<<ボクの下僕になりなさい。>>


  あったかーいモノが食べたいなぁ、なぞと気付けばなんだか年の瀬である。
  ついこないだまで、毎晩暑くて、蚊に悩まされたりしながら、バタバタとウチワで扇いでいたような気がするのに、街行く人の格好はもう、真冬支度。
  上等なレフィア(なんじゃこりゃと突っ込みたくなるほど、ふわっふわの動物なんだ)のコートのひとつでも持っていれば、これだけ寒くたって優雅に歩いてもいられるのだろうけど、
  あいにく薄給の、しかも見習い僧侶のボクには、ショーウィンドウを覗く勇気も、ない。
  覗いて値段見るだけで、なんか悲しくなりそうだしねー。
  まぁ、そもそもショーウィンドウのある店なんていうのは、通称「半日通り」と呼ばれるボクらの居住区にはない、のだけど。
  どうして「半日通り」と呼ばれているかと言えば、要は簡単。
  お日様が、半日しか当たらないほど密集した住宅街だからだ。
  雑然と言おうか、雑多と言おうか、庶民的と言おうか。
  まぁ、洗濯物が乾きにくいのがたまに難、だけど、ボクは結構、このゴミゴミした感が気に入っていたりする。
  どんなトコでも、住めば都。ってヤツだ。
  ボクの名前はレイディ。16歳。多分花も恥じらうお年頃。
  ちっちゃい頃からの夢だった、魔法介護士になる!!――夢をかなえるべく、とりあえず目下のところは、生活費のアテとして僧侶見習いとして働いている、サンジェット教会からの帰り道。
  時間としちゃあ夕方だけど、日の早い最近じゃあもう真っ暗だ。
  あったかそうな灯のともった家からは、夕飯のにおいがする。
  ああ。お腹すいたなぁ。
  軽くため息をつきながら、今日のご飯は何にしようか、なんて考えながら、
  ボクは家路を急いだ。
  若干の小走り気味に、腰帯に挟んだ封筒がカサカサと揺れる。
  サンジェット教会の封蝋のしてある、直々の依頼書。
  ……だなんていうとすごく重要文書に聞こえるけど、ボクの上司が渡してよこした(押し付けた、とも言う)、上司の出来なかった分の、ボクに回ってきた雑用の、お鉢。
  だと思う。
  コトが起きるまで、意味を知っていても口をつぐんで呟くのは上司――ネイサム司教――のいつもの癖だけど、


 「タマゴ。明日、ヒマか」
 「ぜんっぜんヒマじゃあないですし、正直、司教が丸投げした仕事がこちらに回ってきて、気が狂いそうなほどですけど――なんです?」
  珍しく、仕事机に向かっておとなしく何か書き物をしていたネイサム司教が、
  同じく机に向かって司教の始末書を肩代わりしていた(そんなコトさせるなって言うんだよなぁ)、ボクを見た。
 「行ってもらいたいところがある」
 「――何です?」
  上げた視線が、いつもの飄々とおどけたものでなくどうも真剣味を帯びていたので、ボクも思わず顔を引き締めて、もう一度聞き返す。
 「本来は私が行けたら良いのだが。どうしても外せない用事が重なってな」
 「……ああ、明日から暫しばらく復活祭の準備ですもんね」
  復活祭、と言うのは、ボクらの教会の神さまが、一度死んでもう一度生まれ変わった日、のことである。
  聖誕祭ともちょっと似ているんだけど、「一度目生まれた日」と共に、「二度目に生まれた日」として、教会が年間の行事の中で、かなり力を入れて行うひとつだ。
  今年は、その復活祭の期間中、現在不在のハルメリア大司祭――ひとくちに説明は出来ないけど、とにかくいろいろあって今は王都にいない、のだ――の代わりに、我が上司が司祭役を務めることに決定したのだった。
  いろいろちゃらんぽらんなクセに、怨霊だの悪霊だのを浄化させる力はどうも、人並み外れてあるみたいで、
  有力者スジからは意外に信頼が厚い。
  実は、枢機卿にならないか的抜擢があったとかないとか、それを鼻先ひとつで笑って断ったとか――ネタ噂にことかかない上司でもある。
  とか言って、本人の前でそんなコト口にしたら最後、徹底徹底徹底的にイジめられるのは目に見えているので、
  ボクは貝のように口を閉ざしてる。
  そこそこな壮年の色男のクセして、苛め方は陰険質なので、気が抜けない。
  どんなウワサを流したのかボクは知らないけど、うっかり司教をネタに話していた見習い僧侶二人が、右の皿から左の皿にちっちゃなマメを箸で摘まんで移動させろ、とか、
  一週間も任命されたと言うのだから身震いはなはだしい。
  僧侶二人、鼻水たらして泣きながらやったそうな。
  ボクがそんなコトやったら、二日で気が狂うね。
  だいたい、細かい作業は大の苦手なんである。
  まぁ話が逸れちゃったけど、そんなこんなで、現在、それなりに忙しいネイサム司教なのだ。
 「こないだみたいに、古墳探索だのサル退治だのならボクは出来たらご遠慮したいですよ」
 「残念だが今回はもっと簡単な任務だ。これを――相手先に届けてくれたら、それでいい」
 「……手紙、ですか」
  ほら、と目の前に封筒を二通差し出され、ボクは勢い受け取った。
  裏を返すと、どちらにも丁寧に封蝋がなされている。
 「一通は、タマゴ。お前宛だ」
 「……ボクの?」
 「仕事依頼書。お前、以前それを集めていると言っていただろう」
  おかしな趣味だ。
  言ってネイサム司教は小さく笑った。
  そう。上司に「タマゴ」と言われているように、ボクはまだ、正式な僧侶でもなんでもなくて、要はネイサム司教の雑用係――使いっぱ――のようなものだ。
  たまーに(本当にたまにかどうかは、疑わしいこと限りないんだけど)、上司からの仕事が漏れて来ることがあって、
  その時は見習いといえどサンジェット教会の正式な一員として、仕事先に「派遣」されることになる。
  内容はともかく、ボクはその瞬間が嬉しい。
  一人前扱いされている気がするから。
 「いいんです。人の趣味に細かく口出さないで下さい」
  言いながらやっぱり嬉しくて、うっかりにまにましながらボクの分の封筒を開けた。
 「えーと……ウィルヘルム丘陵、ですか」
  ウィルヘルム丘陵は、ここ、王都カスターズグラッドから、そうだな、運行馬車で三日、そこから徒歩で半日、くらいの距離にある。
  ほとんど家と教会を往復のボクにとっては、かなりの遠出だ。
 「ウィルヘルム丘陵に立てばイヤでも判ると思うが。丘陵の北側、海岸を眺める崖縁に、塔がある」
 「塔ですか」
 「そこに婦人が一人居住している。その婦人に、今渡したうちのもう一通を渡すだけの、簡単な仕事だ」
 「はい……判りました。さっそく明日出かけます」
 「それと」
  頷き半分、宛名の書かれていない封筒を眺めたボクへ、
 「できれば今回は、タマゴ。お前ひとりで行くといい」
 「ボク一人……ですか?」
  仕事を依頼されたのはボク一人である。
  教会の誰それを指している言葉じゃあないだろう。
  と、言うコトは、
 「シラスが行くと厄介ですか?」
 「厄介かどうかは判らないが……危険はない。お前一人でいい」
 「……はぁ、」
  首を傾げたボクに、にべもなく司教はそう断言して、再び視線を書類に向けた。
 「それ以上の詮索は拒否」の構えだな、こりゃ。
  曖昧に頷いて、ボクは封筒に視線を戻す。
  ちなみに、シラスと言うのは、ボクの家に半ば居候している男である。人間に良く似たその実、
 『魔物』
  と呼ばれる種族であったりする。
  魔物と言っても、普段は何処が魔物なのと言いたくなるほど、うすぼんやりとしてると言うか、常に眠そうと言うか……、
  獰猛、だとか凶悪、だとかいう言葉は一切当てはまりそうにない。
  その上、ボクがもっと小さい頃にヤツと交わした「血の契約」のおかげで、シラスはボクに逆らえない。
  そりゃ、本気を出されたらこちらなんて到底太刀打ちできないほど強い――のは判っているつもりだけれど、いつもはあまりに情けない様子だもんで、近所の人にも
 「レイディさんとこのヒモ」
  扱いされている悲しい現状でもある。
  まぁその命名者筆頭がボクだとかなんとか、そこらへんはヒミツ。
 「じゃあ……ボク一人で明日行って来ますね」
  司教の狙いが何なのか判らなくて、ボクはとりあえずそう言って話を締めくくったのだった。


