7

  その次の日のことは、我ながらなんと言うか、不謹慎だなぁと思いつつ、

 「――レイディッ!!」

  白馬に跨った王子様と言うのは、小さい頃女の子が憧れる大抵のストーリーに載っているものだけど、いやぁ、まさかこの歳でその話まんまが再現されるとは思いもしなかったね。
  白馬に跨っただけじゃない。
  こう、金の髪をきらめかせて、腰には剣を佩いて。
  牢屋の中にそのまま馬で乗り入れて。
  こりゃなかなか見られる光景じゃあないと思う。
  一生に一度しか出来ない体験じゃないか?
  これでかぼちゃパンツ履いたらもう完璧だぜとか思いつつ、ボクはポカンと眺めてしまった。
  寒さに半分痺れてなければ、拍手くらいはしたかもしれない。
 「大丈夫かッ」
  そんなボクの妙な感動と無言を、一日半恐怖に怯えたためだと、ハルアは勝手に勘違いしてくれたようだった。
  うむ、沈黙は金なり、だ。
  鉄格子を力任せに蹴り壊すと、ボクの傍らに膝を付く。
  そのまま乱暴に引き寄せられて、
 「……ハルア」
 「うん、済まない、もう大丈夫だ。もう全部終わった」
 「ハルア」
 「お前を巻き込むとは思っても、こんな形になるとは思わなかったんだ。済まない。本当に済まない」
 「や、ハルア……ちょい待ち」
  ぎゅうぎゅうと抱きしめられてる中で、
 「今。君、鉄格子蹴り破らなかった?」
  ボクは思わず目の前の今しがた起こった出来事に対して突っ込んでしまった。
 「ん?」
 「なんであんなにぶっとい、しかも頑丈そうな鉄の棒を、蹴り開けられますかね大司祭さまは」
  いいもの食べていると日頃の身のこなしからして違ってくるものだろうか。
 「え?」
 「え?」
  聞かれなおされてさらにボクも聞き返しなおした。
 「頑丈そうって、何が」
 「いやだから鉄格子」
 「……腐食……して、いるだろう?」
 「ぇあ?」
  言われて思わず見直してみる。
 「あれ?」
  目の前の鉄格子は、言われたとおり確かに、ボクでも蹴り破れそうなほどに、ボロボロに腐食していた。
 「海に近いからな」
 「えーと」
  見間違いじゃないかと思って、何度か目を擦った。見直してみたけどやっぱり鉄格子はボロボロのままで。
 「あれ……おかしいな……」

  ――”あなたも誰かに陥れられたのですか”
  ――”さて。それすらも遠い昔の話よ。忘れた”

