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地名(三国志) - (2011/02/19 (土) 05:20:18) の編集履歴(バックアップ)


ここは三国志に出てくる有名な都市・地名を動画内での状況などと併せて紹介していくページです。
史実の流れや各動画の軌跡を振り返ってみてはどうでしょう。



安定(アンテイ)

雍州、安定郡。
近くに戦略上の要所とされる街亭がある。
また、交州の定安のことをさす場合もある。


永安(エイアン)

益州、巴東郡。
元々は「魚復」という地名だが、夷陵の敗戦後、劉備により「永安」と改められた。
別名、白帝城。劉備が死んだ場所。孔明の北伐の時は、李厳が守っていたことがある。
蜀滅亡時には、永安城に呉軍の大軍が来襲し、混乱に乗じて領土を奪おうとしたが、羅憲が寡兵をもって守りきった。


易京(エキキョウ)

幽州(涿郡)と冀州(河間国)の境界付近。
(どちらの州に属するかは、史書により記述が異なるが、三国志Ⅸの区分では幽州)
河北の拠点。薊の南方(やや西側)に位置する。
公孫瓚が堅固な要塞を築き、中に三百万石の兵糧を蓄えていた。
一九八年、公孫瓚はこの地で袁紹を迎え撃つも敗北。一族もろとも自害した。
三國志Ⅸ動画では、河北での戦闘時に登場する事がある。

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記念すべき(?)最初の戦場。
公孫瓚の火計で燃やし尽くされた。


宛(エン)

荊州、南陽郡。
何気に前漢・後漢の中心都市の一つでもある(他は洛陽と長安)。
張繍率いる張済軍残党が、曹操軍に降伏した場所。
しかし張繍は、張済の未亡人が曹操に取られたことを怒り、反逆。
結果、曹操は危ういところで生き延びたものの、長男曹昂と武将の典韋を失った。


会稽(カイケイ)

揚州、会稽郡。
春秋時代の呉越戦争における「会稽の恥」という故事成語で知られる。
孫策が王朗を破って以来、彼の勢力(いわゆる孫呉)の中心地となる。
治所のある山陰県は、今の紹興市にあたる。

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深い森を抜けるとそこは会稽だった。
後のカリスマ君主の輝かしい第一歩である。


街亭(ガイテイ)

雍州、広魏郡。
安定の近く、戦略上の要所とされる。
諸葛亮の第一次北伐の際、ここの守備を任された馬謖は命令に反して山頂に布陣し、大敗。
責任を取らされて処刑された。


合肥(ガッピ)

揚州、九江郡。( 三国志ドライヴ の郡地図では「淮南」郡)
当地における魏の主要拠点であり、孫権にとってのトラウマの地。
張遼が800人で呉軍をフルボッコにした215年の戦いが有名だが、
孫権はそれ以前・以降にも何度か合肥を攻め、攻略に失敗している。
つまり、魏呉両軍にとってそれほど重要な拠点だった、ということ。

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本物孫堅軍が蒼天孫権を総大将として侵攻。
北郷軍には張遼が二人いたため、誰もが負けフラグだと思っていた。
が、そこはカオスで有名な中華武将祭り。
本物孫堅軍にも張遼が三人いた。
かくして敵味方入り混じったライライ祭が発生した。


下邳(カヒ)

徐州、下邳郡。
徐州時代の劉備の本拠地。のちに徐州は呂布に奪われるが、曹操軍により、呂布はこの地で処刑される。
曹操を裏切った劉備は再び徐州を治めるが曹操に敗れ、下邳にいた関羽らが囚われる。

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激戦地の一つ。
セイバー軍の都市であったが、チルノ軍10万の侵攻に対して援軍は間に合わないと判断し、撤退。
アーチャーが兵3万を率い、北海への撤退の時間を稼ぐことになる。

最初から本気のアーチャーの怒涛の猛攻により、アルルゥ、藤原妹紅、八雲紫、レティ・ホワイトロック、
八雲藍、オボロ、クーヤ、うどんげ、蓬莱山輝夜、ハクオロ、リリカ・プリズムリバーら、
名立たる武将たちが狙撃され、6部隊が壊滅する。

