*

  明けて次の日。

  いつもの時間。8時半の出勤にあわせて起きると、家の中はしんと静かで、誰の気配もない。
 「……シラスー?ハルア?」
  呼びかけてももちろん返事もなくて、やっぱりだーれもいないのだ。
 「こんな朝早くから何張り切って出掛けたのかな……」
  追い詰められて切羽詰っているハルアが(それこそ寝る間も惜しんで)、アドグという名前の魔物を、捕まえようと躍起になるのはまあ、判る。
  父親と、家族の命が懸かってるんだもんね。
  それは判る。
  問題は、いつになくシラスがやたら張り切ってるってコトで、
 「なああぁぁんかシックリこないんだなぁ」
  基本、誰が何をしようと無関心の姿勢を貫くヤツなのだ。
  あんなに乗り気で、自分から率先して動くには、きっと裏があるに違いない。
  ……違いないんだろうけど、じゃあなにが「裏」なのか、って言うと深読みの苦手なボクにはさっっっぱり理解できないわけで。
  問い詰めたって、きっと白状なんかしないだろうから、まあ放っておくに越したことはないんだろうな。
  多分。
  ……でもそれにしちゃあ、絶対ボクに何らかの被害が押し寄せてきそうで、それは避けたいんだけどねー。
  そんなことをつらつらと考え、朝から長々と溜息をつきながら、居間のテーブルに腰掛けて紅茶でもすすろうとしたトコに、
 「ん?」
  昔ハルアに貰ったまま、ペーパーウェイトに使ってる小石の下に一枚の紙切れを見つけたボクは、思わず声を上げる。
  シラスの走り書きだった。
 「『今日は仕事に行かないで家にいろ』――だ?……馬鹿だな。そんなコト、できるわけないじゃないか」
  一行だけ書かれたそれは、よっぽど急いで書いたようで、端っこの文字はインクが掠れている。
  まるで、家を出るときにひょいと思い出して慌てて書きなぐっていった……まあきっと、そんなトコなんだろう。
  よっぽど風邪をこじらせた、とかならともかく、何の理由もないのに仕事を休む謂れがない。
  そもそも、ボクが休んだら、ハルアと仲が良かった分、何かと怪しく見られる――んじゃなかろうか。
  なんせ、きっと世間では、「ハルメリア元王太子が、現政権に不満を持って父親である国王を殺害しようと計画――未遂」、とかなんだろうし、
  それをいうなら、ハルアが神殿にいるときにあった最後の人物、と言うのがボクになっちゃうわけで。
  匿っているんじゃないかと勘ぐられる(まあ、実際匿ってるワケなんだけどさ、)がオチなんじゃないか?
  それより、何食わぬ顔して神殿へ出勤するのが、きっと一番いいに決まってる。
  その方がきっと、情報収集?もできるだろうし。

  そうと決めて、ボクはちゃっちゃと朝ごはんを済ますと、急いで着替え、書置きのことは見なかったことにして、いつものように教会へ――今日は神殿のほうへ――仕事に出掛けたのだった。


  街中はきっと、ある程度大騒ぎになってるだろう――と言うボクの予想に反して、いつもと同じように朝の活気に溢れ、そんなに変わりはしない。
  ただ、「いつもと」違ったのは、街角のそっちこっちに厳重装備に身を固めた、兵隊さんがいるってことで……
  ああ、これ、ちっとも「いつも」の風景じゃないか。
  あからさまにひどく殺気立ってはいないけど、通常の喧騒とはちょっと違う雰囲気の何か、がピリッと流れている気も――する。
  王さまの容態がまだ安定していないようじゃ、まあ、そうなるんだろうな。


 「タマゴ」
  それでも一瞬、きっとわやくちゃになってるであろう神殿に行くべきか、それとも通いなれた教会に行くべきか。悩んでボクが、右と左に伸びる道を見比べたそのとき、
  不意に後ろからボクを呼ぶ声がした。
 「タマゴ」
 「……タマゴタマゴってボクのこと呼ばないでくださいと言っているじゃないですか。ボクにはれっきとした『レイディ』って言う名前が――」
  そんな名前でボクを呼ぶのは一人しかいない。
  振り返りながら、小言を言いかけたボクの手を、有無を言わさずにぐいと引いて、
 「ネ、ネ、ネイサム司教?」
  ボクの横に並んで早足で歩き始める。
  並んで、と言うかボクが引っ張られながら、なんだけど。
  歩かされたのは、神殿への道だ。
 「司教、一体、どうし――」
 「お前のところに『アレ』が行っているのだろう?」
 「え――」
  小走りに見上げた司教の顔は、いつもの、のほほんぼんやりとした顔と違って、
 「ネイサム司教?」
  とても怖い顔をしていた。
 「行っているんだな?」
 「『アレ』って言うのは、」
  怖いと言うよりは、厳しい、と言ったほうがいいのかな。
  どっちにしろ、あまり見たことがない部類の表情で、シラスにしろ司教にしろ、いつもと違う真剣な顔をされてしまうと、ボクは思わずどうしていいのか判らなくなってしまう。
 「猫を拾ってないか?」
 「ね、ネコですか」
  言われて瞬間にハルアの顔を思い出し、いやあれはどっちかって言うとネコと言うよりは犬じゃないか?とかどうでもいいコトを思ってしまう。
 「青い目の猫を拾ったろう」
 「いや、その、拾った、と言うか」
 「細かな事情は聞いていない。拾ったか、と聞いている」
 「拾いました。正確には窓から飛び込んできたんですが」
  今さら、ネイサム司教に嘘をついても始まらないだろう。
  人が隠していることを読み取るのが得意な人だし。
  嘘ついたところで、耳引っ張られてドロ吐かされるのがオチだ。
  それに、どこまでもいい加減だけど、大事なところで考えなしに騒ぎ立てるようなことは、しない人のはずだ。
  たぶん。
  ……たぶん。
  そう思ってボクは素直に頷いた。
 「昨日?」
 「の、夜ですね」
 「そうか」
  前を睨みつけるように歩きながら、司教はその怖い顔を崩さない。
 「ネ、ネイサム司教。あの、一体何を怒って――」

