<<ボクの下僕になりなさい。>>
 

  人生、たかだか17年でも生きていると、いくつか取り返しの付かないことって少なからずある。
  取り返しの付かないことというのは、本当に取り返しが付かないということで、後からいくら取り繕っても弁解しても、それは決して元鞘に収まることがない。
  後悔したって遅いんだ。
  後悔なんて文字通り、後から悔いるから後悔というのだと思うけれど、
  それでも何度か、時を戻せたらいいのにと思うことがある。
  例えば、誰かに投げつけた言葉。
  例えば、誰かを傷つけた態度。
  例えば、今目の前できれいに真っ二つに割れている、髪飾り。


 「やややややややってしまいました」
  誰に言うともなしに、ボクは我が家の地下室で、思わず挙動不審になる。
  どっちかというと、誰かが聞いていたほうが、恥ずかしいのでこの場合誰もいないのがありがたい。
  のではあるけれど。
  ボクはレイディ。17歳。王都カスターズグラッドに住んでいる。
  目下小さいころからの夢だった魔法介護士になる夢をかなえるべく、
  しかし悲しいかな夢ではおなかは膨れないので、目下のところ僧侶見習いの仕事を続けている毎日。
  通称「半日通り」の名が付いた、その名の通り半日しか日の当たらないせせこましい居住区に住みながら、いつかは白馬の王子様が迎えに来……
  るなんてやっぱり夢なんじゃないかと、最近現実に目覚めてきたかもしれない、そんな思春期真っ盛りのお年頃。
  そもそもボクが知っている王子様というのが、これがまた、飛びぬけて王子様らしくない。
  や、確かに、白馬もかぼちゃパンツも、確実に似合う容姿をしていることは確かなのだけれど、言動その他がどうも、おとぎばなしに出てくるような王子様とは違うようで、
  なんていうの?絵本に出てくる王子様は、
 「おお、シャルルポワーヌボーン姫。そなたはなんと美しい一輪の薔薇」
  みたいな。
  ボクの知っている王子様は、カボチャパンツも穿かなければ、恥ずかしいセリフを口に出すこともないので、
  いや。
  かぼちゃパンツはこの際置いておこう。
  とりあえず目先の問題は、「あきらかに」誰かにあげるっぽい、「あきらかに」高価なガラス細工の、「あきらかに」女物の髪飾りを、左右の手に二つ。
  つまりはひょんなことから手にしたはいいけど、ご覧の通りぽっきりとやってしまったんである。
  壊してしまってから口にするのは弁解にも聞こえるけど、ほんとーに、ボクは別に、壊そうと思って手にしたわけじゃあ、ない。
  というか、そこに、そんなところに、髪飾りが挟まっていただなんて、壊れた音を聞くまで気がつかなかったのだ。
  コトの起こりは、どうと言うコトもない。
  明日が休みの日という夜、居間で持ち帰った仕事をこなしていたボクは、書類作成のために、ちょっとした文献を見る必要が出てきた。
  もう夜も遅いしどうせ明日休みだし、明日の朝早くにでも、国立図書館までブラブラ散歩がてら調べに行こうかな、と思い、万年筆を置きかけたボクの頭に、
  そういや地下室にそんなような背表紙の本なかったか?
  なぞという思いがよぎり、かくしてボクは我が家の地下室兼食糧貯蔵庫兼シラスの書き物部屋――に、足を踏み入れたのだった。
  まぁ、足を踏み入れたといっても、別にバリケードが張ってあるわけでもなし、ボクが出入りするのをシラスがいちいち咎めるでもないんだけれどね。
  我が家の居候である使い魔のシラスは、知識「だけ」は無駄に大量に詰め込んでいる、歩く百科事典君なのである。
  当然、シラスが書斎兼寝室代わりに使っている地下室も、ワインビネガーの樽だの、パンケモンケ(黒くて丸いウリ科の野菜)のピクルスの樽だのに囲まれたところに、カウチと本棚と書き物机を置くという、一種異様な隠れ家的雰囲気をたたえつつも、それでもそこの部屋の主のシラスにとってはなかなかに居心地がいいようで、
  意外と籠もって調べ物をしたり読書していたりする。
  まぁ、アイツの場合、その部屋が居心地いいというよりも、昼間、太陽光からなるべく遠い地下にある部屋、というのがもっぱらの理由なのかもしれないけれども。
  もし、ボクん家がお城であったなら、シラスは迷わず地下牢にでも入ったろう。
  んで。
  その、本棚にある書物といったって、ボクには到底読めないような小難しい古文書や、専門書が大半を占めていて、
  というか、断言するけど、多分アイツの蔵書の9割、カスターズグラッド在住の住人は読めないだろうと思う。
  もうね、なんていうか、学者レベル?
  専門知識と専門用語でしか書かれていないような本ばかりなのだ。
  でなければ、子供の落書きにしか見えないような、古文書か。
  あんな、縦にしても横にしても読めないようなのたくった文章を、シラスは解読書なしに、至極ふつううううに読んでしまったりする訳で、
  本当はその知識を学術都市シアンフェスタにでも捧げれば、多分魔物だの人間だのというより前に、シラスはえらく重宝されるのだと思うけれど、何せアイツには向上心――というか、ヒトのお役に立てて嬉しいです的精神が皆無なんである。
  我が道を行くってヤツ。
  時折誰かに依頼されて、ちょこちょこと仕事をこなしているみたいだけど、詳しくはボクも知らないし、シラス自身が飲食する(主に酒代)に消えてゆくようであるから、多分、金銭の取引以上には、踏み込んだ関係ではないようだ。
  そう。
  シラスはその名の通り、「使い魔」。
  人間に似た姿かたちをしているものの、れっきとした「魔物」なんである。
  お日様よりも月が好きだとか、白よりも黒が好きだとか、暑いより寒いほうがいいとか、
  まぁなんか魔物の生態についてボクはよく判らないのだけれど、人間と似ているようで、やっぱりどこか違う雰囲気をまとっていたりもする。
  どこ、と聞かれても返答に困るのだけれど。
  自分の出自をあまり詳しく語ってはくれないシラスが、むかーしぽつ、と洩らした情報によれば、アイツ自身は、ある日突然生まれでたようだ。
  見た目は似ているけど哺乳類でないことは確かなんである。
  ガス状のもやもやした塊が、風に吹き寄せられて吹き溜まりに集まって、数十年渦巻いているうちに、シラスになったんだとかそうでないとか。
  本当かどうかはわからない。
  もしかすると、寝物語にひょいと作ったお話だったのかもしれない。
  まぁいいや。
  ガス状の塊がシラスになったのかどうかなんて、かぼちゃパンツと一緒にこの際置いておこう。
  そんなシラスの地下室に、足を踏み入れてボクは、お目当ての本を探していたのだ。
  ちなみに、この部屋の一応の主は、月夜の散歩に出かけてしまっている。
  ここのところ、毎日じりじりと焼け付くような夏の日差しのおかげで、シラスは完全に昼間引きこもり生活だ。
  代わりに夜になると、それこそ水を得た魚、じゃあないけど、やたら溌剌と動き回ったりしている。
  何が嬉しいんだか。
  そんなお留守の部屋に入り、ランプに火を入れて、いくつかの背表紙を眺め、めぼしい数冊を手に取ったそのとき、
  抱えた数冊の中のひとつから――ワジカムがカサカサ、と滑り出てきたのだ。
  ああ。思い出しても鳥肌が立つ。
 「どわぁぁぁあああッッ」
  そうしてボクは割と品のない悲鳴を上げつつ、手にしていた数冊を、ワジカムに驚いた勢いのままに投げた。
  ブン投げた。
  投げた瞬間、分厚いページの間にそっと隠すように挟まれていた何かきらきらしたものが、宙に舞う。
  なんだ?
  一瞬湧いた疑問を確認する前に、きらきらしたものは床に落ち、床に落ちたその上にどさどさどさ、と革表紙の殴ると凶器レベルの本が重なる。
  重なった瞬間、めきょ、と言おうかぼきり、と言おうか、なんとなーく、嫌な音がした。
  恐る恐る落とした本をめくってみて、ボクは凍りついた次第なんである。
  ガラス細工のそれは、とてもきれいだ。
  や、「きれいだった」、と言うべきかも知れない。
  なぜなら真っ二つに折れ壊れていたからだ。
 「うわー……」
  後悔って後からするから後悔って言うんだね!
  なぞというどうでもいいフレーズが人生何度目かボクの頭の中をリフレインし、そのままどうしよう、と一人呟いた。
  どうみたってこれは、女物の髪飾りなのだった。
  シラスがつけるような飾りじゃあない。
  そもそも、シラスが着飾っているところなんて滅多の二乗くらいしないと見られるもんじゃあないし、いつもどちらかと言うと着たきりスズメという……や、不潔ってコトじゃなくてね。
  多分、自分を飾るということに対して、人間の普通の男よりさらに無頓着なんだと思う。
  元の素材は悪くないんだから、それなりに着飾れば見れるものになるんじゃあないかとか、ボクは思ったりもするのだけれど、それにしたってどういうタイミングでそんなこと勧めればいいのかわからないし、
  そもそも、
 「もうちょっと身だしなみ綺麗に飾ってみたら」
  だなんていったら最後、その数倍同じような小言がボクに跳ね返ってくるのは目に見えていた。
  流石に日常墓穴を掘りまくっている自覚のあるボクでも、これ以上墓穴を広げるのは得策ではない気がする。
  年頃の友達はみんな、くるぶしあたりまでのふわふわっとしたスカートはいていたり、
  リボンなんてつけてみたり、
  爪先を染めてみたり、
  そんなオシャレ心に勤しんでいるのだけれど、ボクはいまひとつそんな心境になれないのだ。
  オシャレをしている女の子を可愛いな、とは思う。
  似合うな、とも思う。
  ……んがしかし、それを眺めるだけの立場と、実際に行う立場ではかなりの開きがあるわけで、どうーも興味が少ないのだ。
  それに。
  アイツがちょっとでも着飾るのを見たのも、もう一年も前になるんだな、なぞと今更ながらにボクは思い返す。
  あれは確か、夏の大祭。
  白い祭り衣装を着て、うれしそうに笑っていたっけ。
  大祭といえば、そう。
  ハルメリア皇太子――ハルア――が、サンジェット教会直属の神殿から、そうして王都カスターズグラッドから……、放逐された事件から、もう一年経ったのだ。
  本当の事情は、数人しか把握していなくて、表向きはハルメリア大司祭が乱心、叛意を抱いて、国王を殺害未遂。揺るすべからず――そうしてハルアは王都追放の罰を食らったのだった。
  でもボクは知っている。
  そんな物騒なことにハルアはまったく関与していなくて、むしろ未遂に終わったとは言え、自分の父親やその奥方(ハルアにとっては義理の母親に当たる)、そうしてまだ世間の何たるかを知らない弟妹、そんな自分の大切な人を護ろうとして奔走していたってことを。
  そうして、解決に後一歩のところまで近付いていたにも拘らず、その判決をナシにしてしまったということを。
  全部判ったような顔をして、罪ひっかぶって、どこまで格好つけたら気が済むのだろ。
  というかですね。
  がしがしとボクは頭を掻いて、飛び飛びになる思考を元へ戻した。
  カボチャパンツも、オシャレな格好も、ハルアのこともとりあえずは棚の上のほうにおいておこう。
  問題は、この、見事に割れたガラス細工の髪飾りだ。
  どうしよう、これ。
  当たり前に考えれば、シラスが戻ってくるのを待って、「ごめんなさい」を言ってしまうことなのだろうけれど、
  ああ、それにしたって相当気が重い。
  調べ物をするという当初の目的もどこかにすっ飛んで、とぼとぼと上の部屋へ戻ったボクは、そのまま目を見張る。
 「よー」
  にこにこと、懐かしい顔がふたつほど、揃って笑っていたからである。

