉義景は六角家から迎えられた養子だとする説がある。なお、浅井久政にも六角出身説がある。家内統制が難航したことなどが説明できるとされるが、どちらも「異説」としての扱いにとどまる。それにしても、斎藤の馬鹿息子が何を言う。
:竹生島/間違いなくこいつも加担|竹生島は琵琶湖に浮かぶ信仰の島で、浅井久政が押し込められたことで有名。阿閉氏の居城・山本山城(現:滋賀県東浅井郡湖北町)のある山本山からは、竹生島を西に眺めることができる。阿閉貞征は浅井家重臣にして要衝の城主であったが、織田氏の攻勢の中で浅井家を裏切って所領を安堵され、羽柴秀吉の寄子となった(のちに信長の直臣になったようだ)。浅井時代は不明だが少なくとも信長政権で阿閉氏は竹生島に知行を持っており、秀吉とこれをめぐって争っている。
:行動のタイミングとか結果とか/RIKISHI級の父親|阿閉貞征・貞大父子は本能寺の変の際に明智光秀に加担、遺恨のある秀吉の長浜城を攻めた。そんなこんなで結局、滅ぼされてしまう。信長の野望での阿閉貞征はワーストランキングの常連。貞大は強力の持ち主で相撲の上手として知られ、相撲好きの信長から相撲イベントの奉行を任されたり、当人の相撲っぷりを所望されたりしている。
:ローゼン宮部|「信長の野望烈風伝」や「太閤立志伝5」で使われた顔グラ(゚⊿゚) が、「ローゼン閣下」こと某元首相と似ていたことから。[[ニコニコ大百科>>http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E7%B6%99%E6%BD%A4]]参照。革新の顔グラではそれほど似てない。
:マイ甲冑|天海が着用したという鎧が伝わっており、現在博物館大阪城で見ることができる。
:戦国武将列伝|[[アイドルが紹介する戦国武将列伝>>アイドルが紹介する戦国武将列伝解説]]。うp主が述べているように、本動画投稿時点で最新作の第5回で「竹中半兵衛の憂鬱」が紹介された。後藤賢豊が紹介されたことがある。
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*第弐回ノ参
|&nicovideo(sm9149636)|&nicovideo(sm9149857)|
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:あんころ和尚|「[[豊臣家の盛衰>>豊臣家の盛衰解説]]」より。
:納豆が御座れば極楽極楽|天海には、徳川家康に初めて謁見した際に好物の納豆を献上したというエピソードがある。「自身の健康の源」と言ったというから、健康マニアの家康とは気が合ったのかも知れない。
:まだ天海を名乗ってないんじゃね?|天海を称したのは1588年に川越の喜多院に移ってから。その前は「随風」という名だったという。
:明智とか三宅とかな|天海和尚の謎に包まれた「前半生」「正体」をめぐるあれこれ。明智光秀説というのは有名だが、光秀の娘婿である明智秀満(三宅弥平次)と同一人物との説もある。革新には光秀と天海が別々に登場するので、「システム」的には別人説。
:親父にでも似た|久政の父・浅井亮政は、国人一揆をよく束ね、ついに北近江の支配者に躍り出た。
:親子なれば似るのが道理/俺の親父の悪口|蝮と呼ばれた親父、その蝮を討った息子。「義龍は道三の実の子ではない」ともいうけれど、戦国を生きるよく似た親子にも見える。……え? 龍興の馬鹿っぷりが義龍ゆずりだなんてまさかそんな。
:今日も参りましたな、殿への刺客|実際、長慶は暗殺未遂事件に遭遇しており、義輝が関与したとか。弾正が説明すると弾正が一番の黒幕に見えるふしぎ。
:この時期に公方様が京におわす|戦国期、中央政界の抗争により将軍はしばしば京を追放された。史実の1555年時点、義輝は近江朽木にいる。これは1553年に三好長慶との戦いに敗れて京を追われたため。1558年5月に六角義賢とともに東山まで進軍して布陣、11月に三好家との協定が成立し、入洛を遂げる。
:(アイマス天下創世系動画に多大なる敬意を表して)|「[[アイマス戦記『秀吉』>>http://www5.atwiki.jp/imaska/pages/299.html]]」、「[[燃えよ双星>>http://www5.atwiki.jp/imaska/pages/219.html]]」などでも活躍中。
:長慶も幼き頃より釁(ちぬ)られし人生を送った|11歳のとき、父三好元長は一向一揆に討たれる。じつは元長の勢力拡大を嫌った主君細川晴元の差し金と言われる。長慶は助命され父殺しの黒幕である晴元に仕えて隠忍のときを送り、やがて復讐の刃を向けることになる。
:覚慶|1555年時点で足利義昭(義秋)はまだ仏門に入っている。
:御病気|中二病。[[ニコ百>>http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85]]も参照。
:将軍故致し方なし|一介の中学生が神だか悪魔だかの生まれ変わりと主張したり(自分は出自が違う=選ばれた特別な存在であるという願望)、意のままに全世界の運命を左右するような台詞を吐くのが「中二病」的と言われるもの。義輝は飾るまでも無く将軍家出身で、(いちおう)権威と権力を持っているホンモノだから仕方ない。地に落ちた権威と権力が厳然として存在するかのように振舞ったという点で「中二的」と解釈できるかもしれない。
:二人並んでいる矛盾|仏門に入っていた義昭が政治に関わるのは義輝死後(還俗は1566年)なので、この二人が並んで活躍するのは本来ありえない。
:因縁多いのが居る|細川藤孝(幽斎)には、「足利義晴のご落胤」説がある。これを信じるならば藤孝は義輝・義昭兄弟の庶兄ということになる。義晴がすでに身ごもっていた側室(清原宣賢の娘)を、家臣である三淵晴員に下げ渡した……というのだが、われらが斎藤家にも義龍の出生をめぐって似た話があるのは周知の通り。