 「馬鹿が」

  声色は確かに怒っているんだけど、その声がなんと言うか不機嫌、て感じではなくて、ボクは思わず目をしばたたいた。
 「拾った後の面倒は考えなかったのか」
  ああ。
  驚いて、まじまじと司教の顔を見上げてしまう。
  不機嫌なんじゃない。
  ボクのことを心配して怒ってるんだ。
 「ご、ごめんなさい」
  だから、ボクは素直に謝った。
  司教の、『覇道~我が道を行く~』……的な性格を、痛いほど身に知らされているボクは、口がひん曲がっても司教が、
 「父親のように思」
  えることはまっっっったくないんだけれど、
  それでもさっさと職を変えられないでいるのは、あの、初めて会ったときに見せてくれた「安心できるニオイ」を、ほんのちょっと、ほんのちょび――っと、時々見せてくれちゃったりするからなのだ。
  卑怯なんである。
  そう言えばシラスにも、昨日似たようなことで怒られたことを思い出し、
  なんだかお互い嫌がってるけど、司教とシラスってどこか似たもの同士なんじゃないか?なぞと思ってしまったボクであった。
 「どうしてる」
 「あ……えっと、その、猫のことですか」
 「猫のことだ」
 「朝から同居人と一緒にどこかに出掛けていきましたけど。……多分、犯人捕まえに行ったんじゃないかな」
 「ふん」
 「同居人」、のところで、司教は盛大に気にくわなそうな鼻息を洩らす。
 「あ、あのですね、司教」
  ええい、どうせ怒っているついでだ。
  以前からボクは不思議でならなかった疑問を、怒られついでに口に出してみることにした。
 「なんだ」
 「前から不思議だったんですけど。その――ネイサム司教は、どうしてシラスのこと毛嫌いするんですか?いや、そりゃ、人間じゃないとか、魔物だとか、ネイサム司教はその魔物やらを退治するのが得意だからとか、そう言う辺りは判るんですが。そう言う意味での……『気に喰わない』?」
 「タマゴ」
 「はい」
 「お前の左手にある文様は、なんだ」
 「え――と、ですから、これは」
  言われてなんとなく、ボクは手の甲を見下ろし、それを右手で隠す。
  別に、悪いものじゃあないのだろうけど、「退魔士」として定評のある上司から、名指しでそういわれると、なんだか妙に居心地の悪い気がしてくる。
  ボクとシラスを結ぶ、
 「『血の契約』。それを交わした魔物は、主であるものに基本的に逆らうことは出来ない――そう聞かされて、育ったか」
 「え?」
  弾かれて顔を上げたボクに、静かな口調でネイサム司教は言った。
 「違うんですか?」
 「いや。違わない。そう言う意味『も』ある」
  ん?
  なんだか妙に思わせぶりな口調に、ボクは首を捻る。
 「『も』、というのは……」
  シラスにそう聞かされて育ったし、その意味しかボクは知らない。
 「お前は――あれらの世界に、足を踏み入れたことがあるか?」
 「え?世界と言うのは、えっと……価値観?ではなくて、言葉通りの世界、ですか?」
 「幸いに、まだその機会が訪れていないのならば、忠告しよう。決して足を踏み入れぬことだ」
 「……」
 「あれらとこちら側は――、構造が似ているようで非なるものだ。相容れることが出来ない。相容れようと努力してどうになるものでもない」
 「司教?」
 「”違い” と言うよりは、はっきりと”異い” だ。お前にもそれはわかるのだろう?」
  見上げたボクは、
 「それはその……体構造がどうの、とか考え方がどうの、とか言う……、」
 「あれと離れて暮らしてみると、わかる」
 「……え?」
  ぽつんと言った司教に、思わず素の声で聞き返してしまっていた。
 「それって、どういう――」
 「いずれわかる」
 「いや、いずれじゃなくてその」

 「その昔、あれらと相容れようと努力をして。ボロボロに傷ついたものを――よく、知っている」
  
  一体何を言っているんですか、だとか
  匂わせる発言じゃあなくて、核心に触れてください、だとか。
  ひょいと出てきたボクの不満は、上げた顔の先の司教の顔を見て、たちまちどこかに消えうせてしまった。
  いつの間にか怒りはなりを潜めて、
  とても、
  とても哀しい顔をしているように見えたからだ。
 「司教?」
 「まあ、いい。お前はこのまま神殿へ向かえ。何も考えず、一月後の奉納の舞の鍛錬をするように」
 「ってちょっと待ってください奉納の舞で思い出しました!」
  ぼそ、と耳元に囁いたネイサム司教は、唐突に引っ張っていたボクの手を放して、
  弾みでボクは昨日の出来事を思い出す。
  いつもの寝とぼけた口調に戻っていた。
 「あのですね!代役に抜擢された、とかそう言う連絡事項は事前にお願いしたいんですけど!」
 「代役。何のことだ。わたしは何も知らされていないよ」
 「つい今しがた『舞の鍛錬をしろ』といった口で、のうのうとシラを切らんでください!」
  そうですよね、すいません、そう言いくるめられそうになり、ボクは慌てて切り返す。
  ほんとーうに言質を取るのが上手いんだ、この人は。
 「タマゴは朝から元気なことだ」
 「元気にもなりますよ!」
  まったく。
  怒りに震えるボクを尻目に、どこ吹く、といった調子で背を向けたボクは、これ以上何を言っても仕方ないんだろうな、などと諦めかけ、
 「――って、司教!そっちは教会の方向じゃありません!市場じゃないですか!」
  肩を落とすか落とさないかのうちに、ネイサム司教が足を向けた道がどこに続くのかを思い出して、くるりと振り返る。
 「そうだな。市場だな」
 「『そうだな』、じゃなくて!朝一番から、サボらないでくださいよッ」
  お目付け役だなんてたいそうな役割とは思っていないけど、
  ……ボクがいないひと月弱のあいだ、一体誰が司教の尻を叩くんだろう。
  ただでさえ、尻に火が点かないと仕事しない人だというのに。
  頭を掻き毟りたいほど、わやくちゃな気分に陥りながら、のうのうと歩き去っていく司教の背を眺めてボクは盛大にため息をついた。
  どう前向きに考えたって、帰ったときの残務処理の山と積まれた量が、容易に想像できちゃったから……である。

