第一級文族試験課題応募作品
ナスカ星人にうってつけの夜
玲音
1
ここのところずっと降り続いていた雨があがったのは、夕暮れ時を過ぎた頃だった。
部屋の中にろくな物がないのは、別に誰のせいでもない。この間、自分で片っ端から売り払ったのだ。おかげで自分は、この狭苦しい部屋でも大の字になって寝ることができる。
もっとも、それも明日までのことだ。
実はここにはバナナがある。世にも珍しきは見えないバナナ。その量二十六万七千トン。
想像を絶する量の黄色い塊は、明日には実体化してこの部屋にうず高く積まれ、ボロアパートごと自分の人生を押しつぶすことだろう。
――バナナの値は、ついに上がらなかった。
あいつとの思い出は、ナスカの地上絵までさかのぼる。
小学生の頃だ。二人で地上絵を写した航空写真を見た。あの代名詞のような、鳥の絵だ。
その写真は自分をひどく魅了した。
随分昔に撮られたのだろう白黒の写真。だがそこには、歴史の流れを感じさせるスケールの大きさと、美しさがあった。小石をどけただけの直線と曲線に、確かに古代の人々の祈りが見えた。
「ほんと、よくこんなの作るよな。きっとさ、なんとかの神様とか、そういうの信じてたんだぜ」
あいつは言った。
「違うよ」
「違うって、何が?」
「これは、ナスカ星人を呼ぶために描かれたんだ」
その時のあいつの目の無表情さといったら――どう表現したものか。自分はひどく恐怖したのを覚えている。
「ナスカ星人? なんだそれ」
「ナスカ星人は幸せの世界に僕らを連れて行ってくれるんだよ」
――もちろん自分はそれを百パーセント信じるわけじゃなかった。夢があっていいな、と思うくらいだ。あいつだって同じだったろう。ただ、その頃の自分たちは幼くて、それを否定するにも肯定するにも、ものを知らな過ぎたのだと思う。
あいつとはそれからもなんとなく交流が続いていたのだが、別の高校に通うようになってから疎遠になってしまった。互いに、もっと大事だったり、面白かったりすることを見つけたということなのだろう。
友人だったのかと言われると、難しい。
あるいは、十年ぶりに電話を受けたあの日、名前を思い出せる程度には、仲がよかったのかもしれない。
ちょうど去年の話だ。
あいつは言った。バナナなのだと。これから、バナナがすげー熱いのだと。
自分とあいつの、バナナをめぐる最後の一年間はそうして始まった。
2
先物取引というのは要するに、人生の一発逆転を賭けた健全なギャンブルのことらしい。
早い話、あいつが持ちかけてきたのはバナナの先物買いだった。あいつはこうも言った。「バナナは上がる。すげー上がる」。
ここで言う「上がる」とは、未来のバナナの値段のことだ。先物取引では、今の値段で将来の取引を行う。つまり、取引後商品の価値が上がれば上がるほど、その差額が儲けになるというわけだ。
自分はその話に乗った。貧乏生活とおさらばするには、まとまった金が必要だった。だって、それは世界の仕組みというものだろう? 契約に必要な証拠金を半分ずつ出し合った。儲けの取り分も半分ずつ。
初めの内はそれでも、希望の持てる展開だった。
あいつの言うほどじゃなかったにしろ、バナナは浮き沈みを繰り返しながらも、全体としては緩やかに値を上げていった。
風向きが変わったのが半年前。
――その値崩れの様と言ったら、いっそ清々しいほどと言うべきか。
こちらから連絡を入れるたびに「大丈夫だって」と言っていたあいつは、その内にわざわざ連絡を入れてきて同じことを言うようになり、しまいにはなかなか電話に出なくなった。
もちろん、あいつはあいつで必死だったのだろう。自分と同じように、この大勝負にすべてを賭けていたはずだ。バナナを飾って拝むくらいのことはしたかもしれない。
が、終わってしまえば同じこと。
最後にあいつの顔を見たのは、一昨日のニュース番組でのことだった。ひどく顔色の悪い写真が映っていて、テロップにははっきりと「死亡」の文字。町外れの港に、水死体であがったのだ。
ことの発端となったあいつは、メインイベントの訪れを前に、人生そのものからリタイアしてしまった。
自分は――どうするのだろう。
死んだように、静かに息をしながら、ぐるぐるとそんなことを考えている。
どうしても、終わってしまったあいつの顔が頭から離れない。
自分も同じようにして終わるのか?
それとも、大量のバナナと借金を抱えて、生きながらにして終わるのか?
背筋に悪寒が走った。
飛び起きる。窓の外、歩き去っていく男の姿。
――絶対にこっちを見ていた。
こういうことは今日だけじゃない。昨日辺りから、ずっと、自分は監視されている。
終わりが近づいているからだ。
よく聞く話じゃないか。借金のかたに、内臓を切り売りしていく話。最終的には余すところなくパーツにされて、商品として並べられる。人生の闇に足を踏み入れてしまった者は、そうやって人知れず消えていくのだ。
冗談じゃない。
気付けば荒くなっていた息を、どうにか理性で落ち着かせた。
あいつは、結局幸せな世界には行けなかったけれど、
自分は、行けるはずなのだ。
あいつと同じことには、ならない。
とにかく逃げなければ。
日が沈もうとしている。
最後のチャンスの夜だ。
幸せになるのに、うってつけの夜。
3
日が完全に沈んだのを確認して、自分は窓からこっそりと部屋を抜け出した。前々からあたりをつけていた所を足場に、塀を乗り越える。雨露で滑りやすくなっていて、少しだけ苦労した。裏手の駐車場に降り立つ。
あとは闇雲に走った。
絶対に、誰かが自分を見ている。
そう感じた。
追ってくる。
自分は、息も絶え絶えになりながら走り続けた。
昔から、あまり運動は得意じゃない。それに、全力疾走したのなんてどれだけぶりか。意識と、実際の身体の動きがリンクしない。焦る。
段差に足を取られて、転ぶ。
痛みに顔をしかめながら起き上がろうとした時、確かに聞いた。
――背後の足音。
からからの喉は、悲鳴ひとつまともに出さない。追われている、見られている、そのあまりの恐怖。
だめだ。
自分の足では、とても逃げ切ることなど出来ない。そう思った。隠れなければ。どこか暗くて、静かで、目立たないところ。
どこだ?
