ムドゥブの巣原は、王都カスターズグラッドから意外に近い。
  馬で飛ばせば、ざっと2、3時間の距離にあるのに、人っ子ひとりいないどころか、
 「さすがに空を鳥すら飛びませんねー……」
  囁くように発した、語尾が震えるのだけは隠せない。
  吐く息はもちろん白くて、芯から震えるほど寒いのだけれど、声が震えてしまうのは寒さのせいだけじゃあない。
  途中まで飛ばしてきた、王都公立営の厩舎の貸馬は、ムドゥブの巣原に近付くにつれ、やがていななき足踏みして、
  とうとう前へ進まなくなってしまったので、半時も前に乗り捨てた。
  道を行くのは、小指の先程の虫を含めて、ボクだけである。
  魔獣の原生地に、今、ボクは足を踏み入れている。
  最凶最悪、とも言われている、魔獣の。
  実際にその姿を見たことがなくても、魔物図鑑を開けば、おおよそ、トップにイラストともに躍り出てくる「厳戒しなければならない魔獣」の、ひとつだ。
  大きさはざっと人間の数十倍。
  畑でウネっているミミズを、縦にも横にも家二件分くらいに引き伸ばした感じ、と言うのが一番近いように思う。
  ただし、ミミズと比べると――というか、他の巨大生物と比べても――凶暴といおうか、獰猛といおうか、
  動くものは岩ですら喰らう。
  地中に潜み、地伝いに感じる振動を探し当て、土砂とともに不意に姿を現すのだという。
  陸の鱶とでも言ったらいいのかもしれない。
  決して近付いちゃあならない魔獣だ。
  でかいミミズのくせして、表皮は硬いうろこで覆われてたりして、自衛のための防備もばっちりなんだそうな。
  まずもって、人間の力で傷をつけることは不可能に思える魔獣だ。
  近付いてくるムドゥブの一枚一枚の鱗が立てる、軋んだ音を聞くと、たとえ生きて帰れたとしても死ぬまで忘れることは無い……だとか、
  (ミミズのくせに)円形に生えそろった複数歯に噛み砕かれる恐怖は、この世のどんな恐怖にも勝る……だとか、
  都市伝説に近いような噂はチラホラ聞いたりもするけれど、
  実際の目撃情報は極端に少ない。
  少ないのには訳がある。
  大概、目撃した人間はそのまま帰らぬヒトとなるから……という、シャレにもならないのがその理由。
  そんな凶悪な魔物が、なんで野放しになっているのかと言うと、
  ひとつは、凶悪すぎて並大抵の人間がタバになっても歯が立たない(……と言うか喰われるのがオチだ)から、放置されているというコト。
  もうひとつは、その巨体、旺盛な食欲に反比例して、ムドゥブの行動範囲が極端に狭いというコト。
  限られたムドゥブのテリトリーに、足を踏み入れた動植物の全てを喰らい尽くす代わりに、彼の魔物たちは自ら食物を探して移動するということがない……らしい。
  魔物図鑑ではここら辺までしか書かれていないので、ボクも実際のところは良くわからない。
  少なくとも、地図上に示された
 『命が惜しければ進入するべからず』
  のラインを超えることが無ければ、ムドゥブは襲ってこない。
  らしい。
  カスターズグラッドから意外に近い割りに、王都周辺で見かけたなんて話は聞いたことがないし、まぁ、八割がた正しい情報なんだろうな、とは思う。
  ……もしかすると、目撃者が喰われちゃっているだけなのかも知れないけど。
  まぁ、もしそうなのだとしたら、真っ先に退魔の腕は名高い(信じられないことに)わが上司にお声がかかるのだろうから、その側にいるボクが、
 「ムドゥブが出た」
  だなんて噂を聞いたことがないってことは、図鑑に書かれているムドゥブ情報もあながち間違ってはいないんだろう。

  その、魔物の巣窟にボクは足を踏み入れている。
  地図で言うと、とっくにデッドラインの赤い線は越えている――と思う。
  はっきり言って、自殺行為だ。
  頭が煮えている頭が煮えていると、よくシラスに言われるけど、今回ばかりはその悪口も的を射ているとしか言いようがない。
  ネイサム司教の自室で、勝手に本を読み漁った後、ボクはいったん家に戻った。
  どう考えたらいいか、頭の中がごちゃごちゃになったからだ。
  無理だと言うことは判っていた。
  ボクのように何も能力を持たない人間が行ったところで、ムドゥブの餌になるのがオチなことは目に見えているし、それでかえって周りにも迷惑をかけたら本末転倒である。
  そう思っていた。
  人間、誰しも分と言うものがある。
  仕方ないじゃあないか。
  やめよう、やめようと自分自身に正論を言い聞かせながら、霜の降り始めた街をさまよい戻って、
  扉を開けてソファに横たわったシラスを見た瞬間、唐突にやっぱり行こうと思った。
  ムドゥブの卵殻を取りに行こう。
  バカなことを考えているのは自分でも判ったけれど、
  十中八九、ムドゥブに襲われることを考えただけで十二分に怖かったけれど、
  シラスが動かなくなってしまうことのほうが、ボクにとっては何より、ずっとずっと怖かったから。
  目を覚ます気配のないシラスに、一応『ちょっと出かけてくる』、と書置きだけして、それから手当たり次第に部屋の中で何か使えそうなものを、鞄に詰め込んでボクはやってきたのだった。
  効くかどうかは別として、聖書だの聖水だの香木だのあとトゲトゲハンマーだの。詰め込めるだけ詰め込むと、最後に今の椅子にかかっていたシラスの上着も借りていくことにした。
