○ スピノザ
スピノザは、デカルトを追って、哲学を、数学を範として、従来の乱雑性から脱出させようとした哲学者の一人である。
また彼は真の論理的徹底を実現した哲学者である。
→幾何学的順序に従って証明した倫理学
学体系は実体、属性、様態の三つの根本概念から成り立っている。
その他の問題はすべて、この三つから数学的必然をもって演繹される。
ex)「エチカ」
○ 実体は唯一
まずデカルトの実体という概念から出発する。
実体とは、その存在によって他の何ものをも必要としない。
その意味で、実体は唯一でなければならない。したがって、実体は神である。
「実体即神」ということは定義から必然的に導かれる
自己に原因を有し、原因そのもの、つまり自因と及ばれるものを含んでいるのが実体である
そして、自因とは、その本質が存在を含めるもの、即ち、本性上、存在せりとの外は考えることが出来ないものである。
というわけで、神は「存在す」ということの外は考えることができないもの、つまり自因であり、実体である。
自己によって存在し、自己によってのみ理解される実態は他のなんらの制約をも受けない
実体には時間や空間は通用しなく、むしろ、その意味で実体は永恒無限であるといえる。
だから、「神即自然」であって、神の本質そのものから、自然が出てくる。
また、スピノザは神を能産的自然と名づけ、所産的自然と呼んだ。
汎神論…神が自然に超越せず存在して内在し、自然の法則を祖として神の法則は無いという考え方
(→スピノザの神には人格がなかった)
次に神と自然との関係において、スピノザは神が自然に内在し、
自然の法則を外ににして神の法則はないという凡神論の立場を取った。
神の本質そのものから自然は出てくる、これを神即自然といい、神を能産的自然であり、自然を所産的自然と呼んだ。
○ 属性と様態
この実体を中心にして、世界の一切を因果関係における必然性として演繹する。
(完全なる論理的・数学的徹底による説明)
実体は神であり、自然であり、したがって一切であり、すべては実体の中に包摂される。
それゆえ、実体は無限の属性を含む。
しかし、我々に認識されるのは、思惟と延長の二つである。
実体の持つ無限性そのものを知ることができず、ただ思惟と延長の二つを通してしか知ることができない。
○ デカルトとの比較
デカルト・・・精神と物体とは二義的ではあったが実体であった。
そして、思惟と延長がこの実体のそれぞれの属性である。
スピノザ・・・二つの属性をただひとつの実体たる神に即した
○ 個物の説明
個物は実体の様態であるという
属性が実体の本質であるならば、その出没転変する変化の姿である。
しかし、実体と様態が離れているわけではなく、相即不離である。
実体は単独で自存するが、様態は実体なくしてはありえない。
様態は偶然的であるといえる。
精神と物体とは様態である。
○ 精神と物体の関係
精神と物体とは完全に異なる属性の様態であるから、両者はお互いに因と果の如き関係を持つことが出来ない。
しかし、思惟と延長とは、元は、同一実体の属性である。
したがって両者は決して二個の延長ではなく、同一実態の二方面である。
単に見方の相違であるといえる。
つまり、延長の方面から見ると、物体として現われ、思惟の方面から見ると精神として現われるのである。
○ 永遠の相の下に
○ 決定論
「永遠の相の下に」とは、万物をその本質によって、つまり、実体の本質の必然的結果として、見るということである。
全てのものは実体の必然的法則の下にあり、したがって、一切は必然的に存在し、世界は現在あるよりも外にありえず、
つまり可能性はないというのが、彼の根本主義であり、「永遠の相のしたに見る」ということは、必然性を通して
物を見るということである。もちろん、人間もその例外ではない
→徹底した決定論=自由意志の否定
○ 神観
人間のみではなく、神もまた必然の中にある。
神を人格的に考えたり、意思や知識の付与は、必然の法則以外の目的を認めることであり、無知の結果である。
神に、この世界以外の世界を作る可能性を求めることは、神への冒涜である。
○ 自由
万物を永遠の相の下に認識することはやがて、真の自由を知ることであり、これに合一することによって得られる。
○ 徳・力・知
スピノザによれば、人間の本性は自己保存の努力と言う点にある。
この努力を充たすこと、それが道徳であって、それゆえ、一つの力であるといえる。
ところで、人間の持つ最も純粋な力は精神力である。
そして、精神力の真髄は知力である
いたがって、徳と力と知とは、スピノザによって、同一人物である。
知識の増大→自由の増大→徳が完全に
人間の至上の善は、神の知識である!
○ 神に対する知的愛
力の増大を感じることは歓喜である。
情はわれわれの知識が完全に近づくか否かいよって、あるいは喜びとなって現われる。
そして、喜びを生ずる原因に対して抱く感情が愛だである。
だから神の認識により、我らの力と知の増大の極に達すれば、
我々の喜びの原因たる神に対する愛も至大であるということになる。
○ 神人合一
神の愛と神とは同一である。
天地自然の立法に没入し、実体の必然の下に神を知ることがただちに神への愛であった。
われわれの知と愛とによって、神はただちにわれわれのものとなり、われわれの精神は神につながることができる。
最終更新:2007年08月01日 23:14