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  三日後。
  復路を戻って王都に帰り着いたときには、かなり夜も更けていて、町は寝静まりかえりつつあった。
  (たぶん、)こなせたんであろうネイサム司教の使いを終えた報告は、明日一番に教会に出向くことにして、ボクは一週間ぶりの家路を急ぐ。
  なにしろ、ここんところやたら冷え込んで、吐く息が白いどころか、早足で歩いたって芯から震えが来る寒さだ。
  バカみたいに小刻みに震えていると、やたらくたびれる感があるのはボクだけなんだろうか。
  運行荷馬車の発着場から、いつもの通いなれた道、いつもの町並みをなんとなく目に入れつつ、最後の曲がり角を曲がり、細い路地に入る。
  このあたり通行するたびに、毎回「お腹がすいた」か、「今晩のメニュウは何にしようか」しか考えてない気がするのは……問題があるのか無いのか。
  なんてことをふと思い浮かべながら、顔を上げたボクの目に入ったのは、明かりのない真っ暗な路地だった。
 「ぅん……、」
  なんとなく、いやな感じがした。
  このほっそい通りに面した窓を備えているのはボクん家だけで……、
  だから、ボクん家の明かりがついてないと、街灯ひとつ無いこの通りは真っ暗になる。
  暗いから怖いって言うんじゃない。
  どうして、ボクの家に明かりがついていないのかということが、少しだけボクは気になって、
  なぜなら毎日のことならともかく、たまの一人の出張のとき、帰る時分にはいつもシラスは、明かりをつけて出迎えてくれていたからだ。
  少なくとも、今まではいつも。
  出掛けてるんだろうか。
  いやな感じを抱えたまま、土蜘蛛玄関のドアノブを握ると、それは呆気なく開いた。
  鍵が掛ってない。
  鍵をかけるも何も、家の中で取られて困るようなブツが何もないほどなボクの家で(まぁたぶん、半日通りの家を狙うような、酔狂なドロボーさんはいない)、
  それでも、外出の合図で、出掛けてるときは鍵をかけようね、というのがボクとシラスの間で決めたルールだ。
  掛ってないということは、在宅中だってことで、
  だのに明けた家の中は、やっぱり真っ暗だった。
  真っ暗だったのに、
 「シラス……?」
  暗闇に十分慣らされた目には、外からの月明かり、暖炉の前、うずくまる陰影をしっかりと確認する。
  家具なんかじゃあない、もっと質感のある、黒い陰影。
  うずくまるその人影が、シラス以外の誰か、とは思わなかった。
  懐かしい、慣れ親しんだ気配だったから。
 「シラス?」
  驚かそうという趣向なのだとしたら、これほど悪質な嫌がらせは無い。
  これで「ワッ」とかビックリさせられたら、容赦なくパンチでゴンだとか心構えながら近付いたボクは、
 「どうし――」
  肩に手を掛け、そこでヤツの異常さに気付いた。
 「ど、どうしたんだよ!」
  布越しだって言うのに、ぐっしょりと汗を含んだそれは、びっくりするほど熱かった。
  揺さぶろうとしかけた体が、呆気なくぐらりと揺れて床に崩れる。