  頭二つ分は大きいシラスの上着はボクにはブカブカすぎたけれど、いつもの馴染んだにおいがして、歩きながら思わず鼻を埋める。
  ムドゥブの巣原は、しんしんと寒かったから。
  そうして、泣き出したいほどボクは不安だったから。
  においに包まれて少しだけ、ボクは安心した。

  と、同時に。

  ず、ず、ず、と。
  地震いが、聞こえた。
  ぎくりとして立ち止まる。
  ムドゥブの巣原で地響きが聞こえてムドゥブ以外の他のもののはずがない。
  これだけこっそり歩いていてもやっぱり感知するものなのだろうか。
  地震いは赤茶色の砂土を巻き上げながら、徐々にこちらへやってくる。
  がくがくと震えだした膝にこらえ切れなくて、ボクは半分しゃがみながらどうか気付かれていませんように、と祈った。
  僧侶のワリに、きっと信心深い教会の信者さんからは怒られそうなほど、神様がいるのかどうだか半信半疑なボクだけど、
  このときばかりは必死に神様に祈った。
  砂の中を自在に動き回る能力と引き換えに、視覚嗅覚は、他の魔獣と比べると格段に劣るらしい。
  ただし聴覚――というよりは砂を通して感じられる振動――皮膚感覚だけはやたら発達しているらしいので、わずかな振動でも即座に反応するのだそうだ。
  これも、魔獣図鑑を聞きかじった程度の知識、なのだけれど。
  どうか、その情報が正しいものでありますように。
  どうか、ムドゥブがあっちへ行ってしまいますように。
  ずずずずと嫌な地震いは、ボクの十歩以上は先をカーブしながら、また遠ざかっていった。
  こんなに寒いのに、背中を汗が伝った。
  気付かれたわけじゃあないらしい。
  それでも二十は数えてから、ボクは再び歩き出す。
  その後、たっぷり嫌な汗を30分ほどかいて、ボクはようやく卵巣にたどりついたのだった。
  
  ムドゥブ自身は体温を持っていない変温動物なので、卵巣といわれる地表のくぼみに卵を産み、太陽熱で幼虫は孵るのだそうな。
  卵といったって、親虫(虫?虫じゃあないのかな)の大きさを見れば幼虫の大きさは推して知るべしと言ったところで、くぼみの一つ一つがざっと戸板ほどはあった。
  そのくぼみの周りに、いくつもの小さい、ぶよぶよとした破片が散らばっている。
  どのくらい必要か判らなかったけれど、広げた手ぬぐいにとりあえず四つ五つ、卵殻を包んで、
  ――あとはこれを煎じて飲ませるだけだ。
  こんなところに長居するもんじゃない。
  だのに。
  立ち上がったボクの耳に、ぎょわああ、と耳障りな甲高い声がした。
  人間じゃあない、動物なんかでもありえない、魔物独特の頭のてっぺんから劈くような、声の。
  弾かれたように振り向いたボクの目に、明らかにボクめがけてまっすぐにやってくる、数匹のラントリアルの姿が映る。
  ラントリアルというのは、王都周辺でもよく見かけるお馴染みの――そう珍しくはない、野生化したトカゲに似た魔物である。
  大きさは、鶏をもうちょっと大きくした程度。
  朱色のトサカもついているし、二本歩行するし、ますます鶏に近い。
  ただし、お馴染みとは言え、人間を対象に襲ってくる獰猛な魔物であることには変わりがなくて、大の男ならまだしも、子供が襲われたとしたら、結構……というか、かなり……危険なヤツである。
  ラントリアルの特徴は二つ。
  必ず数匹単位の群れで行動すること。
  見た目に反して綿毛のように軽いこと。
 「ずるいよ……!」
  そうだ。コイツらは、軽いのだ。
  ムドゥブの巣原に入り込んでも、ムドゥブが感知しないほどに。
  折りたたんだ手ぬぐいを鞄に突っ込んで、ボクは走り出そうと身構え、

  駄目だ。走れない。

  体が凍りついた。
  ムドゥブのうねりが、またいつの間にか目視できる近くまで、押し迫っていたからだ。
  まだ、ムドゥブはボクに気づいてはいないようだったけれど、ここで感知されたら最後、ボクは確実に最凶最悪な魔物に食われるだろう。
  と言って、ムドゥブに感知されないようにじっとしていては、ラントリアルに食われる。
 「シャレにならないよー……」
  本気でシャレにならない。
  鞄を前に抱えて、けれどボクはそこでラントリアルが、妙にためらう素振りを見せていることにふと気がついた。
  自慢じゃないけど、シラスのお墨付きな「百万人に一人の逸材」な生気を放っている(らしい)ボクは、少なくとも二三度、ラントリアルに飛び掛られたことがある。
  ぎゃあぎゃあうるさい魔物ではあるけれど、そうすばしこいヤツではない。
  子供の足でも、それなりに全力疾走すれば逃げ切れないことはないくらいの、危険には変わりないんだけれど、逃げる力さえあればそれなりに逃げ切れる、危険度は低めの魔物だ。
  足の遅い野犬、といったところだろうか。
  それでも、獲物と見たらすぐに散開して、まずは相手の退路をふさぐのがラントリアルのイヤな習性。
  数匹単位の群れで行動することからも判るように、ラントリアルは群れで狩をする。
  追い立てる役のヤツと、止めを狙おうとしてくるヤツと。
  だけど、なぜかこのラントリアルたちは、襲うような襲わないような、そんなためらいを見せている。
  なんだ?
