<<和風>>
「知っていますか?」
「……なにが」
連夜に亘りある種の格闘をし続けた、報告書の整理がひと段落して、ふと思いついて町へと繰り出したのだった。
マクスウェルである。
夜の町。
ヴァチカンと言う、この限られた人口の小さな小宇宙は、昼日中の観光客の往来もなく、もちろんすべての店も既に明かりが落とされ、ひっそりと静まり返っている。
人っ子一人どころか、猫一匹通る気配の無い、穏やかな静けさに包まれた町。
マクスウェルは、そんな風景が好きだ。
もともと、ひどく人付き合いが苦手で、だのに面前に出ると愛想笑いばかりしてくたびれる。
人込みは嫌いだ。
気疲ればかりする瞼の奥に、白すぎるほど白い光が乱反射して飛び込み、ただでさえ寝不足の視界をさらに痛めつける。
清すぎる光は嫌いだ。
だから、夜は。
闇に包まれ、愛想も追従も、ついでに仕事のことも全部放り出して、素に戻れる一時だった。
店じまいした店舗の立ち並ぶ通りは、だからもちろん、マクスウェルが冷やかせる場所などない。
ブラブラとそぞろ歩く身体を、落ち着けるにも椅子一つ出ておらず、
逆に安心した。
何にも干渉されない。
マクスウェルの住まう住居区内は――無論必要以上に彼に関わろうとするものはそう多くはなかったが――、それでもある程度の人目はいつも交わされている。
幼いころからそんな中で暮らしてきたとは言え、それでも息が詰まりそうになるときは……ある。
例えば、今。
ほう、と深呼吸をひとつしたところに、だから不意に掛けられた声に、マクスウェルは顔をしかめて振り向く。
ひどく不快だった。
深みを帯びた聞きなれた声である。
もちろんマクスウェルには、振り向く前から見当が付いている。
「……アンデルセン」
少し離れた背後に、星明りに照らされてぬう、と立つ大柄な体がある。
マクスウェルと同じように、闇をまとってその表情は朧だ。
だのに気配で、微笑んでいるのがわかった。
腐れ縁、とでも言いたい付き合いの長さに、思わず違う意味でのため息が出る。
「知っていますか」
「……だから。なにが」
不愉快さを隠すことなく、半ば噛み付くように返すマクスウェルの声を、十二分に聞き取りながら男――アンデルセンの、楽しげな声の調子は変わらない。
「今日。院の子供らと一緒に、夕食をとったんです」
「ふん」
だからどうした。
せっかくのひとりぼっちの開放感を邪魔されたマクスウェルは、鼻で唸った。
「もう少し、歩きませんか」
マクスウェルに並んだアンデルセンは、上司の様子をまったく気にも留めていない。
単に、慣れなのかもしれない。
促されて、しぶしぶ、マクスウェルは並んで歩き出す。
ヘソを曲げて自分の部屋に帰る気分ではなかったし、
腹を立てたところで、この男が意に介す様子もない。
不愉快になるだけ、自分が損をしている気がしたからだ。
意地、でもある。
「で?」
「はい?」
しばらく黙って歩いて、結局いらいらと、マクスウェルは横を歩くアンデルセンに話しかけていた。
静けさを邪魔されたことは、苛立つ。
言いかけた話を途中で区切られてしまうことは、もっと苛立つ。
「はい、じゃあない。お前が言ったんだろう。誰が、何を知っているんだ?」
「知りたいですか」
「……ッ」
舌打ちしながらアンデルセンのふくらはぎ辺りを、マクスウェルは蹴りつけてやった。
ただでさえ短気なのに、この男といると数割増しで堪忍袋の緒が短い。
「マクスウェル」
痛がる素振りも見せず、むしろ面白がっている口調で、不意にアンデルセンはマクスウェルを引き寄せた。
「ッて……おまッ……」
思いもよらずに角度が変わり、引かれるままにマクスウェルはアンデルセンと共に、路面へとひっくり返る。
「いい加減に……!」
しろと怒鳴りつける前に、強引に胸板に顔を押し付けられていた。
頭を撫でる大きな手。