                    *

 「……うわあぁあ!アリオン!久しぶりだねぇ」
  ひとまず壊れた髪飾りは、さっきのカボチャパンツなどと一緒に記憶の向こうのほうにやっておいて、ボクは嬉しくて思わずリビングのテーブルに駆け寄った。
 「3年ぶり!」
  と、アリオン。
 「どうしたの?母さんに、なにかあったの?」
  と、ボク。
  ちなみに唐突に現れたこのアリオンと言う彼は、ボクの乳兄弟である。
  もともと、ボクは街道筋で魔物に襲われていたキャラバンの中から、シラスに拾われた。
  けれども、その時ボクはまだおっぱいを飲む赤ん坊であったわけで。
  拾ったとは言え、シラスは男であっておっぱいなんて出ないに決まっており、お腹を空かせて泣き喚くボクにほとほと困ったシラスが、最終的に訪れたのが、小さな村だった。
  そこは、あまりにも小さすぎて、村に名前なんてないほど。
  村人はほとんど、自給自足の生活をしていたし、
  と言うよりも、最初からそこに村があったわけではなく、数代前の開拓者の何人かが、集まって家を建てたんだろうと思う。
  全部で50人いるかいないかの、本当に小さな村だった。
  苗字なんてなくて(あったかもしれないけど誰も使っていなくて)、みんな下の名前で呼び合っていたし、外界と接触する機会なんてほぼゼロに等しかったから、村の中では自分たちの住んでいる場所を、
 「ここ」
  と言うだけで事足りた。
  そこでボクは、カスターズグラッドに来るまで……、だいたい6年位かな?部落よりちょっと離れた高台に建つその小屋に、シラスと二人で暮らした。
  訪れたシラスが最初に頼ったのが、、生まれたばかりのアリオンの母さんのマルティアおばさんだ。
  しかし実際、よくマルティアおばさんはボク等を――正確に言えばシラスを――受け入れたもんだと、思う。
  だいたい、今住んでいるような王都とは違って、ああいう小さな村であればあるほど、外部のものに対しての警戒心は強いもんだと思う。
  しかもシラスは見た目からして明らかに、「人間には似ているけれど人間じゃあない」生物っぽい。
  金色の目とか。
  尖った耳とか。
  どことなく放つ雰囲気とか。
  魔物、とすぐに判ったかどうかは別として、ああいう閉鎖的な空間に拒絶されたであろうことは、想像力を働かすまでもなくはっきりと判る。
  ――大の男が何人も集まって何を怖がるって言うんだね。
  渋面をつくる大人たちの中で、ただ一人、恐れ気もなくシラスに近付いたのがマルティアおばさんだったらしい。
  ――赤ん坊が腹を空かせて泣いているだけじゃあないのさ。
  ――ほうら。元気な子だ。たんとお飲み。
  そう言って、おばさんはボクにおっぱいを飲ませてくれたんだって、昔聞いたことがある。
  ――腹を空かせた赤ん坊を路頭に放り出すのかい?
  ――アンタらにゃ血も涙もないのかい?
  そう言って、おばさんは先頭に立って半ば強引に反対派の村人を押し切って、シラスとボクが村に住めるようにしてくれた、ようだ。
  ボクにとっては血のつながりはなくとも母さんであり、
  命を救ってくれた恩人でもある。
  基本的にシラスはボクの面倒を全部引き受けてくれたけれど、男にはできないような世話をおばさんがある程度、肩代わりしてくれたんだよね。
  ――アンタはね。どこに行ったってアタシの娘なんだからね。寂しくなったらシラス坊なんか置いてさっさと帰って来るんだよ。
  ボク自身の「魔法介護士になりたい」夢をかなえるべく、カスターズグラッドへ引越しをするときも、母さんはそう言って見送ってくれた。
  その、母さんことマルティアおばさんの息子がアリオンで、ボクとマルティアおばさんのおっぱいをともに飲んで育った仲、な訳。
  ボクには兄弟は居ないけれど、兄というよりは双子の感覚に近いのだろうか。
  こうしてボクとシラスがカスターズグラッドに居を構えるようになってからも、何年かに一度、王都への用事ついでに、寄ってくれている。
 「元気そうだな、レイディ」
  にこにこと満面の笑みでアリオンが言った。
 「いつから来てたの」
 「さっき着いたんだ。宿だけは取ってきたんだけどな、レイディの顔が見たくなって夜分遅くに来ちゃったけど……悪かったかな」
 「迷惑なんて全然ないよ。どうせ夜は大体一人だし」
 「シラスはどうした?」
 「散歩。気持ちよさそうに出て行ったから、朝まで帰らないんじゃないかな」
 「そうか」
  答えて頷き、アリオンが脇に置いてあった大きな鞄を手に取る。
 「お袋から。お前に届けろってもう出かける間際までうるせぇの。なんせ見送りの言葉が、『みやげ物を途中で無くしたらお前の居場所はもうこの村にはないよ』、だぜ?」
  言ってほら、とボクに差し出して見せた。
  こうやって、たまの王都へ出てくるときのアリオンに、マルティアおばさんは山ほど荷物を持たせるのが定例になってしまった。
 「ありがとう」
  答えてボクは素直に受け取る。
  ここでわざわざそんなもの良いのに、だとか、
  気を使わないで、だとか、
  そういうもって回った言い方は、あの山奥の村の人間には通じないのだ。
  山ぶどうのつるを丁寧にしならせて編まれた鞄の中には、マルティアおばさん自慢の焼き菓子だのジャムだの、それにボク用の衣類なんかも入っていた。
 「うわー。これ、食べたかったトリルのシロップ漬け!ありがとぅうう!」
  おばさんが、ボクの好物ばかりを入れてくれのだ。
  中でもこのトリルのシロップ漬けは、王都じゃあ絶対に味わえない、知る人ぞ知る、絶品。
  トリルと言うのは黄色くて細長い果物なんだけれども、畑で採れるものではなくて、山に自生している植物の実だ。
  何度か、栽培しようともしたそうだけれど、何の条件が合わないもんか、トリルが畑で芽を出したことはまだない、らしい。
  しかもこのトリル、採ったときは香り高くさわやかなのに甘ったるい、そんな味と香りなのだけれど、小一時間もしないうちにドス黒く変化して、渋みが出てきてしまう。
 「湯を沸かしてからトリルを探しに行け」だなんて村のオトナたちが半分冗談交じりで言うほど、鮮度第一の果物なんである。
  山でしか採れなくて、品質管理が厳しくて、そんなものが王都に届くことは稀なのだ。
  かと言って、じゃあ山奥の村の人たちがたらふく食べているかというと、一本のつる草に十粒もならないトリルの実を、シロップ漬けできるほど一杯、しかも短時間に、と言うのはかなり面倒くさい。
  さらにさらに、蜜煮すれば終わりなのではなくて、生で食べるならともかく、こうして保存するには何度も湯こぼしして灰汁を抜いてそれからコトコト煮込んで。
  とても手間暇かかる食べ物なのだ。
  ボクはこれが大好きで、初春になるとおばさんに強請って強請って、ボクとアリオンで山へトリルを探しに行って、何度も作ってもらったりもした。
  そんな時もおばさんは嫌な顔ひとつしないで、上機嫌に歌を歌いながら作ってくれたもんだった。
  過ごした時間は短いけれど、ボクの作ることも食べることも大好きなのは、マルティアおばさんのあの楽しそうに料理する姿辺りからなんじゃあないか……だなんて最近は思う。
  ひとつひとつ大事に包装されている包みを解くたびに、おばさん――母さん――の、あったかい気持ちも一緒にほどかれて行くみたいで、ボクまでなんだか気持ちがホカホカする。
 「隣家のライラ。覚えてるだろう」
 「忘れるわけないよ」
  そうして開けているボクをしばらく眺めていたアリオンが、また口を開いた。
  ライラというのは、ちっぽけな山奥の村にいた、ボクやアリオンの遊び仲間。
  遊び仲間と言ったって、数十世帯の村だったから、同じ年頃の子供はボクとアリオンと、ライラという名の女の子の三人だった。
  ちょっと気が強くて、口が達者で。
  三人の中で喧嘩したら、口げんかでは決して勝てない。
  目がくりっとして肩までの栗色の髪の、可愛い女の子だった。
 「ライラに何かあったの」
 「今度な。秋に嫁に行くことが決まったんだ」
 「嫁……えええ!ライラ結婚するの!」
  確かボク等とそう年は違わない。二、三歳年上だったようだったから、それでも二十歳手前。
  結婚適齢期といえば適齢期なのだろうけれど、しばらく会っていない分、ライラはボクの中ではいまだにボクよりちょっと年上なだけの女の子で、とてもじゃないけどおしとやかになった姿が想像できない。
 「好きな男が出来て、そりゃあ綺麗になったんだぞ」
 「うわー、想像できない」
 「結婚祝いを買いに来たんだ。山じゃあ、その日暮しには困ることはないけど、洒落た細工物なんかないからな」
  元気そうでよかった。
  温かい笑顔は、あの山奥の村の空気みたいだ。
 「うん。ボクもアリオンに会えてとっても嬉しい」
 「俺も会えて嬉しいよ」
  この年になって邪気のない笑顔を向けられるというのは、なかなかどうして、さすが山奥育ち、なのかも知れない。
 「大きくなったねぇ。3年前はまだ、ボクと同じくらいの身長だったのに、すごいなぁ」
 「レイディも前よりもっと綺麗になったな」
 「わわわ」
  赤くなるボクを尻目に、てらいもなくアリオンは言い切って、でもその言葉にまったく裏を感じさせないところが、変わってないな、と思う。
  そう言えば村で使う言葉は、まっすぐで優しい言葉だけだった。
  王都に来て一番最初に驚いたのは、王都の人たちが洗練された、だのに少しだけ空ろな言葉を話しているということ。  
 「あのー」
  その、虚飾に満ちた言葉を自由に使いこなす代表のような(もっと簡単に言うと素直じゃないヒネくれ者な)、完全にボクとアリオンにスルーされて、拗ねた顔のもう一人の闖入者、