そんな中、偽報で遅れてきた君主チルノが一人気を吐き、弩兵熟練2000のアーチャーに対し三度の狙撃を成功させ、
格の違いを見せ付けた。

終わってみると、敵兵3万に対しチルノ軍の損害は8万以上と思われ、英霊の恐ろしさを視聴者に強く印象付けた。


漢中(カンチュウ)

益州(時代により、梁州ともされる)、漢中郡。( 三国志ドライヴ の郡地図では「武都」郡の一部)
劉邦が封(ほう)ぜられ、前漢王朝の始まりとなった地。
周りを山で囲まれた盆地で、攻めるに難く守るに易い土地であり、
食糧生産量も多いため、戦略上においてもしばしば要衝となった。

三国志においても、お米こと張魯率いる五斗米道が拠点として一大勢力を築いたり、
ここをめぐり定軍山の戦いが行われたり、劉備が漢中王に即位したり、
果ては諸葛亮が北伐の拠点にしたりと、ちょくちょく登場する重要な場所である。


官渡(カント)

司隷、河南郡の東端。
黄河の南岸。洛陽の東方、許の北方に位置し、兗州陳留郡と接する。
袁紹との決戦(通称官渡の戦い)における曹操軍の本陣。


許(キョ)

豫州、穎川郡。
曹操の本拠地。曹操はこの地に献帝を連れてきて首都とした。
許昌、許都とも呼ばれる。


鄴(ギョウ)

冀州、魏郡。
業におおざと。大都市。
袁紹が統治していたが204年に曹操に移り、以後曹操勢力の中心都市となる。
二喬を侍らせたいと言った「銅雀台」の建立地もここ。


薊(ケイ)

幽州、広陽郡。
現在の北京に当たる。


剣閣(ケンカク)

益州、梓潼郡。
姜維率いる蜀軍最後の戦いの地。漢中と成都をつなぐ位置にあり、ゲーム中でも重要な拠点。
三国志Ⅸでは 壺関 と並ぶ最強の関。左右に櫓や城塞を配置すると、関に到達する前に敵部隊が壊滅してしまうこともある。


建業(ケンギョウ)

→秣陵(マツリョウ)の改名後の名前。詳しくは秣陵を参照。


建寧(ケンネイ)

益州、建寧郡。
南蛮に接する地。孟獲はここ出身とされる。

ゲーム的には「左下コーナー」。
空白地であることが多く、スタートの地になることも多い。
また、逆にゴールの地になることも。


呉(ゴ)

揚州、呉郡。
秣陵(建業)の前の孫権らの本拠地。
もともと厳白虎が割拠していたが、孫策に敗れる。
後の国号の「呉」は、魏によって孫権が呉王に封ぜられたため。

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主人公である陶濬が旗揚げした場所。彼の運命の場所となった建業に程近い。
旗揚げ時のメンバーは馬岱、典韋、秋穣子の3名。


江夏(コウカ)

荊州、江夏郡。
三国志11では立地条件が非常に悪い。
(川からほとんどの内政施設に攻撃される、あまり内政施設を建てられない)

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チルノ補正の歴史に名を刻む都市。
劉備軍に滅ぼされたチルノ軍だが、半年もたたずにチート集団を率いてこの地で決起。逆に劉備軍を滅亡させる。

後にこの都市は魔理沙軍の領地になるが、チルノ軍と交戦しようと出陣したとたん、忠誠96のはずの姜維(生姜)らが裏切り、
再びチルノ軍のものとなった。


交趾(コウシ/コーチ)

交州、交趾郡。
現在のヴェトナム北部。演義ではほとんど関係ないせいか、しばしばコーエーによってハブられる。
士ナントカさんこと士燮が割拠し、孫呉に貿易を通じて南方の真珠などをもたらしていた。
士一族の影響は大きかったらしく、晋書には霍弋・陶璜など多くの人物の伝に、
「平定された」という語句が頻出するようになる。


江州(コウシュウ)

益州、巴郡。
現在の重慶。


江陵(コウリョウ)