  その、封筒が揺れているのを感じながら、
 「ただいま」
  まるで土蜘蛛の巣のようだと見るたび思う、そうして見るたびああ、早いところ直さなくちゃと思う、傾きかけた玄関を開けて、家に入ると、
 「寒ッ」
  珍しく家の中は真っ暗だった。
  その上、外と同じ気温……つまりはとてもとても、寒い。
 「ただいま。……シラス?」
  何かよほど出掛ける用事でもない限り、シラスは昼間は家の中(と言うよりは自室と化した地下室)にいて、丁度ボクが家に戻る時間には、上がってきて、暖炉のソファの前に陣取っていることが多い。
  魔物のクセに妙に暑がりで寒がりなので、室内は程よくいつもあったまっていることが多くて……、
  おかしいな、今日は出掛けるだなんて聞いてないぞ。
 「シラス?」
  手探りといえども勝手知ったる家の中、ボクは手早くランプに火をつけて、ヤツの名前を呼びながらついでに暖炉にも薪を突っ込んだ。
  暖炉は冷え切っていて、つまりは一日、ヤツはここにはいなかったてことになる。
  半日通りの家のほとんどの造りの例に漏れず、ボクの家も、
  台所兼居間兼客間な部屋と、さらにその半分ほどの納戸のような寝室。
  つまりは玄関入って一部屋と半分。
  あとは、小さな階段を下りて地下室が一部屋。
  引きこもりが趣味と言うか、読書が趣味と言うか、
  知らないことなんてないんじゃあないかってほど、歩く百科事典のような男なので、時には地下室でボクにはひっくり返したってまるで読めないような難解な本を、読み耽っていることだってあったから、
 「シラス?……ってわぁあ!」
  壁の端から端まで5歩もない、ほとんどの家じゃあ貯蔵庫として使っているだろうシラスの「自室」の扉を開けて踏み込んだボクは、足裏のぐにゃりとした感触に悲鳴を上げて飛び退いた。
  ふんづけた。
  ばっちりふんづけた。
 「シ……シラス?」
  床上にうずくまる様にして丸まっているのは、確かにボクが探していた人物ではあったのだけれど、
 「何やってるのキミ?」
 「ん……あ?……レイディ?」
  呂律の上手く回らない、寝ぼけたような口ぶりで、シラスがランプに照らされ、顔を上げる。
  地下室も真っ暗だった。
 「眠ぃんだ」
 「ぇあ?」
 「……なーんか……やったらめったら眠くてよ……ぐぅ」
 「『ぐぅ』じゃあないだろ『ぐぅ』じゃあ。眠いのはいいけど、せめて床の上で丸まるのは、やめようよ」
  何事かとビックリするよ。
  文句を言うと、渋々、と言うよりはノロノロとした動きで、シラスはそれでも起き上がり、
  本と空になったワイン瓶に半分埋もれたカウチの上に移動しかけ……、
 「ああ、おかえり」
  思い出したようにボクを振り向いて、そう言った。
 「ただいま」
  反射的にボクも返す。
  そういや、今さっき帰ってきたんだった。
 「悪ぃな、上……、暗かったし、寒かったろ」
 「妙に今日は心細やかで、逆に気持ち悪いよ、シラス」
  言いながら、促されてボクは台所兼居間兼客間……まぁつまりは上の一部屋に移動した。
  薪がパチパチと言いながらようやく燃え出していて、部屋はほんのりと暖かくなりつつある。
  昨日の残りのシチューが、まだ鍋に半分残っていたから、今夜はそれで済ませちゃうことにして、
  とりあえず、暖めるために爆ぜ始めた火の上に、鍋を掛けた。
  相変わらず眠そうなシラスは、そのまま、シチューがあったまるのを待ってソファに座るボクの横に腰掛ける。
  いや。腰掛けるというよりは寝そべっている。
 「そういやね。明日から、一週間ほど、ちょっと出掛けてくるよ」
 「ふむ」
  脇に目をやるでもなく、燃える橙色に照らされてボクはシラスにそう告げた。
 「どこに?」
 「えーとね、ウィルヘルム丘陵……て言ったかな。そこそこ遠いね」
 「馬車で行くのか」
 「え?うん。それが一番安全だし、安上がりだしね」
  こないだのバブーンだかボブーンだか、でっかいサルを運搬した時には、
  さすがに民間の皆さんが乗っているところにデカサルを乗せるわけにも行かないから、ボクたち二人用に(と言うよりはサル用に)馬や荷馬車を借りたけれど、やっぱりそこそこの金額がかかる。
  そこそこ……いや、かなり。
  遠征というコトは、野宿をしないといけない訳で、
  野宿をするにはそれなりな危険が伴うのだ。
  数こそ少なくなったけれど、未だに盗賊なんかもいるようだし、何より野生の獣は厄介である。
  人間なんて、牙も爪も持たない、格好の餌になる場合も――そう頻繁ではないけれど、年に数件はあるようだ。
  数件で留まってるのは、多分、野の獣が少ないせいではなくて、それと知っている人間が、自衛のために集団で行動しているから。
  腕に自信のある者だけが、個人の旅をするんである。
  今回ボクは独りで行く予定だし、そりゃ教会から交通費くらいは支給されるけど、
 「馬借りました」
  なんて理由もない贅沢、終始決算で通してくれるはずもない。
  そんなコトやったら、確実に司教にイビられるのが目に見えている……。
 「ふーん」
  頷きながら、それ以上、シラスは何も言ってこない。
  ボクが一緒に行かないか、と提案をすれば、不承不承ながら付いてくるのだろうけれど、基本引きこもりが大好きなヤツなのだ。
  自分から付いて行こう、だなんて言うはずもない。
  まぁ、今回は、ネイサム司教から、ボク一人で行けと、何故か言われているくらいだ。余計に首を突っ込まないシラスの性格は、ボクにとってはこの場合、ありがたかった。
 「ちゃんとご飯食べてね、とは言わないけど、せめて飲んだワイン瓶洗っておいてね」
 「ふーん」
 「ワジカム湧いていたら、問答無用で今度はシラスも一緒に燻すからね」
 「ふーん」
 「あと、眠いのはいいけどちゃんとベッドで寝てね」
 「ふーん」
  ベッドと言っても、シラスの場合、地下室のカウチか、ここのソファってことになるんだけども。
  魔物の体質なのか、シラスの特質なのかボクには判らないけど、ボクら人間のように、長時間睡眠が必要と言うわけでもないらしい。
  ちまちまと、日に数度一瞬深い眠りに就く、みたいだ。
  とか聞かされてるけど、実際、ソファでぐーすか寝ていることが多いような気がしないでもない……が、優しいボクは突っ込まないでいる。
  シチューが温まる頃には、部屋の中もあったかくなって、
  ふと目をやると、シラスはソファから半ばずり落ちたような格好で、いつの間にか寝息を立てていた。
  コヤツの活動時間は夜なんだから、普段は今くらいから目が冴えてくるのに、これはよほど眠いらしい。
 「やれやれ」
  立ち上がり、温まったシチューを器によそいながら、ボクは何気なく暖炉の上の月齢暦に目をやった。
  魔物であるシラスは、月の満ち欠けにかなり左右される。
  まぁ簡単に言えば、月の黄色い部分が多ければ多いほど元気なのである。
  仕組みは良く判らない。シラス自身にも判ってないみたいなのだから。これはもうどうしようもない。
  暦では、今夜が満月だった。
  普段、何もないのに妙にハイになって夜中の散歩に行っちゃったりする日である。
  寒いからと言って、暖炉の前で寝こけてるなんて、珍しいこともあるもんだ。
 「……見た目だけはねぇ」
  意外に長いまつげが、頬に影を落としている。
  そう。
  シラスは、見た目「だけ」はそれなりに良い。
  背丈もあるし、きれいな顔してるし、おまけにちょっと「変わった」空気まで漂わせているし。
  魔物と知ってか知らずか(……いや……これだけ引きずり回してるから、街のヒトみんな知ってるんだろうな……)、それなりにラブレター貰ってたりもする……らしい。
  らしいと言うのは、ボクはそのシーンを目撃したことがないからだ。
 「……見た目……だけ、はねぇ」
  熟睡しているシラスの頬を突つくと、僅かに眉根を寄せる。
  それが面白くて、時折イヤがらせしつつ……、ボクはいつもと大して変わらずに、シチューをすすったのだった。


