○ 実践理性について
認識としての自我にアプリオリがあったように実践的自我もまたアプリオリを持つ。
道徳の経験的規定に対して先験的規定を立てた。
○ 道徳
道徳律は、命令形の形で表れる。
命令 -仮説的命令 (~のために、~の命令)ある条件下のみ妥当
-定言的命令 道徳律が命令形
○ 実践理性の根本法則
実践理性の法則は理性が自分自身で深みから汲み取るものであり、自分で自分に命ずるものである。
任意の行為が道徳的であるかは、道徳律の原理に照らしてみて初めてわかることであって、
道徳的な内容や行為が先ではなく、ある行為が道徳的であるといわれるときに、即に道徳律がその根底に働いている。
道徳は実践理性の先験性に基づくのである。
○ 実践理性の三つの要請
【自由】
道徳律は自律であるので、それゆえ、実現されるためんは意志の自己立法、つまり「自由」ということが予定されてなけれ ばならない。自由がなければ、道徳的な行為の決断を自分でするということが出来ない。
つまり、決断への自由がなければ、責任ということを考えられなくなってしまう。
【永生】
また、われわれの理性の目的はあくまでも徳の完成であり、いわば福徳の一致である。
完全な徳があれば必ず完全な幸福がなければならないということは人間の願望である。
しかし、この要求は現状では満たされない。
すなわち、完全の徳の実現には、無限の生が想定されなければならない。
【神】
しかし、永生が信じられ、最上善が着々実現されるとしても、世界の運行そのものが、これに対して、無関心であったなら困難である。だから、善に勝利を与え、徳に相応して幸福を授ける神が必然的に要請される。
○ 形而上学の肯定
自由、永生、神の三者は、もともと認識の対象ではなかった。
それは道徳の成立に必要なものであり、この意味で、イデーと名づけられるのである。
だから、三者は結局、信仰の対象であり、人生に意味を与える。
そうして、信仰は知識に上位に立たなければならない。
純粋理性批判で否定された形而上学は、実践理性批判によって肯定されることになった。
独断的形而上学は廃棄され、批判的形而上学が新たに主張されることとなった。
○ 判断力批判
実践理性批判 ・認識論 ・現象界 自然則 ・科学的知識 ・悟性の世界
実践悟性批判 ・道徳論 ・自由や意志の世界 ・絶対無条件なる自由界 ・理性の世界
この二つの一元化は、いかにして可能か。
○ 判断力
カントはまず、悟性と理性との中間に判断力を置き、「必然と自由」の一致を論証しようとした。
常に制約された知識と、それに反し、無声約を求める理性の中間にあるものが判断である。
なぜなら判断力がその両者を含んでいるからである。
カントは、一般観念を想定し、それによって特殊を統一し、判定して行くのが判断力としたのである。
○ 規定的判断と反省的判断
判断力― 規定的判断力(論理的判断)
― 反省的判断力
規定的判断力は、特殊を包摂する普遍、もしくは、規則・原理が与えられた判断であり、単に限定を与えるにすぎない
反省的判断力は、特殊のみが与えられた判断で、自分で普遍的原理を作らなければならない。
目的や理想など、そういう可能的概念と現実の事物とを比較して、そこに適・不適を見出そうとする判断である。
○ 美とは、なにか。
美は対象の現実に対する関心を離れた場合に生ずる快感である。
美は対象そのものの性質ではなく、対象が主観に対する関係から生ずるのである。
換言すれば、対象の形がわれわれの欲望とは無関係に、しかも、無関心の快感であるから、
目的の表象なくして近くせられる合目的性である。美は形式的、主観的、無企図的である。
とはいえ、こういった目的論的考察は客観上の事実ではない。われわれはただ現象間の因果関係を知るだけである。
果たして、生物は目的的に動いているのか
それは認識を超えており、客観的といっても、程度、立場の問題である。
最終更新:2007年08月31日 21:36