  ボクはしばらく自分の体を見回して、
  普段と変わらないことに首を傾げかけ……、はっとシラスの上着に視線がたどり着いた。
  これじゃ、ないだろうか。
  シラスのにおいが染み付いている、その上着は、ボクにはただの防寒上着でしかないけれど、
  ずっと前、初めてネイサム司教が、シラスを見たときに呟いた言葉がある。
 「高等種――」
  そんなことを言っていたように思う。
  ボクは詳しいことは何も判らないけど、確か、こないだのバブーンしかり、グレイスしかり、魔物でもランクがあるんだよってことを、シラスが言っていたのを思い出す。
  そのシラスや司教が言うところの「高等」ランクがどのあたりに位置するのかわからないけど、とりあえずラントリアルよりは、「強い」位置にあるようだった。
  ラントリアルたちは、明らかに自分より強いにおいのするシラスの上着を着ているボク……ええい、説明すると長ったらしくなるけど、とにかくそれに怯えているようだ。
  ぎゃあぎゃあと鳴きたてる割には、なかなか飛び掛ろうとはしてこない。
  シラスが側にいるわけじゃあないし、いつまで効力が持つものなのかも判らなかったけど、ひとまず目先の危機は回避できたようで、
  とはいっても、いずれ飛び掛ってくることはどう考えたって目に見え見えでは、ある。
  ムドゥブにばっくり食らわれるのと、ラントリアルにじわじわ狩られるのと、どっちがマシかだなんて、
  そんなもんきっぱりとどっちもイヤだ。
 「デッド・オア・デッドだよなぁ」
  半泣きになりながらボクは覚悟を決めると、ひとつだけ深呼吸をして、
  それから、
  脱兎のごとく駆け出した。
  ヤケクソだった。
  太ももが千切れるんじゃないかって言うくらい必死になって走った。
  一瞬戸惑った風のラントリアルたちは、それでもようやくもとの習性を思い出したか、背後から追ってくる。
  その音にまぎれて重低音の地響きも、確実にボクの方向へ追ってくる。
  ムドゥブが砂の中を移動する速さが、どれくらいのものかだなんてのは、たぶんどの図鑑を見ても載っていないに違いない。
  追われた獲物は確実に食われてしまうから、なんだろう。
  だけどボクは、食われるわけには行かないのだ。
  ムドゥブの卵殻を持って、家に帰る。
  家に帰って、シラスの口に卵殻を突っ込む。
  考えていたのはそれだけだった。
  顔面最大限に引き攣りながら、ボクは走った。
  と、急に、踏みしめていた足元の砂土が急にずるずると張りを失い脆くなり始めて、
  ボクはその瞬間、胸に抱えた鞄ごと思いっきり横っ飛ぶ。
  瞬きひとつ分の差で、ムドゥブが。
  さっきまでは想像でしか捕らえられなかった、最凶最悪のひとつに数えられる実物が、
  ――ああ――もうほんっとありえない。
  巨大ミミズを想像していたけど、砂土から顔を出した実物の醜悪さは、それ以上だった。
  まるで巨大なオブジェのように、大地に突き立ったようにも見える、ぶっとい胴体。
  目はなくて、ただ声もなく開いた円筒状の口からは、何枚にも重なり合った細かな歯がむき出して見えた。
  ぞっとするほどに青白く、ぶよぶよした皮膚が、鱗の隙間所々から透けている。
  横飛んですぐに、ボクはまた走り出す。
  そのボクの背後で、一瞬散開したラントリアルが、不意に現れた、自分たちの獲物――つまりはボク――を、横取りしようとしたムドゥブに挑むように飛び掛り、
  ぎにゃああああッ。
  甲高い叫び声にボクは思わず振り向いた。
  あまりといえばあんまりな、その見た目からは想像できないほどの動きで、ラントリアルが数匹、ムドゥブに食われていた。
  機敏というレベルを超えている気がする。
  噛み砕かれ、断末魔の悲鳴を上げるラントリアルの声に、ボクはますます押されるように、無我夢中で駆けた。
  ああなるのが、どう考えたって次はボクだというのははっきりと判ったからだ。
  ラントリアルを数口で食い散らかしたムドゥブの地響きが、すぐにボクめがけてやって来る。
  すすり泣きながらボクは、それでも鞄だけは放さないようにと、きつくきつく抱きしめた。
  だってこれには、大事な卵殻が入っているんだから。
  ぎゅらぎゅらと鱗同士が合わさってきしむ音に、ああ、これが図鑑に書いていた死ぬまで忘れられないって音か、だとかボクは思い、
  その「死ぬまで」が、あと何秒の後のことだろうとかそんなことまで思い、

 「伏せろタマゴ……ッ」

  唐突に聞こえた怒鳴り声に、誰だ、とか考える間もなく、ボクは反射的に声のとおりに前のめりに倒れこんでいた。
  もうもうと赤い砂埃が舞って、ボクは思わず噎せて咳き込む。
  咳き込んだボクの耳に、発声器官のないムドゥブの悲鳴が、確かに空気を震わせて、咄嗟に背後を見た。
  真っ白な光の糸が、ムドゥブの体に絡み付いて締め付けていた。
 「走れッッ」
  再び言われてボクは、ひどく擦りむいたヒザの痛みもまるで忘れて、あわてて立ち上がり、声のする方へ――前方方向へ、駆け出す。
  いつの間にか昇っていた朝日に照らされて、その声の主の顔は逆光に、見えない。
  だけど、ボクにはもうちゃんと判っていた。
  ボクが何度訂正するようにお願いしたって、頑として「タマゴ」扱いする人物は、きっと世界に一人しかいない。
 「――ネイサム司教!」
  昔、魔物に追われて死に物狂いで逃げていたところを、助けてくれた人。
  だのにその片鱗は普段はちっとも見えなくて、単なる頭痛の種でしかない、サンジェット教会の、ボクの上司。
  その上司の斜め後ろ方向から、同じように地面をもこもこと震わせて襲いかかろうとする巨大な航跡がある。
  後ろ、とボクが悲鳴を上げようと口を開くより一瞬早く、司教は聖書を掲げ、その一ページを破り投げて聖句を朗々とよく通る声で唱えた。
  宙に舞った聖書の一枚は、鳥の羽のように一瞬ふわっと不可解な動きを見せて、それから不意に弾けて伸びると、きらきら輝く細い細い、クモの糸のようになる。
