<<月へと還る獣>>

       道をゆく


  呆気にとられる、と言う言葉がある。
  あまりの事態に即座に反応は出来ず、ただただ、立ち尽くす状態を言う。
  まさにこの瞬間が、文字通りの形――なのだろうな、などとふと頭をよぎった。
  ミルキィユである。
  ハルガムント邸の不埒もの一連を後ろ手に縛り上げ、皇都へと帰還した直後、報告のために登城した皇宮で、耳を疑う言葉を聞いた。
 「――陛下?」
  勢い、衝立の向こう側へ乗り出しそうになって、ミルキィユは慌てて思いとどまる。
 「からかっているのか、と聞きたい風情であるね」
  残念ながら、妹をからかう趣味はわたしにはないよ。
  大理石壁に反響する声が、言外にそう語っていた。
  浴場であった。
  エスタッド皇、湯浴みの真っ最中である。
 「……では、では、真に本気……なのですか?」
  助けを求めるように、衝立脇に控えるミルキィユの剣の師――今現在はエスタッド皇の唯一絶対の護衛――であるディクスに、視線を投げかけていた。
  哀れむような、諦観したような視線をディクスも返してみせる。
  おかげで、確信した。
 「本当に、」
 「本当だ」
  狼狽たえる妹の様子を、楽しんでいるであろう声が反復する。
 「また……、大きな賭けに」
 「出たのかもしれないね」
  なんと答えてよいものやら、無意識に脱衣籠に掛けられた、上着の模様に目を泳がせながら、口ごもるミルキィユに、うきうきとした口調で皇帝は応じる。
  まるで他人事だった。
 「陛下」
  呆れた声をミルキィユが発すると、
 「存外に、本気なのだ」
  不意に衝立の向こう側の声が真剣味を増す。
  その声に、勢いが殺がれた。
 「わたしには――わたしには、判りかねます。エスタッドの負債が多すぎるように――その――、」
 「まあ、そうであろうな」
  前途は多難であるよ。
  嬉しそうなため息が、浴場に響く。
 「ディクスにも似たようなことを言われたところだったのだ」
 「では何故」
  目を上げると師が頷き返す。
  殺がれた気負いをそこで貰って、ミルキィユは声を上げた。
 「陛下の――」
 「兄、と呼びたまえ」
 「言えません」
  間髪いれずに返された不満そうな声に、反射的にミルキィユは言い返す。
  頬が若干赤らんだ。
  確かに、兄である。
  血縁上は、異父兄弟である。
  だが、兄であって兄でない。血縁者であって、血縁者ではない。
  彼女自身が気楽にエスタッド皇を兄弟呼ばわりするには、複雑な過去がありすぎた。
 「それよりも陛下」
 「――なんだね?」
 「また、どうしてこんな話を浴場でなされますか」
  水音が響くさまが妙になまめかしい。
  そもそも、面と向かって話をしていてもどこか気がそぞろになり、落ち着きを欠く相手だというのに、こんな場所ではいっそうに、困る。
  天井を睨むようにして、ミルキィユが訊ねると、
 「それは君、面と顔を突き合わせたらしばらく説教される状況を、回避する為じゃあないか」
  うきうきとした口調は相変わらずだ。
  何を言っても通じない。
 「……陛下」
  思わずミルキィユ、腹の底から呆れた声を出していた。