  金髪巻き毛の王子様、
  が、はーいと小さく手を挙げた。
 「……ああ。忘れてた。いたんだね、キミ」
 「いたんです」
 「なんでいるのさ」
  嬉しくないわけじゃない。
  本当は、アリオンの隣にその姿を見かけてから、飛びつきたいほど胸がいっぱいなような気もする。
  でも、飛びついたり喜んだりする前に、少しだけ冷静になれたボクは、
 「王都に来て平気なの」
  とてもとても常識的な疑問を口にした。
  途端に、拗ねた顔が笑顔に崩れるんだから、王子様の思考回路も意外と単純だ。
 「なんだ。冷たいことを言って、レイディは俺のことが心配で心配でたまらないんだな」
 「勝手に都合のいいところだけ解釈する神経は変わっていないね……」
  言いながら、でもボクは少しだけほっとする。
  王都追放、と言う言葉はボクにはかなり重すぎて、正直どんな顔をしてハルアを見たら良いのか、まだよく判らない。
  ハルアがアドグの件で、ボクにしてくれた思いやりを気づけないほど、ボクは子供でなかったし、
  だけどその思いやりを軽く受け流せるほど、まだボクは大人ではなかった。
 「見つかったら大変にマズいんじゃないの」
 「大変にマズいだろうなぁ。だから今夜泊めてくれ」
  見つかったらまずいことと、今夜ウチに泊まることはなんだか別のような気もしたけど、ツツいたってかわされるだけなんだろうな。
 「ゴロ寝でよければ別に良いけど、一体何をしに来たんだよキミ……」
 「レイディの顔を見に来たんだ」
 「ほう」
 「なぁ、レイディ」
 「……ぅん?」
 「会えて嬉しい!とか。そう言うコイツに向けたような台詞、俺にはないんでしょうか」
 「ないです」
  うう、とかテーブルに伏せて泣きまねをするハルアも、アリオンとは別の意味でやっぱり変わっていない。
 「王都に来たのも問題だけど、追放されたってことは一応監視みたいの付いてるんでしょ。滞在してる街離れちゃったらバレバレじゃないの?」
 「ああ、そりゃ平気だ」
 「なんで言い切れるの」
 「俺の留守中、アドグが俺に化けてるからな」
 「は、」
  はああああああ――――ッ?
  続く素っ頓狂な大声は、今が夜だということを思い出し、流石に喉元まで出しかけて飲み込んだ。
 「なに。どう言うコト。アドグって何」
 「レイディさん。ストップ。胸倉は苦しいです。落ち着いて話し合いましょう」
  両手を挙げて降参の姿勢をとるハルアにはっと気がつき、ボクは慌てて手を離し、
 「お茶。飲むでしょ」
  自分自身の気を落ち着かせるべく、ヤカンを暖炉の火にかけた。
  深呼吸する。
  アドグと言うのは、ハルアが王都を追放になった事件のきっかけを作った魔物の名前だ。
  いろんな姿に変化できる、技……?を持っていたりする。
 「で。どう言うことなの、化けてるって」
 「いやあな。あの一件が終わった時に、アイツに見逃してやるからに居るべきところに帰れと言ったら、居場所がないだなんて言いやがるからさ。まーた王都の近くでもフラフラしていて、腹黒い人間にとっ捕まって見世物にされたり、そうでなくても悪用されちまうのは可哀想でなぁ」
  そう言ってハルアは頬杖を付いて大仰にため息をついてみせる。
  まったく、いちいち芝居がかった男だ。
  でもって、その芝居がかったしぐさすら、似合ってしまうから性質が悪いんだろう。
  なるほど、女の子たちはこういうところにホレてしまうのか。
 「行くところがないなら、似たもの同士、俺に付いて来るかって言ったら、何をどう考えたのか、アイツ、付いて来やがった」
 「はー」
 「一緒に暮らすのはいいんだけどよ、まったく人間の暮らしというものを一から教えないといけないわけで、これがまた妙な解釈で珍騒動起こしたりするもんだから」
  参ったぜ、なんて言いながらなんとなく満更でもない表情をしているところを見ると、そこそこに気の合うもの同士、上手くやっているのかもしれない。
  まぁもともと、ハルアはやたらと面倒見がいいというか、生まれと言おうか育ちと言おうか、親分肌なところがある。
  特技、とでも言ったらいいのかもしれないけれど、求心力が確かにある。
  担ぎ上げて悪用しようとしたら、本人が望むと望まないとに関わらず、とても便利な素材な訳で、そんな自分の影響力がイヤで、勘当されて皇位剥奪されたりしていたようだったから、
  意外とハルアは王都から離れて、ある程度開放されたのかもしれない。
  そうであってほしい、という負い目のあるボクの願いなのかもしれないけれど。
 「子分にしたワケね」
 「そうそう」
 「で。アレだ。キミがきれーなお姉さんとしばらくご一緒したいな、なんて時に、アドグにお願いしてちょっとキミに化けてもらうと」
 「そうそう」
 「……キミね……」
 「あ、ヤカン噴いてるぜ」
  頭を抱えたくなりながら、まぁそれでも根は悪いヤツじゃないし、とボクは何とか思い直す。
  元は人間に使役され、それから幽閉されて。
  同胞の魔物が次々と死んでいく中、何百年と言う単位で、うらみつらみを募らせて。
  ちゃらんぽらんだけれど、芯は(多分)揺るがないハルアの傍で過ごすことで、アドグは何か変わってゆくだろうか。
  変わっただろうか。
 「最近、ヤツに冗談が通じるようになった」
 「へぇ。進歩じゃないか」
  ものすごい進歩な気もする。
  ポットに茶葉を入れて、沸騰したお湯を注ぐと、ふわ、とリビングに香りが漂う。
  蓋をして、カバーを被せた。
 「聞かなかったけど、アリオンも紅茶でよかったかな」
 「俺は何でもいいよ」
  何が嬉しいのか、にこにことボクとハルアのやり取りすら見ていたアリオンに目をやると、ひとつ頷きが返って来た。
 「レイディはどうだ。変わりはないか」
 「ああ、うん。ありがと。毎日元気でやってるよ」
  ラントリアルと追いかけっこをしたり、不死生物と追いかけっこをしたり、
  あまつさえ最凶最悪とも言われるムドゥブとも追いかけっこをしたりもしたけれど、終わりよければすべてよし。
  今が平穏無事なんだから、余計な心配をかけることはないだろうと、ボクは頷くにとどめた。
 「好きな男の一人でも出来たか」
 「ええッ?」
 「なんだなんだ、過剰な反応だな。心当たりでもいるのか?」
  アリオンの言葉に思わずカップをひっくり返しそうになったボクを、ハルアがニヤニヤと揶揄する。
 「い、いないよ!そもそもいたらもうちょっと、」
  もうちょっと。
  小奇麗に身繕っている、かもしれない。
  言い切れないところが悲しいが……。
 「ライラの結婚で、お袋が急に結婚付いてさ。そろそろお前にもいい人を、だとかなんとか」
 「うう。早いです。まだ早いです」
  未だに10年来の「魔法介護士」になる夢すら叶っていない状況で、結婚もへったくれも無いもんである。
  お嫁さんになりたい夢を持っていないわけじゃないけど、
  目下の願望がありすぎてそれどころじゃあないのが現状だ。
 「親父は放っておけって言ってるんだけどな。お袋、あの性格だろ。なんかそのうち、見合い話のひとつでも拵えそうな勢いだぞ」
 「あわー」
 「俺も、レイディの花嫁姿を見るの楽しみにしているんだぜ。きっと、都で一番綺麗な花嫁さんになるだろうな」
 「あわわわー」
  ありがとうございます。
  褒めてもらえるのは嬉しいけれど、そりゃ、なんと言うか親バカならぬ兄バカとでも言おう。
 「アリオンは本当にレイディが好きだな」
 「大好きだよ」
  横から茶化したつもりだったんだろう、ハルアが即答されて一瞬言葉に詰まる。
 「……臆面も無く切り返すなよお前……」
 「俺はさ。レイディと一緒に育ってきて、レイディがどんなものが好きで、どんなことが夢か、側で見て来たよ。俺の夢は、レイディの花嫁姿を見ることだからな」
 「――見せてやろうか」
  不意に戸口から声がして、ボクとハルアとアリオン三つの視線が、自然にそちらへ向かう。
  急に聞こえてきたのにボクだけぎょっとしなかったのは、その声がボクとってよく聞き慣れたものだったからだ。
  言うまでもなく、「朝まで帰らない」と思っていた、同居人兼使い魔のシラスである。
  あからさまに
 「お前ら何しに来たんだよ」
  的な不愉快な顔を隠すことなく、ちら、とハルアとアリオンを見やると、そのままいらっしゃいの一言も言うことなく、地下室への階段に歩を進めた。
 「あ、ちょっとシラス!」
 「――?何だよ」
  下りかけた背中に呼びかけると、面倒くさそうにシラスが振り向く。
  基本、自分のテリトリーに他人が来るのが嫌なヤツなのだ。
  ボクを拾ったと言うのも、不思議と言えば、不思議。
 「もう。帰ってきたら言うことがあるだろ。”おかえりなさい。”」
 「……”ただいま。”」
 「それとごめん。部屋の中ちょっと本が散乱してる」
 「日常の不満でもぶちまけたのか」
 「ワジカム出たから明日燻すからね」
  実は、しっちゃかめっちゃかになった部屋をそのままと言うのも流石に悪いだろうと、投げ出した本を片付けようとは思ったけれど、
  思ったけれど。
  片付けようと持ち上げたら、また例の赤いアレがカサカサと出て来そうな気がして、本を元へ戻す勇気が湧かなかったのだ。
 「あと、これ。はい」
  言ってボクは、自分で飲もうと思っていたティーカップをそのまま階段のシラスへ押し付けた。
 「淹れたばっかりだから。よかったら飲んでね」
 「ああ……、――ありがとう」
  不機嫌そうな顔を緩ませてそこで初めてシラスが小さく笑う。
  それから何を思ったか、よしよしとボクの頭を撫ぜると、階段を下りて行った。


