そう言えば、こんな話を耳にした。
余談、と言う奴である。
その日も深更、皆々寝静まった屋敷の中で、いまだひとつだけ灯る明かりの部屋がある。
トルエ公女の部屋であった。
無論、室内にはその部屋の主であるキルシュが起居している。
「お呼びですか」
「――」
腹心の部下と今尚、歌歌いの誇張も交えながら伝えられている、盲目の男――エン――が、静かに室内へ足を踏み入れながら、公女に問うた。
「ご機嫌が悪いとか」
「――」
「また私の仕事ぶりへの説教にあられましょうか」
「――」
苦笑を交えながら、エンが器用にキルシュの傍らへと近付いた。
苦笑が混じるのは、己の仕事ぶりの無茶さに、心当たりがあるからだ。
器用に、と表したのは、まるでめくらなその身体で、実に真っ直ぐにキルシュの許へ歩んだからである。
歩みながらエンはおや、と片眉を上げる。
主の無言がその実、不機嫌さを纏ったものではないことに、ひとり気付いたからである。
目が見えずとも、長年暮らしていれば、相手の機嫌のよしあし程度、手に取るようにわかる。
「……陛下?」
「呼びつけた用事がなくなった」
「は、」
思わず訊ねたエンの声にそっけないキルシュの声が被る。
意味を判じかねてエンが息を継いだ。
「それはまた、どういう」
「最近の仕事への態度もあろう」
「――」
「そうでなくてもここのところ、何やらこなたに物足りなさを感じることが多かった」
「――足りなさ……と仰いますと」
「判らぬ。判っておれば、そう心無く苛立ちもざわつきもせぬ。良くは判らぬが恐らくは……年月の馴れ合いによるものかも知れぬ」
「年月――でございますか」
反復しながら意味がやはり判らず、エンが首を傾げた。
「年月だとおもう」
傾げたエンに、頷いて見せて、それからキルシュは始めてエンを顧みた。
存外に優しい目をしている。
いや、優しいと言うよりは――言葉で表現するには難しい、
切ない、じれったい、微かに憐れむ光、とでも言おうか。
深い色を湛えていた。
「今夜も呼びつけて、こなたがわたしに甘いことをいいことに、難癖でも付けてやろうかと思っていた」
「――」
「退屈紛れに苛めてやれと、そう思わんでもなかった」
「――」
「わたしは出来た人間ではない。時には……ひどく醜い心も持つ」
「陛下」
「だが、その気が無くなった」
ふ、と空気が和らいだ。
キルシュが愛しさの混じった哀しい笑みを浮かべたからである。
「と……仰いますのは」
「こなたが来る前にな。ほら、こなたが先日部屋に置き忘れた、杖を見ていた」
手にした頼りないほど細い杖を、キルシュはエンへ差し出す。
エンにとっては必要不可欠であり、キルシュにはまったく必要ではないもの。
視界のまったく利かない男にとっては、親しんだ屋敷室内ならともかく、外出時の足元を照らす、唯一の灯りであるもの。
盲いたときより愛用している、今では切っても切り離せぬ、エンの身体の一部である。
一部であるその大事なものを置き忘れて気付かない――と言う事は、忘れてより数日、外出していないことを意味する。
仕事で籠もっていたのではない。
体調を崩して数日、伏せていたのだ。
もともとそう頑丈ではない造りの上に、数年前に患った肺腑の病が尾を引いている。
無理をすると直ぐ、身体が悲鳴をあげる。
キルシュが暗に責めているのは、そのことだった。
「見ているうちにな、こなたの……、そう、いつも握るこの部分。飴色に変色していることに今さらに気づいた」
「――」
「長年使用していればそれはそうなのだろうがな。思わずまじまじと眺めてしまった」
相変わらず、哀しい微笑みを浮かべてキルシュは言う。
「そうしてこの先の部分。常に下を突く部分。砂土にまみれて汚れているのを眺めた」
「――」
「そうしておると、わたしはこなたの――杖の、下半分にしか目を留めていないことに唐突に思い当たった」
眺めているうちに。
「過ぎた年月に変色した飴色に目を向けず、汚れにばかり目を行かせて。それで我が身を苛つかせていることに不意に気付いた。気付いて――こなたと無駄な諍いをするのは、もう止めようと思った」
浮かべた笑みは不思議な透明さだ。
返す言葉を知らず、エンは暫く息を呑んだまま、その場に立ち尽くしていたという。
後年、彼女へ、
「腹心とは言え、半ばエスタッドへ足を踏み入れているものを、そこまで信用してはいかがなものか」
年に半分。
同盟国へと派遣される男へ向けて、やっかみついでの心無い進言がいくつもキルシュの許へと舞い込んだ。
上辺、親切に見える言葉で飾られてあるから、その真贋を見極めることは難しい。
「こなたは、月日に刷り込まれた飴色を消すことが出来るか」
その折も彼女は、不思議な笑みを浮かべて言ったそうだ。
進言したものは答えがなかったそうである。