  平穏無事に依頼仕事を終えられるかだなんて、そうは問屋が卸さない。

 「ウィルヘルム丘陵には魔女が住んでいる」

  だなんてウワサを、乗合馬車で聞いた。
  いや、聞いたというか、世間話好きなおっちゃん3、4人が口角泡を飛ばして激論……とまでは行かないにしても、熱論している。
  最初に、ウィルヘルム丘陵の話を持ち出したのはボクだったんだけど、持ち出したボクをほっぽり出して夢中で語っているので、大人しく脇で話を聞くことにした。
  曰く――、
 「丘陵で、迷子になった子供をさらって食ってる」
  だの、
 「夜な夜な悪魔と宴会している」
  だの、
 「魔女にたぶらかされた男たちが、そのまま亡霊になって、ウィルヘルム丘陵でさまよっている」
  だの、
 「丘陵から一生出られない呪いがかけられることがある。この呪いを解くには鴉の足が百本必要」
  だの。
  鴉の足を百本集めようとする時点で、すでに呪われているような気もするんだけどねー。
  想像してぞぞぞとなった。
  まぁ、ほとんど世間話と言うかウワサ、怪談話の類のようなもので、
  ボクが怖がるのを面白がって眺めているのが半分、
  長距離の乗合馬車の中で丁度良い話題が出来たと、盛り上がっているのが半分。
  放って置いたらそのうち、魔女の呪いを解く下世話な話で盛り上がっていたりする。
  魔女、ねぇ。
  なんせ、ネイサム司教から言われた指示は、「手紙を一通ウィルヘルム丘陵の古塔に住む婦人に渡して来い」ってだけのもので、それ以上の指示はない。
  魔女が住む丘陵に、その手紙の渡し主は住んでいるというコトなのだろうか。
  それともその婦人が魔女なのだろうか。
 「今回は何も危険がない」、だなんて司教は言っていたけれど、そもそもシュトランゼ古墳の時も、バブーン護送の時も、
 「危険なので気をつけるように」
  だとか言われてないような気は……する。
  どうしよう。その、魔女とやらに、頭から丸かじりされちゃったらどうしよう。
  何せ、魔物であるシラスが言うところの、
 「とてもおいしそう」
  で、
 「百万人に一人の生気」
  を持つ(……らしい。ボクにはよく判らない)ボクだそうなんである。
  魔女と言われるからには魔物の一種なんだろうし、
  ああ、不安になってきた。