 「――え?」

  どうにかしなくちゃと思ったのに、伸ばしかけたボクの腕は途中で止まって、スローモーションで光景が目に焼きついた。
  がつ、と床に肩口から打ち付けて、その音が妙に生々しくボクの耳に飛び込む。
  だのに、実感が湧かない。
  どうしたんだろう、やけに世界が遠い。
  なんだよ、ふざけるなよ、冗談にしちゃあタチが悪いよ、そんな言葉ばかりバカみたいに口を衝いて出て、
 「――レイディ?」
  不意に聞こえたシラスの声に、水を浴びせられたように急激にボクは我に返る。
 「シラ……ス?」
  ヤツがボクを見上げていた。
  いつもと同じ、金色の目で。
 「悪ぃ。帰って来てたんだな」
  言いながら起き上がろうと突いた腕が、バランスをとれなくてもう一度ぐらりと揺れる。
 「シラス!」
  小さく声を上げながら、それでも今度はシラスの頭を庇うことが出来た。
  下敷きになったボクの手のひらはじんじんとしているのに、痛覚が麻痺したように頭にまで伝わらない。
 「ど、どうし……、」
 「あー……なんだぁ。なんか懐かしい気がするなぁ」
  額にまでびっしりと汗の玉を浮かせて、なのにシラスはボクを眺めてにっこりとした。
 「六日……七日ぶりか?……すっげぇ久しぶりな気がするなぁ」
  熱に浮かされたそれは、呂律が上手く回っていない。
  明らかにヘンだ。
  ヘンだと思いかけて、そう言えばウィルヘルム丘陵に出掛ける前、地下室で丸まっていたシラスも、同じように呂律がおかしかったことを、今さらながら思い出す。
  でも、あのときはこんなに熱くなかったし、それにシラスはきちんと自分で起きて、眠いとかなんだとか、
 「ど、どうしたんだよ!どうしちゃったんだよシラス!」
  ボクはそこでようやく声が出た。
  伸ばされた手を握れば、その手もお湯のように熱くって、
 「ああ……なんだ、大したことじゃあねぇんだ。何でもない」
 「な、何でもあるだろ!あからさまにおかしいだろ!」
  喚いたってどうなるもんでもないと判っているのに、
 「レイディ」
  再び混乱し始めるボクを尻目に、ヤツは起き上がれないままボクの顔に手を伸ばして、
 「おかえり」
  実に、幸せそうに――笑った。