  首を捻ったボクの頭の中に、昨夜の声が蘇る。
 「ああ、そうだ!オジィさん!」
  見間違いなんかじゃあない。
  昨日、あの声のヌシと会話をしていたとき確かに、鉄格子は光っていた。
 「オジィさんに聞けば本当だったって判るよ!」
 「オジィ……?」
  どうかしたのかと訝しげな顔になるハルアに、ボクは頷く。
 「向かいの牢に、ずーーーっと長い間閉じ込められてるんだって。どの位か、もう忘れちゃうくらい長いくらい」
 「向かいの……?」
 「うん。……ねぇ、そう言いましたよね?昨日、あなたは確かにボクにダッタール帝のことをいろいろと教えてくれて――そうだハルア、オジィさんね、ここにね、もうずっと長い間いるんだって。でも、本当にオジィさんは悪いことをしたのかな?ハルア、勘当されちゃったとは言えモト王子サマでしょ?調べさせるとか大司祭としてちょっとだけ口を挟むとか、何とかならない?」
 「レイディ」
  向かいの部屋に呼びかけたボクをもう一度引き寄せて、ハルアは、誰もいないぞ、と小さく呟いた。
 「え?」
 「ここには誰もいない。放置されたまま千年――前時代の負の遺産だよ」
 「……え?」
  ボクは慌てて立ち上がり、昨日確かにぼんやりと黒い影が見えた気がするハズの、向かいの鉄格子の前に立った。
 「オジィさん……?」
  さっきの鉄格子と同じように、そこにもやっぱり誰も居なくて。
  はて、と360度ほど首を捻りたくなったボクの後ろから、静かにハルアが言った。
 「――アドグがな。全部吐いた」
 「アドグ……ってああ!あのヒトマネ魔物!」
  シラスにも化けてボクをぶん殴った、とんでもないヤツである。
 「捕まえたんだ?」
 「お前がいなくなったろ。ものっすっごい形相でシラスが仕留めていたな」
 「うわぁー……」
  想像するだに恐ろしい。
  ブチ切れたシラスは、ボクですらちょっと近寄るのを考えてしまうほど、とてもとても怖い、のだ。
 「……吐いたって……なんて?」
 「”自分らは人間との契約を交わし、人間に忠実に仕え。しかしその当の人間からまた裏切られ、仲間は殺され地に埋められ、せめて一矢と憎んで百年”」
 「――」
 「”個ではない全なる恨みを果たすべく、自分は国王を誅殺したのだ”、と」
 「恨み――」
 「ダッタール帝がどうのと、今さっきお前そう言ってたな」
 「あ、うん」
  不意に聞かれてボクは振り向き、ハルアの目を見て頷いた。
 「なんか、消えちゃったオジィさんが色々話してくれて」
  あるいはどういった恨みつらみの塊じゃよ。
  積年の思い、塵も積もれば山となろうよ。
  そんな風に言っていた。
 「……オジィさんも昨日、ハルアが言ったようなことを言っていたなぁ……」
 「ここはな。人間のための牢獄じゃあない。ダッタールが、使役した魔物たちを幽閉する目的で作らせたシロモノだ」
 「魔物を――」
 「そうだ。鉄格子に使われているそれは、ルイズ銅と言ってな」
 「ルイズ銅」
 「人間にはまったく害はないが、魔物が触れると肌が焼け、触れずとも側にあるだけで力を吸い取られ、死を齎す鉱石から精製されているらしい」
 「シラスが言ってた?」
 「そうだな。……アイツは、いろいろと物を識っているからな」
 「――」
  ダッタール帝のことはとても昔のことだとは言え、同胞を殺した人間の所業を知ってなお、その中で暮らすのは相当の――、
  勇気、だろうか。
  歩く百科事典のような物知りなシラスだけれど、知識があると言うのは、必ずしも幸せなことではないような気もする。
 「お前が昨日話したというその老人もきっと、ダッタール帝の使役された魔物の一人なのだろうな」
 「……そうかー」
  人間で言うなら幽霊、とでも言うのだろうか。
  哀しいかな、日頃追っかけなれているせいで、オバケだのゾンビだの、あまり……どころかとてつもなくイヤなボクだけど、オジィさんが幽霊だと思っても、ちっとも嫌な気分にはならなかった。
 「王都の名前聞いてたよ」
 「ふぅん」
 「人の世も捨てたもんじゃない、って」
  人間と違って、魔物の供養?をどうやるのかボクには判らなかったけれど、家に戻ったら調べて、きちんとオジィさんや、そのほか、ここで悲しい最期を迎えてしまった魔物たちに、お礼をしようとボクは思った。
 「戻るか」
 「うん」
  馬上に引き上げられて、ハルアは馬の首を返す。
 「ところでレイディ」
 「ぅん?」
 「俺の家来にならないか」
 「……はぁ?」
  出会ったときと同じように、何かを含んだハルアの声に、
  出会ったときと同じように間抜けな声をボクは返してしまったのだった。

                    *
                    *

  しゃん、と鈴の音が鳴る。
  赤々と燃やされたたいまつの光が、目に染みるほどにまぶしい。
  見上げれば空は星で一杯で、まるで落ちてきそうな、夜だ。
  どうして夏の星空ってヤツは、冬のそれなんかよりもずっと近くて、手を伸ばすと届きそうな感じがするのだろう。
  小さい頃に、シラスの背中から一生懸命、夜空に手を伸ばしては笑われていたことを思い出す。
  しゃん。
  しゃん。
  しゃん。
  促されるような鈴の連鳴とともに、ボクはかがり火で燃えて見える舞台へ足を踏み入れた。
  同時に始まる、笛の音と太鼓。
  どういう経路で、夏の大祭の夜にこの踊りが踊られることになったのかボクは知らないけど、初めて聞いたときはずいぶんとまぁ、異国情緒な音だなぁと思ったもんだった。
  静かな、だのに腹の底に響くような旋律を受けて、ボクは踊る。
  夜とは言え、夏の夜はまだまだ気温が下がりきってない上に、
  ばちばち燃える舞台は、とても暑くて、
  伸ばした指先を目にした瞬間、ふ、と目が眩む。