 「アレは魔物なんかじゃあねぇ」

  不意に。
  下ネタで盛り上がるおっちゃんたちの話の合い間を縫って、若干鋭い制止の声が、乗合馬車の幌に響いた。
  おっちゃんたちが誰の声かと一瞬口をつぐむ。
  ボクも一緒に目をやると、馬車の隅のほうで話しに加わらずに寝ていたおじさんが毛布を被り、寝返りを打ったところだった。
 「アンタ。今のはアンタが言ったのかい」
 「ああ。俺が言った」
  問いかけたおっちゃんの一人に目を閉じて、くちゃくちゃと口を鳴らして、そう返す。
  格好から見ると、農夫か……いや、猟師なのかな。
 「アンタ、”千年魔女”をしっているのか」
 「……知っているとか知っていないとか。難しい言い回しは良くわからねぇがね。あすこのアレは、魔物なんかじゃねぇ。そっとしといてやれ」
 「千年……魔女」
  ぽつんとボクが呟き返すと、おじさんは片目薄く開いてボクをじろじろと眺める。
 「お前さんが会いに行くのかね」
 「あ、うん……はい」
  ボクは面食らって頷いた。
 「教会の――王都カスターズグラッドの。サンジェット教会の司教の使いなんです」
 「お前さん、シスターかね」
 「ああ、いや、その……まぁ、似たようなものなんです……かね?」
  実際は神に使えるうんぬんよりも、司教や司祭の雑務を手伝うと言った事が多いから、本職シスターに比べて今ひとつ、神職であるという実感は薄い。
  いや、薄いというか皆無である。
  ボクの信仰心が足りないせいなのか、
  毎日、こだわりのツイストパンを買わせに走らせる上司のせいなのか、
  まぁそこらの小難しい問題はおいておくとして。
 「まだ見習い……駆け出しなんですけれど」
  ふぅん。そう言っておじさんが浅く頷いて目を閉じる。
 「用事があるのならしょうがないね」
 「オジさんは……その、魔女と呼ばれる婦人のことを知っている、んですか?」
 「行けば判る」
  そう返された。
  その後は、もう何も答えてくれなかった。

                   *

 「お邪魔しますよー」

  入り口に、呼び鈴がない……と言うか。
  そもそも吹き抜けの石造りの塔は、風が吹き込みっぱなしと言うか、開けっぴろげと言うか、
  とにかく、侵入者を拒むような扉その他一切のカーテンもなく、
  陽光の中にぽっかりと口を開けてボクを出迎えてくれた。
  ウィルヘルム丘陵は、短い草の生えた、海岸沿いに広がるなだらかな場所で、
  時折吹いてくる風が少しだけ潮を含んでいる。
  そんな人工物の見当たらない丘陵にドンとひとつだけ、古びた塔が、今にも落ちそうながけっぷちに立っていた。
  丸い筒型の建物で、遠目から見ると……四、五階建てと言ったところだろうか。
  今回、本気で除霊退魔関係の一切合財をまるごと家に置いてきてしまったので、まったく手ぶら……というよりは丸腰なボクである。
  しまった、せめて頭にとげとげのついた片手棍(メイス)くらい持ってくるべきだった。
  魔女と戦う云々の前に、これじゃあそこいらのちょっとヒネくれた犬が寄ってきたって、あっさり噛まれてしまうに違いない。
  おっかなびっくり入り口をくぐる。
  外から見ると、何層にも見えたそれは、どんと吹き抜けになっていて、建物の円周の内側に沿って、ぐるりと螺旋階段がめぐらされていた。
  その階段の突き当たり、一番上に、古びた木戸がある。
  どうやら、外見の割に、部屋があるのはあそこひとつらしい。
  丸い壁に手を付き階段を上りながら、
 「手紙を渡すだけ。手紙を渡すだけ。手紙を渡すだけ。手紙を渡すだけ」
  何がいるのか判らないのは、怖かった。
  正直に言うが、本当にボクは怖かった。
  うっかりすると、悲鳴と一緒に塔から一目散に逃げてしまいそうだったから、ボクは呪文のようにブツブツと呟いた。
  手すりのない階段は、アレだ、眩暈でも起こしたらそのまま一階の床とコンニチハ出来る仕組みである。
  緩衝材も何もない、石畳の床にそのまま落下したら確実に首の骨を折るね。
  ボクの頭の中の「魔女」なんて物は、こう、
  黒いボロボロのフードを被って、
  ワシ鼻で、
  歯が欠けてて、
  腰が曲がって節のついた杖を突いている、
  くらいの安易な発想しか浮かばないので、こんな階段上り下りするのはすっごく大変なように思う。
  とか思っているうちに、トラバサミのトラップがあるわけでもなく、毒グモがけしかけられることもなく、おかしな色の液体が降ってくることもなく、
  最上階に何事もなく辿り着いてしまった。
  どうしよう。
  戸を開けた瞬間、向こう側に絵本に出てくるようなバァさんが、「グワハハハ」とかっていたらどうしよう。
  バカみたいな妄想だけど、考えたら胃が痛くなってきた。
  ええぃ、ままよ。
  覚悟を決める。いつ攻撃されてもいいように腰を低く落として(え?へっぴり腰?う、うるさい)、とりあえずノックすると、
 「――はい」
  扉に隔てられてくぐもってはいるけど、きれいな女の人の声がした。
 「どうぞ、お入りになって」
  拍子抜けたような、予想していたような、とりあえずいかつい「グワハハハ」ではなさそうで、
  ボクは恐る恐る扉を開ける。
 「まぁ。可愛いらしいお客さまだこと」
  扉の隙間からねじりこむように身体を入れると、扉の向こう側、吹き抜けのホールと同じくらいがらんどうの部屋に、女の人が一人、機織機の前の椅子に腰掛けている。
  それに丸テーブルと、上に乗っているのは――紅茶碗。
  部屋にある家具といえばそれだけだった。
 「は、初めましてこんにちは。……その。ボクはレイディと言います。今日はネイサム司教……えぇと、サンジェット教会からお手紙を預かって、あなたにお届けにあがりました」
 「お仕事ご苦労様です」
  肩に掛けたカバンから手紙を取り出し差し出すと、女の人は受け取り、ニッコリと笑う。
  まるで、床になだれるような真っ白……というよりは白銀の髪。
  なのに肌はとても白くてつやつやしていて、魔女と言うよりはどこかの等身大の蝋人形のようにも見えた。
 「王都から遠かったでしょう。何もありませんけれど、よろしければお茶でも召し上がっていらして」
  その声すら、まるで「鈴を転がすように」とでも表現したいほどに可憐で、この人の何処をどう取れば「魔女」の名前が付くのか、ボクには皆目検討もつかなかった。
  男だったら一目惚れするかもしれない。
 「あ、はい、その……、いただきます」
  示された椅子に腰を下ろして、ボクは紅茶を受け取った。
  実際、この三日間に馬車に揺られながら、口にするものはといえば固く湿った黒パンと水筒の水、くらいのものだったから、湯気の立つ紅茶は、ひどく魅力的だったのだ。
 「この館にどなたかがいらっしゃるのは、本当に久しぶりなのよ」
  嬉しいわ。
  にこにこと笑いながら、「魔女」はボクを眺めている。
 「ずいぶん静かな場所にお住まいなんですね」
 「あら」
  何か世間話でも――とボクが口を開くと、聞いた「魔女」がまたふふふと笑う。
 「”ド僻地”とか”ド田舎”とか。そう表現していただいて結構ですわ。いつもいらしてくださる司教さまは、『嵐で墜ちてしまうと良い』なんて言っていましたぐらいですのよ」
 「あー……。……上司らしい、です」
  遠慮がないというよりは、はっきりと無遠慮というか、
  思ったことは、意外とずけずけと口にするネイサム司教なんである。
 「『魔女』としては、こういったアジのある場所に住みませんとね」
 「ぶっ」
  ここに来る前から乗合馬車の中で、「千年魔女」だと耳にしていたものの、当の本人からその言葉が出てくるとは思っていなかったので、不意を衝かれてボクは茶を拭いた。
 「ままままままま」
 「『魔女』」
  そう言って微笑む。
 「夜な夜な、悪魔との宴会を行って、荒地に迷い込んだものをたぶらかし、その生き血をすすり、手当たり次第に呪いをかけては楽しむ――『千年魔女』」
 「――」
 「おかしいですね。たかだか二百年と少ししか生きておりませんのに……人の身から見られると、二百年も千年も同じことなのでしょうね」
  千年と二百年、比べてしまえば大した年月に思えないけれど、16年しか生きていないボクがよくよく考えれば、相当な年月であることには変わりない。
  ああ、でもシラスも言っていたっけな。