死に物狂いで走る。べっとりと汗に濡れたシャツは、まるで肌にぬめぬめと絡みつくようだ。呼吸はひゅうひゅうと、自分のものとは思えない音を立てる。どれだけ息を吸っても肺に入ってこないような錯覚。
あれは、公園?
坂を上ったころで、眼下にうっそうと茂った木々が見えた。
あそこに隠れよう。もう限界だ。どこから降りればいい? 階段?
コンクリートの階段が下へと続いている。
急げ!
慌てて段差を駆け下りるその一歩目は、
このところずっと雨が降っていて、
今日の夕暮れに止んだばかりで、
そんなことはわかっていたけれど――
ふわりと身体が浮いた。
視界の一切が、夜空。
そう、あの空から、一度。
あの地上絵を見たかった。
きっと、古代の人たちも同じだったはずだ。
だって、自分で描いたものは、自分で見たいじゃないか。
だからあれは、ナスカ星人のロケットを呼ぶためにあるんだ。
ロケットに乗って、あの地上絵を見るために。
それなのに、
どうしてあいつはあんな目で自分を見たのか。
自分だって、絶対にそうだって言い切ることはできないけれど、
でも、そう考えた方が幸せになれるじゃないか。
だから、バナナなんかに人生を賭けたんだろう?
同じ夢を見れたんだろう?
――それなのに。
衝撃。
自分の身体がどうなっているのか、よくわからない。
わかることは、
落ちていく。ただ、果てしなく。
位置エネルギーと一緒に、
いろんなものを失いながら、
落ちていく。
「ナスカ星人は幸せの世界に僕らを連れて行ってくれるんだよ」
自分はそう言った。
あいつは、なんと言ったのだったか?
声が聞こえる。
「変だと思わなかったのか?」
二十六万七千トンのバナナ。
「どれだけの量だと思ってるんだ? そんな馬鹿げた話、あるわけないだろ」
そうか――
それもあいつの言葉だった。
深い深い、泥の底から引き上げられるように、
意識が戻る。
コンクリートの冷たさと、
相反する、身体の熱さ。
――どうしてこんなことになってしまったのか。
自分はどうしようもなく終わろうとしている。
あいつみたいに、動かなくなって、
埋もれるほどのバナナと一緒に、静かに、
腐っていく。
こんな場所にはいられない。
だから――
幸せの世界に連れて行ってくれるんだよ。
ナスカ星人は、ロケットに乗ってやって来てくれる。
それに乗って、僕たちはどこにだって行けるんだ。
「そいつはいいな」
あの時、
しばらくしてから、あいつはそう言った。
「だったら、俺たちも描けばいいんじゃないか?」
そうして僕たちは、屋上にたくさんの地上絵を描いた。
写真を見ながら、チョークでひとつずつ。
そのうち先生に見つかって、一緒に怒られた。
「また描けばいいじゃないか」
あいつの声が言う。
そうだ。
そうやって僕たちは、笑ったのだ。
あの頃、僕たちはまだ幸せだったから、ナスカ星人は来なかったけれど、
今なら。
――光が見える。
暗く、焦点の定まらない視界の向こうに、
光。
ああ、ロケットの光だ。
声も聞こえる。
自分の名前を呼ぶ声。
ひどく寒くて、なんだかふわふわしているけれど、
大丈夫。
さあ、連れて行ってくれ。
ナスカ星人。
4
「――で、事故なのか?」
刑事の高木はうんざりと呟いた。部下の前でなければ、ため息のひとつでもつきたい気分だった。
「ええ、鑑識の話では、あそこから、」
部下の一人は階段の最上段を指して、
「足を滑らせて、ここまで落ちたようです」
なんだかなぁ、と高木。男の死体に目をやって、頭をかく。
「被疑者死亡か。またマスコミに叩かれるな」
「すみません」
「運が悪かったんだ。とはいえ、あと少しで裏づけが取れるところだったんだがな……」
言って、男の傍にかがみこむ。全身打撲で、足も変な方向に曲がっている。その割に死に顔が安らかに見えるのが、やけにアンバランスだ。
「と、ちょっと待て。こりゃなんだ?」
男の手の下、白いコンクリートの面に、血で描いたのか、これは――
「……鳥の、絵か?」
「ダイイングメッセージですかね」
横から覗き込んだ部下が言う。
「そりゃフィクションの見すぎだ」
とは言ったものの、高木も気になった。どうしてこんな絵を描いたのか。それに、
「どっかで見たことないか? これ」
「言われてみれば……どこかで」
やって来た鑑識の一人が、しばらく眺めた末に、
「……これ、ナスカの地上絵じゃないですか?」
高木は思わず顔を上げた。
「そうだ。それだ! ナスカの地上絵」
もう一度その絵を見る。確かハチドリの絵だったか。間違いない。簡略化されているが、全体の印象はそれだ。
二度ほど頷いてから、高木は誰ともなく呟いた。
「――で、なんでナスカの地上絵なんだ?」
さあ、という声が重なった。一斉に刑事たちは首を傾げる。
語らぬは、地上絵。
皆様の御感想お待ちしております。
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最終更新:2008年06月01日 11:04