荊州、南郡の南端。( 三国志ドライヴ の郡地図では「襄陽」郡の南端)
長江中流域の北岸に位置し、現在の湖北省荊州市荊州区に相当する。
長江の物流などの軸となる要地であり、「兵家必争の地」とされた。
西晋滅亡後、荊州の中心地は襄陽からここへ移る。

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ニートが目覚めた場所。ここから伝説が始まる。

この動画をきっかけとしてか、多くの動画においてスタート地点とされているらしく、君主は陶濬では、
蓬莱山輝夜が「始まりの地、どうしてかはわからないけれど、なんだか張り切れてしまう場所」と評していた。

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空白地帯。
当時劉禅軍は、劉焉軍の成都を攻めたいが、圧勝しなくては劉備軍に滅ぼされる、
全軍を出そうにも外交と兵糧が問題になるという問題を抱えていた。

これに対し、唯一神・賀斉が提案したのは、江陵を収入期直前に占領するというもの。
資金・兵糧を確保するとともに、劉備軍を釣り出すという、一石二鳥の策である。
(賀斉)神の一手を実現すべく、ハチロク阿斗が兵1で向かい、見事作戦を成功させた。

なお、江陵に残された兵士1人は、張飛・趙雲・関平など豪華メンバーが率いる2万(+諸葛亮などの増援)と交戦し、
160人の敵兵を打ち倒す活躍を見せながらも、名誉の戦死を遂げた。


壺関(コカン)

并州、上党郡。
上党で叛旗を翻した幷州刺史の高幹が、206年に曹操軍を迎えて戦った場所。現在の山西省長治市壺関県。

三国志Ⅸにおける壷関
  剣閣 と並ぶ最強の関。
 左右に櫓や城塞を設置すれば、落とすことは非常に難しくなる。(PS2版だと一つしか置けない)
 劉度が歴史を修正するようですの事実上の最終決戦地点。
 しかし、名前のせいで、いかんともしがたい雰囲気が漂う最終決戦となった。


子午谷(シゴコク)

秦嶺山脈を南北に貫き、漢中と長安を結ぶ最短コース(といっても約420キロはある)。
北伐の際、魏延がここに桟道を築いて侵攻することを進言したが、孔明はこれを聞き入れなかった。
絶好の勝機を逃したとするか、危険な奇策を排したとするか、孔明の選択をどうみるかは議論が分かれる。
動画的には、魏延が強いこだわりを持つ場所として、ネタにされることが多い。


州(シュウ)

中国の行政区画の分類上、最大のもの。漢代では、中国全土を13州に分けた。
後に、涼州南部が雍州として分離され、14州となった。

【魏】幽州(ゆうしゅう)・冀州(きしゅう)・并州(へいしゅう)・青州(せいしゅう)・
   兗州(えんしゅう)・徐州(じょしゅう)・豫州(よしゅう)・司隸(しれい)・
   雍州(ようしゅう)・涼州(りょうしゅう)
【蜀】益州(えきしゅう)
【呉】荊州(けいしゅう)・揚州(ようしゅう)・交州(こうしゅう)

+ 各州の主要都市
 幽州:襄平、北平、薊
 冀州:南皮、平原、鄴
 并州:晋陽、上党
 青州:北海
 兗州:濮陽、陳留
 徐州:下邳、小沛
 豫州:許昌、汝南
 司隷:洛陽
 雍州:長安、安定、天水
 涼州:西平、武威
 揚州:寿春、廬江、秣陵(建業)、呉、会稽、柴桑
 荊州:宛、新野、襄陽、江陵、江夏、長沙、武陵、桂陽、零陵、西城
 益州:永安、漢中、梓潼、成都、江州、建寧、雲南
 交州:交趾

(注)三国志Ⅸでの分類であり、史実とは異なる可能性もあります。

州地図 (フリー素材、 三国志ドライヴ 提供)


襄平(ジョウヘイ)