  ああ、頭が痛い。


  いつもよりもずいぶんと静かに思える神殿内で、待ち合わせていたその怪我をしてしまった巫女さん――エレナさんと言う――に、みっちりと稽古をつけてもらって、ふと窓の外を見れば、もう夕焼けで空は真っ赤だった。
  いつの間にか、夕方になっていたんだ。
 「あだだだだだだだだだ」
  挨拶をしてまた明日、などと言われ、神殿を出ると急にビキビキと言い出した身体のあちこちに、ボクは思わず呻いた。
  すごく、ハードな動きの踊りって言うわけじゃあないんだ。
  どちらかと言うと、太鼓と弦に合わせたスローテンポな曲と踊りで……、
  一回試してみるといいけど、実は早い動きよりも遅い動きのほうが、身体に変な圧力がかかるとボクは思う。
  バランスが取りにくいんだ。
  そりゃ、根っからの運動神経抜群、踊りの神の再来、とか呼ばれた人間が、稽古をつけてもらうなら、また話は別なんだろうけど、
  あいにくボクは、どこと言って取り柄のない平々凡々な人間のワケで。
  せいぜい取り柄と言うならば、
  好き嫌いがないから、どこに行ってもご飯が美味しく食べられるのと、
  百万人にひとりのオーラ(それも、シラスの言葉を信じるならば、だけど)で、魔物どもを引き寄せられる、
  そんな程度だ。
  これといった特徴がないので、ボク自身が一番苦労している。
  ああ、あと、上司のしごきに耐えられるコト……かな?
  こりゃ明日の朝起きたらひどいだろうなあ、きっと全身筋肉痛だろうなあ。
  そんなコトを思いながら、今夜の夕飯の食材でも買って家に帰ろうとしたボクの耳に、
 「レイディ」
  聞きなれた声が飛び込んだ。
 「ぅん?」
 「レイディ」
  燃えるように真っ赤な夕焼け空から目を転じると、通りの向こう側、細い路地から身体を半分ほど出して、シラスがにこにことボクに手を振っている。
  珍しく、やたら愛想がいい。
  何かいいことでもあったんだろうか。
  国王様暗殺を企てた、アホな犯人でも捕まえたのだろうか。
 「シラス?」
  そういや朝から顔を見てなかったな、だとか、
  丁度いいから荷物持ちさせちゃおう、だとか。
  手を振るシラスに近付きながらボクは、
 「どうしたの?」
  近付きながら、いつものシラスとは違う顔だということに、ボクは気付いて息を呑む。
  べっとりと、貼り付けたような笑い。
  仮面のような笑い。
  心のない、温かみのない、
 「シ、ラ――」
  違う。これは、シラスなんかじゃあない
  少なくとも、いつもの、ボクの見知ったシラスじゃあない。
 「キミは、」
  誰だ、と言葉をつむぐ前に、不意に視界がガン、と歪んで、
 「な……」
  激痛の走った頭を押さえて振り向くと、角材を抱えたゴムのように黒くて長い腕が、
 「シラス」
  腕が、
 「シラ……」
  次の瞬間には目の前が真っ暗になったので、きっとボクは気絶でもしたのだろうと、思う。


  目が覚めると、見たこともない薄暗い部屋にいた。
  違うな。
  訂正しよう。
  見たことはあるけど、体験したことはない『部屋』に、ボクは転がされていた。
  目が覚めたといったって、さわやかに朝の目覚めをしたわけじゃあなくて、
 「い――ッ、づぁづぁづぁづぁ!」
  不愉快度100%で、ボクは飛び起きる。
  しんしんと冷えるような石畳の冷たさと、とんでもなく割れるように痛い頭に、無理矢理眠りから引き戻されたと言う、感あり。
  不快なんてものじゃあない。
  絶不快である。
  幸い、体の自由は利いたので、ボクはその薄暗い室内で身体を起こし、とりあえず周りを眺めてみた。
  目の前に太い鉄格子。
  あちこちに、恐らく地下水によるものだろう(……とボクは思いたい)、壁のシミ。
  低い天井からは、時折ぽったんぽったんと、雨漏りのように水が滴っている。
  部屋の一角に、手のひらほどの穴が開いている。
  最初ボクは、それが一体何の穴だか判らずじっと睨み、
  やがて「それ」が、この部屋に閉じ込められた人の排泄物を流す穴だと気が付いた。
  ベッドどころか、くずかごのひとつもない、石で作られた、

  ああ、なんて立派な地下牢。

  頭を抱える。
  そうなんである。
  何を間違ったか、ボクは牢屋なるものに閉じ込められているんである。
  何、こんな非日常的な体験。
  牢屋なんて今時分、流行らないよ?
  頭を抱えたついでに、パイプなんだか角材なんだかとにかく棒のようなもので殴られた記憶のある頭に手を伸ばすと、
  あああ、でっかいタンコブができている。
 「……ったくなんなんだよもう」
  グチりたくもなる。
  ちょっと触っただけで割れるように痛い頭に涙を滲ませながら、ボクはブツブツと呟いた。
  ここに来る前――神殿からウチへと帰る際の、おかしなシラスを思い出す。
  貼り付けたような笑顔。
  あんなの、シラスじゃあない。言い切れる自信があった。
  アレはなんだっけ、アドグ?とか言う魔物の、化けた姿じゃあなかったんだろうか。
 「さ……むいなぁ」
  膝を抱えて、冷え切った身体から、少しでも体温が逃げないようにした。
  底震いするような、寒さだ。
  じぃん、じぃんと、身体が細かく震えているのを止めることが出来ない。
 「次に会ったら見てろよバカ」
 「シラスの偽者のおたんこなす」
 「百回謝ったって許さないんだからね」
  聞いている人なんていなくたってイイのだ。
  そもそも、聞かせたくて愚痴っているわけじゃあない。
  声を出して愚痴ってでもいないと、なんだか気がおかしくなってしまいそうだったから。
  頭の痛みから滲む涙とは別の涙を、ボクは指で拭った。
  鼻をすする。
  泣いたってどうなるものでもないと判っていたけど、心細くて、仕方なかった。
  一体自分がどういう状況になっちゃってるのか、さっぱり理解が出来なかったから。
  ここは一体、どこの地下牢なんだろう。
  地下牢だなんて、昔、8年通った児童学校の社会見学かなにかで、
  むかーーしの、今はもう使われていない、「捕虜跡地」なるものに連れて行かれたっきりである。
  そうだ。
  とても怖かった記憶がある。
  日の光がさんさんと降り注ぐ屋外から、見学のために案内された階段を下って、ボクは身震いしたんだった。
  無念を残して死んだオバケがでそうだとか、ミイラでもあったらどうしようだとか、そう言う即物的な恐怖じゃあなくて。
  こんな場所に同じ人間である相手を、閉じ込めてしまえると言う神経と言うか、
  そんなものを作り出した歴史が怖くて、確か一緒にいた友達の手をずっと握っていた。
  大丈夫。大丈夫よ。
  先生が肩を抱いてくれたけど、とても安心するだなんてボクは出来ず、他の子たちがそう怖がっていないことを逆に不思議にも思ったんだった。
  見学が終わるや否や、ダッシュで階段を駆け上ったっけ。
  今でもやっぱり、怖い。