:前にやったことある|本シリーズ中では「[[七弾正の野望>>http://www7.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/553.html#id_520abda0]]」で、弾正たちと一緒に攻めている。
:何年後の話|史実では15年後の話。1570年1月、反信長の戦いをつづけ三好三人衆を頼っていた斎藤龍興は、かれらとともに将軍足利義昭を攻め殺そうとした。当時義昭は信長が擁立していたため。本圀寺の変([[wikpedia>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89]])である。
:そうだ京へ行こう|元ネタはもちろんJR東海のキャッチコピー。そうだ、京都、行こう。
:敵は本国寺にあり|現在の名称は「本圀寺」だが、当時の名称は「本國寺」だったようだ。「國」の現行の字体が「国」。
:公方様に弓を引く|戦国期の近江六角家は、しばしば京を追われた将軍家を保護した。六角義賢と足利義輝とはともに京都に攻めのぼる仲。

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*第弐回ノ肆
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:旧正月も過ぎちまったぞ|前回の解説文で、次回うpが正月過ぎと告知されていた件。本作は3月4日にうpされた。リアルおだいじに。
:人の大切さを痛感し|ずいぶん追放されたぞ。
:百地正西|百地屋敷(名張市竜口)の主、百地丹波守。NINJAの虚飾を剥げば、ぶっちゃけ伊賀の土豪なのである。
:爆発しちゃったリア充|リア充爆発しろ([[ニコ百>>http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%85%85%E7%88%86%E7%99%BA%E3%81%97%E3%82%8D!]])。リアル(現実生活)が充実している連中へのルサンチマン。
:リアルで住職|通称「リア住」。ニコ動一般では蝉丸Pが有名。歴戦界隈では、[[蓮子の本願寺教室>>蓮子の本願寺教室解説]]の人がリア住(本願寺派僧侶)。
:刀剣の間の封印を解く/御蒐集の『刀』|義輝は、足利家伝来の「鬼切国綱」「童子切安綱」「骨喰藤四郎」「大典太光世」といった名刀の持ち主でもある。松永久秀らに襲撃された際には、これら秘蔵の名刀を床に突き立てて戦ったという。
:れきしのほうそくがみだれる|元ネタはFF5の「うちゅうのほうそくがみだれる!」。乱れさせっぱなしの龍興、お前が言うな。
:CM|うp主作の支援CM動画([[単体>>http://www.nicovideo.jp/watch/sm9903188]])。「自分の歴戦動画制作の切掛と言える作品」という「[[足利義輝の野望>>足利義輝の野望解説]]」。だめ病気が悪化する。
:瀬田の唐橋/これを渡れば/匙は投げられた|ユリウス・カエサルの[[ルビコン川>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%B3%E3%83%B3%E5%B7%9D]]の故事より。外征に従事した将軍が、属州とローマ本国との境界をなすこの小川を、武装解除せずに渡ることは、ローマ共和国への反逆を意味した。このときのカエサルの名言は、半兵衛の突っ込み通り「[[賽は投げられた>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%BD%E3%81%AF%E6%8A%95%E3%81%92%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F]]」である。&br()瀬田の唐橋は瀬田川に掛かる橋で、東国から京に入る際の要衝。兵を率いてこれを渡れば、いよいよ上様に仇なす逆賊として引き返せなくなるだろう。
:ムカデでも|[[俵藤太(藤原秀郷)>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7]]が、三上山(近江南部)の大ムカデを射て退治した伝説から。物語は、瀬田の唐橋で、俵藤太が龍神の一族の娘と邂逅するところからはじまる。
:六角の名を/やめてくれ|やーい、「将軍に弓引く六角」。六角氏は史実では将軍家に忠節を尽くした。
:密命書|「お手紙将軍」義昭。諸大名に密書を送り「信長包囲網」を構築したという。
:日置弾正|日置弾正正次。「吉田先生」こと吉田重政の父・重賢が学んだ、弓術「日置流」の開祖とされる人物。伝説に彩られた人物であり、吉田重政と同一人物との説や、架空説もある。
:天海は呼ばんぞ|100歳を越える長寿として有名。
:太陽を蝕む羅睺星の化身|[[羅睺星>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95]](らごうせい)は、インド占星術に起源を持つ「九曜」の一つ。悪星とされ、日食や月食を起こすという。
:御主の父の恩|[[六角定頼>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E5%AE%9A%E9%A0%BC]]は、細川氏によって京を追われた足利義晴(義輝の父)を保護し、忠節を尽くした。義輝の烏帽子親でもある。
:[[童子切安綱>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A5%E5%AD%90%E5%88%87]]|天下五剣の一つ。源頼光が酒呑童子の首をはねた刀と伝えられる。当時は足利将軍家の所有。現存し(東京国立博物館蔵)、国宝指定されている。
:大樹|「たいじゅ」。将軍のことを指す。
:馴染むぞ、実に馴染むぞ|元ネタは「ジョジョの奇妙な冒険」。
:余を殪せる者は居るか/ここにはいねーぞ|ご存知、魏延「わしを殺せる者はおるか」×3→馬岱「ここにいるぞ」のパロディが元ネタ。
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