  その、戦場を疾駆する彼女ですら、思わず声を荒げたエスタッド皇国の提案と言うものが実は、

 「先日執り行われた、エスタッド皇国とトルエ公国との盟約を正式に破棄する」

  であったのだから、無事を知らせに登城した謁見の場で、飄々と告げられたキルシュにはたまらない。
  実は、エスタッド皇から公式に発表されたのがこの場であると言うのだから、周囲の反応も押して知るべし、である。
  主には皇国の従者からなる、小さな悲鳴と囁き、怒号に謁見場は満たされた。
  当然である。
  普段から、自己決定を得意とする皇帝の突然の提案は、それなりに聞きなれたものではあったものの、
  事が、事だった。
  この数ヶ月の血の滲むような涙ぐましい努力が、皇帝のたった一言で水泡に帰す、となれば、文句のひとつも垂れたくなるだろう。
 「さよ……うですか」
  ぐう、と鳴りかけた喉を押し黙らせて、なんとか平然を装い、返して見せたキルシュは、であるから、かなり努力したと言わざるを得ない。
 「エスタッド皇」
 「ぅん?」
 「理由を伺っても?」
  正式な調印の後の話である。
  申し込まれた段階であるならともかく、築家で言うならば土台の基礎工事も骨組みも、内装もほとんど終わらせた時点での、契約破棄であるのだから、
 「聞きたいかね」
 「是非聞かせて頂とうございますな」
  キルシュの背後に控えたエンが、若干前面に出て応える。
  僅かに引き攣っていた。
  小国トルエがようやくこぎつけた、ある程度の安定の懸案であったのだから、破棄されるとなれば必死にもなる。
  はったりの上にはったりを重ねて進めた調停を、振り出しに戻されたのである。
  当然の反応を、
 「実はね。必要以上にトルエ公国が気に入ってしまったのだよ」
 「は、」
  嬉しそうに眺める皇帝に、捻くれてはあれど、ひどく常識的な思考の持ち主であるエンは、思わず言葉に詰まる。
 「気に入っていただけたのならば」
  何故。
 「トルエ公国の提示した案では、通り一辺倒過ぎてつまらない、と言いたいのだよ」
 「つまらない――、」
  面白い、面白くないで政治の場を考えたことがないエンは、
 「判らないかな」
 「判りませぬ」
  正直に答えていた。
 「なに、つまりね」
  鉄面皮と噂のトルエ国の参謀と、大国を目前に構えて物怖じしない公女、
  の動揺姿を見られて、それだけでエスタッド皇、ひどく満悦の構えだ。
 「それが見たかったのだ」と。そのぐらいは言うかもしれない。
 「言い方は違えど、端的に言うならば君たちの出した提案では、トルエはエスタッドへ吸収合併される。……そうだね?」
 「はい」
  取り繕っても仕方がないし、エンに取り繕うつもりもない。
  頷いた。
 「傘下に入ると銘打って、実を結ばぬ婚姻を挙げて、戦乱を避ける。実に立派な定石ではあるが、鉄板に過ぎて面白みに欠ける」
 「……」
 「なに、盟約をすべて破棄して、混乱に陥らせたい訳ではないのだ。山国であるトルエに攻め込む兵力を割くのもまた、惜しい。であるからね、」
  うっすらと笑いを浮かべて場を眺めていたエスタッド皇帝は、そこでようやくキルシュとエンにひた、と視線を合わせ、
 「外へ、出ないか」
  誘った。
 「は、」
  判じかねるキルシュに、皇帝、立ち上がると、手を差し伸べる。
 「バルコニーへと足を運ばれたい」
 「はい」
  差し伸べられた手を、キルシュ思わず取っていた。