 「……おまえんとこのパパ相変わらず迫力あるよなぁ」
  黙って見送っていたハルアが、階下の扉が閉まった音を確認してから口を開く。
 「……パパって何よ」
 「久しぶりに見たけど、まったく変わってないな、パパ」
  ハルアの言葉にアリオンも、うんうんと同調するように頷いた。
 「相変わらず怖い」
 「怖い?シラスが?」
  ちっとも思い当たる節がなくて、ボクは首をかしげる。
  そりゃ、よっぽどのことがあってシラスがブチ切れたりなんかした時は、ボクでもちょっと怖いなと思うときはあるけれど、今のやり取りで怖さを感じる部分はなかったように思う。
 「しっかり視線で釘刺していったぞ」
 「アリオンもか?」
  なんて言いながら男二人で頷いている。
  ますますさっぱり判らなくて、ボクはさらに首をかしげた。
 「シラスは怖くないよ?」
 「まぁ……、レイディは怖くないだろうな」
 「俺は初めて会った時の脅迫を忘れないぜ」
  なー、だなんて盛り上がる二人がやっぱり判らなくて、ボクは疑問符をいっぱい宙に浮かべながらとりあえず、紅茶をすすった。
 「あ。」
  一息ついたところで、ボクはさっきの棚のうえーーーーーーの方に上げた問題を思い出し、
 「ねぇ、ハルア。お城に出入りしているような細工師さんで、知り合いのひといない?」
  目の前で実に優雅に紅茶を香ってる王子様に声をかける。
  あまりに優雅なもんで、こんな半日通りの傾きかけた隙間風の家なのに、そこだけ高貴な空気が流れている気がして、時にボクは目を奪われる。
  こう言う仕草は、生まれたときからの周りの環境のせいなんだろうな。
  真似しようとして失敗したことが以前、あるので、それ以降、真似しようとするのはやめた。
 「細工師?」
  うん、とハルアが小首を傾げてボクを見た。
 「城には住み込みの細工師がいるけどな……何か、あったのか?」
 「うーん」
  これなんだけど。
  言ってボクは布で軽く巻いてまとめていた、地下室での残留物――残骸物かな――をとりだし、包みを広げる。
 「これは……なんだ?」
 「うう。やっぱり判らないよね。元は綺麗な髪飾りだったっぽいんだけど。ちょっと壊しちゃってさ。……直らないかな」
 「新しく作り直すほうが相当楽だろうな」
  包みを眺めて、ハルアが答える。
 「どうしたんだ、これ」
 「シラスの物なんだけど」
 「シラスの?」
  目を眇めて、ハルアはボクを見やった。
 「シラスがつけるわけないだろう。これ、女物だぜ」
 「すごいね。見ただけで男物とか女物とか判るんだ」
 「まぁそりゃ、多少は見慣れているからなぁ」
 「おお。上質の判る男」
  妙なところでアリオンが感心して、
 「でもよ。女物って、誰のものだ?」
  そのままとても素朴な疑問をボクに投げて寄越した。
  釣られてハルアもこっちを見る。
 「レイディの?」
 「ううん。ボクのじゃない」
 「じゃあ誰のだ」
 「知らないよ」
  首を横に振ると、ふぅん、だのくふん、だの微妙な音をハルアは鼻から洩らし、
 「誰かに渡すものだったのか?」
 「――え?」
  そう言った。
  この場合、「シラスが」「誰かに」渡すもの、と言う意味なんだろうな。
  元はとても綺麗(だったと思う)な髪飾り、
 「贈り相手は女の人なのかな……」
  なんだろう。
  少しだけ、胃の上辺りがもやもやとした。