 「しばらく、王都から追放されようと思う」
  あまりに清々した顔で、ハルアはボクに唐突に告げた。
  大祭を明後日に控え、おっつかっつながら、何とか形に(だけは)なった、踊りの稽古から帰ってきた、ボクの家にハルアはいた。
 「は?」
  言われた言葉の意味がさっぱり判らなくって、ボクは思わず首を傾げる。
 「寝てんの?立ったまま夢でも見てるの?何を言ってるの?」
 「国王暗殺未遂の首謀者は、たぶん俺になる」
 「はぁ?」
  言葉をはしょるのは昔からの王子サマの癖だけど、
 「どういうことだよ?」
  ボクは瞬時にハルアの胸倉を掴んだ。
 「どういうイミだよッ?王さまは、国王さまは、やったのがハルアじゃなくて”アドグ”だった――って信じてくれないの?一生懸命ハルアとシラスで探したんでしょ?」
 「”アドグ”は、魔物だ」
 「魔物だとか人間だとか、そんなの関係ないだろ!」
  言っている意味がさっぱり判らなくて、ボクはグイグイと胸倉を締め上げる。
  まぁ、締め上げるって言ったって、ボク程度の力じゃ、ハルアにとっちゃあ屁でもないのだろうけど。
  そのボクの肩にぽん、と両手をあてがって、
 「……お前のようにそう言い切れる人間が、必ずしも大勢じゃあないんだぜ」
  なんだか妙に落ち着いた声でそう言う。
 「親父と、その近辺は、今回の件に関しては全てを了承している」
 「判ってくれてるなら、どうし、」
 「トップが理解していたって、俺の姿をしたヤツが、国王を殺しかけた事実は変わる訳じゃあないだろう?」
  ボクにはさっぱり判らない。
  判っているらしいシラスは、小憎らしいほど涼しい顔で、暖炉前のソファで昼寝をしている。
  いや、あれは狸根入りかもしれないけど。
 「……だって。だって、悪いことをしたのは”アドグ”で、」
 「そう。悪いことをしたのは人間じゃあない。魔物なんだ」
 「だからそれが何なんだよッ?」
 「悪いことをしたのはコイツです、と、”アドグ”を縛り上げて、多勢の前に晒し者にしたらいいだろうか?」
 「――あ、」
  いきり立ったボクの耳に、やっぱり落ち着いたままのハルアの声が響いた。
 「元はと言えば、人間に酷いことをされて恨みを持った魔物をふん縛って。大衆の前に鞭打って晒して、責任の全てを『魔物』に押し付けて……それで”アドグ”は救われるだろうか?」
  人間へ憎しみを抱いた魔物。
  使役の果てのむごい末路を迎えた魔物。
  ダッタールなんていう人物は、実在したかもわからないほどの遠い昔の人間で、ハルアにはまったく関係はないだろう。
  それでも。
  実在したかどうかさえ、あやふやになってしまうほどの長い長い間。
  ”アドグ”が苦しみ続けていたのだとしたら……、
  それは、とても悲しいことだ。
 「ほら、アレだ。俺は偉くて、この国にすむヤツは俺の家来なんだからさ」
  どうしようもなく悲しくなったボクを、慰めるようにバンバンと肩を叩いてハルアは言った。
 「家来の不始末を親分がひっかぶるのは、仕方ないだろう?なッ?」
 「でも」
 「陰気なカオするなって!親父も承知だ。直ぐ戻ってこれるさ。だから、大祭の奉納の舞を、ちょっとした旅に出る俺への餞として、踊ってくれないか?」
  な?
  覗き込んだハルアに、ボクはただ頷くしかできない。

 「……気にくわねぇ」
  そうしてハルアが帰ると、ボクはなんだか脱力して、へたり込むようにソファに腰を下ろしていた。
  真横でシラスが薄目を開けて天井を睨んでいる。
  やっぱり起きていたらしい。
  コイツが口を開くのが久しぶりな気がして、ボクはなんだかほっとした。
 「気に喰わないって、何が」
 「借りを作っていきやがった」
 「……借り?」
  借りって、何の。
  促したボクの視線に、不機嫌そうにシラスは頭を軽く振り、また目を閉じてしまう。
 「判らないなら、いい」
 「……なんだよー。そうやってみんなで思わせぶりに途中で切るなよー……言いたいことがあるなら最後まで説明しろよー」
  話題に取り残された気がして、ボクはブチブチと愚痴を垂れながらシラスの脛を軽く蹴りつづけたけど、黙ったシラスは何も説明してくれなかった。

