アットウィキロゴ
<<喧嘩>>

  ”ごらん。あれが誰にも癒すことの出来ない けもの だ。”

  春のにおいが、季節感の乏しい石造りの堅牢にも似た、建物のあちらこちらにも気付けば忍び込んでいる。
  ヴァチカン。神の僕の居住区。
  植物のにおいは獰猛だ。どんなに小さな隙間からでも入り込み、蔓延り、いつの間にかしっかりと根を張っては種子を撒き散らす。
  特別な任務でもない限り、一日のほとんどを日の当たらない室内で過す神父――アレクサンド・アンデルセン――は、久方ぶりの教会保護区の孤児院に足を踏み入れ、
  踏み入れるや否や目に飛び込んだ、あまり平和的ではない光景、
  すなわち、取っ組み合いの喧嘩、
  に、軽いため息をついたのだった。
  ああ。
  喧騒のど真ん中に居る一人は、この孤児院にもうすぐ六年になるか。伸びやかな若木のような体躯は、そのまま性格にも比例した。
  人一倍正義感が強い。
  正義感、とは語呂が異なるかもしれない。
  己より大きなものにでも、理無しと思うや、がむしゃらに突っかかっていく、少し困った癖がある。
  もう一人は――、
  ……これは少し困ったでは済まないか。
  圧倒的な憎悪に歪んだもう一人の顔を見て、アンデルセンは暗澹たる思いに囚われる。
  囚われ、しかし身体は動いていた。
  大股で二人に近付くと、
 「ハインケル」
  頭に血が上っている片割れに静かに呼びかけた。
  ハインケル、と呼ばれた少年は一瞬はっと括目し、
 「……先生」
  居心地の悪そうに首をすくめた。
 「マクスウェル」
 「何ですか」
  反してマクスウェルと呼ばれた少年は、至極冷静を装った声で応えを返した。
  蜂蜜色の癖っ毛が、風に揺れる。
 「どうしたのです」
 「コイツが全部悪いんです!」
  よそよそしいマクスウェルとは違って、ハインケルはまるで火の玉である。
 「由美江が折角作った花束を、コイツ、ぐしゃぐしゃに踏みにじりやがったんです!」
  押さえていなければ、もう一度でも飛び掛りそうなハインケルを片手でおしとどめて、
 「ハインケル」
  名を呼ぶことでアンデルセンは諭した。
 「己に理不尽な振る舞いをされたからと言って、暴力を奮っていい理由にはなりませんよ」
 「じゃあ!じゃあコイツはどうなんです!」
  憤りに身を震わせながら、それでもハインケルは拳を下げた。
 「気に入らなかったからさ」
  ぼつ、とマクスウェルが呟いた。
  空洞な胸のうろから響く声だった。
 「”日頃世話になっている大好きな先生にお花を贈ろう”だ?ちゃんちゃらおかしいね」
  視線は冷たい敵意である。
 「世話をかけていると思うのなら、世話をかけない努力のひとつでもするべきだ。感情に任せて騒ぎを起こして、手間をかけさせておいて日頃の感謝だなんて、冗談以外の何ものでもないだろ」
 「お……まえッ」
  かっとなったハインケルが胸倉を掴みかけるのを予測していたアンデルセンが、
 「ハインケル」
  もう一度、今度ははっきりと己の手のひらで彼を牽制した。
 「どんな理由があろうとも、喧嘩両成敗。二人とも、夫々反省室へ行き、先生が行くまで己の行動を反省しなさい。あとで話は伺います」
 「……はい」
  悔しそうに唇を噛み締めながら、それでもアンデルセンには逆らわないハインケルは、しぶしぶ了承の声を絞ると、踵を返して大人しく反省室へと向かう。
 「マクスウェル」
  刹那、ぼんやりとアンデルセンを眺めていた少年は、己の名を呼ばれ、俄然我に返ると、
 「はいはい」
  肩をすくめ、これもまた反省室へと足を向けた。