 「魔物って何なんでしょうね」
  数日後。
  珍しく、執務机に向かってくれている司教の横で、ボクが書類を差し出してハンコを押してもらっていた、そんな午後。
  昼ごはんの後、ひたすら無言でボクと司教は――どうもまたいつものように、あまりに書類をため過ぎて、流石に教会の事務室どころか神殿の方から催促が来たらしいんである――日差しがやや夕暮れの匂いを漂わせ始めるまで、本気でまじめに仕事をしたのだ。
  明日雹が降るかもしれない。
  ようやく、本日の(というよりは二週間たまった分の)終わりが見えてきて、司教と二人、一息つこうか、とそういう流れになったのだ。
 「いきなり――何事だね」
 「別に、大したことじゃないんです。ただの愚痴です」
  どうした、と言いながら、眼鏡の奥のネイサム司教の目は面白がっている。
  ぱっと見、厳格というか近付きがたいというか(中身はかなりのチャランポランなんだけど)、そんなネイサム司教の機嫌を推し量るのには、それなりの日月が必要、らしい。
  長い付き合いってヤツなのかも。
  司教の大きいマグカップに、なみなみとお茶をついで渡すと、ボクは向かいのソファに腰を下ろす。
 「ボクにはよく判らないですけど、ボク、魔物が好きな生気を発しているらしいんですよ」
 「であろうね」
  驚きもせずにうん、と司教が頷く。
 「そうでなければタマゴ、お前があそこまで不死生物に好かれる理由が理解できない」
 「そりゃ、そうなんですけど。百万人に一人の生気の持ち主、とか言って。ボクのコトも、きっと半分以上餌でしか見てないに決まってるんです」
 「――」
 「珍獣扱いなんですよ、結局のところ」
 「――」
 「そういう契約を結んじゃったみたいだから仕方ないのかなぁ」
  言いながらボクは、つい先だって見た光景を思い出している。


  ボクの仕事は「僧侶見習い」と言う名の、詰まるところネイサム司教の補佐……なぞといえば聞こえはいいけど、結局のところ司教の尻拭い的役割なことが多い。
  いついつまでに持っていくはずだった許可証申請書を、なくしたのでもう一度もらってこい――
  だの、
  行くのが面倒くさい退魔依頼を代理でこなしてこい――
  だの。
  そんなのはまだいい方で、ヒドいものじゃあ司教のお気に入りのパン屋で、ねじり角度の絶妙なツイストパン買って来い、なんてのもある。
  自分で行けばいいじゃないかなんていう反論は、司教においては意味を成さない。
 「面倒くさい」
  そう返ってくるに決まっているからだ。
  そんなこんなで、昼食のツイストパン買いつつ、神殿にご機嫌伺いに訪れつつ、書類作成するのに必要な本を図書館で借りつつ……、
  どうせこれだけ雑用があるのだから、ちょっとやそっと遅れたところでネイサム司教にはバレやしないだろうと言うボクの若干の怠慢心が加わり、数日王都に(……というか、ボクん家に)滞在かつ潜伏しているハルアに教えてもらった、彫金士さんを訪ねることにした。
  あの、折れてしまった髪飾りをこのままにしていては、流石にいかんだろうなと思ったからだ。
  王室ご用達の彫金士さんの家なんてものは、ボクには想像が付かなかったけれど、仮にも「王室」なんである。
  そりゃ立派な錠前の付いた鉄門や、無駄にだだっ広い庭には牙を光らせた番犬なんかがウロウロとして――
  ウロウロとして――
  ――している様子を想像していたボクは、うっかりその彫金士さんの家の前を三度ほど、素通りする結果となった。
  半日どおりに住んでいるボクが言えた義理じゃないけど、こらまた簡素な造りの家である。
  錠前もなければ鉄門もない。
  番犬なんてもちろんいない。
  どころか、裏通り入ってすぐに玄関口があるんだから、もういたって普通の、一般市民の家だった。
  備え付けの呼び鈴を鳴らすこと数度。
  中から出てきたのは、針金のように体の細い、風が吹いたらフっ飛ぶじゃないだろうか……?なぞとボクが心配したくなるほどの、スジと骨と皮で出来たようなオジさんで、ボクの来意を聞くと、中へ案内してくれた。
 「見せてみなさい」
  乞われるままに、ボクは布に包んだ「元」髪飾り(らしきもの)を取り出し、オジさんに手渡す。
 「ふむ」
  これはまたずいぶん手荒に壊したね、だとか、
  修理不可能だから、新しいのを買いなさい、だとか、
  すぐに返事が戻ってくると覚悟していたボクは、作業台に戻り、割としげしげと髪飾りを眺めるオジさんに、恐る恐る尋ねた。
 「直り、ますか……、それ」
 「大事なものなのだろう」
 「え?あ、ええ、はい。大事なもの……だと思います。多分」
  そもそもシラスの部屋にあったもので、その価値がいかほどかボクには全く知る由もないものだったけれど、大事でもないものをシラスが持っているはずはない。
  部屋の中散乱している割に、物は少ないほうなんだよね。
 「同居人のものなんですけど、ボクの不注意でちょっと壊してしまって」
 「ふむ」
 「新しいものを買ったらいいと助言もされたんですけど、出来たら直して返したいんです」
 「まじないが籠められているね」
 「え?」
  予期してない言葉がオジさんから発せられて、ボクは思わず聞き返す。
 「おまじない、ですか?」
 「この道何年もやっているとね。たまにこういう品に遭遇する。俺は、魔法なんざ使えもしないし原理もさっぱり判らないがね。触れた感じが少し違う。それくらいさね」
  それからオジさんはようやく髪飾りから目を離して、
 「五日」
  ぼそりと言った。
  直してくれるらしい。
  ありがとうございます、お願いしますとボクはオジさんに頭を下げ、それから本来の司教の雑務に戻るべく、彫金士さんの家を後にして、大通りを歩き出し。
 「――あ。」
  しまった。
  唐突にボクは大変なことに気づいて回れ右をした。
  修理をお願いしたのはいいけど、いくらくらいかかるものなのか、お代を全く聞いてないことに気づいたのだ。
  もともとボクの不注意で壊してしまったものだし、修理費をケチるつもりはさらさらないけれど、
  それにしたって天国へ行けちゃいそうな金額を告げられたら、それなりに困る。
  困るというか、払えない。
  なけなしの貯金ハタいたって無理な金額だったら、それこそもうひとつ仕事を増やさないといけないかもしれない。
  なんせ元の素材が、ちょっとしたものでもお高めのガラス細工なのだ。
  時に修理のほうが、新品よりも高いというし。
 「あれ」
  くる、と回った瞬間に、少し離れた路地に、見慣れた姿が入っていくのを見たような気がした。
 「……シラス?」
  あんな真っ黒黒スケーな風体、広い王都だってなかなかいるもんじゃない。
  たいしたことじゃないんだけど、なんとなしに興味をそそられ、確か今シラスが入り込んだような気がした路地横に、ボクは歩を進める。
  今日は早めに帰れそうだから、奮発してどこかご飯食べに行こうか、とか。
  他愛もないことをヤツに言うつもりだった。
  昼間は引きこもりのハルアが寝泊りしている関係上、シラスは極力地下室に引きこもっちゃっていたから、なんとなく数日ぶりにシラスの顔を見ながらゆっくりご飯食べたいな、とか、そんな何気ない気持ちだった。
  や、別に数日顔をまともに合わせてないから気になる、とかそんなんじゃないんだけど!
  ほら、ボクは一応シラスのご主人様なわけだし、使い魔の様子をそれなりに伺っておいたほうがいいじゃないか。
  でも。
  後悔って後からするから後悔っていうんだよね。
  髪飾りをブチ壊してからと言うもの、この数日何度となく頭の中をリフレインした言葉が、また、ボクの頭をよぎる。
  見なきゃ、よかった。
 「シラ――、」
  影が、重なっていた。
  呼びかけかけたボクの言葉は、そのまま喉元で止まってしまう。
  路地通り、少し奥まった場所で、女の人と口付けているシラスの姿をボクははっきりと見てしまったからだ。