       *

 「知が欲しい」
 「あたま」
  人目を避けたか、醜聞を憚ったか、
  引かれるままに連れて行かれたバルコニーには、エスタッド皇、付き人であるディクス、それにエンとキルシュの四人である。
  陽光溢れるその場へ出た瞬間、皇帝は言葉を放っていた。
 「知……と申されますのは、」
  突拍子もない提案に、思わずエンが反復する。
 「文字通りの言葉だよ。キルシュ公女は丁重にトルエへお返しする」
 「――」
 「代わりと言ってはなんだが、トルエ公国から一人、いただきたい」
  口調とは裏腹にその目が存外、真剣であった。
  剣呑な光に気付いて、キルシュが身を固くする。
  蝮だと、言われて覚悟してエスタッドへ赴いた。
 (蝮どころではない)
  舌打ちをしたい気分だ。
 (蝮を超えて、これではウワバミではないか)
  すべてを――喰らう。
 「トルエの知恵を提供して欲しいのだ」
 「エスタッド皇」
 「うん」
 「わたくしは、政治に疎うございます。駆け引きも得意とはしません。そんなわたくしにも判るように、噛み砕いておっしゃってはいただけませんか」
  沈黙したエンに代わって、キルシュが口を開いて訊ねる。
 「では、トルエ公女に訊ねようか。――エスタッド国の弱みとは、なんだね」
 「弱み……ですか」
  首を傾げる。
 「判りかねます」
  本気だった。
 「武力はある。だが、それらを動かす頭に欠ける」
 「――」
 「確かに、個々の采配は素晴らしいものがある。後の世には名将と呼ばれる将軍たちも数人、旗下にはいると自負している。だが――大軍を動かす力には、いまひとつ足りない」
 「それは、」
  そう言うものなのかもしれない。
  皇帝の言葉にキルシュは無言で頷き、先を促す。
 「『軍』とは人の寄せ集まった塊だ。一人二人ならともかく、その寄せ集めを滞りなく動かせる力――これは、手に入れようとしても中々手に入れられるものではない。努力してもも、ともとの素質、というものもある」
 「――」
 「個の才覚でことが済んでいるうちは良いだろうが……それでは所詮烏合の衆だ。わたしが動かしたいものは、まとまりのない狼の大群ではない」
 「と、言うことはつまり」
  ようやく話を飲み込み始めたキルシュが、思わず背後を振り返った。
  珍しく、苦い顔をしたエンが控えている。
 「トルエの参謀殿の知恵を、エスタッドに貸してはくれないか。具体的に言うなれば、年に半分の割合で、参謀殿がエスタッドへ滞在する。代わりに我がエスタッドは、トルエ公国への一切の手出しを成さぬと誓おう」
 「私は、」
  皇帝の言葉を思わず遮って、エンが口を挟む。
 「私は、」
 「屋敷も与えようし、特例で優遇しよう。悪い条件ではない――と、思うのだよ。そもそも子の成せないわたしに公女を宛がう方が、何割もひどい話ではないかね?」
 「エスタッド皇」
  考えなしに口を挟んだエンは再び黙り込み、代わりに覆い被せるように皇帝が呟いた。
  キルシュが皇帝を仰ぎ見、驚く。
  優しい目をしていたからだ。
 「肝の据わった公女だ。その血をそこで途絶えさせるには惜しい。そう――、エスタッドを飲み込むほどに大きな力のある施政者が次に生まれることも……夢ではないかもしれないではないか」
 「エスタッドをつぶせと、仰いますか」
  あまりに率直なキルシュの表現に、控えたディクスがぎょっとするが、
 「そう。その恐れを知らない強さが良い」
  皇帝は満足そうに頷き返した。
 「敵は。いないよりもいたほうが面白い。小さいよりも大きいものが良い。人の道も同じようなものなのではないかね?」
  さすがに息を呑むキルシュをその場に残し、エスタッド皇。実に悠々と背を翻して見せた。
 「エスタッド皇、」
 「惚れた者に寝首を掻かれる。そんな関係もまた一興」
  良い返事を待っている、
  そう言い置いた言葉と共に。


  開け放った窓から、夜気がじわりと侵入している。
  深更。
  宛がわれた屋敷内はひっそりと静まり返り、今は物音ひとつしない。
 「さて。どうしたものか」
  諦念をこめた声が室内に響くと、
 「は」
  えらく慇懃な声が、それに応えた。
 「は、ではない。実際問題、深刻ではないか」
  少女が腕組みをして、寝台に胡坐を掻いていた。
  キルシュである。
  対する男――勿論エン――は定位置、定距離を保って、彼女の斜め前に控えていた。
 「こなた、どう考えているのだ」
 「どう――と、申しますのは」
 「すっとぼけるな。何とやらの顔も三度まで、と言う」
 「――三度まではものの試し。次に仕上がる場合もございましょう」
 「……どの口が」
  半ば呆れてキルシュが溜息をついた。
  エスタッド皇国に破棄された、婚姻話を蒸し返していたのだ。
 「一度目は夫の病死。二度目は惨死。三度目の正直と挑んだ今回、相手方にすげなく袖にされ。不運と言うならこれほどの不運も、ないのではないだろうか」
 「悪運――かも知れませぬな」
 「そうかも知れぬ」
  珍しく毒舌で反論しないしおれた声に、聞きとがめたエンがおやと片眉を上げる。
 「お珍しゅうございます。陛下が落ち込みなさるとは」
 「明日は空から槍が降るな」
  力なく笑って、しかし本気で肩を落としていた。
  笑いに、普段の覇気が含まれていないことに気付き、
 「どうなさいました」
  からかうのを止めて、エンが訊ねた。
 「……どうしたもこうしたも。心底、縁談に絡む盟約に辟易した。これなら、狼煙を上げて派手に散るほうが、いくらかマシと思わんでもない」
 「……」
 「言っておくが。こなた、仲人気取りの縁談話、二度と持ってくるな。わたしはもう、耳を貸さぬ」
 「……」
 「それとも本気でラグリアに肩入れして尼にでもなって見せるか。いっそ一人がせいせいする」
 「……」
  国策に、何ら強みを持たない弱小国家のトルエが、キルシュを道具にすることは仕様のないことだ。
 「小国トルエは顔で持つ」。
  それは、若干の皮肉と共に、しかし的を得た表現ではあった。
  近隣諸国に噂されている通りなのだ。
  判っている。
  判っていて――愚痴りたい夜も、ある。