 「……シラス……」

  自分で自分の肩を抱きしめるように腕を回して、ボクはぽつりと居候の名前を口にしていた。
  こんな地下牢の薄暗がりとは似ても似つかない、圧倒的に真っ黒な、質感のある、なのにあたたかい闇を。
 「安心召され。そう長い間のことではない」
 「わぁ!」
  わぁ、わぁ、わぁ、わぁ。
  唐突に掛けられた言葉に、ボクがぎょっとして声を上げると、それはワンワンと石の床やら壁やら天井やらに反響し、物凄い大合唱となる。
 「元気な魂よ」
 「……ご、ごめんなさい」
  くくく、と忍び笑う声がして、ボクは反射的に謝った。
  いるならいると、もっとはじめの方から声を掛けてくれればいいじゃないか、だとかそんな思いも無くはなかったけど、そんなことよりも、誰なのかは判らない、けれどボクひとりじゃあない、話し相手がいるという心強さ。
  声は、男の人のようだった。
  それもかなり年を経た声だ。
  薄暗くてよく見えないけど、向かいの牢の一角に座っているような気がした。
  目を凝らすとぼんやりと、姿があるような、ないような。
 「こ、こんにちは。ボクはレイディと言います。あなたは、誰ですか」
  喚いてしまった手前、そのままにしておくのもなんだか格好悪い気がして、ボクはとりあえず膝をそろえてそう尋ねた。
 「――ワシか。……名など――忘れた」
 「……名前を忘れるほど長い間、ここにいるのですか」
  深い声がじんと響く。
  こんな。
  こんなところに。
  こんなところに、名前を忘れるほどに長い間。
  ここにはきっと、時間は流れない。
  いつまでも、閉じ込められたままなのだ。
  声は静かに笑う気配を見せた。
 「さて。20年か。50年か。100年か。投獄された当時には、日ごとしるしを付けては今日が幾日か数えもしたがな。それもやがては厭わしくなってな。気付けばやよ、時は流れず」
 「投獄……やっぱりここは、地下牢なんですね」
 「彼の悪名名高い、ダッタール帝の拵えた、無用なるひとつよ。海岸沿いの、人の訪れの極端にない地に位置する」
 「ダッタール帝……昔学校で習った……かなぁ」
  聞いてボクは首を捻る。
  とにかくこの牢屋が作られた時代が、ものすんごい昔だというコトはわかった。
  今のカスターズグラッドは王政だし、「帝」なんてものは、それこそ歴史の教科書でしか目にしたことがない。
  もんのすごい昔に作られた割には、しかも海沿いって言うからにはそれなりに潮風が吹き込んでも来るだろうに、どういうことか、鉄格子はペカペカと光っていて、
 「何時の時代にも澱のように、闇はわだかまるもの。平和と言われるこの時にさえ、よからぬ心を持つ者は――多くは無くとも居る」
 「ああ……手入れされてるんだー……」
  まるでボクの思いを読み取ったような声に、ボクはふんふんと頷き、改めてぶっとい鉄格子を眺める。
 「まあ、どっちにしろ、こんなところに人を閉じ込めようと考えるようなヤツは、ロクでもないね」
 「それはそうだ。平心では――人は、他を陥れられぬ」
 「あなたも……あなたも誰かに陥れられたのですか」
 「さて。それすらも遠い昔の話よ。忘れた」
  静かな声は変わることがなくて、逆にそれを聞いたボクは落ち着いた。
 「海岸沿いの、人が訪れない場所……て、オジィさんさっきそう言いましたよね」
 「言うた」
  男の人であることはわかったものの、どうにも見た目が見えないのだから、オジさん、なのかオジィさん、なのかいまひとつ判らなかったけれど、まぁ声の感じから、オジィさんということにした。
  訂正でも来るかなと思ったけれど、声の相手からは何も来なかったので、オジィさんということにボクの中でしておこう。
 「……困ったな」
 「何を困る」
 「こんなところにボクもずっといないといけないのかな」
  それはたいそう、困る。
  ――”一生、牢暮らしがしたいか?”
  昨晩、突きつけられたシラスの言葉が蘇る。
  ――”暗く冷えた地下牢で、痩せ衰え。慢性的な飢えと寒さで”
 「コロっと行くのはボクはいやだなぁ……」
  何十年か閉じ込められているヒトの前でそう言うのは、なんだか憚られたけれど、困るものは困るし、嫌なもんは嫌である。
  ああ、なんかまた涙が滲んできた。
 「そう長いことではない」
  不意に、さっきの、一番最初の言葉を、オジィさんが口にする。
 「そう長いことではない、というのは……」
 「今日か。明日か。どちらにせよ迎えが来る」
 「迎え、ですか」
  不謹慎かもしれないけど、こんな心細いときにこうやって話を出来るヒトがいるというのは、ボクはなんだかとても大きくて、
  安心してしまった。
 「オジィさんは?」
 「ワシか」
 「オジィさんには、迎えはないの?」
  たかだか何時間かでも、どうにも気が狂いそうなほど怖いと言うのに、こんなところに年月も忘れてしまうほど閉じ込められていると言うのは、
 「あ。……ごめんなさい」
  言ってからボクは気付いた。
  そもそも、こんな場所は尋常じゃあないのだ。
  牢屋なんだった。
  その、牢屋と言う、尋常じゃあ考えられないような場所に居るというコトは、
  こっぴどく悪いことをしたか、
  誰かに陥れられたか、
  どう考えたってふたつにひとつで、この男の人が出られる確率はえらくえらく低い、というコトなんだ。
 「昔語りを聞かぬか」
 「昔語り……ですか」
  しまったなと思い始めたボクの耳に、相変わらず落ち着いた一本調子のオジィさんの声が響く。
 「そう。昔。昔。この大地がまだ平定されるには程遠い黎明期。ある男がこの近辺を支配しておってな。この男、戦には強い怖いもの知らず。悪霊と契約したとの噂を従えて、向かうところ敵なしの破竹のごとき勢いであった」
 ボクの考えを読んだのかどうか、不意にオジィさんはそう語り始めた。
 「悪霊と……契約」
 「そうとしか思われぬ獅子奮迅の強さ。男は何時しか戦場の鬼と、そう呼ばれるようになった」
 「……」
 「強いだけならよい。それに行為が伴えばさらに良い。――しかし残念ながら男にはな、その人心を掴む上で唯一絶対のもの――”心”が欠けておった」
 「……」
 「男はいくつもの人外のものと契約を交わし。時には他人の血で贖い。男に仕えた人外の従僕は、百とも千とも――」
 「せ、千って」
  ついついボクは話の腰を折る。
  はっきりとは言わないけど、オジィさんの言っている「悪魔」だの「人外」だのというのは、きっと、シラスみたいな魔物の種なんだろうと思う。
  それを千って。
  噂には尾ヒレどころか背ビレも胸ビレも、やたらたくさん付くのもわかってるけど、にしたって、そう言うウワサがまことしやかに流れるとしたのなら、それなりに男は魔物を従えていたんだろうとも思う。
  だいたい、シラス一匹従えるのだって、ボクはほとほと手を焼いているって言うのに(え?全然従えてないって?うるさい)、
 「それを……たくさん」
 「――男が彼らに差し出したのは、その”心”であったと、そう言うことなのであろうよ」
 「ふぅん……」
 「さて。戦場に千々乱れる時代はまだ良い。問題はある程度平定したその後のことだ。血で血を洗う時代には役に立つ従僕も、和が訪れれば厄介な代物と化す。生涯をかけてこの地を治めた男は、奴らが邪魔になると見るや、交わした契約を破り、騙し、滅ぼし、あるいは地底に閉じ込め、その存在を無きものとした。心を失った男には、もはやそれが一体どういう行為であるのか判らなくなっていたのだな。だが――……、収まりが付かないのは、人外の方よ」
 「”契約”を破って、その上閉じ込めて知らん振りじゃあ……そりゃ、怒るよね」
  ボクはまたシラスを思う。
  ああやって、普段はのったりというか、ぼんやり、家の中に閉じこもりがちなヒモ生活をしているとは言え、シラスは魔物だ。ボクは到底敵わない。
  それを押さえ(?)つけているのが、ボクとシラスが交わした「血の契約」なんだ。

