思わずボクの喉から、まるで素っ頓狂な声が漏れる。
色気もへったくれもないのだけれど、素で出てしまったんだ、しょうがない。
「……リンゴ?」
「リンゴ」
うん、と頷いたシラスに、ボクは呆けたままああそうだよね、とか口が勝手に動くのを聞いた。
「そうだよね!風邪とかにリンゴはツキモノだよね!うんうん判る判るよし任せといてボクが腕によりをかけてウサギさんリンゴを剥いて」
剥いて。
言いながらボクは、自分が何を考えていたのかシラスに悟られないようにと焦って、さかさかとりんごの皮をむき始める。
危うく墓穴を掘りかけたのだ。
掘った穴は早めに埋めてしまうに限る。
たぶんそんなボクの考えはお見通しなんだろう、薄く笑ったまま、しばらく無言でボクがリンゴを剥くのを眺めていたシラスが、
「――あの時、どうして言い合いになったか覚えているか?」
不意にぽつんと呟いた。
「え?」
何かを懐かしむようなシラスの声に、ボクは手元のリンゴから目を上げて、こっちをじっと眺めている金色の瞳を見返した。
「あの時、って?」
「聞きたくもなかったが、聞こえたからな」
「もしかして、今さっき、ネイサム司教に話していた喧嘩の話?」
まいったな。聞かれていたんだ。
たずねるとああ、とシラスが頷く。
「理由――理由ねぇ……なんだったっけなぁ、シラス覚えてるの?」
「キミは忘れたのか」
「うん」
ボクが首を縦に振ると、ヤツはそうかと苦笑う。
「忘れているなら、いい」
「何だよ。気になるだろ。言ってよ」
「忘れたってことは、忘れたほうが良い理由があったかもしれないだろ。わざわざ思い出して不愉快になりたいのかキミ」
「……不愉快になるかどうかはわからないけど、そこまでもったいぶられたら昼寝も出来なくなるから教えてよ」
余計に気になる。
ボクはシラスの胸倉をつかむ勢いで詰め寄った。
「不機嫌になったりしないって誓うから。言って」
「学校のさ」
「……学校?」
そういや、最初に育った山村にはなかった施設のひとつに、学校があった。
王都の学校といったって貴族が通うんじゃなし(そもそも貴族サマは多分屋敷に家庭教師なるものがくると思う)、そうそう立派な建物がある訳でもなくて、多目的に使われるおんぼろの建物に何人かの先生が通って、一日一時間か二時間、書き取りや計算の仕方を教えてくれたりする場所を「学校」と近所の人は呼んでいたのだった。
ああ、でもなんかハルアがたまに混じっていたような気がしなくもない。
アイツなんか、当時はご立派な「皇太子さま」だった訳で、お城で通り一遍の勉強も帝王学も学んでいたろうに、なんだって街の学校なんかに顔を出していたんだろう。
まぁ、思い出せるのは、若い先生のスカートを毎度毎度めくっていた……とかしか覚えてないんだけど。
毎日学校があるのでもなくて、週に三日か四日、先生の都合がいいときに教えてくれていたそれは、たぶん学校というよりは、学習場とでも名づけたほうがしっくり来るかもしれないのだけれど、
それでも張り切って帳面と筆箱もって、学校に通ったものだった。
勉強は出来るほうではないし、あまり好きでもなかったけれど、それにもまして、そこに集まる友達のみんなや、優しい先生が
大好きで、何年かボクは通ったのだった。
とくに、書き取りを教えてくれていた女の先生が、教える声は優しいし、髪の毛さらさらでいつもいいにおいがして、ボクはこっそり、大きくなったら先生みたいな女の人になるんだ!とか憧れていたりした。
「学校が、どうしたの」
「年に一度、親の参観日とかってあったろ」
「ああ――あったねぇ。妙に緊張した気がする。……でも、それが、なんで?」
「最初の年。俺は参観日なんざ知らなくて、行かなかったんだ」
「ああ」