  それが手のひらを広げるように、ネイサム司教の背後から襲いかかったムドゥブに絡み付いて、一瞬後には、最初の一匹と同じようによじり、身をのたくらせながら、光る糸に縛られている。
  家数件分の巨体が、だ。
  力だって相当なものだろうに、見たところまるでやすやすと呪縛するネイサム司教に、退魔士、として名高い力を垣間見た気がして、ボクは数歩まで近づいて唖然と足を止めてしまった。
  たとえボクが二十年くらい必死になって勉強したとして、ここまでの力が身につくものなのかどうか。
 「……タマゴ!」
 「は、ははははははい!」
  呼びかけられた声にボクは驚いて、今までかなり――というか結構――しょーもない上司だと思っていた先入観を見直さなきゃあいけないな、だとか思いながら返事をして、
  どうしよう、これからもうちょっと敬おうかな、とか、
  今から頭ごなしに叱られるのかな、とか、
  とても厳しい顔をしているネイサム司教の顔を見ながら、背筋が伸びる。
  上司は一言、ボクの顔を見て言った。
 「口が開いている」
 「――」
  やっぱり。尊敬しなおすのはやめようと、きっぱりと思った。


  そうしてボクは、今さっき見たことがまだ信じられないままに、王都カスターズグラッドに戻ってきている。
  朝の活気が溢れたカスターズグラッドの中央通りを、早足で歩くネイサム司教の背中を追いながら、
  ボクは千年魔女のときと同じような、夢を見ていたのじゃないかと思った。
  でなければ、まさしく食われかけたところを九死に一生を得た感覚の説明の仕様がない。
  魔物図鑑のトップクラスにいるような魔物に追いかけられて、
  あまつさえあと少しのところまで食われかけて、
  たまたまサンジェット教会の自室に戻ったネイサム司教が、出しっぱなし開きっぱなしだった魔物の生態の本を見て、
  ふと胸騒ぎがして、
  半日通りのボクん家を訪れて意識のないシラスを見て、
  ボクの行き先に見当がついて、
  急いでムドゥブの巣原に向かったら、ボクがまさに追いかけられているところだった――だなんてできすぎた間のある話、小説なんかにしたら顰蹙ものである。
 「あの。司教」
 「なんだね」
 「利く……んですよね、本当に」
 「利く。それは確かだ」
  前を歩く背中に言うともなしに呟くと、朝市の喧騒の中だというのにその呟きを聞き取って、ネイサム司教はすぐに答えた。
  主語がないけど、ムドゥブの卵殻のことだ。
 「信用ないか」
 「いえ。こと魔物に関してだけは、信用します」
  ほかの事はてんで信用していませんが、の枕詞は発言しないのが平和維持のためってもんだろう。
  そして、今のボクにはそれだけ聞ければ十分だった。
 「すいません。――先に行きます!」
  それでも、王都の市場通りの正門をくぐるとボクはいてもたってもいられなくなって、前を歩いていた司教の背中に大きく腰を折ると、まっしぐらに家に向かって駆け出した。
  ムドゥブに追いかけられたあのとき、死に物狂いで走ったせいか、太ももの付け根が痛くて、正直かなりズキズキと痛んでいたのだけれど、
  それでも歩いて家に戻るだなんてまどろっこしいことをしていられる気分じゃあなかったのだ。
  半分つんのめりながら、ボクは市場通りを越え、中央噴水も越えて、カスターズグラッド城門を右手に眺めつつ、ボクは走った。
  なんだか今日は今後数年間走らなくたっていいんじゃないかって言うくらい、走っているような気がする。
  走りながら、ボクは不安でたまらなかった。
 『発症したが、最後、死亡率は9割の』
  最後。
  最後。
  ネイサム司教の部屋で見た、赤縛の症例ページが延々と頭に浮かび、
  だいじょうぶだよ、平気だよ、だって踏んでも蹴ってもびくともしないヤツだよ、そんな弁解のような慰めも一緒に頭を駆け巡り、
  半日通りを駆け抜けて、最後の一本路地に入り、
  ここは昼間でもめったに人も通らない。
  至ってボクは心臓が止まるほど驚いた。
  路地裏というよりは家と家の隙間、壁の戸板に手を突いて、シラスが半分傾ぎながら立っていたからだった。
 「……ちょ……」
  立っているというよりは、もたれているというか、崩れかけているというか、
  そんなことを思いながらボクは急いで駆け寄った。
 「……ちょっと!シラス!大丈夫キミ」
 「レ――」
  駆け寄り、触れるか触れないかのところで、呼んだシラスが顔を上げ、バランスを崩して倒れこむ。
  力を失った体を受け止め切れなくて、ボクも一緒に尻餅をついた。
  ああ、生きている。
 「――レイ……ディ?」
 「……そうだよ。ボクだよ」
 「レイディ?」
  下敷きになったボクの顔にシラスは手を伸ばして、確かめるように撫で、
  それから急にヤツはボクを強く抱きしめた。
  痛いくらいに。
  はだけた首から見える赤黒い鎖模様。
  息をするのも辛そうなシラスの体はとても熱い。
  熱いシラスに抱きすくめられていると、ボクまで煮えてしまいそうだ。
 「この莫迦」
 「ば……莫迦ってなんだよ」
 「行ったな」
 「行ったって……何を――」
 「ムドゥブの巣原に行ったな」
  ああ。
  まったく。
  コイツは、自分がいったい何に冒されているのか、判っていたのだ。
  もちろん、最初は気づかなかったんだろう。
  症状の進んだどのあたりで気づいたのか知らないけど、赤縛だといったら、ボクは必ずコトを起こすだろうから、
  だから「なんでもない」だなんて昨夜言い張ったんだ。
 「――もしかしてキミ、ボクを迎えに行こうとして、た……?」
  莫迦やろう。
  そう呟きながらぎゅうぎゅうと抱きしめるシラスの腕の中で、ボクは言った。
  こんな体で、シラスがどこかに出かけていこうとしていた理由。
 「助けに行こうとしてくれてたの?」
  満足に立てないようなヨレヨレな体で。
  大莫迦なのはキミのほうだ。