 「で」
 「はい」

 「こなた、どうするつもりだ」
 「は」
 「エスタッドへ……残るのか」
  問い詰めた声はかすれている。
  心底、不安であった。
 「陛下」
  真剣味を帯びた口調のキルシュの意図が読めずに、エンは首を傾げた。
 「同意しました手前もございます」
 「トルエは。どうする」
 「――」
  わたしはどうしたらいい。
  弱音を見せかけて、
 「いや」
  埒の明かない会話に、肩を落としてキルシュが首を振った。
 「なんでもない。愚痴であった。忘れろ」
 「――陛下」
  不意に囁く声が存外に近くて、キルシュは驚いて顔を上げた。
  エンがいつの間にか、目の前に立っている。
 「以前陛下が御身を貪欲と評したことがございましたな」
 「貪、欲」
 「ある月夜の晩に」
 「――ああ」
  頷きかけたキルシュは、若干逡巡する素振りを見せた。
 「ずいぶんと前のことのように思える」
  実際は、たかだかふた月ほど前の話だ。
 「陛下に輪をかけて、私も強欲ものにございます」
  当て布で塞がれて尚、視線が真っ直ぐに自身に注がれているのが判る。
 「強欲、とは」
  柄にもなく落ち着きをなくして、左右を見回すキルシュへ、
 「ですから」
  ぎ。
  寝台の軋む音が、妙に鮮明に彼女の耳奥に響いた。
 「エ……ン?」
  狼狽など疾うに見越したエンは、片膝を寝台に上げ、身を乗り出す。
  普段の彼からまるで考えられないその素振りに、キルシュは目を見張る。
 「狂うほどに手に入れたいものが、不意に棚から落ちてきましても、興味が湧かぬのでございます」
 「……」
  どこぞの国の皇帝と、同じような心持であったろう。
 「月は――地に墜つる姿よりも、孤高に天の宮に懸かる方が、より、らしゅうございます」
 「……こなたは意地が悪い」
  その場から逃げては負ける気がして、身動くことすら出来ずに、じっとエンを睨み上げていたキルシュの視界が滲む。
  悔し涙だ。
 「とことんに、意地が悪い」
 「何が不安でございますか」
 「わたしは弱い人間だ。何もかも、不安である」
 「――御身を、貶めなされますな。御身を、辱しめなされますな。私が手塩にかけて、大切にお育てしまいた陛下でございます」
 「……判らぬ」
  注がれる視線に耐え切れず、
 「こなたの言うことは遠回しすぎて判らぬ」
  そっぽを向いてキルシュは吐き捨てた。
 「簡潔に申せ」
 「愛おしゅうございます」
  はっ、と。
  胸を衝かれて息を呑んだ拍子に、男の手のひらが彼女の顎を取る。
  咎める声を上げる間もなく掻き抱かれ。
  乱暴に唇を塞がれた。
 「此方さまがアルカナ軍に囚われた間。私の昼は昼でなく、夜は夜でなく。現を生きているのかすらも、果敢ない――、まるで果敢ない、覚束ない生でございました」
 「……」
 「戻られた瞬間は、夢かと。私の醜い願望が見せた一夜の夢で、直ぐにでも掻き消えてしまわれるのではないかと。恐ろしゅうて――声すら出ませなんだ」
 「夢では……ない」
  男の浮かべた、嬉しいような哀しいような笑みを思い出し、キルシュは小さく喘いだ。
 「陛下」
 「案ずるな。わたしは……消えぬ」
 「陛下」
  低い囁きが、吐息と共に耳元へ。首筋へ。
  冷静の仮面を脱ぎ捨てて、うわ言のようになんどもキルシュを呼びながら、口付けを降らすエンを、
  逆に確かめるように、キルシュは彼を引き寄せた。
  引かれ、体勢を崩して、男は彼女に圧し掛かる形になる。
 「陛下」
  慌てて身を起こそうとしかけるエンの首に、そのままキルシュは両腕を絡めて、
 「エスタッドへ残るなとは言わぬ。だが……逝くな」
  男の耳元へ、囁き返してやる。
 「……陛下」
 「判っている。こなたの身体にとって、皇都に残る方が良いのだろう。あの皇帝、本当に喰えぬ。口には出さずに実に色々なことをツツいてくるな」
 「――」
 「弱りきっているこなたの身体に、トルエの冬は厳し過ぎよう。エスタッドであれば……まだ過ごしやすい。身を労うには良い場所だ」
 「陛下」
 「ただ」
  大きく震える息を吐いて、キルシュは男の胸元へ額を押し付ける。
 「エン」
 「はい」

