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地名(三国志) - (2009/08/17 (月) 21:03:02) の編集履歴(バックアップ)


ここは三国志に出てくる有名な都市・地名を動画内での状況などと併せて紹介していくページです。
史実の流れや各動画の軌跡を振り返ってみてはどうでしょう。




安定(アンテイ)

涼州。
近くに戦略上の要所とされる街亭がある。
また交州の定安のことをさす場合もある。

永安(エイアン)

益州。
別名白帝城。劉備が死んだ場所。孔明の北伐の時は李厳が守っていたことがある。
また、羅憲が寡兵をもって蜀滅亡後の混乱に乗じ領土を奪おうとした呉軍の大軍から永安城を守りきった。



宛(エン)

南陽郡。何気に前漢・後漢の中心都市の一つでもある(他は洛陽と長安)。
張繍率いる張済軍残党が曹操軍に降伏した場所。
しかし、張繍は張済の未亡人が曹操に取られたことを怒り反逆。
結果、曹操は危ういところで生き延びたものの、長男曹昂と武将の典韋を失った。




会稽(カイケイ)

春秋時代呉越戦争における「会稽の恥」という故事成語で知られる。
孫策が王朗を破って以来、彼の勢力(いわゆる孫呉)の中心地となる。
治所のある山陰県は今の紹興市にあたる。

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深い森を抜けるとそこは会稽だった。
後のカリスマ君主の輝かしい第一歩である。





街亭(ガイテイ)

安定の近く、戦略上の要所とされる。
諸葛亮の第一次北伐の際のここの守備を任された馬謖は命令に反して山頂に布陣し、大敗。
責任を取らされて処刑された。


合肥(ガッピ)

揚州における魏の主要拠点であり、孫権にとってのトラウマの地。
張遼が800人で呉軍をフルボッコにした215年の戦いが有名だが、
孫権はそれ以前・以降にも何度か合肥を攻め、攻略に失敗している。
つまり、魏呉両軍にとってそれほど重要な拠点だった、ということ。

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本物孫堅軍が蒼天孫権を総大将として侵攻。
北郷軍には張遼が二人いたため誰もが負けフラグだと思っていた。
が、そこはカオスで有名な中華武将祭り。
本物孫堅軍にも張遼が三人いた。
かくして敵味方入り混じったライライ祭が発生した。


下邳(カヒ)

徐州。
徐州時代の劉備の本拠地。のちに徐州は呂布に奪われるが、曹操軍により、呂布はこの地で処刑される。
曹操を裏切った劉備は再び徐州を治めるが曹操に敗れ、下邳にいた関羽らが囚われる。

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激戦地の一つ。
セイバー軍の都市であったが、チルノ軍10万の侵攻に対して援軍は間に合わないと判断し、撤退。
アーチャーが兵3万を率い、北海への撤退の時間を稼ぐことになる。
最初から本気のアーチャーの怒涛の猛攻により、アルルゥ、藤原妹紅、八雲紫、レティ・ホワイトロック、八雲藍、オボロ、クーヤ、うどんげ、蓬莱山輝夜、ハクオロ、リリカ・プリズムリバーら名立たる武将たちが狙撃され、6部隊が壊滅する。

そんな中、偽報により遅れてやってきた君主チルノが一人気を吐き、弩兵熟練2000のアーチャーに対し三度の狙撃を成功させ、格の違いを見せ付けた。

終わってみると、敵兵3万に対しチルノ軍の損害は8万以上と思われ、英霊の恐ろしさを視聴者に強く印象付けた戦いであった。



漢中(カンチュウ)

劉邦が封じられ、前漢王朝の始まりとなった地。
周りを山で囲まれ攻めるに難く守るに易い土地であり、
また山の間には盆地が存在し食糧生産量も多いため、戦略上においてもしばしば要衝となった。
三国志においても、お米こと張魯率いる五斗米道が拠点として一大勢力を築いたり、
ここをめぐり定軍山の戦いが行われたり劉備が漢中王に即位したり、
果ては諸葛亮が北伐の拠点にしたりと、ちょくちょく登場する重要な場所である。


官渡(カント)

許の北方。
袁紹との決戦(通称官渡の戦い)における曹操軍の本陣。



許(キョ)

曹操の本拠地。曹操はこの地に献帝を連れてきて首都とした。
許昌、許都とも呼ばれる。


鄴(ギョウ)

業におおざと。冀州の大都市。
袁紹が統治していたが204年に曹操に移り、以後曹操勢力の中心都市となる。
二喬を侍らせたいと言った「銅雀台」の建立地もここ。


薊(ケイ)

幽州。
今の北京に当たる(北平も?)。

剣閣(ケンカク)

姜維率いる蜀軍最後の戦いの地。漢中と蜀をつなぐ位置にあり、ゲーム中でも重要な拠点。
三国志Ⅸでは 壺関 と並ぶ最強の関。左右に櫓や城塞を配置すると関に到達する前に敵部隊が壊滅してしまうこともある。