 「……莫迦だな」
  莫迦だなぁ。
  言いながらボクはなんだか急にへなへなと緊張が抜けて、抱きしめられたまま腰が抜けたのだった。


  そのあと、追いついてきたネイサム司教が、嫌そうな顔をしながら、それでも的確な指示をしてくれて、
  ボクは文字通り「死ぬ気で」拾ってきたムドゥブの卵殻を、煎じてシラスに飲ませたのだった。
  卵殻の効き目は魔法を見ているように明らかで、まだ鎖のスジは体に残っているものの、今は熱もあらかた引いたシラスが、落ち着いた寝息を立ててソファに眠っている。
  症状がある程度収まれば、後はおとなしくさえしていれば、数日で治る……と、目の前にいる魔物退治専門家の談。
 「すいません。いろいろお世話になりました」
 「まったくだ」
  戸口で見送ろうと頭を下げたボクに、深々と頷いたネイサム司教も相変わらずである。
 「おかげで、ようやく手にした僅かな休暇だというのに、寝そびれた」
 「お手数かけました」
  そういえば、このヒトは、きたる復活祭にむけて、珍しくとてもとても忙しいんである。
  いや、忙しいのはいつものことなんだけど(忙しいはずなのにサボりまくってるだけなんだけど)、珍しく業務をこなしているんである。
  部屋にいなかったのも、徹夜で何か復活祭の準備に追われていたのだろう。
  ということにボクは今更ながら気がついた。
 「お前も今から出勤しろ――と言いたいところではあるがね、そんなひどく浮腫んだ顔で一日いられても迷惑だ、明日から死ぬ気で働きなさい」
 「はぁ。なんか重ね重ねお気を使わせてしまって申し訳ないです」
  ひどいことを言われている気もするけど、多分司教なりに気を使ってくれているんだろうな。
  ボクはもう一度頭を下げた。
  こりゃ、明日雪が降るね。
  と思ったら、いつの間にかふわふわと目の前を掠めるものがある。
 「あれ……」
  雪虫だ。
  これは本当に、明日は雪かもしれない。
 「それではね」
 「司教」
 「ぅん?」
  背中を向けて、歩きかけた上司に、ボクはふと気になっていた疑問を口にする。
 「もし、あの時部屋にいたら……、司教、ボクを止めましたか」
 「止めぬよ」
  あっさりと司教は首を振って答えた。
 「止めても……タマゴ。お前は行っただろう?」
 「行きましたよ」
  どこに、とは言われなくても判る。
  ムドゥブの巣のど真ん中を指しているのだろうから。
 「理由を」
  聞いてもいいかと背中越しにネイサム司教は言った。
 「理由ですか」
 「『魔女』と呼ばれる悲しい女を、お前も――見たろう」
 「お茶まで頂いてきました。っていうか、派遣したの、司教じゃあありませんか」
 「あれは文字通りの……『魔女』だ。見た目は人間に見えるがね。魔物ではない。ヒトですら……もう、ない」
 「……どういうことですか」
 「――生き物としての体は、200年前に掻き消えたのだ。彼女は自らの命を絶った。使い魔が消えたその日の晩か、次の日の晩に」
  アレは魔物なんかじゃねぇ。
  そういった農夫の言葉をボクは思い出す。
 「後に残ったのは”想い”――だけなのだよ。年を経らないはずだ。経る体をとうに無くしてしまっているのだからね」
  そう言って司教は目の前で聖印を切る。
 「想いは凝り固まり、いつしか女の形になって、あの塔に棲みつき、消えた使い魔を待ち続けている。残像のようなものだ。言葉を尽くして説こうとしても、耳を貸さずにただ待っている。浄化してしまえば早い話なのだろうがね――彼女が、それを望まないのだよ」
 「それって」
  それって。
 「ゆゆゆゆゆゆゆ幽霊みたいなモノですか」
 「霊といえるほど魂は残っては――いない。むしろ、霊であるならば話は早いのだ。あれは、そう……燃えカスのようなものなのだよ」
  おかしいですね。
  実感がまだ湧かないのです。
 「タマゴ。お前もまた道を誤ればあのような姿になりかねない……それを承知で、魔物と関わるか」
  恩か?
  背中が、尋ねている。
 「恩とか。そんなたいそうなものではないです。――ないですけど」
  空を見上げると、雪虫が数匹、ふわふわと風の流れに舞っている。それを、何とはなしに眺めながら、
 「ないですけど――判りません。……自分と関わりがある誰かが、困っていたり苦しんでいたりするとき、その相手を助けるのに理由なんて……あるかなぁ」
  ボクはそこで初めて司教から目を逸らした。
  例えば。
 「……王都に引っ越してきてすぐに、シラスとすっごい大喧嘩した事があるんです。……まぁ、喧嘩……というか。喧嘩っていったって、ボクが一方的にダダこねてただけの、ガキの我がままなんですけど。始まりの理由は良く覚えてないです。育った村が恋しかったのか、周りが見知らぬ人ばっかりで不安だったのか、よく判りません。覚えているのはただ、頭の中ゴチャゴチャになって、喚き散らして、こんな家出て行ってやる、って」
  シラスなんか大っ嫌い。
  そう言って。
  越したばかりでまったく判っていない街の中へ、めくらめっぽうに走り出したのだった。
 「後ろから、驚いたシラスが追いかけてくるのが判ったんです。なんだか余計に腹立たしくて。アイツには通れない、子供の身体でやっとの、垣根とか板塀の隙間とか。半時は走っていたと思います」
  何がなんだか判らないけど、とにかく腹が立ってしょうがなかった。
  一番腹立たしかったのは、自分自身に対してだったに違いないのだけれど。
 「あの頃の子供の体力ってね、なんだか無茶苦茶なんですよ。ゼンマイきれるようにパッタリいくまで、いくらでも無理が利くんです。とにかく、走って、走って」
  我に返れば、そこは知らない街角だった。
  今でも覚えている。
  唐突に気付いた、「迷子」の二文字。