  だから。


 『”アドグ”は、魔物だ』
  魔物だ。
  あの時呟いたハルアの言葉の意味と、「借りを作った」と言うシラスの言葉の意味が、唐突に理解できて、ボクは思わず舞いながら、あ、と嘆息をこぼした。
  ハルアが口にしなかった、二つ目の理由。
  ”アドグ”が魔物だから。
  そうして――きっと、シラスも魔物、だったから。
  王都に棲む魔物なんて、シラス以外ボクは聞いたこともない。
  魔物と言ったって、シラスは王都の人間に悪さをするじゃないし、それどころかどちらかと言うとボクに荷物を持たされたり、買い物につき合わされたり、真昼間から散歩に連れて行かれたりと、意外と人間らしい生活を送っている。
  でもそれは、人間「らしい」生活。
  根本的なシラスの、「魔物」の部分が変わるワケじゃあ、決して無い。
  ヤツの、人間には似せているけれど、金色の目とか、若干尖った耳とか、
  そんなのじゃなくてもっと異様な空気だとか、
  僅かなものにも怯えを含んだ視線を向けてくることは、ボクも知っている。
  怯えとまでは行かなくても、特異な……奇異なものを眺める視線。
  憧憬や、羨望や……それにも含まれる「自分とは違うもの」への視線。
  何故ってシラスは、魔物だからだ。
 「あのバカ王子……!」
  気付いた瞬間、悲しいだとか切ないだとかいう感情が溢れる前に、もどかしい怒りが湧いた。
  どうしていつもいつも――いっつも!男どもは肝心なところで口を噤むんだ?
  シラスのため――というよりは、これは明らかにボクのために。
  よりクドく説明すると、別に王都に棲まなくたっていいシラスと、魔法介護士になりたい目的があって、王都に住みたいボクの為に。
  「お前のために俺は罪を被るよ」、だなんて歯が浮くようなシチュエーション、ああもう、ほんとバカ。
  なーにが家来だの親分だのだよッ。
  ムカムカしながら、涙がじん、と込み上げて、ボクは慌てて踊りの仕草に紛らわせて鼻をすすった。
  「追放」されると、ハルアは言った。
  どのくらいの期間になるんだろう。
  それより何より、みんなに「父王に殺意を抱いた」だなんて誤解されて悔しくは無いのか?
  あんなに、家族思いのヤツ、街中にだって早々いないんだぞ。
  弟くんや妹は、大丈夫なんだろうか。
  しゃん。
  そうして、長いような短いような、奉納の舞を舞いきって、ボクは呆然と舞台の上に佇んでいた。
  途端にわっと湧く歓声と拍手。
  すごいな、隣でシスターがタオル片手に何かボクに言ってくれているけど、あまりの歓声の大きさに、さっぱり聞こえない。
  ボクはもう一度ペコリとお辞儀をして、それから丸舞台の上を去りかけて……、
 「――く、踊りき――ましたね、レイディさん」
 「え?」
  切れ切れに聞こえた声に、ボクはふと聞き返す。シスターが手にしているのは、よくよく見ればタオルと言うよりは大振りな、ショールのようなもの。
 「シスター?」
 「その――神の僕のわたくしがこう申しますのも何ですが――艶っぽい、華のある踊りでしたわね」
 「え?」
  艶っぽいとは……何がだ?
  ショールと言うのは……どうやって使う?
  恥じらったようなシスターの視線に、ボクは、そこで改めてボク自身の体を見下ろした。
  ヒラヒラふわふわした衣装は、小半時踊った為に、或いは肌にピッタリと吸い付き、中には地肌が透けて見え……、
  いやもちろん、神さまに奉納する舞なんだから、下着なんてつけてない。
  ……っていうか、ボクはそこで唐突に、毎年眺めていた踊り子さんの巫女が、いやぁ実にエロティックだなぁなぞと思いつつ見ていたことを今さら……今さらながら!!思い出し。
  いやもうだって!抜擢とか事件とか拉致とかそんなこんなで、そんな記憶まで辿り着く前に本番が来てしまったというのが、本当のところで。
  ようやく。
  そこでようやく、ボクはあの時、ハルアが転がり込んできたあの夜、男二人で言っていた「見返り」だの「衣装がどうの」のイミが、
  よーーーーうやく理解できたのだった。
  これか。
  これが見たかったから頑張ったってか。
 「あ、ん、の、スケベ二人ども……ッ!」
  ちょっとでも、ほんのちょっとの時間でも、いいヤツだとか見直しただとか、家族思いがどうのとか、
  ――そんなの関係あるか!!!
  くわっと音のする勢いでボクは振り向くと、かがり火に照らし出された舞台のしたの面々に視線を走らせる。
  観衆は陽気に、代役を無事務めたボクへ、賞賛と拍手を浴びせてくれるけど、
 「――いやがったぁああああ!!!」
  残念なことにハルアは見つからなかったけど、普段よりよほどニコニコ……ニヤニヤ?した顔で、こちらに手を振るシラスをボクは速攻発見した。
  発見したと同時に、後先考えずボクは舞台からソレに向かって飛び降りていた。
  巫女さんは確か、ここから落っこちてケガをしたんだっけなー……だとか、足が舞台から離れてからボクは思い出したけど、
 「レイディ」
  しっかりと、抱きとめてくれる腕がある。
  いや、抱きとめるとかもうね、そんな次元で許せる問題じゃない。
 「この、バカシラス……!」
  そのまま固めた拳で、鼻の下を伸ばしたヤツを殴っちゃろうと振り上げたところを、さらに盛り上がった観衆がどっと押し寄せ、握手を求められ、頭を撫でられ、もみくちゃにされて、
 「わ、わ、わ」
  殴るどころじゃあなくなった。