  人間は、自分とは”異う”生き物には、ひどく敏感なんだよ。

  そんな風に言っていた気がする。
 「司教さまからわたくしのことを何か聞いて、こちらにいらしたの?」
 「いえ……もう、一人住まいの婦人がいるから会って来いと、もうただそれだけです」
 「あの方らしいですわね」
  ふふ、と魔女が笑って、それからまたボクにお茶を勧める。
  魔女の手元にもいつの間にかカップがあって、呼ばれているのが魔女だろうがなんだろうが、この人もきちんと飲み、食べるんだろうなとボクは妙なところで感心する。
  そのまま差し出されたクッキーやらをつまみながら、
 「本当に、どなたかがいらっしゃるのは久しぶりなのよ」
  嬉しそうな魔女とともに、しばらく王都の様子だとか、最近の天気だとか、四方山話に花を咲かせて――、気が付けばすっかり窓の外は暗くなっている。
 「わ」
  ボクは慌てて腰を浮かす。
  王都カスターズグラッドまでの運行馬車は、毎日出ているワケじゃあない。
  今日の夕方を逃すと、次の便は明後日である。
 「ごめんなさい、もうお暇しないと」
  立ち上がったボクに、それまで微笑んでいた千年魔女は、
 「あの司教さまは、わたくしに、わたくしの『魔女』たる所以を語れと、そう書簡でおっしゃった」
 「――え?」
  急に抜けるような緑の瞳で、ボクを真正面から見据えた。
  す、と空気が心なしか張り詰める。
  けれどそれは、心地よい張り詰め方だ。
 「司教さまは――あなたがとても心配なのね」
 「司教が……あのそれは、」
  どういうことですか。
  尋ねようとして、未だにボクは、この『魔女』の名前すら聞いていないことに気付く。

 「”血の契約”」

 「――え?」
 「あなたも、血の契約をされているのね」
 「あなた……『も』、ってえ、え、え……、あ!」
  荷馬車の発着場に早く行かないと、と焦る気持ちも思わず忘れて、ボクは声を上げる。
  言葉の意味を探そうとして魔女を眺めると、彼女はボクに左手の甲を指し示したからだ。
  赤い、幾何学模様にも似た契約の小さな魔方陣が、その甲には刻まれていた。
  人ではないもの――魔物とよばれるもの――と、主従を結んだ証。
  ボクとシラスを結んでいる、きっと唯一の絆。
 「今では『千年魔女』などと呼ばれているわたくしですが――これでも、二百年と少し前はきちんとした、『人間』だったのですよ」
  そう言って、魔女はじっとボクを見る。
 「わたくしの『これ』は……もう意味がないのですけれど」
 「え?」
 「わたくしの魔物は、とうの昔に消えてなくなりましたの」
 「え?」
  契約を、破ったのですね。
  魔女は笑った。
  とても淋しそうな笑いだとボクは思った。
 「契約の力は絶大です。あれは、目の前で、砂のように掻き消えてゆきました」
 「――」
 「わたくしを――自分と同じ、『人ではないもの』にしようとしたのです。その瞬間、あれは『人』と『魔物』との境界を、踏み越えてしまった」
 「――」
 「あれは、きっと――怖かったのだと思います。年を重ねるわたくしが。老いてゆくわたくしが。そうしてきっと、」
  あれを置いて逝ってしまう――わたくしが。
  魔物ではなく、人間であるが故に。
  どこか愛おしそうに甲を撫でて、魔女は目を細める。
 「わたくしはその日から、年を取らなくなりました。周囲がどんなに流れようと、変わることのできない。そういう『まじない』を、あれはわたくしに掛けたようです」
  おかしいですね。
  俯いた魔女は、「まじない」のせいで年を取れないのだとは思えないほど、とてもきれいで――、
  ああ、この人は、その魔物を愛していたのだな。
  だからこんなきれいな顔ができるのだな。
  そう思った。
  ネイサム司教が、ボクに一人で行けと指示した理由が、何となく判った気がした。
  いなくなったのだとしても。
  契約を破ったのだとしても。
  呪いを掛けたのだとしても。
  ボクがもし、シラスを連れて、この場を訪れていたら。
  魔物を愛したこの人の前に、同じような魔物を連れて現れるということは、
  それは、とても酷なことだ。
 「そう」
  ボクの考えを読み取ったかのように、魔女は顔を上げてにっこりと、また笑った。
 「確かに目の前で無くなってゆく様をみたと言うのに――おかしいですね。人の三倍は生きて。実感がまだ湧かないのです」
 「――」
  ボクには、返す言葉が見つからない。
 「ふとした拍子に、あれが戻ってくるような気がして。こんな僻地で待ち続けておりましたら、あっという間に二百年たってしまいました。魔物に惑わされるなと――あの司教さまには、毎回説教されるのですけれど――、これからも待ち続けるのだと思います」
 「――」
  わたくしはね。
  ゆっくりと動く唇から漏れる言葉は、夢の中で聞こえる音楽のようで、妙にくぐもりぼやけて。
  同時に景色も色を溶かして流れて行く。
  流されてゆくことはひどく怖いのに、何故かとても心地よいのだ。
  それは、ちっちゃい頃に夢の中で、しちゃいけないと判っていながらオネショをしてしまうときの気持ちとちょっと似ている。
  千年魔女の声はかすれて、ボクにはもう良く聞こえない。
  勧められた紅茶に、何か入っていたのだろうかと、ボクはそこでようやく気が付いて、