幽州、遼東郡。
董卓が中央を支配したころから公孫度の一族はこの地を中心に独自勢力を築いた。
度の孫の公孫淵の時代に、魏の司馬懿はこの街を包囲、公孫一族を滅亡させる。
+ 長い長い戦い
長い長い襄平攻防戦の地。
孫策軍を滅ぼした後、八雲紫軍との決戦の切り札が「襄平制圧作戦」
江南の国から最北端幽州へ。無茶すぎる遠征が始まった。
ニューヒーロー管亥を倒したのは良かった。
しかし、その後に残ったのはボロボロの城と、大量の八雲軍援軍だった。
港を制圧され、援軍も届かない状況で立ち向かうのは守屋神社組と天界組、そして風見幽香達秋軍のエース。
この襄平攻防戦によって、港を獲られた八雲紫軍は南下する襄平部隊と北進する本隊に南北から挟撃されるきっかけを作る。
そして秋軍は南下途中に多くの城、優秀な将を得ることになる。
失った兵は多く、得た物も大きかった。


新野(シンヤ)

荊州、南陽郡。(西晋期に義陽郡が新設された際、義陽郡所属に変更)
劉表の治める荊州に身を寄せた劉備は、この町の守備を任される。


成都(セイト)

益州、蜀郡。
蜀漢の首都。

+ 詳細を表示
劉焉軍の都市。
劉禅軍は、主力をおとりとすることで敵部隊2万を釣り出し、その間に成都(敵兵約3万)を8千×10部隊で落とそうとする。
が、おとり部隊は早々と壊滅。敵増援が成都に戻ってきて、泥沼の戦いになるかと思われた。
が、戦闘開始2ターン目で、圧倒的数を生かした最強兵法「アングシーロール」が炸裂。
驚異の兵法連鎖により、増援が来る前に成都は陥落。劉焉軍滅亡に成功した。


長安(チョウアン)

雍州、京兆尹。(漢代では司隷に属したが、三国時代は雍州所属)
前漢の首都。現在の西安市近郊。

後漢末、献帝を手中にした董卓はこの地に遷都し、暴虐の限りをつくした。


陳倉(チンソウ)

雍州、扶風郡。(漢代では司隷に属したが、三国時代は雍州所属)
現在の陝西省宝鶏市。有名な五丈原の近郊でもある。
陳倉城は堅城として知られる。蜀漢の諸葛亮の第二次北伐において、魏の将・郝昭は寡兵にて蜀軍を撃退し、北伐を失敗させた。
郝昭の存命の間は蜀軍を寄せ付けなかったが、彼の死後放棄され、蜀領となる。


陳留(チンリュウ)

兗州、陳留郡。
曹操の親友であった張邈が治めていた。
なお、後漢の最後の皇帝である献帝(劉協)は、もとは陳留王であり、
魏の最後の皇帝である元帝(曹奐)は、晋への禅譲後に陳留王に封ぜられた。


南皮(ナンピ)

冀州、勃海郡。
袁紹が当初の拠点としていたとされる場所。(韓馥から冀州の支配権を詐取した後は、鄴に本拠地を遷す)
袁紹が死んだ後、長男である袁譚はこの地で一度曹操を破ったが、二度目で曹純に大破され、討死して果てている。

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第一部の終幕、南皮会談及び南皮決戦の戦場となった場所。

南皮会談は馬超が求めた和議の申し出に応じて開かれたものだったが、実際には馬超らを暗殺する為の罠であった。
その場は馬超の猛気と顔・文両将及び審配の袁紹に対する説得、そして馬超軍の軍師シュウの策によって何とか事なきを得たが、交渉は完全に決裂。
双方総力を結集しての激戦となった。そして、この戦が終局に向かった時に……。



白馬(ハクバ)

兗州、東郡白馬県。
黄河の南岸。官渡の北東、鄴の南方に位置する。
曹操と袁紹の白馬の戦い(官渡の戦いの前哨戦)があった場所。

なお、三国志Ⅸにおける白馬港は、黄河北岸(冀州、魏郡黎陽県)にあり、
ここでいう白馬の対岸に置かれている。


平原(ヘイゲン)

冀州、平原郡。
古代中国の郡。秦の時代には県、前漢の時代では郡、後漢前期では国が置かれていた。
もともとは青州に所属したが、曹操により冀州に編入された。
斉王田栄が項羽に敗れて殺された場所であり、
また劉備が公孫瓚の後押しで平原国の相となり、群雄としてのキャリアをスタートさせた地でもある。
但し、ゲームではよく滅亡する。