  騒ぎがひと段落したのは、それから暫くたってからのことだった。

 「水飲むか?」
  ぐったりと脱力して、人通りの少ない噴水に腰掛けたボクに、シラスがコップを差し出す。
 「もうねーボクはねー……何もかもヒトが信じられなくなりそうですよー」
 「まぁそう言うな」
  どん、どん、と花火が打ち上げられて、遠くで再び歓声が沸き起こっている。
 「みんな元気だよなー……」
  渡されたコップを両手に抱えて、しみじみ、ボクが呟くと、ぽんぽんと頭を大きな手が撫ぜた。
 「頑張ったな」
  怒りは雑踏とともにどこかに消えてしまったらしい。
  言われてボクはうっそうと、顔を上げて、それからシラスの格好に気付く。
  いつも、ずんだらりと着込んでいる黒いマントが今日はなりを潜めて、
  白い麻布の祭り衣装なんか着こんじゃっている。
 「……なんだよ、妙におしゃれしてるじゃないか」
  ボクの声に、お、気付いたか、とかなんとか、嬉しそうにシラスは髪に挿していたハルメリアをボクに差し出した。
  そう、”ハルメリア”とは、王太子が生まれた年にちなんで付けられた、薄い水色の小さな花の名前。
 「いざ然らば月下に踊れ稚けなき君」
  そう言う。
 「な、ちょ、」
  ボクは思わず目をひんむいて、目の前のシラスをまじまじと眺める。
  シラスが口にしたのは、『歌合』と言う……、
  上の歌と下の歌が、対になった歌で、夏の大祭の前夜祭、つまり今夜、町のあちらこちらで聞かれるものだ。
  身に着けた飾りを相手に差し出して、上の歌を歌う。
  差し出された相手は、
  OKなら、差し出された飾りを受け取る。
  ごめんなさいなら、下の歌を返して逃げる。
  昔はとても雅な意味を持つ行事だったのらしいけど、今では崩れて、若い男女の歌……つまりは、男(もしくは女)が、積極的に異性に声をかけるイベントと化している。
  シラスがそんなものやるとは思わなかったので、ボクは相当に驚いたのだった。
  ……えーと。
  ごめんなさい、を言いたいのなら、即興で下の歌を作って返せばいい。
  下の歌。
  即興で作る下の歌。
  こんな、頭の中グチャグチャになった後での下の歌……。
 「……ずるいよ」
  思い浮かぶわけが無い。
 「俺はずるいんだ」
  恨みがましく睨みながら、ボクが小さなハルメリアを受け取ると、珍しくシラスがにっこりと笑った。
  伸ばした手を握って、甲に小さく口付け、なんてしてる。
  それがサマになるから、余計にずるいと思う。
 「花火見に行きたいなー」
 「家に戻って着替えて……それから見に行くか?」
 「うん。行く」
  言いながら、ボクは噴水の縁に腰掛けたまま、横に座るシラスに引き寄せられた。
 「……汗臭いよ?」
 「お互いさまだろう」
  降るような星空から目を塞いで、シラスによっかかっているとなんだかうとうとと眠くなる。
 「ハルアは……」
 「さっき発った」
 「そっか」
  それきり、口をつぐんだボクに合わせて、シラスももう何も言わない。
  どん、とまた腹に響く音で花火が上がった。
  もう少しだけ、こうして休憩したら、花火を見に行こう。


僧侶と魔物にモドル
最終更新:2011年07月28日 07:35