        *

  深々と息を吐きながら、アンデルセンはようよう、反省室の戸口をくぐり、自室へと向かう。
  てこずらせると言うなら、あまりにもてこずらせるマクスウェルの態度に、知らず嘆息するのを止めることが出来ない。
  ハインケルはともかく、何を問うても無言の一点張りでとうとうマクスウェルから事情を聞くことを諦めたアンデルセンは、二人をそれぞれに諭すと、寝室へと戻すことにした。
  ”ごらん。あれが誰にも癒すことの出来ない けもの だ。”
  少年が。
  少年が初めて孤児院へと連れてこられたときに、司教の一人が呟いた言葉だ。
  湖色の瞳に、ぽっかりと深い虚無が湛えられていたことを、
  それを目にした瞬間の己の静かな戦慄きを、
  アンデルセンは忘れることが出来ない。
  満たされることを望む孤児院の子らの中において、誰よりも強くその欲望を持ちながら、けれど決して人を寄せ付けないマクスウェル少年は、入院当初から際立って見えた。
  それともアンデルセンが特別視していた――のだろうか。
  ”ごらん。”
  ”ごらん。あれが――”
 「せんせ」
  唐突といえばあまりに唐突にかけてこられた小さな声に、アンデルセンは思わずひどくうろたえ、慌てて辺りを見回した。
 「せんせ」
  くるぶしまでの薄い寝巻き一枚、上着を羽織ることもしないで少女が一人、いつの間にか音も無く彼の側にいた。
 「由……美江。……もう消灯時間はとっくに過ぎているでしょう」
  こんな時間に。
  何事にも大人しく、規律違反をすることも珍しい由美江が現在ここにいるということに、アンデルセンは少しく驚いて、膝を付き、彼女の視線の高さに合わせる。
  彼に染み付いた癖だ。
 「あのね、せんせ」
 「はい」
 「ちがうの」
 「――違う……?」
  たどたどしく言葉を選びかねている由美江に、どうしても伝えたい事があったのだろうと、アンデルセンは頭ごなしに叱るのをやめて、
  けれど思わず問い返していた。
  話が見えなかったからだ。
 「違う?」
 「ちがうの。ハインケルもマクスウェルも、どっちもほんとうはわるくないの」
  小さな手をおずおずと伸ばして、由美江は彼の司教服の袖を掴む。
 「ケンカは、わるいことなの。でも、ハインケルはかんちがいをしてるの」
 「勘――違い?」
 「うん」
  いちいち己の言葉にこくりと頷く由美江もまた、心に病巣を抱えた孤児院の慈し児である。
 「勘違いとは、どんな」
 「あのね。あたしが、せんせに、花をプレゼントしようとしたの。でね。花をつんでいたら、マクスウェルがあたしを見つけて、」
 「見つけて」
  由美江が作った花束を、マクスウェルが踏みにじったと、ハインケルはそう言った。
 「何をしてるんだってきくから、せんせに、お花を上げるんだって、あたしは言ったの。そしたら、ちょっと貸してみろ、リボンをつけてやるから、リボンをつけたらもっときれいになるよって、そう言ってマクスウェルはあたしからお花をとったの。とり方はちょっと乱暴だったけど、でも、マクスウェルは、ぐしゃぐしゃにするつもりじゃあなかったの。でも、そこにハインケルがやってきて、」
  何をしているんだ。
  前後は無く、由美江の摘んだ花を取り上げた瞬間を、たまたまハインケルは目にしたのだ。
 「何をしてるんだ、由美江に返せって、ハインケルはそう言ったの」
 「――ああ、」
  光景が目に浮かんで、アンデルセンは深く頷いた。
  照れ隠しからか、マクスウェルが乱暴に取り上げた瞬間だけをハインケルは見咎め、そして由美江が苛められているとでも思ったのだろう、
  ”返してやれ”
  そう言ったのだ。
  向けられた敵意に、たちまちマクスウェルは反応して、不器用な優しさはすぐに捻じ曲がる。
  あの極端に偏屈な少年が、自分の好意を口に出せるはずも無く、
  口に出すはずも無く、
 「ああ」
  そしてマクスウェルは花束を踏みにじったのだ。
  ”ごらん。”
  司祭の言葉が蘇る。
  寒さに細やかに震える少女にアンデルセンは気付くと、寝室へといざない、彼はそこで先とは違った深い嘆息をもうひとつ吐いたのだった。