  その後のことは、実はよく覚えていない。
  半泣きになりながら、絶対おかしいシラスを、とりあえずソファに何とかかんとか引っ張りあげて、それからボクは近所のミヨちゃんの家に走った。
  ミズティヨ。
  魔法介護士の資格をばっちりと持つ、ボクの幼馴染。
  夜中なのに悪いなと、こんな時だったのにふと頭の片隅で思ったりもしたけど、
  それより目の前のシラスがおかしい、という方がボクにはとても重大だった。
  だって、よくよく考えてみれば、
  日がな一日、
  年がら年中、
  ぐぅたらのんべんだらりしていたシラスだったけれど、風邪をひいたりだとか腹を下したりだとか、見たことが無いのだった。
  ということに、ボクはそのとき初めて気付いたのだった。
  そうだ。
  薬を飲んでいる姿すら、見たことが無い。
  いつも。熱を出したりお腹壊したり怪我したりするのはボクの方で、
  いつも。看病してくれたのがシラスだった。
  風邪をひいて、熱のせいで頭が割れるように痛くって、そんな時一晩中、大きな手でボクが眠るまで撫でてくれたのがシラスだったのだ。
  こんなシラスは知らない。
  こんなシラスはどうしたらいいのか判らない。
  途方にくれたボクの耳に、夜中だと言うのに様子を見に走ってくれた、ミズティヨの声が蘇る。
  ――ごめんね。
  実に弱りきったように、済まなそうに、ミズティヨはそう言ったのだ。
  ――もっと、どうにかできるといいのだけれど。
  魔法介護士試験に受かって、介護施設で働くミズティヨにだって、判らないことが沢山ある。
  シラスが、魔物だから一層。
  一通りの治癒魔法を試してくれた後で、ミズティヨは謝った。
  違うんだよ。ミズティヨが悪いんじゃないんだよ。
  こんな夜中に起こしてごめんね。ありがとう。明日もお仕事頑張ってね。
  そう言いたかったのに、なんだかうまく受け答えも出来なくて、頭は真っ白なままだった。
  とりあえずボクが風邪をひいたときに使う飲み薬を二、三種、コイツの口に放り込んでみたけれど、依然高熱は引く気配が無い。
  ミズティヨの家に走っている間に、シラスはまた眠ってしまったようで、治癒魔法をかける間もそのあとも、目をさます気配は無かった。
  何度も濡れ手ぬぐいを額に乗せて、だのにそれは直ぐに熱くなって、
  ボクにできることはと言えば、バカみたいにおろおろとそれを取り替えながら、ソファの傍らにいることだけだった。
 「……ィ」
  深更過ぎて、もうそろそろ暁の気配でもするかな、という時分に、うわ言を呟きながら、シラスが身じろいだ。
 「ぐ……あッ」
  そのまま不意に胸を掻き毟る。
 「――どうしたの、どうしたんだよシラス!」
  慌てて取り押さえようとしたボクは、思わずそのまま凍りつく。
 「なに」
  はだけたシラスの胸元に、気味の悪いアザが浮かんでいる。
 「なに……これ」
  赤黒い、まるで身体を蝕むように張り巡らされた、アザ。
  蛇の細かなうろこのようにも、銀細工の細い鎖のようにも見える、アザ。
 「なに……」
 「なんでもない」
  しゃがれた声に不意を衝かれて見上げると、シラスがボクを見ている。
 「気が」
  ついたの、と言い掛けたボクに、シラスは焦点の合っていない微笑みを一瞬投げかけて、それからすぐに苦痛に顔をゆがめる。
 「心配するな……なんでもない。なんでもな――ッ」
 「……なんでもなくないだろ……!」
  言ったハシから、海老反りのように身を捩じらせたシラスに、ボクは取りすがった。
  もがくシラスを腕ずくで押さえて、
  だけど力じゃあ敵うはずも泣く、簡単に吹っ飛ばされてボクは暖炉脇にへたり込む。
  じんわり滲んできた視界に、それどころじゃない、と自分を叱咤した。
  泣いて解決できるもんじゃあない。
  どうにかしないといけない。
  誰か。
  何でもいい、誰もいいからどうにかできる手段を思いつける人はいないかと、ボクは必死で少ない脳みそをフル回転させて、
  ふと、聖書に目が止まる。
  どうしてそこに目が言ったのか、自分自身でも判らない。
  だのに、聖書を目にした瞬間、連想的にひらめく顔があった。
  ――ネイサム司教。
  魔物退治の第一人者。
  何故だかひどく忌み嫌っている魔物という種族のことを、多分ここいらでは一番良く識っているはずだ。
 「嫌いな割にはいろいろ知っていますね」
  感心したように呟いたボクに、確か司教は言ったはずだ。
 「よりよく知らないと、弱点も知ることは出来ないのだよ。清流に棲むだけの魚では――濁に呑まれて消えてしまう」
  不機嫌そうに、不本意そうに。
  こんなシラスの容態を治す方法を、知っているとしたら、司教だけかもしれない。
  ふと窓の外をもう一度眺めると、うっすらと東が白み始めていた。
  朝まで待っていられない。
  弾かれたように立ち上がり、
 「ちょっと出掛けてくる」
  冬篭りの熊のように固く身を丸めて、細かく震えているシラスに、ボクは少しだけ視線を投げて。
  聞こえているのかいないのか、シラスは返事も返さない。
 「すぐ帰って来るから。――待ってて!」
  椅子に投げ出した外套を羽織ることすら忘れて、ボクはまだ暗い、明け方前の街の中へ飛び出したのだった。

