〇 フィヒテ
フィヒテの哲学は、カントの二元論的思考を一元化することである。
直観と思惟、認識と意志という二元論をやめ、我々の精神に自由と独立を与え、
ロマン主義の欲求に応じ、同時にロマン主義が予想した万物の内的統一に哲学的な一応の解決を与えた。
〇 哲学の本質
フィヒテは言う。哲学の本質とは、経験の説明にあり、そして経験とは、外物を知覚し表象することである。
フィヒテの経験解釈は、存在から出発し、人間精神を外物から説明する独断論(実在論)と
主観から出発し、そこから外物を説明する観念論とに分かれることになる。
それぞれどの哲学を選ぶかは、その人物によって決まる。
なぜならば、哲学は単に論理的整合性によってのみでできているのではなく、
人間の奥底から生ずるものであるからである。
その人が独立的能動的精神が優勢であるか、それとも所以的受動的感情が優勢であるかによって決まる。
〇 知識学
思惟活動を本源として、そこから事物に関する観念が生ずる。
その所以を示す学問、それを知識学である。
したがって、知識学は自分の中には、自然そのものの活動の成果ならざる何物も
存在することが出来ないという家庭から出発する。
では、純粋な仮定とは、なにだろうか。
フィヒテは、一切知識の根本仮定としての自我活動は自由無限でなければならないと考えた。
また、それは事実でもなければ単なる在るものでもなく、むしろ活動そのものである。
そしてフィヒテは、純粋活動を事項と名付けた。
事項とは、主観・客観、行動・結果、の対立する以前の働きであり、
自我は非自我を要せず、それ自体を成立する。
これはフィヒテ哲学の第一原理である。
しかし、これだけでは自我の存在が説明されていない。
そこで第二原理として、フィヒテは「自我に対して非自我が反定立に対立される」述べる。
そして、この二つの原理は、第三原理の「自我は自我の中にあって、可分的自我に対しては、可分的非我を
反定立する」よって結合される。
「自我」というのは、個人的自我ではなく、超個人的自我、絶対我である。
自我の純粋活動をみることによって、分析的なカント哲学に内面的統一を与えたのである。
このフィヒテの方法は一種の弁証法的方法であった。
(ヨーハン・ゴットリープ フィヒテ(著), 高橋 亘 (翻訳), 堀井 泰明 (翻訳) )
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最終更新:2007年10月04日 18:31