  わたくしは、昔、魔物を愛したの。

  その声を最後に、
  次に我に返ったときには、カスターズグラッド行き運行荷馬車の片隅に、揺られていたボクだった。
 「うぇ?」
  塔から出た記憶も、
  発着場まで走った記憶もないのに、
  何故かきちんと乗車券が握られている。
  慌てて幌の外を眺めてみても、とっぷりと日の暮れた丘陵は闇に包まれて、もう何も見えない。
  夢だったんだろうか。
  そう思ってカバンの中を探ってみても『千年魔女』宛ての手紙なんて無かったし、狐にでもつままれた気になった。
  何の気なしに、眺める。
  魔女と同じ文様の刻まれた、左の手を。
  そうしていると、さびしそうで、なのにとても幸せそうな、魔女の笑った顔がふと、思い出された。
  あの人は、ボクに何を言いたかったんだろう。

  ――夢だったんだろうか。


  三日後。
  復路を戻って王都に帰り着いたときには、かなり夜も更けていて、町は寝静まりかえりつつあった。
  (たぶん、)こなせたんであろうネイサム司教の使いを終えた報告は、明日一番に教会に出向くことにして、ボクは一週間ぶりの家路を急ぐ。
  なにしろ、ここんところやたら冷え込んで、吐く息が白いどころか、早足で歩いたって芯から震えが来る寒さだ。
  バカみたいに小刻みに震えていると、やたらくたびれる感があるのはボクだけなんだろうか。
  運行荷馬車の発着場から、いつもの通いなれた道、いつもの町並みをなんとなく目に入れつつ、最後の曲がり角を曲がり、細い路地に入る。
  このあたり通行するたびに、毎回「お腹がすいた」か、「今晩のメニュウは何にしようか」しか考えてない気がするのは……問題があるのか無いのか。
  なんてことをふと思い浮かべながら、顔を上げたボクの目に入ったのは、明かりのない真っ暗な路地だった。
 「ぅん……、」
  なんとなく、いやな感じがした。
  このほっそい通りに面した窓を備えているのはボクん家だけで……、
  だから、ボクん家の明かりがついてないと、街灯ひとつ無いこの通りは真っ暗になる。
  暗いから怖いって言うんじゃない。
  どうして、ボクの家に明かりがついていないのかということが、少しだけボクは気になって、
  なぜなら毎日のことならともかく、たまの一人の出張のとき、帰る時分にはいつもシラスは、明かりをつけて出迎えてくれていたからだ。
  少なくとも、今まではいつも。
  出掛けてるんだろうか。
  いやな感じを抱えたまま、土蜘蛛玄関のドアノブを握ると、それは呆気なく開いた。
  鍵が掛ってない。
  鍵をかけるも何も、家の中で取られて困るようなブツが何もないほどなボクの家で(まぁたぶん、半日通りの家を狙うような、酔狂なドロボーさんはいない)、
  それでも、外出の合図で、出掛けてるときは鍵をかけようね、というのがボクとシラスの間で決めたルールだ。
  掛ってないということは、在宅中だってことで、
  だのに明けた家の中は、やっぱり真っ暗だった。
  真っ暗だったのに、
 「シラス……?」
  暗闇に十分慣らされた目には、外からの月明かり、暖炉の前、うずくまる陰影をしっかりと確認する。
  家具なんかじゃあない、もっと質感のある、黒い陰影。
  うずくまるその人影が、シラス以外の誰か、とは思わなかった。
  懐かしい、慣れ親しんだ気配だったから。
 「シラス?」
  驚かそうという趣向なのだとしたら、これほど悪質な嫌がらせは無い。
  これで「ワッ」とかビックリさせられたら、容赦なくパンチでゴンだとか心構えながら近付いたボクは、
 「どうし――」
  肩に手を掛け、そこでヤツの異常さに気付いた。
 「ど、どうしたんだよ!」
  布越しだって言うのに、ぐっしょりと汗を含んだそれは、びっくりするほど熱かった。
  揺さぶろうとしかけた体が、呆気なくぐらりと揺れて床に崩れる。