                   *
                   * 

  赤縛、とその本には書いてあった。

  サンジェット教会に駆け込み、ネイサム司教の自室の扉を連打したボクに、返ってきたのは無言の返事だった。
  部屋は、もぬけの殻だったのだ。
  何度か叩くうちに、扉は力なくキィと開いて、
 「……司教?」
  まったくもって褒められたことじゃあないなと思いながら、部屋の持ち主がいないのをいいことに、ボクは司教の部屋の中を覗き込んでいた。
 「――どうしよう」
  どうしよう?
  ここで帰るなんて、とてもできなかった。
  何でもいいから、行動していないと気がおかしくなりそうだったから。
  手ぶらで家に帰ることだけは、できそうになかった。
  覗きこんだところで、やっぱり司教は部屋にはおらず、しんと冷え切った空気が、この部屋の主が少なくともこの一晩、部屋にいなかったのだと伝えてくる。
  その部屋に、ボクは体を滑り込ませて侵入していた。
  初めて入った上司の自室は、
  教会内の、地層すら出来かけている、ありとあらゆるものが積み上げられた執務室――とはうって変わってひどく簡素で、
  簡素と言うよりは、はっきり言って殺風景だった。
  まぁもともと教会に寝起きする人たちは、身の回りのものが極端に少ない(……なんせラグリア教義の基本は、下着とシャツ以外は公のもの、という考え方なんである)ものの、
  それでもほんのちょっとした小物だったり、
  自分のものではないにしろ蔵書だったり、旅支度だったりがゴチャゴチャまとめられているわけで――、
  司教が教会からあてがわれた部屋には、寝台と椅子のない机。
  それだけだった。
  机の上には、いくつかの分厚い凶器になりそうな皮綴じの本が数冊、これまた整然と並べられていて、仮にも「司教」の部屋だというのに、背表紙に書かれた題名は全て、魔物に関するものに思えた。
  とはいっても、その中の何冊かは、ボクには読めないような小難しい学術用語的題名で書かれたりしていて、シラスがよく地下室で広げている、古文書を思い出させた。
  というより、ボクでも読めそうなものは実のところたった一冊だったのだ。
 『魔物の生態』
  そう書かれてある。
  なんで手に取ろうと思ったのか、実のところよく判らない。
  バレたら確実に罰則ものだと思いながら、ボクは勝手にその本を手に取り、開いていた。
  生息地――違う。生態系――違う。行動パターンとその繁殖方法――違う。
  ぱらぱらと目で追うと、そのうちに、
 「病原種と対処方法」
  手が――止まる。
  指でたどりながら、いくつかページを読み進めるうちに、
 「せき、ばく」
  ”鎖のような鱗状の痣”。”発熱”。”幻覚や幻聴”。
  主症状と、その推移、の欄でボクは思わず息を呑んだ。
 「……初期は倦怠感。その後、発熱して――ここで意識を失うことが多い。後期には赤縛特有の、全身に鎖のようなアザが這う。処置はほとんど不可。発症したが最後、」
  最後。
  痺れたような頭で、口が勝手に声を発するのを聞いた。
 「……死亡率は9割を超える」
  死ぬ。
  言葉がやけにすとん、と中に入ってきたことが、ボクは悲しいと思った。
  目の前が暗くなるだとか、意識が遠のくとか。
  膝がバカみたいに震えるとか、立っていられなくなるとか。
  そのどれにも当てはまらず、ただその言葉の意味ごと体内に染み入ってしまった自分自身を、ボクは悲しいと思った。
  駄々をこねて泣き喚けたなら、どんなにか楽なんだろう。
  見習いとは言え、僧侶という仕事柄、王都に住む人の死は、この年にしてイヤって言うほど見てきたように思う。
  見るたびに思う。
  死ぬって別に、特別なことじゃあ、ない。
  選ばれた誰かは、神さまが助けてくれるなんてこともない。
  一人の人間の終わりなんて本当にあっけなくて、あまりのあっけなさに戸惑うほど、スッと命なんて吹き消えるのだ。
  昨日まで元気だったものが、事故だったり病気だったり、急に動けなくなって起き上がれなくなって、そうして「明日」がやってくることがなくなるのだ。
  エピローグだのプロローグだの、そこにはない。
  あるのはただ、今まで「生きて」いたものが、動かなくなり冷たいただの物体になってしまうということ。
  どんなに頬をなぜても、ぬくもりは戻らなくて。
  どんなに抱きしめても、抱きしめ返してくれる腕はなくて。
  たった今まで動いていたのに、たった今まであったかかったのに。
  ぼたん、と赤縛のページに大きな水滴が落ちて、ボクは目の前が急にぼやけたのが涙のせいだって言うことに気がついた。
  水滴に滲んだ文字を、思わず指でなぞりかけ、ふと凸版印刷ではない、ネイサム司教のものと思われる注釈に目が留まる。
  ”ムドゥブの卵殻を煎じて飲ませれば……或いは――?”
  そう書かれていた。
 「ム……ドゥブ」
  つぶやいた顔から、血の気が引くのが自分で判る。
  なぞった指が小さく震えた。
  最凶のひとつに数えられる、こっちの世界での――魔獣。
  どんな世界地図にも必ずムドゥブの生息地は事細かに記載されていて、そうして赤字で書かれてある。
 『命が惜しければ進入するべからず』。


最終更新:2011年07月28日 07:48