《温井+長 vs 遊佐》合議組織ができたとはいえ、構成する面々が仲良く話し合って政治を進めていたわけではなく、時には武力衝突に至るのは従来どおりだった。1553年、温井総貞は長続連などほかの重臣たちとともに、政敵の遊佐を大槻一宮合戦で破る。遊佐は国外逃亡し、温井総貞は事実上能登に君臨することになるのである。
《長+遊佐 vs 温井》畠山義綱は温井総貞の専横を快く思わず、他の重臣たち(長とか)と謀議の上、温井総貞を暗殺した。1555年のことである。温井一族は義綱陣営と争い、内戦は5年ばかり続くことになる。この内戦のさなか、総貞と対立していた遊佐続光は能登に復帰して義綱の重臣に収まっている。結局温井一族は敗れて能登国外へと逃れていく。その中には、総貞の孫の温井景隆(備中守)の姿もあった。
《長+遊佐+温井 vs 畠山義綱》義綱は、当主の下への中央集権を目指して側近中心の政治体制を作るが、今度は「既得権益」を持つ重臣たちと対立するようになってしまう。1566年、遊佐続光・長続連らは共謀して畠山義綱を追放し、義綱の子・義慶を傀儡当主に擁立する。この政変ののち、温井景隆は能登に帰国して畠山家重臣に列した。これは、遊佐が長を牽制するために引き込んだともいう。
《遊佐+温井 vs 長》1570年代には、能登へは東からは上杉家、西からは織田家の勢力が伸びてくる。長続連はいちはやく信長と通じ、遊佐(親上杉)・温井(親一向宗)を抑えて畠山家中の主導権を握った。1576年からの上杉謙信の能登侵攻に際し、長続連が主導する畠山家は堅城七尾に籠もってよく防いだが、城内では疫病が流行るやら当主義慶をはじめとする畠山一族がばたばた死ぬやら(遊佐・温井による暗殺説あり)という混乱に陥り、そんな状況下で遊佐・温井によるクーデタが発生。長一族は皆殺しにされ、1577年に七尾城は上杉家に降るのだった。もうやだこの家中。
村上家(
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)は清和源氏出身で、平安時代から信州更級郡村上郷の領主として土着した一族。北信濃に大きな勢力を誇ったが、鎌倉幕府・室町幕府からは重要な役職を与えられず、不遇をかこった。室町時代初期~中期には信濃守護小笠原氏に不満を持つ勢力の旗頭として、小笠原家との争いを繰り広げた。ただ、室町中期以降は小笠原家の分裂もあり、同盟関係も複雑になっている。後述するように、戦国期の府中小笠原家と村上義清は縁戚になっている。
古代から中世にかけて、木曽谷は美濃国恵那郡の一部とみなされていた時期もあった。美濃と信濃との境界も不分明で、しばしば争いになったりもしたらしい。木曽谷全域が信濃国との認識が定着するのは戦国期、信玄がこの地に影響力を及ぼしてからであるという(
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)。近年では、「木曽路はすべて山の中である」と記した島崎藤村の故郷、木曽路最南端の馬籠(旧長野県木曽郡山口村)が、2005年にすったもんだのすえ岐阜県中津川市に編入されたことが記憶に新しい。
1441年に発生した、赤松満祐による将軍足利義教殺害事件とその後の赤松氏討伐戦。
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参照。「くじ引き将軍」と揶揄されながら「万人恐怖」と称される強権的な中央集権を成し遂げた足利義教、80歳にして将軍殺しを決行した幕府の最長老・赤松満祐、赤松氏討伐軍の主力を率いた山名持豊(のちの宗全)、将軍暗殺の混乱の中で発生した嘉吉の徳政一揆、この一件で没落した赤松残党による「後南朝」からの神器奪回とお家再興(1443年)など、周辺人物・事件も含めて興味深い。
八王の乱
三国を統一した晋(西晋)における皇族同士の内乱(291~306年)。西晋を崩壊に導き、中国大陸を長きわたる分裂と流血の時代に投げ込んだきっかけとなった事件である。大陸規模のお家騒動をされた日には、さしもの能登畠山家も霞んでしまう。
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も参照。三国志の物語が「晋による統一」という意外な結末で終わり、多くの犠牲の果てに英雄たちが望んだ平穏が訪れたかと思いきや、実はまだまだ動乱の序曲にすぎなかったのである。鬱展開もいいところ。中国大陸の分裂は、隋による統一(589年)まであと300年ほど続く。