建業(ケンギョウ)

→秣陵(マツリョウ)の改名後の名前。詳しくは秣陵を参照。

呉(ゴ)

揚州。
秣陵(建業)の前の孫権らの本拠地。
もともと厳白虎が割拠していたが孫策に敗れる。
後の国号の「呉」は魏によって孫権が呉王に封じられたため。


江夏(コウカ)

荊州。
三国志11では立地条件が非常に悪い
(川からほとんどの内政施設に攻撃される、あまり内政施設を建てられない。)

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チルノ補正の歴史に名を刻む都市。

劉備軍に滅ぼされたチルノ軍だが、半年もたたずにチート集団を率いてこの地で決起。逆に劉備軍を滅亡させる。

後にこの都市は魔理沙軍の領地になるが、チルノ軍と交戦しようと出陣したとたん、忠誠96のはずの姜維(生姜)らが裏切り江夏を再確保する。





交趾(コウシ/コーチ)

現在のヴェトナム北部。演義ではほとんど関係ないせいか、しばしばコーエーによってハブられる。
士ナントカさんこと士燮が割拠し、孫呉に貿易を通じて南方の真珠などをもたらしていた。
士一族の影響は大きかったらしく、晋書には霍弋・陶璜など多くの人物の伝に「平定された」という
語句が頻出するようになる。




江州(コウシュウ)

益州。
現在の重慶。


江陵(コウリョウ)

荊州の要地。
長江の物流などの軸となる場所であり、「兵家必争の地」とされた。
西晋滅亡後、荊州の中心地は襄陽からここへ移る。

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ニートが目覚めた場所。ここから伝説が始まる。

この動画をきっかけとしてか、多くの動画においてスタート地点とされているらしく、君主は陶濬では蓬莱山輝夜が「始まりの地、どうしてかはわからないけれど、なんだか張り切れてしまう場所」と評していた。


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空白地帯。
当時劉禅軍は、劉焉軍の成都を攻めたいが、圧勝しなくては劉備軍に滅ぼされる、全軍を出そうにも外交と兵糧が問題になるという問題を抱えていた。

これに対し、唯一神賀斉は江陵を収入期直前に占領することで資金・兵糧を確保するとともに、劉備軍を釣り出すという一石二鳥の策を提案。(賀斉)神の一手を実現すべく、ハチロク阿斗が兵1で向かい見事作戦を成功させる。

なおその時江陵に残された兵士1人は、劉備軍の張飛・趙雲・関平など豪華メンバーが率いる2万(その他、諸葛亮などの増援も釣り出した)と交戦した結果、160人の敵兵を打ち倒す活躍を見せながらも名誉の戦死を遂げた。




壺関(コカン)

上党で叛旗を翻した幷州刺史高幹が、206年に曹操軍を迎えて戦った場所。現在の山西省長治市壺関県。

三国志Ⅸにおける壷関
  剣閣 と並ぶ最強の関。
 左右に櫓や城塞を設置すれば落とすことは非常に難しくなる。(PS2版だと一つしか置けない)
 劉度が歴史を修正するようですの事実上の最終決戦地点。
 しかし名前のせいでいかんともしがたい雰囲気が漂う最終決戦となった。



子午谷(シゴコク)

秦嶺山脈を南北に貫き、漢中と長安を結ぶ最短コース(といっても約420キロはある)。
北伐の際、魏延がここに桟道を築いて侵攻することを進言したが、孔明はこれを聞き入れなかった。
絶好の勝機を逃したとするか、危険な奇策を排したとするか、孔明の選択をどうみるかは議論が分かれる。
動画的には、魏延が強いこだわりを持つ場所としてネタにされることが多い。

襄平(ジョウヘイ)

幽州。
董卓が中央を支配したころから公孫度の一族はこの地を中心に独自勢力を築いた。
度の孫の公孫淵の時代に、魏の司馬懿はこの街を包囲、公孫一族を滅亡させる。


新野(シンヤ)

荊州。
劉表の治める荊州に身を寄せた劉備はこの町の守備を任される。


成都(セイト)

益州。
蜀漢の首都。


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劉焉軍の都市。
劉禅軍は主力をおとりとすることで敵部隊2万を釣り出し、その間に成都(敵兵約3万)を8千×10部隊の兵力落とそうとする。
が、おとり部隊は早々と壊滅。敵増援が成都に戻ってきて泥沼の戦いになるかと思われれた。
が、戦闘開始2ターン目で圧倒的数を生かした最強兵法「アングシーロール」が炸裂。
驚異の兵法・連鎖発動率により増援が来る前に成都陥落・劉焉軍滅亡に成功した。





長安(チョウアン)

前漢の首都。現在の西安市近郊。
後漢末、献帝を手中にした董卓はこの地に遷都し、暴虐の限りをつくした。




陳倉(チンソウ)