 「もうとっぷり日が暮れてて、真っ暗だし寒いし知っている人いないから心細いし。でも家を飛び出した手前、自分から泣き出して大人に助け求めて、家までつれて帰ってもらうなんて体裁悪すぎるでしょう。それだけはできないって思った。そもそも、越したばかりで、番地すら知らないんですよ。とりあえず目の前に噴水があったから、ああ、これで飲み水だけは困らないなぁ、だなんて思って。どうしようか考えあぐねたボクの耳に、誰かが近付いてくる音がしたんです」
  行き過ぎる音ではなく、真っ直ぐにボクを目指してくる音だとすぐに気付いた。
  ……慣れ親しんだ、気配をしていたから。
 「顔を上げたら、シラスがやってくるんですよ。今まで見たこと無いくらいにヨレヨレで、汗だくで、あっちこっち引っかきキズだらけで。足なんて片っぽ裸足でした。……おかしいでしょう。インドア気取って家のなか引きこもってスカしているようなヤツが、焦って靴もロクに履かずに、追いかけてきてたんです。お得意の魔法使って、ちょっと姿変えてトリにでもなって空から探せばいいのに、そんなコトも思いつかないくらい慌ててたらしいんですよ。笑っちゃう」
  憮然として眺めるボクの前にやって来たシラスは、
 「怒っていたとか、駄々こねて体裁が悪いとか、そんなのどこかにすっ飛んじゃってました」
  やがて言葉を捜すように上を見上げて、
  ――帰ろう。
  困ったような顔で笑って、そう言ったのだ。
  言葉をなくしたボクは、素直にシラスの背中を追って家に戻ったのだった。
 「あの時は、本当に参ったな」
 「――」
 「それに恩とか義理とか名づけるほど、大げさなことは何もないんです。大げさではないけれど、けど、今のボクにはそういう些細なことが一番大切なんです」
  そういうのを、なんと呼ぶのだろう。
 「理由があるとしたら――きっと、それだけだったんだと思います」


  戸口から踵を返して、部屋へ戻ると、ソファの上のシラスがじっと低い天井を見上げていた。
 「目、」
  覚めたの。
  問うとシラスはゆっくりと視線をボクにずらした。
 「レイディ」
 「うん?」
  声も、少しかすれているけれど、いつもの落ち着いた低いものに戻っている。
 「ちょっとこっちこい」
 「な……なんだよ」
  起き上がろうと見動いたシラスが顔をしかめる。
  まだ自由に動けるほどは回復してないんだ。
  そのことに気づいたボクは、呼んだシラスの傍らに寄った。
  病人には逆らわないに限る、というのがボクの持論。
  近付いたボクに手を伸ばして、シラスは急にぐい、とボクを引き寄せる。
 「わ……ぶッ」
  勢い、ボクは引かれるままに、寝ているシラスの胸元に崩れこんだ。
 「鼻!鼻打った!」
  硬い床ではないにしろ、顔面から突っ込んだ衝撃は、涙が滲むほどはある。
  何するんだよ。
  喚きかけたボクは、喚きかけた口の形のまま、声を失った。
 「な……」
  ボクの膝――ムドゥブとのダイブで、えらく擦り剥いていたそこ――に、シラスは手を伸ばして、何かブツブツと口の中で小さく呟いている。
  赤剥けて、まだジクジクと血が染みているそこの痛みを、ボクはようよう思い出す。
  ああ、そういやなんかヒリヒリしてたと思ったらこれか。
  気を取られることがあまりに多すぎて、自分のコトにまったくもって気を回す余裕がなかったのだ。
  その、擦り剥いた箇所へシラスが手を翳すと、
  見下ろしている間に、血が止まって薄皮が張って、もうケガをしてから数日経ちました、ほどに回復してゆく。
  魔物であるシラスが、どういう仕組みで魔法を使っているのかボクには判らないのだけれど、一般的に「白」魔法と呼ばれる、魔法介護士が使う「治癒魔法」とは違う経由で、シラスは傷を塞いでいるよう……なんである、詳しく調べてはないんだけれど。
 「やめてよ、シラス、ボクなら大丈夫だよ」
  手を翳していたシラスの額に、じっとりと汗が浮かんでいるのに気づいて、ボクは慌ててヤツの腕を押さえた。
  たったこれだけのことだったのに、ヤツの呼吸はすっかり上がっていて、いかに赤縛のダメージが大きいのか、窺い知れる。
  ち。
  小さくシラスが舌打ちする。
  思うように動かない体にイラついているのが判った。
 「あー……そうだ!ほら、お粥!ほら、ボクお粥さん炊いたから。病人にはお粥ツキモノだし。食べるでしょ、シラス」
  我ながら唐突だなぁとは思ったけど、何とかこの重苦っしい空気を打破しようと、ボクは底抜けに明るい声を出した。
 「――粥かよ」
 「なんだよ、お粥さんバカにすんなよ」
 「病人にツキモノの食べ物なら、別にあるだろーが」
 「え?何?」
  聞きながらボクは引き攣った。
  あれか。
 「生気喰わせろ」っていう流れか。
  ボクは珍しく敏感に察知して、思わず首筋を手で覆う。
  普段なら、断固として拒否の構えを取るんだけど、こうして、さっきまで半分死にかけていた相手から頼まれるって言うのは、どんなにイヤなことでも、「イヤだ」と無下には断りにくい。
  そもそも、赤縛でシラスは体力がかなり落ちているんだろうし、その場合、なにより傷んだ体を治すのは、きっと生気が有効なんだ――というのは、説明されなくてもボクにも判る。
  なんせ、もともと魔物の栄養源な訳だし。
  理屈は、判る。
  だけど、やっぱりボクは痛いことをされるのは好きではなくて、それが例えばムドゥブやラントリアルではない、意思の疎通が少なからずできる、シラス相手であったとしても、
  加減して食べてくれているというのは重々承知しているのだけれど、
  だとしても、やっぱりボクは怖い。
  でも。
  どうしよう。
  この場合、「痛いからイヤだ」で断るのは、ちょいと人道にもとるだろうか。
  でも痛いのはイヤだし。
 「……何を一人で百面相してるんだよ?」
  本音と建前の板ばさみになってうんうん唸っているボクを、不思議そうに見上げて、シラスが首を傾げる。
 「いや。シラスが言いたいことはよーーーく判るけど、ボクにもいろいろと覚悟って言うものが」
 「覚悟?」
  不審そうに言葉をそのまま繰り返して、わかんねぇな、とシラスは呟いた。