  ひとつ。シラスはボクから生気を受け取る代わりに、ボクに全霊をもって仕えるものとする。
  ひとつ。主人は生気を与えるボクであるとし、シラスはその命を違えない。
  ひとつ。主人であるボク以外のものから、シラスは生気を受け取らない。

  これを破ったら、どんなに強い魔物でもたちまち消滅してしまうんだよ、って、シラスは幼いボクにそう言った。
  ボクは、ボクからは絶対に破らないよと、指きりげんまんをして誓った。
  約束は破っちゃいけない。
  破るくらいの約束なら、最初からしない方がマシだ。
  まぁシラスどころか、多分普通の人間の男の人だって、本気になったらボクはどうやったって力で負けてしまうだろう。
  そもそも、まだ立てるか立てないかの赤ん坊だったボクを拾ったのがシラスなんだから、それを逆手にとって、もっと優位な条件で契約を交わすことも出来たと思う。
  ……というか、条件も契約もなしに、シラスの「エサ」として、飼われてしまう状況だってありえた筈で。
  それをしないで、むしろ不利な条件まで引き下げて自分自身を縛ったところが、ボクがシラスに頭が上がらないと言うか……、感動してしまうところだ。
  口ではあーだこーだ言うけど、きっと根っこの部分は、ほんとうにやさしい。
  ああ、また脱線してしまった。
  まぁ、シラスの話はさておき。
  そんな約束を、一方的に主人が破って、しかも騙されたり閉じ込められたり滅ぼされたりしたら、ボクが魔物でもきっと怒ると思う。
  自分の都合のいい時だけ約束をして、用済みになったらポイ、だなんて、どこの女衒かロクでなしなんだってゆーの、である。
 「――皇太子に化けたあの人外もな。或いはそう言ったうらみつらみの塊じゃよ」
 「うぇ?」
  不意に話が現代に舞い戻って、喉から思わず潰れたような声が出る。
 「化けた……えーと、」
 「アドグ」
 「ああ……とか言う……、魔物」
 「そう。はるか昔に使役され、その後連綿と獄に繋がれ。日頃おとなしき人外であろうと、積年の思い、ちりも積もれば山となろうよ」
  ボクはまだ、シラスたちの生まれた魔物の世界とやらに、行った事はない。
  そもそもヤツはあんまり詳しく説明してくれないし。
  でもきっと、こうして寒くて冷たい暗がりとはまったく違う世界があって、そこで平穏に暮らしていたはずのアドグや、そのほかの――知恵のある生き物たち。
  人間の都合で使役されて、使い棄てられ閉じ込められて。
 「そりゃまぁ……ボクでも恨む……かな……あ」
  今さらの時代の流れなんて知ったこっちゃあないのだ。
 「時に、今の都の名は何と言う」
 「あ、うん、カスターズグラッド」
 「カスターズグラッド。そうか。良い名じゃな。目にしてはおらぬが、統治するものはきっと良きものなのであろうな。都の活気が溢れて、地よりここまで伝わってくるわ。人の世も捨てたものではない」
 「うん。王さますごくイイ人だし」
  頷いてそのまま、沈黙が訪れる。
  オジィさんは眠ってしまったのか、それ以上話そうとはしなかった。
  静かになるとそこでようやく、ボクの耳に遠く潮騒の音が聞こえる。
  ああ、海が近いって、そう言っていたっけ。
  ボクはいつまでも鳥肌の立つ両腕をさすりながら、昨日の会話と、今しがたの会話を頭の中で繰り返してみる。
  黒幕はわかっているのか、と聞いたシラスに、ハルアは心当たりはあると答えていた。
  悲しいことだけど、人間っていうものは、善人ばかりじゃあない。
  それも、大人限定ってワケじゃない。子供だってそうだ。無邪気だなんていうけど、嘘もつくしイタズラはするし、邪気の塊に思える時だってある。
  誰かのものを欲しくなってうらやんだり、ねたんだり、よっぽどの世捨て人か悟りを開いた人でもない限り、清らか~~な心で毎日を過すなんて、おそらく出来ないんじゃないかって思う。
  王さまって、ボクは体験してないから良くわからないけど、きっとやりたい事がそれなりに、出来てしまうくらいの力を持っているのだ。
  力が大きければ大きいだけ、そういったヒトの心の裏っかわも大きくなってくるわけで。
  そう言う暮らしと出来るだけ縁を切りたくて、ハルアは足掻いていたのじゃあないかな。
  次の国王になれる確立が非常に高い人間が二人いて、そのどちらともが王さまになりたいと願ったら、大変なことになる。
  自分自身がそう願わなくたって、周りの人間のちょっとした利己心が集まればそれは大きなうねりになるだろう。
  無駄な争いの種を、ひとつでも無くしておきたくて、いろんな自分を演じてみたけど、そこからは逃れられなくて、とうとう、王位を剥奪と言う騒ぎにまでなったりして。
  バカ息子を勘当までしてしまった王さまは気苦労が絶えないと思っていたけど、或いはそういった息子の気持ちに気付いて、王位継承資格を剥奪した……のかもしれない。
  街に出ちゃあ、若い女の子を追っかけまわしているようなどーしよーもない大司祭さまだけどねー。
  だけど、
  あっちこっちに良くしてくれる可愛いコがたくさんいて、
  お城に戻ればそれなりに敬われて、
  神殿では何不自由ない暮らしをしているのに、
  切羽詰ったハルアが逃げ込んできたのがボクん家、ということに気付いてボクはなんだか胸が詰まった。
  ……あれはあれで、さみしい、のかもしれない。

  そんなコトを考えているうちに、朝になった。


  その次の日のことは、我ながらなんと言うか、不謹慎だなぁと思いつつ、

 「――レイディッ!!」

  白馬に跨った王子様と言うのは、小さい頃女の子が憧れる大抵のストーリーに載っているものだけど、いやぁ、まさかこの歳でその話まんまが再現されるとは思いもしなかったね。
  白馬に跨っただけじゃない。
  こう、金の髪をきらめかせて、腰には剣を佩いて。
  牢屋の中にそのまま馬で乗り入れて。
  こりゃなかなか見られる光景じゃあないと思う。
  一生に一度しか出来ない体験じゃないか?
  これでかぼちゃパンツ履いたらもう完璧だぜとか思いつつ、ボクはポカンと眺めてしまった。
  寒さに半分痺れてなければ、拍手くらいはしたかもしれない。
 「大丈夫かッ」
  そんなボクの妙な感動と無言を、一日半恐怖に怯えたためだと、ハルアは勝手に勘違いしてくれたようだった。
  うむ、沈黙は金なり、だ。
  鉄格子を力任せに蹴り壊すと、ボクの傍らに膝を付く。
  そのまま乱暴に引き寄せられて、
 「……ハルア」
 「うん、済まない、もう大丈夫だ。もう全部終わった」
 「ハルア」
 「お前を巻き込むとは思っても、こんな形になるとは思わなかったんだ。済まない。本当に済まない」
 「や、ハルア……ちょい待ち」
  ぎゅうぎゅうと抱きしめられてる中で、
 「今。君、鉄格子蹴り破らなかった?」
  ボクは思わず目の前の今しがた起こった出来事に対して突っ込んでしまった。
 「ん?」
 「なんであんなにぶっとい、しかも頑丈そうな鉄の棒を、蹴り開けられますかね大司祭さまは」
  いいもの食べていると日頃の身のこなしからして違ってくるものだろうか。
 「え?」
 「え?」
  聞かれなおされてさらにボクも聞き返しなおした。
 「頑丈そうって、何が」
 「いやだから鉄格子」
 「……腐食……して、いるだろう?」
 「ぇあ?」
  言われて思わず見直してみる。
 「あれ?」
  目の前の鉄格子は、言われたとおり確かに、ボクでも蹴り破れそうなほどに、ボロボロに腐食していた。
 「海に近いからな」
 「えーと」
  見間違いじゃないかと思って、何度か目を擦った。見直してみたけどやっぱり鉄格子はボロボロのままで。
 「あれ……おかしいな……」