「随分くたびれている」
「――」
ささくれ立った神経が、抱きしめられ一瞬にして溶解したのが自身で判った。
「また……ろくに眠らずに仕事ばかりしていたのでしょう。悪い子だ」
「――」
耳元に囁く声に、深い安堵を覚える。
滑稽なほど瞬時に怒りは消え去り、マクスウェルはもたれるようにアンデルセンに撫ぜられるままでいた。
心地良い。
どうせ、見ているものはいないのだ。
気にすることはない。
「少しは自分の体のことも大事にしてあげてください」
「……そう思うなら、お前自身の始末書の量を、あと半分ほど減らしてくれると助かる」
ようやくかすれた皮肉が出る。
くく、と男がしのび笑った。
「それはそうですね」
「自覚のある無自覚か。始末が悪い」
「痛いほど理解しています」
穏やかに響く声を、押し当てた胸腔から感じて、同じように喉を鳴らしてマクスウェルも笑った。
「まあ、猪突猛進なお前に、自覚しろと言うのが無理な話か」
「マクスウェル」
「……なんだ」
「知っていますか?」
「ぅん?」
三度、問われて初めて、男の顔を仰ぎ見た。
星明りにうっすらと、髭面の見慣れた顔が映る。
「ああ――夕食を、子供らと食べたとか……、そんな話だったな」
「その、夕食をとったときに、丁度隣に日本の子が座ったんですよ」
「日本……由美江と同じ国だな」
「その子が言うには、今月――7月7日は、『七夕』と言う日だそうで」
「たな、ばた」
「知っていますか」
一瞬溜め込んだ雑学をめくりあげて、マクスウェルは眉根を寄せる。
「何かで読んだな。道教の教えに通ずるものだったと記憶しているが。異教徒の祭りか?」
「日本では、とくに何を祀ると言うものでもないそうなんですがね、『オリヒメ』と言う女と、『ヒコボシ』と言う男が、一年に一度だけ出会える日だそうです」
「一年に一度」
「はい。こう、天の川――ミルキーウェイですね、を挟んでお互いに、鳥の架ける橋を渡るそうで」
「橋を渡る」
「雨が降ると、橋が架けられずに逢引できないそうで……だから、子供たちは一生懸命晴れるようにと祈るそうですよ」
「会、えない」
「素敵だと思いませんか」
「ぅん?」
楽しげな男に、つられてマクスウェルは尋ね返していた。
「何が素敵、だ?」
「ロマンチックな話でしょう」
「ロマンチックなぁ」
男の声に首を捻る。
「そう思いませんか」
「一年に一度しか会えないんだろう」
「そのようですね」
「俺なら――気が狂う」
思わずぽつと、本音がこぼれた。
気付いた刹那に、紅潮する。
顔を、背けた。
「マクスウェル」
少しだけ驚いたような、それからなぜか可笑しんでいるような、アンデルセンは曖昧な声音で、
「側にいますよ」
あらぬ方向を睨んでいる彼へ、アンデルセンはそっと言葉を落とす。
驚いて顔を上げたマクスウェルの耳へ、
「聖神はずっと側にいますよ」
至極まともな言葉が飛び込んだ。
「神、か」
囁かれた声に瞳を閉じ、それでもなぜか無性に込み上げる切なさをかみ殺して、マクスウェルは小さく笑った。
それは乾いた笑いだ。
なんて不謹慎な。
俺は一体何を期待しているのだろう。
笑いはそのまま自嘲だ。
腕を振り払って立ち上がった。
「マクスウェル?」
「……では。遠い異国の地から、異国の地へ向けて。是非とも7日は晴れるように……部屋へ戻って乾杯とでも行こうか」
「マクスウェル」
「固いことを言うな。少しぐらいいいじゃあないか。そう言う気分のときもある」
飲酒を咎めるアンデルセンの声に、肩越し振り返って、マクスウェルは自室へ戻るために聖堂へと戻り始めた。
馬鹿な考えをしたものだ。
頭を振り払って、瞬時にでかかった先の言葉を消し去った。
弱音は無かったことにしてしまうに、限る。
……どうせならお前が側にいてくれないか。
最終更新:2008年07月05日 01:09