 「タマゴ」
 「は……はい?」
  不意に生真面目さを含んだネイサム司教の声に、ボクは無駄に書類を凝視していたことに気づいて、思わず背筋を伸ばして顔を上げる。
  イヤだな、何で目の前がちょっとぼやけているんだろう。
  ああ、もうなんなんだ、このモヤッと感。
 「お前が聞きたいのは――魔物とは何か、ではなく。アレ……お前の使い魔とは何か――なのだろう?」
 「あ――……え?」
  頭の中が、女の人とシラスのチュウシーンで一杯になっていたボクは、一瞬ネイサム司教の言っている言葉の意味が判らなくて首をひねる。
 「聞いてみればいいだろう」
 「聞く……?」
 「お前の使い魔に、お前の聞きたいことを素直に聞いてみればいい」
 「ボクの……聞きたいこと……」
  ボクの聞きたいこと。
  お茶を一口含み本っ当に珍しく書類に向かうネイサム司教を何とはなしに眺めながら、ボクはマグカップから立ち上る湯気に鼻を埋めたのだった。

                     *

  ――だから、気軽にボクは声をかけてみるつもりだったんだけどねー。
  自宅のテーブルに突っ伏して、ボクは頭を抱えている。
  結局、司教にそう言われてから数日経っちゃっていた。
  そら、「聞いてみればいい」だなんて、頷くのは安し、
  ――行うのは難し。
 「やぁシラス!こないだ街角でキレーなおねぃさんとチュウしてたのボクうっかり見ちゃった!ごめんね!ところでアレ誰!」
  だなんて聞けるわけがない。
  ああ、ちがーう。違う違う違う違う違う違う。
  聞きたいのはそうじゃなくて。
  ガシガシとボクは髪をかきむしって首を振った。
  あの綺麗なおねぃさんが、シラスの恋人だろうとそうじゃなかろうと、そんなもん、ボクが口を出す何の権利があるって言うんだ?
  シラスもボクも、それぞれ独立した立派な「大人」なんだから、好きにしたらいい。
  ただ、ボクが心配しているのは、シラスが「魔物」ってだけで、魔物は人間の生気を吸うんだからして!
  シラスが魔物としての性分を現して、ボク以外のヒトの生気を吸うってことなんかになったら、王都の治安が乱されるんだからして。
  ボク以外の人間からは生気を摂取しないという、契約。
  約束は護らなきゃいけないだろ、ヒトとして!
  頭の中で力説しながらボクは思わず握った拳の、左の甲を見る。
  赤い痣のようにも見えるそれは、シラスとボクが結んだ、主従の契約の証。
  ちっちゃい頃、まだ契約の意味の何たるかも判らない時に、シラスが「勝手に」、「強引に」、ボクと結んだ契約。
  まぁ、未だにボクがヤツに払う代価が何なんだか、判ってない箇所もあるんだ、けど。
  魔物取り扱いのスペシャリストであるネイサム司教に言わせると、魔物と人間が交わせる一番強い契約のひとつなんだ、そうだけれど。
  ……でもさ。
  左手の甲を何とはなしに擦りながら、ボクは思う。
  逆に考えたら、「これ」しか、ボクとヤツを結ぶ絆なんてないんじゃないのかな。
  人間に対して無駄に干渉しない、執着を示さない、魔物との契約。
  半ば一方的に交わされたときと同じように、一方的に解除されてしまうこともあり得るんじゃないのかな。
  そもそも、シラスがボクを拾ったのだって、それこそ半分以上「成り行き」みたいなものだったらしいし。
  たまたまシラスが通りすがった森の奥で、音がしたから興味を惹かれて辿ってみたら、隊商が凶暴化した魔獣に襲われていて、喰い散らかされてて、だのに奇跡的にボクだけが生き残ってたから、拾い上げた、的な。
  ああ、ダメだなボクは。
  命の恩人であるシラスに対して、「成り行き」だとか、そんなの失礼だよね、判ってる。
  頭では、判ってる。
  感謝すべきこそ、グチに思う筋合いじゃないんだろう。
  頭では判っているはずなのに、なんでこんなにすっきりしないんだろうな。
  おもむろにボクは、いけないなぁと思いながら、シラスの虎の子の年代ワインをぐいと瓶ごと傾けた。
  瓶の中身は、もう半分くらい減っていた。
  シラスが出掛けているのは知っていたから、今のところ、咎められる心配もない。
  これが、とてもとてもとてーもお高いワインだってことも、
  そのお高いワイン代を、古代精霊語の翻訳なんかで稼いで賄っていることも、
  これ以外の他のワインをシラスは飲まないってことも、
  ボクは全部知ってたけど、知らないことにした。
  丁度目の付いたところに、あったんだからしょうがない。
  別に、八つ当たりしてるとか、意地悪してるとか、そんなんじゃあ、ないのだ。
  断じて。
  ……でもさ。
  始まったときと同じように、ある日突然飽きられてしまうコトだって、あるよね。
  ボクと契約を結んだ理由のひとつに、ヤツはボクのことを、「百万人に一人の生気の持ち主」だからだ、って前に絶賛したことがあったけど、(聞いたってボクは嬉しくも何ともなかったけれども)
  でも、その論理でいくとさ。
  一千万人に一人とか、一億人に一人とかの、もっともっと上等な生気の持ち主をもし見つけたら、
  ……見つけたとしたら。
  その人間と、シラスは契約を結ぶのだろうか。
  そうしたら、ボクはどうなっちゃうんだろう。
 「捨てられる?……バカだなぁ」
  莫迦だな。
  呟いた声に、自嘲する。
  『コイビト』でもあるまいし。
  子供の頃ならまだしも、こうして自分で働いて生活費を稼げる年齢になって、捨てるも捨てられるもあったもんじゃあ、ない。
  そうじゃなくても、シラスは前からそれなりに王都のおねぃさん達からは妙に人気があって、
 「不思議な雰囲気を漂わせているところがいい」
  とかなんとか、恋文と思しき封筒を何通も貰っているのをボクも見たことがあったし、家に押しかけてくる女のヒトだっていない訳じゃなかった。
  その内の誰か気に入ったヒトと、付き合うことになったって、おかしくもなんともない、ハズなのだ。
  ただ単に、今までそういう浮いた話があまりなかったというだけで。
  ヤツの基の顔の作りはそう悪い訳じゃないし、横にすらっとした綺麗な人が並んでいたらそりゃあ見栄えのする絵になるだろう。
  だのに、胸の奥がちくちくする。
  なんだろう、飲みすぎたせいなんだろうか。