 「――え?」

  どうにかしなくちゃと思ったのに、伸ばしかけたボクの腕は途中で止まって、スローモーションで光景が目に焼きついた。
  がつ、と床に肩口から打ち付けて、その音が妙に生々しくボクの耳に飛び込む。
  だのに、実感が湧かない。
  どうしたんだろう、やけに世界が遠い。
  なんだよ、ふざけるなよ、冗談にしちゃあタチが悪いよ、そんな言葉ばかりバカみたいに口を衝いて出て、
 「――レイディ?」
  不意に聞こえたシラスの声に、水を浴びせられたように急激にボクは我に返る。
 「シラ……ス?」
  ヤツがボクを見上げていた。
  いつもと同じ、金色の目で。
 「悪ぃ。帰って来てたんだな」
  言いながら起き上がろうと突いた腕が、バランスをとれなくてもう一度ぐらりと揺れる。
 「シラス!」
  小さく声を上げながら、それでも今度はシラスの頭を庇うことが出来た。
  下敷きになったボクの手のひらはじんじんとしているのに、痛覚が麻痺したように頭にまで伝わらない。
 「ど、どうし……、」
 「あー……なんだぁ。なんか懐かしい気がするなぁ」
  額にまでびっしりと汗の玉を浮かせて、なのにシラスはボクを眺めてにっこりとした。
 「六日……七日ぶりか?……すっげぇ久しぶりな気がするなぁ」
  熱に浮かされたそれは、呂律が上手く回っていない。
  明らかにヘンだ。
  ヘンだと思いかけて、そう言えばウィルヘルム丘陵に出掛ける前、地下室で丸まっていたシラスも、同じように呂律がおかしかったことを、今さらながら思い出す。
  でも、あのときはこんなに熱くなかったし、それにシラスはきちんと自分で起きて、眠いとかなんだとか、
 「ど、どうしたんだよ!どうしちゃったんだよシラス!」
  ボクはそこでようやく声が出た。
  伸ばされた手を握れば、その手もお湯のように熱くって、
 「ああ……なんだ、大したことじゃあねぇんだ。何でもない」
 「な、何でもあるだろ!あからさまにおかしいだろ!」
  喚いたってどうなるもんでもないと判っているのに、
 「レイディ」
  再び混乱し始めるボクを尻目に、ヤツは起き上がれないままボクの顔に手を伸ばして、
 「おかえり」
  実に、幸せそうに――笑った。


  その後のことは、実はよく覚えていない。
  半泣きになりながら、絶対おかしいシラスを、とりあえずソファに何とかかんとか引っ張りあげて、それからボクは近所のミヨちゃんの家に走った。
  ミズティヨ。
  魔法介護士の資格をばっちりと持つ、ボクの幼馴染。
  夜中なのに悪いなと、こんな時だったのにふと頭の片隅で思ったりもしたけど、
  それより目の前のシラスがおかしい、という方がボクにはとても重大だった。
  だって、よくよく考えてみれば、
  日がな一日、
  年がら年中、
  ぐぅたらのんべんだらりしていたシラスだったけれど、風邪をひいたりだとか腹を下したりだとか、見たことが無いのだった。
  ということに、ボクはそのとき初めて気付いたのだった。
  そうだ。
  薬を飲んでいる姿すら、見たことが無い。
  いつも。熱を出したりお腹壊したり怪我したりするのはボクの方で、
  いつも。看病してくれたのがシラスだった。
  風邪をひいて、熱のせいで頭が割れるように痛くって、そんな時一晩中、大きな手でボクが眠るまで撫でてくれたのがシラスだったのだ。
  こんなシラスは知らない。
  こんなシラスはどうしたらいいのか判らない。
  途方にくれたボクの耳に、夜中だと言うのに様子を見に走ってくれた、ミズティヨの声が蘇る。
  ――ごめんね。
  実に弱りきったように、済まなそうに、ミズティヨはそう言ったのだ。
  ――もっと、どうにかできるといいのだけれど。
  魔法介護士試験に受かって、介護施設で働くミズティヨにだって、判らないことが沢山ある。
  シラスが、魔物だから一層。
  一通りの治癒魔法を試してくれた後で、ミズティヨは謝った。
  違うんだよ。ミズティヨが悪いんじゃないんだよ。
  こんな夜中に起こしてごめんね。ありがとう。明日もお仕事頑張ってね。
  そう言いたかったのに、なんだかうまく受け答えも出来なくて、頭は真っ白なままだった。
  とりあえずボクが風邪をひいたときに使う飲み薬を二、三種、コイツの口に放り込んでみたけれど、依然高熱は引く気配が無い。
  ミズティヨの家に走っている間に、シラスはまた眠ってしまったようで、治癒魔法をかける間もそのあとも、目をさます気配は無かった。
  何度も濡れ手ぬぐいを額に乗せて、だのにそれは直ぐに熱くなって、
  ボクにできることはと言えば、バカみたいにおろおろとそれを取り替えながら、ソファの傍らにいることだけだった。
 「……ィ」
  深更過ぎて、もうそろそろ暁の気配でもするかな、という時分に、うわ言を呟きながら、シラスが身じろいだ。
 「ぐ……あッ」
  そのまま不意に胸を掻き毟る。
 「――どうしたの、どうしたんだよシラス!」
  慌てて取り押さえようとしたボクは、思わずそのまま凍りつく。
 「なに」
  はだけたシラスの胸元に、気味の悪いアザが浮かんでいる。
 「なに……これ」
  赤黒い、まるで身体を蝕むように張り巡らされた、アザ。
  蛇の細かなうろこのようにも、銀細工の細い鎖のようにも見える、アザ。
 「なに……」
 「なんでもない」
  しゃがれた声に不意を衝かれて見上げると、シラスがボクを見ている。
 「気が」
  ついたの、と言い掛けたボクに、シラスは焦点の合っていない微笑みを一瞬投げかけて、それからすぐに苦痛に顔をゆがめる。
 「心配するな……なんでもない。なんでもな――ッ」
 「……なんでもなくないだろ……!」
  言ったハシから、海老反りのように身を捩じらせたシラスに、ボクは取りすがった。
  もがくシラスを腕ずくで押さえて、
  だけど力じゃあ敵うはずも泣く、簡単に吹っ飛ばされてボクは暖炉脇にへたり込む。
  じんわり滲んできた視界に、それどころじゃない、と自分を叱咤した。
  泣いて解決できるもんじゃあない。
  どうにかしないといけない。
  誰か。
  何でもいい、誰もいいからどうにかできる手段を思いつける人はいないかと、ボクは必死で少ない脳みそをフル回転させて、
  ふと、聖書に目が止まる。
  どうしてそこに目が言ったのか、自分自身でも判らない。
  だのに、聖書を目にした瞬間、連想的にひらめく顔があった。
  ――ネイサム司教。
  魔物退治の第一人者。
  何故だかひどく忌み嫌っている魔物という種族のことを、多分ここいらでは一番良く識っているはずだ。
 「嫌いな割にはいろいろ知っていますね」
  感心したように呟いたボクに、確か司教は言ったはずだ。
 「よりよく知らないと、弱点も知ることは出来ないのだよ。清流に棲むだけの魚では――濁に呑まれて消えてしまう」
  不機嫌そうに、不本意そうに。
  こんなシラスの容態を治す方法を、知っているとしたら、司教だけかもしれない。
  ふと窓の外をもう一度眺めると、うっすらと東が白み始めていた。
  朝まで待っていられない。
  弾かれたように立ち上がり、
 「ちょっと出掛けてくる」
  冬篭りの熊のように固く身を丸めて、細かく震えているシラスに、ボクは少しだけ視線を投げて。
  聞こえているのかいないのか、シラスは返事も返さない。
 「すぐ帰って来るから。――待ってて!」
  椅子に投げ出した外套を羽織ることすら忘れて、ボクはまだ暗い、明け方前の街の中へ飛び出したのだった。