  ――”あなたも誰かに陥れられたのですか”
  ――”さて。それすらも遠い昔の話よ。忘れた”

  首を捻ったボクの頭の中に、昨夜の声が蘇る。
 「ああ、そうだ!オジィさん!」
  見間違いなんかじゃあない。
  昨日、あの声のヌシと会話をしていたとき確かに、鉄格子は光っていた。
 「オジィさんに聞けば本当だったって判るよ!」
 「オジィ……?」
  どうかしたのかと訝しげな顔になるハルアに、ボクは頷く。
 「向かいの牢に、ずーーーっと長い間閉じ込められてるんだって。どの位か、もう忘れちゃうくらい長いくらい」
 「向かいの……?」
 「うん。……ねぇ、そう言いましたよね?昨日、あなたは確かにボクにダッタール帝のことをいろいろと教えてくれて――そうだハルア、オジィさんね、ここにね、もうずっと長い間いるんだって。でも、本当にオジィさんは悪いことをしたのかな?ハルア、勘当されちゃったとは言えモト王子サマでしょ?調べさせるとか大司祭としてちょっとだけ口を挟むとか、何とかならない?」
 「レイディ」
  向かいの部屋に呼びかけたボクをもう一度引き寄せて、ハルアは、誰もいないぞ、と小さく呟いた。
 「え?」
 「ここには誰もいない。放置されたまま千年――前時代の負の遺産だよ」
 「……え?」
  ボクは慌てて立ち上がり、昨日確かにぼんやりと黒い影が見えた気がするハズの、向かいの鉄格子の前に立った。
 「オジィさん……?」
  さっきの鉄格子と同じように、そこにもやっぱり誰も居なくて。
  はて、と360度ほど首を捻りたくなったボクの後ろから、静かにハルアが言った。
 「――アドグがな。全部吐いた」
 「アドグ……ってああ!あのヒトマネ魔物!」
  シラスにも化けてボクをぶん殴った、とんでもないヤツである。
 「捕まえたんだ?」
 「お前がいなくなったろ。ものっすっごい形相でシラスが仕留めていたな」
 「うわぁー……」
  想像するだに恐ろしい。
  ブチ切れたシラスは、ボクですらちょっと近寄るのを考えてしまうほど、とてもとても怖い、のだ。
 「……吐いたって……なんて?」
 「”自分らは人間との契約を交わし、人間に忠実に仕え。しかしその当の人間からまた裏切られ、仲間は殺され地に埋められ、せめて一矢と憎んで百年”」
 「――」
 「”個ではない全なる恨みを果たすべく、自分は国王を誅殺したのだ”、と」
 「恨み――」
 「ダッタール帝がどうのと、今さっきお前そう言ってたな」
 「あ、うん」
  不意に聞かれてボクは振り向き、ハルアの目を見て頷いた。
 「なんか、消えちゃったオジィさんが色々話してくれて」
  あるいはどういった恨みつらみの塊じゃよ。
  積年の思い、塵も積もれば山となろうよ。
  そんな風に言っていた。
 「……オジィさんも昨日、ハルアが言ったようなことを言っていたなぁ……」
 「ここはな。人間のための牢獄じゃあない。ダッタールが、使役した魔物たちを幽閉する目的で作らせたシロモノだ」
 「魔物を――」
 「そうだ。鉄格子に使われているそれは、ルイズ銅と言ってな」
 「ルイズ銅」
 「人間にはまったく害はないが、魔物が触れると肌が焼け、触れずとも側にあるだけで力を吸い取られ、死を齎す鉱石から精製されているらしい」
 「シラスが言ってた?」
 「そうだな。……アイツは、いろいろと物を識っているからな」
 「――」
  ダッタール帝のことはとても昔のことだとは言え、同胞を殺した人間の所業を知ってなお、その中で暮らすのは相当の――、
  勇気、だろうか。
  歩く百科事典のような物知りなシラスだけれど、知識があると言うのは、必ずしも幸せなことではないような気もする。
 「お前が昨日話したというその老人もきっと、ダッタール帝の使役された魔物の一人なのだろうな」
 「……そうかー」
  人間で言うなら幽霊、とでも言うのだろうか。
  哀しいかな、日頃追っかけなれているせいで、オバケだのゾンビだの、あまり……どころかとてつもなくイヤなボクだけど、オジィさんが幽霊だと思っても、ちっとも嫌な気分にはならなかった。
 「王都の名前聞いてたよ」
 「ふぅん」
 「人の世も捨てたもんじゃない、って」
  人間と違って、魔物の供養?をどうやるのかボクには判らなかったけれど、家に戻ったら調べて、きちんとオジィさんや、そのほか、ここで悲しい最期を迎えてしまった魔物たちに、お礼をしようとボクは思った。
 「戻るか」
 「うん」
  馬上に引き上げられて、ハルアは馬の首を返す。
 「ところでレイディ」
 「ぅん?」
 「俺の家来にならないか」
 「……はぁ?」
  出会ったときと同じように、何かを含んだハルアの声に、
  出会ったときと同じように間抜けな声をボクは返してしまったのだった。

                    *

  しゃん、と鈴の音が鳴る。
  赤々と燃やされたたいまつの光が、目に染みるほどにまぶしい。
  見上げれば空は星で一杯で、まるで落ちてきそうな、夜だ。
  どうして夏の星空ってヤツは、冬のそれなんかよりもずっと近くて、手を伸ばすと届きそうな感じがするのだろう。
  小さい頃に、シラスの背中から一生懸命、夜空に手を伸ばしては笑われていたことを思い出す。
  しゃん。
  しゃん。
  しゃん。
  促されるような鈴の連鳴とともに、ボクはかがり火で燃えて見える舞台へ足を踏み入れた。
  同時に始まる、笛の音と太鼓。
  どういう経路で、夏の大祭の夜にこの踊りが踊られることになったのかボクは知らないけど、初めて聞いたときはずいぶんとまぁ、異国情緒な音だなぁと思ったもんだった。
  静かな、だのに腹の底に響くような旋律を受けて、ボクは踊る。
  夜とは言え、夏の夜はまだまだ気温が下がりきってない上に、
  ばちばち燃える舞台は、とても暑くて、
  伸ばした指先を目にした瞬間、ふ、と目が眩む。