  自分自身を見下ろして、ボクは小さくため息をついた。
  ボクの取り柄って何だろう。
  ズバ抜けてスタイルや容姿が良い訳じゃない。
  どころか、友達のミヨちゃんを見る度に、あんな女らしい可愛いヒトになりたいなと憧れる毎日なんである。
  なりたい魔法介護士の試験には、8年連続でオチていて、未だに夢もかなえられない。
  僧侶見習いの仕事をしているけれど、ネイサム司教のように、退魔の術に優れているって訳でもない。
  かといって、他の何かの能力に優れているわけでもない。
  せいぜい、不死生物に好かれる特異体質だって言うことと、
  シラスが言うところの「百万人に一人の生気の持ち主」ってところくらいじゃあ、なかろうか。
  でもさ。
  じゃあやっぱり、ボクよりも美味しそうな生気の人間を見つけたら、シラスはその人と新しい契約を結ぶのかな。
  そうだとしたら、ボクにはいったい何が残るんだろう。
  ああ。
  イヤだな。
  なんでこんなにグチグチと堂々巡りしているんだろう。
  もしシラスがいなくなったとして、それはそれで願ったり叶ったりじゃないか。
  家が狭いと文句を言うこともなくなるし、いつまで魔物と暮らすんだとネイサム司教に渋い顔をされることもなくなるし、生気を吸われて具合が悪くなることもなくなる。
  快適そのものじゃあないか。
  だのに、そうなることを考えただけでひどく心もとないのは何でなんだろう。
 「もう。何なんだろう」
  絶対、だとかきっと、なんてものはどこにもなくて。
  ボクはなんて頼りのない基礎地に足をつけているのだろう。
  ぽっかりと、風穴が開いたようなスウスウする気持ちを埋めたくて、ボクはまたワインに口をつけてぐいと呷った。
  ところへ、
 「――ああ、ありがとう。俺も”愛している”よ」
  傾ぎかけた玄関の扉を開けて、華やかな雰囲気が一気にくすんだ空気の室内になだれ込む。
  扉越しにとろける様な笑顔を振りまいて、小さく手をひとつ振る、金の髪の王子サマ。
  香水の移り香がまだ新しい、そういや一体コノヒトは何をしに王都に来たんだ……ろうね?
 「そうだな。また今度。ああ、おやすみ……そうだね。俺も君の夢を見よう」
  あっまーい。
  思わず突っ込みたくなった台詞をのうのうと吐いて、
  片腕に花束だかプレゼントだかいくつも抱えて。
  あー、いつもの御凱旋のお時間でしたねー。ご馳走様です。お疲れ様でした。
  そんなボクの心の声に気付いたか気づかないか扉を閉め、くるりとこちらに踵を返したハルアは、
 「うわ」
  まるで甘い雰囲気台無しの素の声を上げる。
  飲んだくれているボクを目にしたからだろう。
 「おかえり」
 「どうした」
  片肘を突いて胡乱な目で見上げるボクに視線を流し、瞬きひとつのあいだにすっと真面目な顔になったハルアは、自然な動作で傍らの椅子に座る。
  ふわ、と甘い花の香りが漂う。
 「なにが」
 「様子が変だぞ」
 「別に」
  ふーん、なんて鼻から息を洩らしながら、ハルアはボクの手からワインをひょいと取り上げ、
 「うわ」
  本日二度目の素の声を上げた。
 「恐ろしく良いヤツ飲んでるな」
  王宮でもそうそう見かけたことないぞ、だとか感心しながらまじまじとラベルを眺めてたりする。
 「いいの。ボクのじゃないし」
 「……シラスと何かあったのか?」
  頼むから、そう間近でボクの顔を覗き込むのはやめてほしい。
  なんだかんだ、世間の水を飲んでいるようでヒネくれているように見えて、意外と天真爛漫に箱入りで育ったハルアは、(まぁ「元」は付くけど王太子だったんだし、そうそう世辱にまみれてちゃいけないのだろうけどさ)時にまっすぐな目をする。
  する相手、結構限定、だけど。
  まぁ、周りに群れるおねーちゃんたちにはこうした目をしているのを見たことがない訳だけど。
  してりゃ、もうちょっと、ボクのところ限定じゃなくて、王都にいくつか「アジト」が出来るだろうになぁ、って思ったりする。
 「なっ、ばばばばばば莫迦言うなよ、別にシラスと何もないよっていうかなんでいきなりシラス限定なんだよそこ!仕事で嫌なことがあったとか、介護士の受験勉強のストレスとか、要素はいくつかあるだろ!」
 「ないだろ」
 「ななななんでだよ」
 「だってお前、昔っから、シラス絡みでしか不貞腐れたこと、ないぜ?」
  そういう、余計なこと、覚えてくれていなくて結構だ。
 「ボボボボボクだって仕事の!憂さ晴らしを!したい日だってあるよ」
 「ふぅん」
 「な、なんだよ」
  探るような視線に切り替えたハルアは、
 「まぁ、それならそれでいいけどさ」
  トンとワインボトルをテーブルに置くと、不意に立ち上がる。
 「こんなところでクダ巻いてるのも陰気だろ。どうせならウサ晴らし、ぱーーーっと外で飲み明かそうぜッ」
  な?
  そうして強引にボクの腕を引くと、ニッと笑って、ウィンクするのだった。
  ああ、素晴らしきタラシの笑顔。

                 *

  ちょっとハルアと飲んでくる、って。そう書置きを残してボクは出かけたのだった。
  だからもちろん、家に帰ったらいつもの通りの仏頂面で、シラスが迎えに出てくれるものだと思ってた。
  出迎えてくれるかどうかは判らないけど、暖炉前のソファに寝そべっているか、地下室に籠っているか、そのほかの場所にいるのが思いつかないから二択。
  おかえりって言ってくれるかな。
  それとも、大事なワインを飲んじゃったから怒ってるだろうか。
  ああ、でも、怒ってるっていっても、きっとシラスは本気でワインごときじゃ怒らないだろうから、形だけちょっと怒ったような顔をして、それで許してくれるかな。
  それともちょっとは怒ってて、ワインの代わりに生気吸わせろって言われるだろうか。
  ハルアの行きつけの酒場でさんざん飲んで騒いで、ついでに明日帰る予定だったアリオンを呼び出して。何度も乾杯を繰り返していたら、なんかグチャグチャ悩んでたことがいい加減バカバカしくなって、もう酔っ払った勢いで家に帰ったら問い詰めてやろうと思ってボクはハルアとアリオンと仲良く肩を組んで家に帰ったのだった。
  三次会だーって言って。
  今日は朝まで飲み明かすぞーって言って。
  だったから。

