○ カント
○ 合理主義と経験論を否定
合理論は、われわれの認識の可能性やその本質、限界等に関する省察を欠き。
ひたすら認識能力を信頼して、知識の無限の妥当性を信じていたところから、独断であるとした。
また一方、経験論は、経験や感覚を主とするところから、知識の客観性を否定することなり、
普遍的認識論を疑うという意味で、懐疑論と批判した。
カントは、知識の材料は経験から来るが、その形式は理性自身の作用であることを得た。
すなわち、知識の形式は、われわれの実際上の経験に先立って居座り(transzendental)、
まさに、経験の基礎となるものである。
○ カントの認識論
第一批判のテーマ(純粋理性批判)
数学や自然科学の普遍性と必然性を主張するためには、経験に先立つもの、経験の基礎となるもの、
アプリオリなものが必要である。
無制約的な必然性と確実な普遍性という二つを持ったものが、アプリオリと呼ばれる。
そして、経験から独立したアプリオリなものを認識する能力、理性を吟味するのが、「純粋理性批判」である。
○ コペルニクス的転回
従来、一切の認識は対象に依準せねばならないとされた。まず先に物があって、我々の認識はそれに従う。
この立場は経験論であり、これでは普遍性は得られない。
そこでカントは、認識と対象の関係を転倒させた。逆に、対象が我々の認識に依準せねばならないとし、
アプリオリは対象にではなく、われわれの認識の中に求めなければならないと考えたのである。
知識の材料とその客観性は経験からは派生せるわけではない。
知識の普遍性と必然性とは、先見的に経験とは独立の根幹から出てくるのである。
○ 感覚的経験の先見的要素―直観の形式 時間・空間
時間と空間は、経験から抽象して得られたものではなく、先験的にあるものであり、
対象を直観する際に付随する形式・法則であるといえる。
○ 悟性的知識の先験的要素(カテゴリー)-概念の形式
○ カテゴリーについて
われわれはこのような感覚的経験を材料にして概念を作る。
では、概念の形式とはなんであろうか。
純粋悟性概念―まったく経験をまじえない純粋でアプリオリな概念―は求められうるのであろうか。
思惟の働きは判断であり、判断の種類があるだけのカテゴリーが必要である。
【カテゴリー表】
量(単一性、多数性、全体性)
質(実在性、否定性、限界性)
関係(実体性、因果性、相互性)
様態(可能性、現実存在、必然性)
物はこれらのカテゴリーのいづれかによって初めて物として理解される。
言い換えれば、対象を統一化し、感覚を統合し、それに独立な物としての姿を与えるのが、カテゴリーの役目である。
したがって、カテゴリーは対象世界の成立への制約である。
そして、このカテゴリーは本来の、アプリオリなものであるから、普遍性と必然性を持つのであるが、
このようなカテゴリー自身の持つ普遍性と必然性が基礎になって、あらゆる普遍性と必然性が得られることになる。
対象は主観の持つカテゴリーを通して初めて主観になる。
直観の形式やカテゴリーは主観のうちにあるが、この場合の主観は個人的経験の主観ではなく、超個人的主観である。
だから対象世界を算出するものは、超個人主観であって、時空の形式を与え、制約とはなるが、
内容そのものを産出するものではないといことである。カントは、それを「物自体」と呼ぶが、矛盾を孕んでいる。
○ 形而上学的批判
直観の形式は先験的であり、論理上、経験に先立つ。
そして、経験に依存しないが故に普遍妥当である。
時空ならびにカテゴリーという認識の形式が及ぶ限りにおいて、我々の知識は必然的である。
つまり、現象界(時空・カテゴリーによって所産された世界)に関するかぎり、知識は必然性を持つ。
→ゆえに、数学や自然科学は普遍と必然性を持つ
しかし、逆に言えば、カテゴリーの届かない世界について、なにも言えない。
では、形而上学に関してはどうなのだろうか。
○ イデー
形而上学の対象を理念(イデー)と名づけた。
イデー ・心 Seele
・世界 Welt
・神 Gott
心は心的現象の絶対的主体としてのイデーであり、われわれの内的生活の本体である。
世界は外的現象の世界であり、世界と言うイデーによって、われわれの外的認識は究極に達する。
最後に神は万有の絶対的本源である。
それぞれに究理的宇宙論、究理的神学が成り立つが、これは学としては成立しない
最終更新:2007年08月31日 21:38