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<<休息>>

 「働きすぎだ」

  心配すると言うよりは、若干咎める色の強い声音を耳にして、マクスウェルは顔を上げた。
  イタリア。ヴァチカン。
  魑魅魍魎の潜む、牢にも似た地下の一室。
  表に出れば、立ち眩みがするほどに酷暑だと言うのに、この土牢の中は常にひんやりと、
  時には息すら白い。
  顔を上げたマクスウェルの頬が、いつもよりもいっそう青白く見えるのは、その一定に保たれた涼しい――というよりはうっすらと寒い――、温度のせいと言うよりはむしろ、連日に及ぶ夜を徹した仕事のこなしぶりの、せい。
 「こなしてもこなしても、なぜか一向に書類の量が減らないどころか刻々と増え続けているのは、一体どういうコトなんだろうな?」
  皮肉気味に吊り上げた頬には、はっきりと疲労の色がある。
  まるで己に無頓着な本人だから、恐らく鏡を見ることもないだろうが。
 「倒れてしまっては、元も子もないでしょう。少し休まれてはどうです」
 「倒れる、か。いいな。倒れたら強制的に休息が取れるな」
 「……冗談ではなく、」
  本当に倒れますよ?
  ぎろりと眼を動かして、明らかに牽制する様子を見せる大きな男――アンデルセン――に、力のない微かな笑いを放って、マクスウェルは肩をすくめる。
 「倒れたって、俺の変わりはいくらでもいようさ」
 「マクスウェル」
  口だけは応じながら、相変わらず書類から目を離さないマクスウェルに、やや苛立った声を上げて、アンデルセンが大またで無造作に近付いた。
 「マクスウェル」
  声が一段低くなる。
 「マクスウェル」
 「――……なんだ」
  三度目の呼びかけに根負けして、マクスウェルはようよう、視線を手元の紙から逸らして、机の前に立つアンデルセンへと移した。
  こんな時、孤児院の寮父を勤めるこの男が、常にない忍耐……というよりは頑固さで、梃子でも動かないことを、男に育てられたマクスウェル自身が良く知っている。
  叱られたこともある。
  悪戯をした、時間を守らなかった、悪いことをした、というよりは、主にマクスウェルの身体を案じてのことが多かった。
  ひとつのことにのめり込むと、倒れるまで止めないことを、神父も、そしてマクスウェル自身も判っている。