思い当たってボクは手を打ち鳴らす。
「そうだ。シラス、こなかったんだ」
こなかった、というよりは正確には知らないから来ようがなかった、が正しい。
先生から『参観日のお知らせ』と書かれた半紙を渡されたはいいものの、
「お父さんお母さんに見せてくださいね」
と言われたボクは、シラスの場合その「おとうさん」にも「おかあさん」にも各当しないと思って、半紙は机の引き出しにしまったままでいたのだった。
当然、渡されてないシラスが知りようハズもない。
「……周りの友達はみんな、きちんとお出かけ着を着た父さんや、着飾った母さんが着てるのに、ボクだけは参観に来てくれるヒトがいなかった。ああ、で、たしか、家に帰ってシラスに何でこなかったのって怒ったんだ……うわぁ、ガキすぎる」
いつもよりちょっと緊張した先生と、ざわざわ後ろばっかり眺める友達みんなと。
あの半紙のお知らせは、このコトだったのだとそのときになって理解したボクは、渡し忘れていた自分のことは棚に上げまくって、来ないシラスを最大に恨んだのだ。
来るはずがないのだ。シラスは何も知らなかったんだから。
それでも、周りの得意げな顔で黒板に向かう友達がうらやましくてうらやましくて、
悔し涙を飲んで家に飛んで帰って、開口一番、鬱憤をシラスに叩きつけまくったのだった。
――何で来なかったの。
――ボクのことどうせどうだって良いんでしょう。
――どうしてみんなには父さんも母さんもいるのに、ボクにはどっちもいないの。
――シラスなんかいらない。父さんと母さんじゃないとイヤだ。
――シラスなんかいらない。
「あああああ」
自己嫌悪の波に飲まれてボクは思わずソファに突っ伏す。
「すいません。どうもすいません」
あれだね、今時を戻せる魔法がボクに使えたら、本気であのころのボクに一発喝を入れに行くね。
というかそんなクソガキ喝どころかグーでゴンするね。
喧嘩も何も、単なるボクの一方的なヒステリーじゃないか。
頭を抱えたボクへ、ぽん、と片手ひとつ分の重さが後頭部に加わって、ボクは思わず顔を上げた。
話してちょっとくたびれたのだろう、いつの間にかまたシラスが目を閉じている。
薄く笑った頬がそのまま緩んで、なんだかいつもよりあどけなく見えて、
そういう、「いつもと違う」顔を見てしまうと、なんでだかどきどきして居心地が悪くなる。
不整脈とでもいうやつだろう、か、一度検査したほうがいいのかもしれない。
――シラスなんかいらない。
それにしても、幼き日のボクは、なんて言葉をコイツに投げつけてしまったんだろう。
それが、一時のかっとなった言葉であったとしても、
本心から出た言葉じゃあないにしても。
そんなクソガキの言葉を聞いて、コイツは腹が立たなかったんだろうか。
悔しくなかったんだろうか。
あんな風に、どうしてまっすぐにボクを追いかけてきてくれたのだろう。
考えていると、なんだか涙がじんわりと滲んで、だめだ今日はもう涙腺がおかしい。
ずずずとボクが鼻をすするところへ、
「……泣くなよ」
片目を薄くを開いたシラスが困ったように眉尻を下げた。
「泣いてないよ」
「……昨日からキミを泣かせてばかりいる気がする……」
「泣いてないってば」
泣こうだなんて思っているわけじゃないし、そもそもベソかくなんて格好悪いし、そんなんだったらいつまで経ってもシラスにオトナ扱いしてもらえないわけで、
「べ、べつに泣き、たい訳、じゃな、ないけどね、ね、でも、き、昨日からずっと」
そう。
昨日からずっと、ボクは怖かったのだ。
お化けが怖いだとか、ゾンビが怖いとか、そんな怖さとは違う。
大事なものがなくなってしまうんじゃないかという恐怖に、ボクはずっと苛まわれていたのだ。
ボクができることなんて、本当に少ししかなくて、