                   *

  赤縛、とその本には書いてあった。

  サンジェット教会に駆け込み、ネイサム司教の自室の扉を連打したボクに、返ってきたのは無言の返事だった。
  部屋は、もぬけの殻だったのだ。
  何度か叩くうちに、扉は力なくキィと開いて、
 「……司教?」
  まったくもって褒められたことじゃあないなと思いながら、部屋の持ち主がいないのをいいことに、ボクは司教の部屋の中を覗き込んでいた。
 「――どうしよう」
  どうしよう?
  ここで帰るなんて、とてもできなかった。
  何でもいいから、行動していないと気がおかしくなりそうだったから。
  手ぶらで家に帰ることだけは、できそうになかった。
  覗きこんだところで、やっぱり司教は部屋にはおらず、しんと冷え切った空気が、この部屋の主が少なくともこの一晩、部屋にいなかったのだと伝えてくる。
  その部屋に、ボクは体を滑り込ませて侵入していた。
  初めて入った上司の自室は、
  教会内の、地層すら出来かけている、ありとあらゆるものが積み上げられた執務室――とはうって変わってひどく簡素で、
  簡素と言うよりは、はっきり言って殺風景だった。
  まぁもともと教会に寝起きする人たちは、身の回りのものが極端に少ない(……なんせラグリア教義の基本は、下着とシャツ以外は公のもの、という考え方なんである)ものの、
  それでもほんのちょっとした小物だったり、
  自分のものではないにしろ蔵書だったり、旅支度だったりがゴチャゴチャまとめられているわけで――、
  司教が教会からあてがわれた部屋には、寝台と椅子のない机。
  それだけだった。
  机の上には、いくつかの分厚い凶器になりそうな皮綴じの本が数冊、これまた整然と並べられていて、仮にも「司教」の部屋だというのに、背表紙に書かれた題名は全て、魔物に関するものに思えた。
  とはいっても、その中の何冊かは、ボクには読めないような小難しい学術用語的題名で書かれたりしていて、シラスがよく地下室で広げている、古文書を思い出させた。
  というより、ボクでも読めそうなものは実のところたった一冊だったのだ。
 『魔物の生態』
  そう書かれてある。
  なんで手に取ろうと思ったのか、実のところよく判らない。
  バレたら確実に罰則ものだと思いながら、ボクは勝手にその本を手に取り、開いていた。
  生息地――違う。生態系――違う。行動パターンとその繁殖方法――違う。
  ぱらぱらと目で追うと、そのうちに、
 「病原種と対処方法」
  手が――止まる。
  指でたどりながら、いくつかページを読み進めるうちに、
 「せき、ばく」
  ”鎖のような鱗状の痣”。”発熱”。”幻覚や幻聴”。
  主症状と、その推移、の欄でボクは思わず息を呑んだ。
 「……初期は倦怠感。その後、発熱して――ここで意識を失うことが多い。後期には赤縛特有の、全身に鎖のようなアザが這う。処置はほとんど不可。発症したが最後、」
  最後。
  痺れたような頭で、口が勝手に声を発するのを聞いた。
 「……死亡率は9割を超える」
  死ぬ。
  言葉がやけにすとん、と中に入ってきたことが、ボクは悲しいと思った。
  目の前が暗くなるだとか、意識が遠のくとか。
  膝がバカみたいに震えるとか、立っていられなくなるとか。
  そのどれにも当てはまらず、ただその言葉の意味ごと体内に染み入ってしまった自分自身を、ボクは悲しいと思った。
  駄々をこねて泣き喚けたなら、どんなにか楽なんだろう。
  見習いとは言え、僧侶という仕事柄、王都に住む人の死は、この年にしてイヤって言うほど見てきたように思う。
  見るたびに思う。
  死ぬって別に、特別なことじゃあ、ない。
  選ばれた誰かは、神さまが助けてくれるなんてこともない。
  一人の人間の終わりなんて本当にあっけなくて、あまりのあっけなさに戸惑うほど、スッと命なんて吹き消えるのだ。
  昨日まで元気だったものが、事故だったり病気だったり、急に動けなくなって起き上がれなくなって、そうして「明日」がやってくることがなくなるのだ。
  エピローグだのプロローグだの、そこにはない。
  あるのはただ、今まで「生きて」いたものが、動かなくなり冷たいただの物体になってしまうということ。
  どんなに頬をなぜても、ぬくもりは戻らなくて。
  どんなに抱きしめても、抱きしめ返してくれる腕はなくて。
  たった今まで動いていたのに、たった今まであったかかったのに。
  ぼたん、と赤縛のページに大きな水滴が落ちて、ボクは目の前が急にぼやけたのが涙のせいだって言うことに気がついた。
  水滴に滲んだ文字を、思わず指でなぞりかけ、ふと凸版印刷ではない、ネイサム司教のものと思われる注釈に目が留まる。
  ”ムドゥブの卵殻を煎じて飲ませれば……或いは――?”
  そう書かれていた。
 「ム……ドゥブ」
  つぶやいた顔から、血の気が引くのが自分で判る。
  なぞった指が小さく震えた。
  最凶のひとつに数えられる、こっちの世界での――魔獣。
  どんな世界地図にも必ずムドゥブの生息地は事細かに記載されていて、そうして赤字で書かれてある。
 『命が惜しければ進入するべからず』。


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最終更新:2011年10月15日 18:53