 「淋しい」

  目を閉じ呟いた。
  本音だった。
  エンが息を呑む音が伝わる。
 「だから、決してどこへも逝くな。こなたの命は、こなただけのものでないことを……忘れるな」
 「陛下」
 「無茶をするな。無理をするな。無謀もするな。わたしを置いて、どこへも逝くな」
  聞いた男が薄く笑う。
 「そっくりそのまま――お返しいたします」
 「莫迦」
  あやすように背を撫ぜる男の指が、熱い。
 (いつもは凍えるほど冷たいくせに)
  現金なものだ、と笑った。
  自身も。男も。
 「エン」
 「はい」
 「わたしはな。輪をかけたこなたよりも、さらにさらに強欲である」
 「はい」
 「餓鬼と同じだ。生半可なものでは満足せぬゆえ。心して聞け」
  寒いわけではない。
  恐ろしいわけでもない。
  であるのに、体のどこもかしこも、おかしいくらいに細かく震える。
  抱きしめてくるエンの腕の中から手を伸ばし、
  やわらかな前髪に触れ――、それからおずおずと、盲いた瞼に指を当てた。
 「こなたは、何を見据える」
  白濁したその瞳で。
  指の腹でそっと撫ぜ、キルシュは問う。
 「盲いた眼で何を思う」
 「御身と共にあれかし――と」
  淀みなく応えた声に、ぽろと涙が頬を伝って、
 「たがうな」
  涙を拭いかけたエンへ、キルシュは自身から唇を重ねた。
 「陛下」
 「たがうな……」

  抱きしめれば、抱きしめ返す腕がある。
  囁けば、囁き返すものがいる。
  そうして、一晩。
  睦言と共に何度も、何度も。
  キルシュはエンに、百篇の誓いを立てさせたのだった。


  白々とした夜明けに、目が覚めた。
  起きるには少し早い。
  背中にやさしい違和感を覚えて、キルシュは視線を動かす。
  穏やかな寝息が肩口へと当たる。
  回されたエンの腕の重みが心地よかった。
  その腕を男の眠りを壊さぬようにそっと、両手で抱えるようにして、抱きしめる。
  人に触れることが恐ろしかった。
  輪をかけて、人に触れられるということが恐ろしかった。
 (こなたは、実に温かだ)
  今は何も怖くない。
 「エン」
  ゆっくりと寝返りを打ち、男の顔を見上げる位置に来ると、起こさないぎりぎりに抑えた低い声音で、キルシュは唇を動かし囁いた。
 「こなたがいる限り。わたしは、わたしの道をゆこう」

  聞こえたのか、男が。
  夢の中で微かに笑んだ。


  以下、蛇足。

  吸収合併という形を免れ、ある種の独立国家としての態を得たトルエ公国は、その後ラグリア教団ともエスタッド皇国とも――その他の周辺国家とも、それとなく事を運んで、
 「のらりくらりと」
  国交を続けたようである。
 「トルエは喰えぬ」
  そう周囲には評されたようであるから、参謀役であった男、実にうまい具合に政治を取り仕切ったらしい。
  その盲目の参謀役、一年の半分はエスタッド皇国にて、残りの半分はトルエ公国にて、軍略家としての智謀を存分に発揮したようである。
  食客扱いにして、かなりの優遇をなされたとも聞く。
  エスタッド皇帝にして、
 「あれがいなければあと二十年。統一は遠かった」
  とある。
  皇帝かなりのご満悦であったとされる。
  その、参謀。傷んだ身体をおしながら、一病息災。公女の側に控えていたようだ。
  キルシュ本人も、ある年の猛威を奮った流行り病に倒れるまで、安寧に暮らしていたようである。
  おそらく時には、参謀役と丁々発止の掛け合いをしていたのであろう。
  歌歌いの語る抒情詩を耳にすると、そんな姿が目に浮かぶ。
  公女、二人の子を生したとされている。
  正式な婚姻の記録はないと言うから、父親が誰なのか記録には残っていない。

  そもそも、キルシュという名前、トルエ公国の正史には全く登場しない。
  正史には僅か一行、「名代分家の女が王位を継ぐ」と記されたのみである。

  これが彼女に当たるかどうかは、定かではない。



公女と参謀にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:08