        *

  そうして由美江を寝室へと送り届けたアンデルセンが向かった先は、昼に取っ組み合っていた孤児院の裏庭だ。
  共同寝室のマクスウェルのベッドの中は、もぬけの殻だった。
  院内を探しても少年の姿は無く、けれどある意味「模範生」で「優等生」の彼が、孤児院を抜け出すとは考えにくい。
  仮令抜け出しても、行く当てもないのだ。
  それは、すこし悲しい。
  建物の角を曲がったアンデルセンの目に飛び込んだのは、まるで嵐が通り過ぎた後のような、裏庭の惨状と、その真ん中に虚脱してうずくまる少年の姿だった。
  頬に、涙の痕。
  近付いたアンデルセンの気配に、少年ははっと顔を上げ、それから慌ててその泣き顔を逸らした。
  あたり一面、踏みしだいた花壇。
  初冬に少年が、不承不承な顔をして、実に積極的に球根を植える作業を手伝ってくれたことを、アンデルセンは思い出している。
  やり場の無い憎しみは、そのまま自傷行為である。
  ”ごらん。あれが誰にも癒すことの出来ない けもの だ。”
  いつかの司教の声が、耳奥に響く。
  この小さな身体に、少年はどれほどのけだものを飼い養っていると言うのか、
 「何も言わずとも良い」
  何か皮肉を言いかけたその傍らに無造作に座り込み、、アンデルセンはマクスウェルの、泣き腫らした瞼を手のひらで蔽う。
  冷え切った少年の体の中で、そこだけはひどく熱い。
 「目覚めなくて良い」
 「め、ざめ……」
 「夢を見ているのだ、お前は」
 「ゆめ――」
  憮然とする少年は、アンデルセンの言葉をそのまま繰り返した。
  しばらくそのまま黙り込む。
  鼻をすする音だけが、時折小さく響いた。
 「先生」
 「ぅん……?」
  小さく震える肩を、己の腕で抱きしめながら、マクスウェルは不意に口を開いた。
 「あまり、僕に構わないほうがいい」
 「何故」
  発せられた思いがけない言葉に、アンデルセンは思わず素の声で訊ねた。
  立場がまるで対等になっていると、訊ねてから思う。
  苦笑が漏れた。
 「先生はとてもきれいだ」
 「俺が、きれいだと」
  年の七割血塗れた拳である己の手のひらを見て、ますます苦笑いをしたアンデルセンだ。
 「――僕は醜い。生まれも、育ちも」
  その一言が卑下ではなく、
  同情を買うための言葉でもないことに気付き、逆に何も言葉を返せなくなったことにアンデルセンは気が付く。
  少年は心底そう思っているのだから。
  たまらず、彼はマクスウェルを引き寄せ抱きしめた。
  もがき、暴れると思った少年は妙に素直にその胸に収まり、逆に拍子抜けもする。
 「暴れると思いましたか」
  鼻声が、僅かに笑っていた。
  読まれている。
 「だってこれは夢なんでしょう」
  そう。夢なのだろう、何もかも。
  夢魔のように、朝日とともにすべてが消し飛び、失せる。
 「先生」
  そのまま、また暫く黙りこくって俯いていたマクスウェルは、アンデルセンの胸に額を押し付けながら、ようやく小さな声で呟いた。

 「先生は、あたたかいですね」
 ”ごらん。あれが誰にも癒すことの出来ない けもの だ。”

  その瞬間にきっと喰われてしまったのだと、思う。


ネタはなんだったか、新聞広告か何かで見かけた文をちょっとひねったものです。

最終更新:2009年04月28日 23:32