 「しばらく、王都から追放されようと思う」
  あまりに清々した顔で、ハルアはボクに唐突に告げた。
  大祭を明後日に控え、おっつかっつながら、何とか形に(だけは)なった、踊りの稽古から帰ってきた、ボクの家にハルアはいた。
 「は?」
  言われた言葉の意味がさっぱり判らなくって、ボクは思わず首を傾げる。
 「寝てんの?立ったまま夢でも見てるの?何を言ってるの?」
 「国王暗殺未遂の首謀者は、たぶん俺になる」
 「はぁ?」
  言葉をはしょるのは昔からの王子サマの癖だけど、
 「どういうことだよ?」
  ボクは瞬時にハルアの胸倉を掴んだ。
 「どういうイミだよッ?王さまは、国王さまは、やったのがハルアじゃなくて”アドグ”だった――って信じてくれないの?一生懸命ハルアとシラスで探したんでしょ?」
 「”アドグ”は、魔物だ」
 「魔物だとか人間だとか、そんなの関係ないだろ!」
  言っている意味がさっぱり判らなくて、ボクはグイグイと胸倉を締め上げる。
  まぁ、締め上げるって言ったって、ボク程度の力じゃ、ハルアにとっちゃあ屁でもないのだろうけど。
  そのボクの肩にぽん、と両手をあてがって、
 「……お前のようにそう言い切れる人間が、必ずしも大勢じゃあないんだぜ」
  なんだか妙に落ち着いた声でそう言う。
 「親父と、その近辺は、今回の件に関しては全てを了承している」
 「判ってくれてるなら、どうし、」
 「トップが理解していたって、俺の姿をしたヤツが、国王を殺しかけた事実は変わる訳じゃあないだろう?」
  ボクにはさっぱり判らない。
  判っているらしいシラスは、小憎らしいほど涼しい顔で、暖炉前のソファで昼寝をしている。
  いや、あれは狸根入りかもしれないけど。
 「……だって。だって、悪いことをしたのは”アドグ”で、」
 「そう。悪いことをしたのは人間じゃあない。魔物なんだ」
 「だからそれが何なんだよッ?」
 「悪いことをしたのはコイツです、と、”アドグ”を縛り上げて、多勢の前に晒し者にしたらいいだろうか?」
 「――あ、」
  いきり立ったボクの耳に、やっぱり落ち着いたままのハルアの声が響いた。
 「元はと言えば、人間に酷いことをされて恨みを持った魔物をふん縛って。大衆の前に鞭打って晒して、責任の全てを『魔物』に押し付けて……それで”アドグ”は救われるだろうか?」
  人間へ憎しみを抱いた魔物。
  使役の果てのむごい末路を迎えた魔物。
  ダッタールなんていう人物は、実在したかもわからないほどの遠い昔の人間で、ハルアにはまったく関係はないだろう。
  それでも。
  実在したかどうかさえ、あやふやになってしまうほどの長い長い間。
  ”アドグ”が苦しみ続けていたのだとしたら……、
  それは、とても悲しいことだ。
 「ほら、アレだ。俺は偉くて、この国にすむヤツは俺の家来なんだからさ」
  どうしようもなく悲しくなったボクを、慰めるようにバンバンと肩を叩いてハルアは言った。
 「家来の不始末を親分がひっかぶるのは、仕方ないだろう?なッ?」
 「でも」
 「陰気なカオするなって!親父も承知だ。直ぐ戻ってこれるさ。だから、大祭の奉納の舞を、ちょっとした旅に出る俺への餞として、踊ってくれないか?」
  な?
  覗き込んだハルアに、ボクはただ頷くしかできない。


 「……気にくわねぇ」
  そうしてハルアが帰ると、ボクはなんだか脱力して、へたり込むようにソファに腰を下ろしていた。
  真横でシラスが薄目を開けて天井を睨んでいる。
  やっぱり起きていたらしい。
  コイツが口を開くのが久しぶりな気がして、ボクはなんだかほっとした。
 「気に喰わないって、何が」
 「借りを作っていきやがった」
 「……借り?」
  借りって、何の。
  促したボクの視線に、不機嫌そうにシラスは頭を軽く振り、また目を閉じてしまう。
 「判らないなら、いい」
 「……なんだよー。そうやってみんなで思わせぶりに途中で切るなよー……言いたいことがあるなら最後まで説明しろよー」
  話題に取り残された気がして、ボクはブチブチと愚痴を垂れながらシラスの脛を軽く蹴りつづけたけど、黙ったシラスは何も説明してくれなかった。