  仕事が、
 「別に――好きなわけじゃあ――ない」

  しぶしぶ事務机を離れた彼は、古びたソファにいざなわれ、腰を下ろす。
  叩けばほこりのいくらでも出る、白茶けた使い古しのソファ。
  腰を下ろせば、気まずい空間を裂くように言い訳がましい言葉が、つい口を衝いて、出た。
  先に座ったアンデルセンが、ふむ、と鼻を鳴らす。
 「では何故、」
 「……没頭していれば、他の厄介なことは――とりあえず棚上げできるだろう」
  ごりごりと首をほぐし回し、何度か深く息を吐く。
  ソファの背にもたれかかると、不意にどっとマクスウェルの身体を、忘れていた疲労が襲った。
 「あー……だるィ」
 「いつから休んでないんです」
 「いつから?……いつからだったろうなぁ……」
  眉間を揉み解し、仰のいて目を閉じて思い返すが、茫洋と思い出せない。
  頭に靄がかかったように、すべての思考が一時期止まる。
 「……働きすぎだ」
  もう一度、怒ったような声をして、マクスウェルの瞼の上に、がっしりとあたたかなアンデルセンの手のひらがあてがわれた。
 「なんだよ」
 「――なにをそこまで――忘れたい」
 「……」
  視界が閉じられた分、残りの四感が鋭くなって、隣に座る男の体温を肌で感じて、思わず彼は身じろいだ。
  人は、苦手だ。
 「……放せよ……」
  言いながら、けれど身体は抗う力をなくして、マクスウェルは四肢を投げ出しソファにもたれたまま、舌打ちした。
  アンデルセンから立ち上る、この男独特の雰囲気。
  ゆりの花のにおい。乳香のにおい。砂ぼこりのにおい。草いきれのにおい。血のにおい。
  ……どこか他所の、ここではない――どこか遠い異国のにおい。
  そうだ。
  この男は、つい先ほどまで命を受けて、
  マクスウェル自身が発した命を受けて、任務へ赴いていたはずなのだ。
  アンデルセンの声を聞くのも、アンデルセンの姿を見るのも、実に久しいはずで、
 「マクスウェル」
  耳朶を響かせる深い低音。聞いているだけでどこか神経が休まってしまう、安心できる声。
  これが聞きたくて、
  聞こえないことがどこか不快で、ささくれた気持ちを忘れるには他の事で頭を一杯にしてしまうことが、とりあえず手っ取り早い手段で。
 「任務先は、どうだった」
  追求されるのを避け、仕事へ話を振れば、こちらもまた、言わないとなれば意地でも言わないマクスウェルの頑固なことを知っているアンデルセンが、
 「ひどいところでした」
  ため息を吐いて返してよこした。
  相変わらず、マクスウェルに手はあてがったままで。
 「浄化するのに手間取り――ああ、思えばもうひと月経っていたのですね」
 「ひと月、か」
  たったそれだけ――そんなにも。
 「何か?」
 「なんでもない」
  ぼそ、と呟いたマクスウェルの声を聞きとがめて、問うた神父に慌てて彼は否定する。
  アンデルセンが帰ってくるのは構わないけれど、こうして神経が緩んでしまうと、あちらこちらからほつれが出るのが、困る。
  そう口にしたら、この隣に座るお人よしは素直に目尻を下げて喜ぶだろうから、
  絶対に、言わない。
 「何か、つまむものでも持ってきましょうか」
 「要らん」
 「では何か、あたたかいものでも」
 「それも要らん」
  弛緩したマクスウェルを見て、案じているだろう声が、煩わしいのに心地いい。
 「何もいりませんか」
 「もう少しだけ、こうしていろ」
 「……はい」
  苦笑交じりの男の声に、一瞬むっとなりながら、それでもあてがわれた手のひらに、疲れが吸われる感がある。
 「お前の手は、」
  あたたかいな。
 「――イエスの手もこんなだったのだろうな」
  すべてを癒した、神の子の掌も。
 「え?」
 「なーんーでーもーなーいー」
  ぼそぼそと呟く独り言に、いちいち反応するアンデルセンへ、マクスウェルはくつくつと喉を鳴らした。
  異国にいるわけでも、
  他のものに気を取られているわけでもなく、
  今だけは独り占めの感覚はとても愉快である。
  この瞬間だけは。
 「寝てしまえ、マクスウェル」
  不意に耳元で声が響いて、次いでやさしい感触。
  挨拶の接吻と判っていても、跳ね上がる心音を聞かれなかったのは、幸い。
  そのまま身体ごと引かれて、アンデルセンの膝の上に倒れ込んだ。
  洗いくたびれたカソックの厚手布地越しに伝わる体温が、男の存在を際立たせる。
 「寝たら……起きる自信がない」
  抗いもせず、おとなしく引かれた膝に頭を預けて、
  けれど口とは正反対に起き上がる力は、身体のどこにもなかった。
 「寝てしまえ」
  視界をふさがれたまま、手探りで腕を伸ばすと、ざらりと男の顎鬚に触れた。
  薄笑いを零して、飽きもせずその男の感触を楽しんでいると、甲に再び口付けられる。
 「あなたは少し、自愛する力に欠けるようだ」
 「銃剣ごときが何を言う」
  不意に声に張りが無くなり、
 「お前はあたたかいな、アンデルセン……」
  うわ言のように最後呟いて、とうとうマクスウェルは深い闇の淵へと意識を手放した。


せんせいのひざまくらでわたしもねたい

最終更新:2008年08月23日 10:13