 「リンゴ剥くのがそんなに悩むことか?」

 「は?」

  思わずボクの喉から、まるで素っ頓狂な声が漏れる。
  色気もへったくれもないのだけれど、素で出てしまったんだ、しょうがない。
 「……リンゴ?」
 「リンゴ」
  うん、と頷いたシラスに、ボクは呆けたままああそうだよね、とか口が勝手に動くのを聞いた。
 「そうだよね!風邪とかにリンゴはツキモノだよね!うんうん判る判るよし任せといてボクが腕によりをかけてウサギさんリンゴを剥いて」
  剥いて。
  言いながらボクは、自分が何を考えていたのかシラスに悟られないようにと焦って、さかさかとりんごの皮をむき始める。
  危うく墓穴を掘りかけたのだ。
  掘った穴は早めに埋めてしまうに限る。
  たぶんそんなボクの考えはお見通しなんだろう、薄く笑ったまま、しばらく無言でボクがリンゴを剥くのを眺めていたシラスが、
 「――あの時、どうして言い合いになったか覚えているか?」
  不意にぽつんと呟いた。
 「え?」
  何かを懐かしむようなシラスの声に、ボクは手元のリンゴから目を上げて、こっちをじっと眺めている金色の瞳を見返した。
 「あの時、って?」
 「聞きたくもなかったが、聞こえたからな」
 「もしかして、今さっき、ネイサム司教に話していた喧嘩の話?」
  まいったな。聞かれていたんだ。
  たずねるとああ、とシラスが頷く。
 「理由――理由ねぇ……なんだったっけなぁ、シラス覚えてるの?」
 「キミは忘れたのか」
 「うん」
  ボクが首を縦に振ると、ヤツはそうかと苦笑う。
 「忘れているなら、いい」
 「何だよ。気になるだろ。言ってよ」
 「忘れたってことは、忘れたほうが良い理由があったかもしれないだろ。わざわざ思い出して不愉快になりたいのかキミ」
 「……不愉快になるかどうかはわからないけど、そこまでもったいぶられたら昼寝も出来なくなるから教えてよ」
  余計に気になる。
  ボクはシラスの胸倉をつかむ勢いで詰め寄った。
 「不機嫌になったりしないって誓うから。言って」
 「学校のさ」
 「……学校?」
  そういや、最初に育った山村にはなかった施設のひとつに、学校があった。
  王都の学校といったって貴族が通うんじゃなし(そもそも貴族サマは多分屋敷に家庭教師なるものがくると思う)、そうそう立派な建物がある訳でもなくて、多目的に使われるおんぼろの建物に何人かの先生が通って、一日一時間か二時間、書き取りや計算の仕方を教えてくれたりする場所を「学校」と近所の人は呼んでいたのだった。
  ああ、でもなんかハルアがたまに混じっていたような気がしなくもない。
  アイツなんか、当時はご立派な「皇太子さま」だった訳で、お城で通り一遍の勉強も帝王学も学んでいたろうに、なんだって街の学校なんかに顔を出していたんだろう。
  まぁ、思い出せるのは、若い先生のスカートを毎度毎度めくっていた……とかしか覚えてないんだけど。
  毎日学校があるのでもなくて、週に三日か四日、先生の都合がいいときに教えてくれていたそれは、たぶん学校というよりは、学習場とでも名づけたほうがしっくり来るかもしれないのだけれど、
  それでも張り切って帳面と筆箱もって、学校に通ったものだった。
  勉強は出来るほうではないし、あまり好きでもなかったけれど、それにもまして、そこに集まる友達のみんなや、優しい先生が大好きで、何年かボクは通ったのだった。
  とくに、書き取りを教えてくれていた女の先生が、教える声は優しいし、髪の毛さらさらでいつもいいにおいがして、ボクはこっそり、大きくなったら先生みたいな女の人になるんだ!とか憧れていたりした。
 「学校が、どうしたの」
 「年に一度、親の参観日とかってあったろ」
 「ああ――あったねぇ。妙に緊張した気がする。……でも、それが、なんで?」
 「最初の年。俺は参観日なんざ知らなくて、行かなかったんだ」
 「ああ」
  思い当たってボクは手を打ち鳴らす。
 「そうだ。シラス、こなかったんだ」
  こなかった、というよりは正確には知らないから来ようがなかった、が正しい。
  先生から『参観日のお知らせ』と書かれた半紙を渡されたはいいものの、
 「お父さんお母さんに見せてくださいね」
  と言われたボクは、シラスの場合その「おとうさん」にも「おかあさん」にも各当しないと思って、半紙は机の引き出しにしまったままでいたのだった。
  当然、渡されてないシラスが知りようハズもない。
 「……周りの友達はみんな、きちんとお出かけ着を着た父さんや、着飾った母さんが着てるのに、ボクだけは参観に来てくれるヒトがいなかった。ああ、で、たしか、家に帰ってシラスに何でこなかったのって怒ったんだ……うわぁ、ガキすぎる」
  いつもよりちょっと緊張した先生と、ざわざわ後ろばっかり眺める友達みんなと。
  あの半紙のお知らせは、このコトだったのだとそのときになって理解したボクは、渡し忘れていた自分のことは棚に上げまくって、来ないシラスを最大に恨んだのだ。
  来るはずがないのだ。シラスは何も知らなかったんだから。
  それでも、周りの得意げな顔で黒板に向かう友達がうらやましくてうらやましくて、
  悔し涙を飲んで家に飛んで帰って、開口一番、鬱憤をシラスに叩きつけまくったのだった。
  ――何で来なかったの。
  ――ボクのことどうせどうだって良いんでしょう。
  ――どうしてみんなには父さんも母さんもいるのに、ボクにはどっちもいないの。
  ――シラスなんかいらない。父さんと母さんじゃないとイヤだ。
  ――シラスなんかいらない。
 「あああああ」
  自己嫌悪の波に飲まれてボクは思わずソファに突っ伏す。
 「すいません。どうもすいません」
  あれだね、今時を戻せる魔法がボクに使えたら、本気であのころのボクに一発喝を入れに行くね。
  というかそんなクソガキ喝どころかグーでゴンするね。
  喧嘩も何も、単なるボクの一方的なヒステリーじゃないか。