その少しのことさえ、ボクは満足にできなくて悔しくて、目の前で苦しそうなシラスを見てもおろおろすることしかできなくて、
「で、でもね、泣いてもね、な、何も解決しらいからね、泣いたら駄目らって思っててね」
だけど本当は泣きたかった。
泣いて、地団太踏んで、何とかしてって叫びたかった。
でも誰も、何とかしてくれないのだから、ボクがしっかりしなきゃと思って。
胸が詰まってどうしようもなく苦しかったけれど、それをいつも無茶苦茶に投げても受け止めてくれる相手自身が苦しんでいて。
そうしてムドゥブと死に物狂いの追いかけっこをしたときも、やっぱりどうしようもなく怖かった。
もう会えないのかもしれない。
駄目なのかもしれない。
そう思うことはとてつもなく怖かった。
一度涙腺が決壊したら、どうにも涙が止まらない。
それどころかしゃくりあげて発音さえ不明瞭になってきて、なんだか我ながら子供じみていて情けなかった。
「だいじょうぶ」
さっきのように、ぐいともう一度引き寄せられて、ボクはシラスの胸に押し付けられ、乱暴に頭をなぜられる。
「心配してくれたんだな。ごめんな」
押し付けられたシラスの体はあったかい。
シャツが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって悪いかな、とか思う余裕もなく、ボクはみっともなくわんわんと泣いた。
泣ける場所がなくならずによかったな、なんてふと思う。
恥ずかしながら、しばらくそうして思う存分泣いてしまうと、そのうち何が怖くて泣いていたのかがよく判らなくなって、鼻をすすりながらボクはようやくシラスのシャツから顔を離した。
「なぁ、レイディ」
見計らったように、静かな声でシラスが耳元で尋ねる。
「熱くねぇ?」
「ん?」
ムドゥブの卵殻の効き目でも悪かったのだろうか。
赤縛がまだ悪さをしていてまた熱が上がったんじゃあないかと、涙が即座に引っ込んで、ボクは顔を上げる。
すると、突然シラスのドアップが飛び込んだ。
こつ、とヤツの額がボクの額に当たる。
「なに?」
「……レイディ。キミ、熱あるだろ……」
「ぅえ?」
熱?
泣きすぎて重い瞼を、ぱちぱちと瞬きしながらボクは首をかしげた。
「ありますかね、熱」
「なんかみょーに熱いと思ったら、しっかりばっちり高熱じゃあねぇか」
「うわ。うわ。うわ。赤縛感染ったとかうわエンガチョ」
聞いてボクは慌てる。
意外と我慢強そうなシラスですら、なんとなく死に掛けていたんである。
あんなのに罹ったら、ボクはあっけなくコロリと逝ける自信がある、かもしれない。
「バイキンかよ俺は……」
指でおまじないの印を切るボクに、若干呆れながらヤツが苦笑いする。
「そもそも、赤縛は人間が罹る病気じゃあねぇぞ」
「あ、そうなの」
それを聞いて、ボクは胸をなでおろす。
「キミのはどっちかって言うと頭使いすぎた知恵熱だろ」
「ちょっと。なんか今。失礼なことをさり気なく口にしませんでしたか」
「とてもとても慇懃丁寧に話しておりますですよ」
「……もう」
もう。
ムッとするよりも先に妙におかしさがこみ上げて、ボクは吹き出す。
「笑ったな」
そんなボクを見て、何が嬉しいのかシラスがニコニコとした。
「そう言えば浮腫んでるとか司教に言われてたわ、ボク」
言われて初めて、ふわふわしている気がしないでも、ない。
これ、熱のせいか。
「粥もあるしウサギさんリンゴもあるし、準備はばっちりじゃねぇか」
「寝込む態勢万端だねぇ」
まあいいか。
知恵熱なのか風邪なのか単なる旅の疲れなのか判らないけど。
折角今日は休みになったことだし、この際今日はこのままゴロゴロとここで寝て過ごそうと、目の前の魔物を眺めながら、ボクは思った。