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第二部の終幕、黄巾討伐戦の戦場となった場所。

当初は兵力と練度に勝る馬超軍が有利と見られていたが、張宝、張梁、孫仲らの奮闘により南皮決戦以上の激戦となった。
最早後に退く事の出来ぬ者、歩みを止めかけ、再び前に進まんとする者、亡き張角の志を受け継ぐと決意した者、
そしてこの戦を死に場所と決めた手負いの男達が入り乱れ、多くのドラマが生まれた。



北平(ホクヘイ)

幽州。
北京(三国時代の薊)の旧名であるが、コーエー三国志における「北平(都市名)」は本来の位置ではなく、
右北平(ユウホクヘイ)郡( 三国志ドライヴ の郡地図では「北平」郡)に置かれている。
位置的には、薊(本来の北平、広陽郡)の東方にあたる。

ただし、晋の時代に右北平郡は改名され、北平郡となったので、ここを「北平」とするのは必ずしも間違いではない。
(もっとも、南北朝や隋の時代の北平郡は、さらに別の位置にあるので、いささかややこしい)


秣陵(マツリョウ)

揚州、丹楊郡(丹陽郡ともされる)。
今の南京に当たる。孫呉の首都となり、建業と改名された。
作品によっては、途中で改名イベントが入ったり、年代によって名前が違ったりする。


綿竹(メンチク)

益州、広漢郡。
成都北部に位置する要地。
蜀最後の決戦の地であり、剣関を迂回した鄧艾が奇襲。
諸葛亮の子孫である諸葛瞻・尚親子や黄崇などが抗戦するも討ち取られ、蜀は魏に降伏することになる。


洛陽(ラクヨウ)

司隸、河南尹。
後漢および曹魏の首都。董卓は、この街を焼き払って長安に遷都した。
後に文帝曹丕は、許昌からここへと遷都する。

+ 詳細を表示
いわゆる、チルノ補正の始まった地である。

動画が始まった当初、この廃墟に陣取る弱小バカルテットたちは、瞬時に消滅するかと思われていた。
が、何をどう間違ったのか、勢力は順調に拡大していき、三強勢力の1つとなる。


倭(ワ)

大陸の東にある島。現在でいう日本である。
魏志倭人伝(正確に言うと、「三国志」の「魏書」のラスト「第三十」の「烏丸鮮卑東夷伝」の倭に関する部分)の中に、
倭の様子と邪馬台国について書かれている。
邪馬台国は卑弥呼という女王が治めており、魏の3代目曹叡か4代目曹芳の皇帝の時代に朝貢のための使者を送って
親魏倭王に任じられている。
九州などで呉鏡(孫呉製の銅鏡)が多数出土していることから、孫呉ともかなり交流が深かったと考えられるが、
注を含め三国志にはその辺の記述がない為に、詳細は不明。

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もともと妖怪と人間がそれなりに仲良くしていたが、女王卑弥呼が暴走し、妖怪たちに戦争を仕掛ける。
無益で無謀な戦争に困った倭の人間の救援要請を受けた八坂神奈子は、妖怪王・独眼竜政宗と交渉し、女王卑弥呼を謀殺。
倭の国は神奈子が乗っ取り、妖怪たちとの関係も修復された。
チルノ軍からの宣戦布告を受け、神・人間・妖怪の混成軍で迎え撃つ。



コメント欄

  • 呉の項目について。陳瑀は呉郡太守を自称しただけで、実際には呉ではなく徐州にいたんじゃないか?江東で孫策に破られたとは書かれていない。 -- 名無しさん (2009-03-14 14:39:03)
  • 徐州広陵郡海西から謀略を仕掛けていたようですね。すいません、直します。 -- 名無しさん (2009-03-14 15:12:20)
  • ttp://suginami-s.net/game/sangokuonsitu/img/siryou/map_gb.gif 参考になりそうな地図があったので。コーエー三國志の北平は右北平郡なんじゃないかなあ、と思いますが詳細不明。 -- 名無しさん (2009-04-03 21:52:38)
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