  頭を抱えたボクへ、ぽん、と片手ひとつ分の重さが後頭部に加わって、ボクは思わず顔を上げた。
  話してちょっとくたびれたのだろう、いつの間にかまたシラスが目を閉じている。
  薄く笑った頬がそのまま緩んで、なんだかいつもよりあどけなく見えて、
  そういう、「いつもと違う」顔を見てしまうと、なんでだかどきどきして居心地が悪くなる。
  不整脈とでもいうやつだろう、か、一度検査したほうがいいのかもしれない。
  ――シラスなんかいらない。
  それにしても、幼き日のボクは、なんて言葉をコイツに投げつけてしまったんだろう。
  それが、一時のかっとなった言葉であったとしても、
  本心から出た言葉じゃあないにしても。
  そんなクソガキの言葉を聞いて、コイツは腹が立たなかったんだろうか。
  悔しくなかったんだろうか。
  あんな風に、どうしてまっすぐにボクを追いかけてきてくれたのだろう。
  考えていると、なんだか涙がじんわりと滲んで、だめだ今日はもう涙腺がおかしい。
  ずずずとボクが鼻をすするところへ、
 「……泣くなよ」
  片目を薄くを開いたシラスが困ったように眉尻を下げた。
 「泣いてないよ」
 「……昨日からキミを泣かせてばかりいる気がする……」
 「泣いてないってば」
  泣こうだなんて思っているわけじゃないし、そもそもベソかくなんて格好悪いし、そんなんだったらいつまで経ってもシラスにオトナ扱いしてもらえないわけで、
 「べ、べつに泣き、たい訳、じゃな、ないけどね、ね、でも、き、昨日からずっと」
  そう。
  昨日からずっと、ボクは怖かったのだ。
  お化けが怖いだとか、ゾンビが怖いとか、そんな怖さとは違う。
  大事なものがなくなってしまうんじゃないかという恐怖に、ボクはずっと苛まわれていたのだ。
  ボクができることなんて、本当に少ししかなくて、
  その少しのことさえ、ボクは満足にできなくて悔しくて、目の前で苦しそうなシラスを見てもおろおろすることしかできなくて、
 「で、でもね、泣いてもね、な、何も解決しらいからね、泣いたら駄目らって思っててね」
  だけど本当は泣きたかった。
  泣いて、地団太踏んで、何とかしてって叫びたかった。
  でも誰も、何とかしてくれないのだから、ボクがしっかりしなきゃと思って。
  胸が詰まってどうしようもなく苦しかったけれど、それをいつも無茶苦茶に投げても受け止めてくれる相手自身が苦しんでいて。
  そうしてムドゥブと死に物狂いの追いかけっこをしたときも、やっぱりどうしようもなく怖かった。
  もう会えないのかもしれない。
  駄目なのかもしれない。
  そう思うことはとてつもなく怖かった。
  一度涙腺が決壊したら、どうにも涙が止まらない。
  それどころかしゃくりあげて発音さえ不明瞭になってきて、なんだか我ながら子供じみていて情けなかった。
 「だいじょうぶ」
  さっきのように、ぐいともう一度引き寄せられて、ボクはシラスの胸に押し付けられ、乱暴に頭をなぜられる。
 「心配してくれたんだな。ごめんな」
  押し付けられたシラスの体はあったかい。
  シャツが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって悪いかな、とか思う余裕もなく、ボクはみっともなくわんわんと泣いた。
  泣ける場所がなくならずによかったな、なんてふと思う。
  恥ずかしながら、しばらくそうして思う存分泣いてしまうと、そのうち何が怖くて泣いていたのかがよく判らなくなって、鼻をすすりながらボクはようやくシラスのシャツから顔を離した。
 「なぁ、レイディ」
  見計らったように、静かな声でシラスが耳元で尋ねる。
 「熱くねぇ?」
 「ん?」
  ムドゥブの卵殻の効き目でも悪かったのだろうか。
  赤縛がまだ悪さをしていてまた熱が上がったんじゃあないかと、涙が即座に引っ込んで、ボクは顔を上げる。
  すると、突然シラスのドアップが飛び込んだ。
  こつ、とヤツの額がボクの額に当たる。
 「なに?」
 「……レイディ。キミ、熱あるだろ……」
 「ぅえ?」
  熱?
  泣きすぎて重い瞼を、ぱちぱちと瞬きしながらボクは首をかしげた。
 「ありますかね、熱」
 「なんかみょーに熱いと思ったら、しっかりばっちり高熱じゃあねぇか」
 「うわ。うわ。うわ。赤縛感染ったとかうわエンガチョ」
  聞いてボクは慌てる。
  意外と我慢強そうなシラスですら、なんとなく死に掛けていたんである。
  あんなのに罹ったら、ボクはあっけなくコロリと逝ける自信がある、かもしれない。
 「バイキンかよ俺は……」
  指でおまじないの印を切るボクに、若干呆れながらヤツが苦笑いする。
 「そもそも、赤縛は人間が罹る病気じゃあねぇぞ」
 「あ、そうなの」
  それを聞いて、ボクは胸をなでおろす。
 「キミのはどっちかって言うと頭使いすぎた知恵熱だろ」
 「ちょっと。なんか今。失礼なことをさり気なく口にしませんでしたか」
 「とてもとても慇懃丁寧に話しておりますですよ」
 「……もう」
  もう。
  ムッとするよりも先に妙におかしさがこみ上げて、ボクは吹き出す。
 「笑ったな」
  そんなボクを見て、何が嬉しいのかシラスがニコニコとした。
 「そう言えば浮腫んでるとか司教に言われてたわ、ボク」
  言われて初めて、ふわふわしている気がしないでも、ない。
  これ、熱のせいか。
 「粥もあるしウサギさんリンゴもあるし、準備はばっちりじゃねぇか」
 「寝込む態勢万端だねぇ」
  まあいいか。
  知恵熱なのか風邪なのか単なる旅の疲れなのか判らないけど。
  折角今日は休みになったことだし、この際今日はこのままゴロゴロとここで寝て過ごそうと、目の前の魔物を眺めながら、ボクは思った。


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最終更新:2011年10月15日 18:58