ご挨拶●●●山本東次郎
今年もハゲマス会主催の「狂言の会」がやって参りました。会員の皆々様方のご尽力により、年を追う毎に観客席のお客様の数も増え、盛会裡に開いて下さっていること、ほんとうに嬉しく、心より感謝申し上げます。そしてまた、下旬とは言え、未だ新年の気の残るご多忙の中、お運びくださったお客様方には衷心より御礼申し上げます。
今年の曲目は『佐渡狐』『樋の酒』『唐相撲』となりました。『佐渡狐』『樋の酒』は日頃たびたび上演いたします曲で、ご覧になったことのある方も多いかと思います。それに対して『唐相撲』は狂言のなかでは最も大掛かりな狂言で、四拍子のお囃子方や後見等を含めますと最低でもニ十五人から三十人が舞台の上に乗ります。また装束・小道具・被り物・作り物など、他の曲では使われないまさに『唐相撲』だけのものばかりで、上演する方といたしましては、最も面倒な、やるからには相当な準備と覚悟が必要な曲です。それ故、我が家では資料として断片的な型付けや演出は残されていたものの、曾祖父の時代も祖父の時も父の時もその環境が整わず、演じることはできませんでした。
確か昭和三十六年と四十五年の芸術祭だったと思いますが、大蔵・茂山・山本合同での上演、そして昭和六十三年に笛方の一噌庸二師の主催する会で、茂山家と合同でこの曲を演じました(皇帝・茂山千作、通辞・茂山千之丞、日本人・山本東次郎)。そのとき強く思いましたのは、狂言の家として一派を為している以上、我が家単独で『唐相撲』を上演したい、それは取りも直さず山本の『唐相撲』を演じたいということです。それが出来るような陣容と必要な品を整えておきたいということ、それ以来折に触れ資料を眺め、断片的な型付けに立体的な工夫を加え、役に立ちそうな品々を集める準備をしておりました。平成十三年、横浜能楽堂からのご依頼でようやくその機会が巡ってまいりました。
さていよいよ上演するとなると、やはり私にはいろいろ信念上のこだわりがあり、他家のものとは違う、自分のイメージに叶ったものを調えたい。ちょうどその時、幸運にも尾張徳川家に伝わる小道具・装束類・被り物・作り物などの図録が手に入り、さすがはお大名のお家、すべてに品格があり、能舞台にふさわしい品々で、たいへん参考になりました。
こうして小道具類のひとつひとつを自分で手作りしながら徐々に上演に向けての気持ちを高めていくなかで改めて考えたことは、この『唐相撲』という狂言が何を描こうとしているのかということでした。狂言には一曲一曲それぞれに訴えたいこと、示唆していることが必ずあります。初舞台を踏んで六十七年、日々狂言と格闘しながら、私は何とか狂言を説く方程式のようなものを獲得したと思っております。それはあくまでも私の方程式であり、それを観客の皆様に押しつけるものではありません。ご自由にご覧下されば良いのです。しかし、演ずる側には確かな芯になるものがなければなりません。
『唐相撲』は旧幕時代の鎖国に対する批判ではないか、だからこんなにも荒唐無稽な、誰も見たことのない外国の話を作ったのではないか。そうしてみるとそれを裏付ける内容が多々垣問見えます。その一つは皇帝を除く全員で大合唱する「唐韻」の謡です。
最初にお断りしておくべきでしたが、『唐相撲』の科白は日本人と通辞が話す日本語以外の言葉には正確な意味はありません。おそらく当時の日本人が耳にした中国語の音、その印象的な部分を科白にしたものを「唐韻」といい、これらは言葉として意味は成さなくても、決まった科白であり、アドリブでもでたらめでもありません。
さて、皆で謡うこれは「皇帝賛歌」にほかなりません。大帝国がたった一人の日本人に掻き回されるこの曲は、帝国主義の脆さ危うさを示唆しているのではないか。権力者というものがいかに身勝手で我が儘なものか、それを様式的な型でお見せする場面(皇帝が二回目の「楽」の中で荒孤を身に纏うくだりなど)もあります。ともすれば悪ふざけになりかねない『唐相撲』、しかしこれが狂言として存在する以上、何か示唆を与えてくれるものとして、またスケールの大きさに比例すれば、より強く濃いメッセージを伝えてくれるのではないか、これを正真正銘、山本の狂言としてお見せしたいと思っております。
我が家単独での上演は四回目となりますが、今回は演出はじめ大勢の稽古や準備を則俊、則重、則秀の三人に任せることにいたしました。私事で恐縮ですが、昨年夏の検査で、年明け早々に入院・手術が決まり、半月ほど舞台に立てない状態になることが判明したためですが、若い者たちにとってはこうした大曲をどのように構成するか、準備するかを経験する良い機会になったと思います。
さて今回唯一悔やまれることは、昨年夏、長年この会を支えて下さっていた松本市壽氏の訃報に接したことでございます。良寛の研究家で、まさにそのまま良寛様の生まれ変わりのような穏やかな優しいお人柄の方でした。私が以前に梅若玄祥師の『伽羅沙』、観世清和師の『道灌』という二つの新作能を書いたことをご存知だったので、私に『良寛』の狂言をこしらえて演じて欲しいとしきりにおっしゃっておいででしたが、ご希望を叶えることができず、忸怩たる思いです。良寛様のような生き方、「無欲」や「知足」は今の世の中に最も必要なものに違いありませんが、何よりも私自身が未熟のため、狂言として作り、演じるところまではまだ遠い道のりです。
『佐渡狐』は離島のコンプレックスから発し、ほんとうのことを言う小さな勇気がなかったために窮地に陥るお百姓の話、『樋の酒』は舞台上を二つの大きな蔵の中に見立て、お互いが見えない中で奮闘する太郎冠者、次郎冠者の話で、本日が初めての狂言という方でも安心してご覧になれる曲です。
回は重なっても「一期一会」に変わりはありません。一門、心して勤めます。これからも温かくお見守りくださり、厳しい御批判を賜りたく存じます。
本日はありがとうございました。
最終更新:2010年01月29日 02:27