  だから。

 『”アドグ”は、魔物だ』
  魔物だ。
  あの時呟いたハルアの言葉の意味と、「借りを作った」と言うシラスの言葉の意味が、唐突に理解できて、ボクは思わず舞いながら、あ、と嘆息をこぼした。
  ハルアが口にしなかった、二つ目の理由。
  ”アドグ”が魔物だから。
  そうして――きっと、シラスも魔物、だったから。
  王都に棲む魔物なんて、シラス以外ボクは聞いたこともない。
  魔物と言ったって、シラスは王都の人間に悪さをするじゃないし、それどころかどちらかと言うとボクに荷物を持たされたり、買い物につき合わされたり、真昼間から散歩に連れて行かれたりと、意外と人間らしい生活を送っている。
  でもそれは、人間「らしい」生活。
  根本的なシラスの、「魔物」の部分が変わるワケじゃあ、決して無い。
  ヤツの、人間には似せているけれど、金色の目とか、若干尖った耳とか、
  そんなのじゃなくてもっと異様な空気だとか、
  僅かなものにも怯えを含んだ視線を向けてくることは、ボクも知っている。
  怯えとまでは行かなくても、特異な……奇異なものを眺める視線。
  憧憬や、羨望や……それにも含まれる「自分とは違うもの」への視線。
  何故ってシラスは、魔物だからだ。
 「あのバカ王子……!」
  気付いた瞬間、悲しいだとか切ないだとかいう感情が溢れる前に、もどかしい怒りが湧いた。
  どうしていつもいつも――いっつも!男どもは肝心なところで口を噤むんだ?
  シラスのため――というよりは、これは明らかにボクのために。
  よりクドく説明すると、別に王都に棲まなくたっていいシラスと、魔法介護士になりたい目的があって、王都に住みたいボクの為に。
  「お前のために俺は罪を被るよ」、だなんて歯が浮くようなシチュエーション、ああもう、ほんとバカ。
  なーにが家来だの親分だのだよッ。
  ムカムカしながら、涙がじん、と込み上げて、ボクは慌てて踊りの仕草に紛らわせて鼻をすすった。
  「追放」されると、ハルアは言った。
  どのくらいの期間になるんだろう。
  それより何より、みんなに「父王に殺意を抱いた」だなんて誤解されて悔しくは無いのか?
  あんなに、家族思いのヤツ、街中にだって早々いないんだぞ。
  弟くんや妹は、大丈夫なんだろうか。
  しゃん。
  そうして、長いような短いような、奉納の舞を舞いきって、ボクは呆然と舞台の上に佇んでいた。
  途端にわっと湧く歓声と拍手。
  すごいな、隣でシスターがタオル片手に何かボクに言ってくれているけど、あまりの歓声の大きさに、さっぱり聞こえない。
  ボクはもう一度ペコリとお辞儀をして、それから丸舞台の上を去りかけて……、
 「――く、踊りき――ましたね、レイディさん」
 「え?」
  切れ切れに聞こえた声に、ボクはふと聞き返す。シスターが手にしているのは、よくよく見ればタオルと言うよりは大振りな、ショールのようなもの。
 「シスター?」
 「その――神の僕のわたくしがこう申しますのも何ですが――艶っぽい、華のある踊りでしたわね」
 「え?」
  艶っぽいとは……何がだ?
  ショールと言うのは……どうやって使う?
  恥じらったようなシスターの視線に、ボクは、そこで改めてボク自身の体を見下ろした。
  ヒラヒラふわふわした衣装は、小半時踊った為に、或いは肌にピッタリと吸い付き、中には地肌が透けて見え……、
  いやもちろん、神さまに奉納する舞なんだから、下着なんてつけてない。
  ……っていうか、ボクはそこで唐突に、毎年眺めていた踊り子さんの巫女が、いやぁ実にエロティックだなぁなぞと思いつつ見ていたことを今さら……今さらながら!!思い出し。
  いやもうだって!抜擢とか事件とか拉致とかそんなこんなで、そんな記憶まで辿り着く前に本番が来てしまったというのが、本当のところで。
  ようやく。
  そこでようやく、ボクはあの時、ハルアが転がり込んできたあの夜、男二人で言っていた「見返り」だの「衣装がどうの」のイミが、
  よーーーーうやく理解できたのだった。
  これか。
  これが見たかったから頑張ったってか。
 「あ、ん、の、スケベ二人ども……ッ!」
  ちょっとでも、ほんのちょっとの時間でも、いいヤツだとか見直しただとか、家族思いがどうのとか、
  ――そんなの関係あるか!!!
  くわっと音のする勢いでボクは振り向くと、かがり火に照らし出された舞台のしたの面々に視線を走らせる。
  観衆は陽気に、代役を無事務めたボクへ、賞賛と拍手を浴びせてくれるけど、
 「――いやがったぁああああ!!!」
  残念なことにハルアは見つからなかったけど、普段よりよほどニコニコ……ニヤニヤ?した顔で、こちらに手を振るシラスをボクは速攻発見した。
  発見したと同時に、後先考えずボクは舞台からソレに向かって飛び降りていた。
  巫女さんは確か、ここから落っこちてケガをしたんだっけなー……だとか、足が舞台から離れてからボクは思い出したけど、
 「レイディ」
  しっかりと、抱きとめてくれる腕がある。
  いや、抱きとめるとかもうね、そんな次元で許せる問題じゃない。
 「この、バカシラス……!」
  そのまま固めた拳で、鼻の下を伸ばしたヤツを殴っちゃろうと振り上げたところを、さらに盛り上がった観衆がどっと押し寄せ、握手を求められ、頭を撫でられ、もみくちゃにされて、
 「わ、わ、わ」
  殴るどころじゃあなくなった。

  騒ぎがひと段落したのは、それから暫くたってからのことだった。

 「水飲むか?」
  ぐったりと脱力して、人通りの少ない噴水に腰掛けたボクに、シラスがコップを差し出す。
 「もうねーボクはねー……何もかもヒトが信じられなくなりそうですよー」
 「まぁそう言うな」
  どん、どん、と花火が打ち上げられて、遠くで再び歓声が沸き起こっている。
 「みんな元気だよなー……」
  渡されたコップを両手に抱えて、しみじみ、ボクが呟くと、ぽんぽんと頭を大きな手が撫ぜた。
 「頑張ったな」
  怒りは雑踏とともにどこかに消えてしまったらしい。
  言われてボクはうっそうと、顔を上げて、それからシラスの格好に気付く。
  いつも、ずんだらりと着込んでいる黒いマントが今日はなりを潜めて、
  白い麻布の祭り衣装なんか着こんじゃっている。
 「……なんだよ、妙におしゃれしてるじゃないか」
  ボクの声に、お、気付いたか、とかなんとか、嬉しそうにシラスは髪に挿していたハルメリアをボクに差し出した。
  そう、”ハルメリア”とは、王太子が生まれた年にちなんで付けられた、薄い水色の小さな花の名前。
 「いざ然らば月下に踊れ稚けなき君」
  そう言う。
 「な、ちょ、」
  ボクは思わず目をひんむいて、目の前のシラスをまじまじと眺める。
  シラスが口にしたのは、『歌合』と言う……、
  上の歌と下の歌が、対になった歌で、夏の大祭の前夜祭、つまり今夜、町のあちらこちらで聞かれるものだ。
  身に着けた飾りを相手に差し出して、上の歌を歌う。
  差し出された相手は、
  OKなら、差し出された飾りを受け取る。
  ごめんなさいなら、下の歌を返して逃げる。
  昔はとても雅な意味を持つ行事だったのらしいけど、今では崩れて、若い男女の歌……つまりは、男(もしくは女)が、積極的に異性に声をかけるイベントと化している。
  シラスがそんなものやるとは思わなかったので、ボクは相当に驚いたのだった。
  ……えーと。
  ごめんなさい、を言いたいのなら、即興で下の歌を作って返せばいい。
  下の歌。
  即興で作る下の歌。
  こんな、頭の中グチャグチャになった後での下の歌……。
 「……ずるいよ」
  思い浮かぶわけが無い。
 「俺はずるいんだ」
  恨みがましく睨みながら、ボクが小さなハルメリアを受け取ると、珍しくシラスがにっこりと笑った。
  伸ばした手を握って、甲に小さく口付け、なんてしてる。
  それがサマになるから、余計にずるいと思う。
 「花火見に行きたいなー」
 「家に戻って着替えて……それから見に行くか?」
 「うん。行く」
  言いながら、ボクは噴水の縁に腰掛けたまま、横に座るシラスに引き寄せられた。
 「……汗臭いよ?」
 「お互いさまだろう」
  降るような星空から目を塞いで、シラスによっかかっているとなんだかうとうとと眠くなる。
 「ハルアは……」
 「さっき発った」
 「そっか」
  それきり、口をつぐんだボクに合わせて、シラスももう何も言わない。
  どん、とまた腹に響く音で花火が上がった。
  もう少しだけ、こうして休憩したら、花火を見に行こう。


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最終更新:2011年10月15日 18:41