<<おはよう>>

  目覚めない。
  聞いて驚いたマクスウェルが部屋を訪れたのは、昨日だったか一昨日だったか。
  記憶にない。
  何を馬鹿なことを――だとか、
  謀るのもいい加減にしろ――だとか、
  口先だけで平静を装いながら、恐ろしくてたまらなかったのが、実のところだ。

  この明けの空は現実なのだろうか。

  ああ。
  嘆息が口からこぼれた。
  また一日が始まる。

  知らず仰ぎ見るように、窓の外を眺めていた視線をマクスウェルはぼんやりと戻し、
  寝台に横たわったままの――アレクサンド・アンデルセン神父に目を向けた。
 「いい加減に起きろこの寝太郎」
  どう頑張ってもこの図体にこの髭面――「眠り姫」だなんてとても思えない。
  頬を軽くつねってみた。

  その頬の温かさに、不意に心弱くなる。
  幸い、部屋には一人だ。
  それをいいことに、床に跪くと、アンデルセンの胸元に耳を寄せた。
  心音が聞こえる。
  安心と不安が一挙に去来し、馬鹿、と小さく呟いた。
  どうして。
 「どうして目覚めない」

  目立った外傷はない。
  と言うよりも、外傷が残る体ではないのだ。
  同じように、内部の痛みも直ぐに回復するはずで、念のために呼ばせた医者ですら、首を傾げていた。
  原因が判らないのだと言う。
  頭でも打ったか。
  なにかしら――再生者であるその体の超回復が、どこかに負荷をかけていて――それゆえの不覚なのだろうか。
  判らない。
  マクスウェルに判るのは、
  こうして、耳を寄せれば聞こえるいつもと変わらない心音と、
  異常はないのに、待てど暮らせど四と半日目覚めないと言う事実。そのふたつだけだ。
  ある種の特殊な体構造なので、気安く入院、と言うわけにも行かない。
  ……それでももう二、三日目覚めないようなら、特権を行使してでも検査を強行したほうがいいのかもしれない。
 「アンデルセン」
  名を呼んでみた。
 「アンデルセン……」
  銃剣。首切り判事。13課の鬼札。その他……もろもろ。
  二つどころか渾名の種類は、両手の指でも余る。伊達に高名ではないらしい。
  渾名で呼んでやろうかとも思ったが、眠り呆けたままの男の夢身が悪かったら困るのでやめた。
  やめてから、人の気も知らずに寝ている男、の夢まで心配してやっている己のお人よしさ加減にあきれ返る。
  けれど代わりに、マクスウェルの口を付いて出たのは、

 「――”ごらん、冬は去り雨の季節は終わった。花は地に咲きいで小鳥の”――」

  聖書の一節だ。
  寝物語には、情熱的やしないか。
  苦笑が漏れた。
  だのに、言葉は止まらない。
 「”わたしの鳩よ 姿を見せ、声を聞かせておくれ”」
  恋しい、
 「――”人よ、どうか かもしかのように、若い雄鹿のように 深い山へ帰って来てください”――」

  はやく。
  はやく、起きろ。

 「”夜ごと臥所に――慕う人を求めても、求めても、あの人は見つかりません”」

  心音を聞きながら、囁くマクスウェルは静かに目を閉じる。
  目を閉じるといっそうに、世界は心音と暗闇だけになり、

 「”起き出して町をめぐり、通りや広場をめぐって、恋い慕う人を求め彷徨う。求めても、求めても、あの人は見つかりません”」

  不意に。
  泣き出したいような嘆息を吐き出しかけたマクスウェルの頭を、躊躇いがちに抱きしめかける大きな手がある。

 「”恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません”」

  響いた声にぎょっとして、マクスウェルは跳ね起きた。
 「誰が」
  立ち眩むほどに、一気に思いがあふれ出して、
 「誰が『恋い慕う』だこの馬鹿」
  憎まれ口であやうく蓋をした。
  涙が滲む?冗談じゃない。
 「四日と半日とは『お早い』お目覚めだな、アンデルセン」
 「ああ」
  そんなに寝ていましたか。
  口角を上げて皮肉を呟けば、済まなそうに苦笑する顔が、ふとマクスウェルを捕らえてその彫りが深くなる。
 「気分はどうだ」
 「心配してくれたのですね」
 「誰がするか」
  腕が伸ばされ、今度はしっかりと引き寄せられた。
  大きな胸元に。
 「目覚めた瞬間あなたが目の前にいるなんて、夢のようですね」
 「また寝る気か。いい加減にしろ」
 「おはようございます、マクスウェル」
  口を尖らし暴れるマクスウェルの額に、遠慮なく唇が押し当てられる。
  そっぽを向いて鼻を鳴らした。


 「始めにありし如く、今もいつも世々に」
 「アーメン」





おはよう。


最終更新:2008年06月27日 19:47