益州。
陳倉城は堅城として知られ、蜀漢の諸葛亮の第二次北伐において魏の将郝昭は寡兵にて蜀軍を撃退し、北伐を失敗させた。
郝昭の存命の間は蜀軍を寄せ付けなかったが、彼の死後放棄され蜀領となる。




陳留(チンリュウ)

兗州。曹操の親友であった張邈が治めていた。
なお、後漢の最後の皇帝である献帝(劉協)はもとは陳留王であり、魏の最後の皇帝である元帝(曹奐)は晋への禅譲後に陳留王に封じられた。




南皮(ナンピ)

袁紹が冀州に逃れ、韓馥から支配権を詐取して鄴に遷るまで拠点としていたとされる場所。
袁紹が死んだ後に長男である袁譚はこの地で一度曹操を破ったが、二度目で曹純に大破され、討死して果てている。

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第一部の終幕、南皮会談及び南皮決戦の戦場となった場所。

南皮会談は馬超が求めた和議の申し出に応じて開かれたものだったが、実際には馬超らを暗殺する為の罠であった。
その場は馬超の猛気と顔・文両将及び審配の袁紹に対する説得、そして馬超軍の軍師シュウの策によって何とか事なきを得たが、交渉は完全に決裂。
双方総力を結集しての激戦となった。そして、この戦が終局に向かった時に……。



白馬(ハクバ)

曹操と袁紹の白馬の戦いがあった場所。
白馬は地名。


平原(ヘイゲン)

古代中国の郡。秦の時代には県、前漢の時代では郡、後漢前期では国が置かれていた。
斉王田栄が項羽に敗れて殺された場所であり、
また劉備が公孫瓚の後押しで平原国の相となり、群雄としてのキャリアをスタートさせた地でもある。但しゲームでは良く滅亡する。

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第二部の終幕、黄巾討伐戦の戦場となった場所。

当初は兵力と練度に勝る馬超軍が有利と見られていたが、張宝、張梁、孫仲らの奮闘により南皮決戦以上の激戦となった。
最早後に退く事の出来ぬ者、歩みを止めかけ、再び前に進まんとする者、亡き張角の志を受け継ぐと決意した者、
そしてこの戦を死に場所と決めた手負いの男達が入り乱れる多くのドラマが生まれた。




北平(ホクヘイ)

今の北京に当たる(薊も?)。



秣陵(マツリョウ)

今の南京に当たる。
孫呉の首都となり、建業と改名される。
タイトルによっては、途中で改名イベントが入ったり年代によって名前が違ったりする。




綿竹(メンチク)

成都北部に位置する要地。
蜀最後の決戦の地であり、剣関を迂回した鄧艾が奇襲。
諸葛亮の子孫である諸葛瞻・尚親子や黄崇などが抗戦するも討ち取られ、蜀は魏に降伏することになる。



洛陽(ラクヨウ)

後漢および曹魏の首都。
董卓はこの街を焼き払って長安に遷都した。
後に許昌から文帝曹丕はここへと遷都する。

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いわゆる、チルノ補正の始まった地である。

動画が始まった当初は、この廃墟に陣取る弱小バカルテットたちは瞬時に消滅するかと思われていた。
が、何をどう間違ったのか勢力は順調に拡大していき、3強勢力の1つとなる。



倭(ワ)

大陸の東にある島。現在でいう日本である。
魏志倭人伝(正確に言うと、「三国志」の「魏書」のラスト「第三十」の「烏丸鮮卑東夷伝」の倭に関する部分)の中に、
倭の様子と邪馬台国について書かれている。
邪馬台国は卑弥呼という女王が治めており、魏の3代目曹叡か4代目曹芳の皇帝の時代に朝貢のための使者を送って
親魏倭王に任じられている。

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もともと妖怪と人間がそれなりに仲良くしていたが、女王卑弥呼が暴走し妖怪たちに戦争を仕掛ける。
無益で無謀な戦争に困った倭の人間の救援要請を受けた八坂神奈子は妖怪王独眼竜政宗と交渉し、女王卑弥呼を謀殺。
倭の国は神奈子が乗っ取り、妖怪たちとの関係も修復された。
チルノ軍からの宣戦布告を受け、神・人間・妖怪の混成軍で迎え撃つ。














  • 呉の項目について。陳瑀は呉郡太守を自称しただけで、実際には呉ではなく徐州にいたんじゃないか?江東で孫策に破られたとは書かれていない。 -- 名無しさん (2009-03-14 14:39:03)
  • 徐州広陵郡海西から謀略を仕掛けていたようですね。すいません、直します。 -- 名無しさん (2009-03-14 15:12:20)
  • ttp://suginami-s.net/game/sangokuonsitu/img/siryou/map_gb.gif 参考になりそうな地図があったので。コーエー三國志の北平は右北平郡なんじゃないかなあ、と思いますが詳細不明。 -- 名無しさん (2009-04-03 21:52:38)
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