  ボクの家には、誰もいなかった。

  拍子抜けするくらいに。

  散歩からまだ帰ってきていないワケじゃないことはすぐに分かった。テーブルの上に書置きがあったから。
 『しばらく留守にする』
  ざっと流し書きされたシラスの雑な字のメモが、ボクのちょっと飲んでくる、の上に重ねられてテーブルに置いてあった。
  破ったような裏紙に一行だけ。
 「シラス。どこ行っちゃったんだろ」
  何時間のことなのか、何日かのことなのか、そんなことも書いていない。
  そんな書置きだけでどこかに行っちゃうことは、これで二回目だった。
  一度目は目の前のハルアと一緒に、王さま殺害未遂の犯人を追うために出かけた時。あの時のことが、あんまりいい思い出になってないボクとしては、なんとなくこうした書置きだけで姿を消されちゃうというのは不安だ。
  また何かあったらどうしようって気になってくる。
 「……シラス?」
  真っ赤な顔をして半分ハルアに引きずられた格好でボクの家に拉致されてきたアリオンが、よく呂律の回っていない口調で言った。
 「シラスって、誰だァ?」
 「ちょ、アリオン……そりゃ酔っ払いすぎだろ」
  呆れた声が思わず漏れる。
  まぁ飲ませたのはボクとハルアなんだけど。二対一の割合であそう強くもないと知ってるアリオンに飲ませたんだけど。
  だとしたって、意識朦朧としてたって、あんまりだ。
  しょうがないなぁって、アリオンの腕を肩に回して同じようにフラフラ立っていたハルアに目をやると、彼は割と真面目な顔でじっとボクを見ていた。
 「……ハルア?」
 「なぁ、レイディ」
 「なに?」
 「さっき、酒場で言いそびれた」
 「何を?」
 「前から言おうと思ってたんだが」
 「うん」
  改まって何だろう。いつもヘラヘラしている相手に、急に真面目な態度をとられると、茶化していいのかこっちもきちんと対応したらいいのか判らなくなる。
 「俺が――、俺がもし」
  支えていた腕の力を抜いたようで、ゴン、だとかいう音がして、見ると爆睡にスイッチ入ったアリオンが、床に転がっていた。
  ……今の音、絶対タンコブできてると思うぞ。
  そんなことを思ってついでにテーブルを見ると、シラスが飲んでいったのか紅茶のカップが置いてあって、見た瞬間無性に酒モードからお茶モードに切り替わる。うん、ともう一度促して、そのままお湯を沸かしに暖炉へ近づくと、苦笑いしたハルアが椅子に腰かけていた。
  長い脚がいつもながらイヤミだ。
 「もし……何?」
 「いや。いい。落ち込んでるところを狙うのは良くない気がしてきた」
 「どういうこと?」
 「そもそもパパが怖いことを忘れてた」
 「……怖い?」
  そういえば最初に皇都に来た時も、アリオンと一緒にシラスのことが怖いだとか言っていた気がする。ボクにはちっともその怖さが判らない。
 「シラス怖くないよ?」
 「……レイディは知らないんだよ」
 「何を?」
  重ねて聞くとハルアが笑った。さっきの苦笑いとはまた別の、でもやっぱりそれも苦笑いだ。
 「これ、絶対本人に言うなよ」
  そう言う。
 「うん」
 「あのな。俺が一番最初にお前ん家に遊びに来た時な、お前がいない隙に胸倉掴まれて、言う訳。『レイディに手を出したら容赦なくシバくぞ』とかなんとか」
  髪を掻き上げて、ファーストインパクトが強すぎなんだよ、とかボヤいている。
 「別に俺だけじゃないぜ。お前にちょっかい掛けそうなやつには片っ端からそれやってるはずだ。アリオンにも前にそれとなく聞いてみたけど、似たようなこと言われてたって笑ってたよアイツは。俺ら軽くトラウマ」
 「そ、れ、は」
  それはトラウマになるかもしれません。
 「……そんなの知らなかった……」
 「そりゃ言わんだろ」
  はは、と軽く流してハルアは笑った。
  そんな彼に淹れたお茶を差し出しながら、ボクはもう一度深く溜息をつく。
 「なんだ、溜息をつくと幸せが逃げていくぞ」
 「オバさんか、キミは」
  受け取りながら茶化すハルアに、ボクはでもやっぱり笑ってしまった。場の空気を読むことにかけては、コイツはケタ外れに上手い。良くも悪くも王宮で鍛えられたんだろうなー、だとか思う。
 「で。何をそんなに悩んでたんだ」
 「あー……うん。別に大したことじゃないんだけど」
 「大したことじゃなくていい。聞かせてくれ」
 「うん……、」


  言われてボクは、紅茶カップを両手で持ちながらぽつぽつと語った。シラスが女の人と抱き合ってたこと。それを見てなんだかショックだったこと。ネイサム司教に、シラスにきちんと聞いてみろと言われたこと。なかなか聞く機会がないうちに今日になっちゃってたこと。
  短くまとまると思ってた話は、だけどいつの間にか紅茶がすっかり冷えるくらいには長くなってしまっていた。
 「ボクのこと、本当は邪魔だったんじゃないかな、とか」

 「んなワケない」

 「え?」
  いつの間にかアリオンが目を覚まして床の上からこっちを見ている。ああ、判る判る。飲みすぎて爆睡すると、いきなりパッチリ目が覚めたりするよね。
  おはよう、だとかボクが口を開くと、
 「頭いてぇええええ」
  唸りながらアリオンが起き上った。
 「お茶。冷たくなったやつでいいなら飲む?」
 「飲む」
  床板の上に胡坐をかいて、アリオンがカップを受け取る。それを一気に飲み干してから、
 「なーにをグジグジ悩んでるんだか知らないけど、今日酒場でスネてたのはそれが原因なのか?」
  ボクにそう聞いた。
 「うん」
  たぶん、途中から聞いていたんだろう。
  ボクはどうもアリオンだけには意地を張れなくて、素直に頷いた。
 「あのさ」
 「うん」
 「……親父がさ、最近腰が痛いって言い始めて、今まで親父がやってた牧場仕事も俺が受け持つことになったんだ」
 「うん」
  唐突にアリオンがそんなことを言う。
  意図が判らなくて、ボクはとりあえず頷いた。
  自給自足が基本の村の暮らしは、もちろん他にも畑仕事や牛やヤギや鶏や豚さんなんかの世話があったりする訳なんだけど、アリオンのところの唯一の収入源が、羊毛なんである。これを糸にして、毛糸玉にして、町へ売りに来て村では手に入り難い品物を物々交換していくのだ。
 「レイディも知ってるようにさ、うちの牧場はほとんどが羊なワケなんだけど。まぁ、大きい羊は普段は毛さえ刈り取ってやれば、あとは野犬とか狼とかに気を付けて放牧してりゃ、いいようなヤツらなんだけどさ」
 「うん」
 「親父が結構簡単にやってるからタカ括ってたら、孕んでる母羊の世話が、もう豪い大変でさ。アイツらこっちの都合お構いなしに産むし。冷える朝、放っておいたら仔は凍死しちまうし、徹夜したりする訳」
 「うん」
  僧侶見習い魔法介護士未満のボクとは違って、アリオンはボクと一つ違いでももう立派な村の働き手なんである。
 「……それでも産まれりゃなんとでもなるんだけど、難産だったりしたら二、三日メシもロクに食わずに付きっ切りとかさ。一頭でも死なせたら親父にブン殴られるしな。でもな。そうやって頑張って、手を尽くしたんだけど、こないだお産が重すぎて肥立ちが悪くて産後三日で死んじまった母親がいてな」
 「うん」
 「仔は元気に二頭生まれたんだけどさ。おっ母さん羊はいなくなっちまうし、ちっちゃくてまだ草食えねぇし。丁度いい乳母になれそうなメスもいなくて、仕方ないから俺が小屋に寝泊まりして哺乳したんだよ」
 「うん」
 「アイツ等な。真夜中だろうが、俺が寝てようが、小屋で寝泊まりしてたから風邪ひいちまって熱出してようが、こっちがどうなっていようがお構いなしなワケ。飲ませろ、起きろって鼻づらで突っつかれでその度に起きて、牛の乳温めて飲ませて」
  アイツ等必死で飲むのな。
  そう言うアリオンの顔は、さっきまでの酔っ払い、寝こけていただらしのない顔じゃない。
  大変だった、そう口では言うのにどこか誇らしそうというか、嬉しそうだった。
 「もうね、自分の都合なんかどっか飛んじまってさ。俺、男だし、羊産めないし、乳も出ないけど、ここ三か月はアイツ等のおっ母さんになりきったと思う。……実際アイツら牧場で仕事してるとき俺のあとずっと付いてきてもう可愛いくってな」
 「うん」
  目尻を下げる親バカっぷりだ。
  頷いて返しながらその言い方にボクは笑った。
 「……でな。アイツ等のおっ母さんになりながら、改めて俺、お袋のことすげぇなぁって思ってさ。そりゃいつも小うるさいし、未だにガキ扱いするし、たまには喧嘩したりするけどさ。……それでも、赤ん坊だった俺を育ててくれた人なんだなーって、なんか寝泊まりした小屋でしみじみ思ったんだよな。人間の赤ん坊なんてこないだゴル兄ん家で生まれたけど、羊なんかメじゃねぇって」
 「可愛いさ?」
 「じゃなくて、手の掛かりようがさ。乳だおしめだ熱出した吐いた夜泣きしたひきつけ起こしたーって、ゴル兄のヨメさん何度も家のお袋のところ駆け込んできてた」
  だからさ。
  じっとアリオンはボクを見て、それからハルアに目を移してはっきりと言った。
 「赤ん坊だったお前を育てたシラスは、すごいよ」
 「……」
 「生半可な覚悟じゃ、赤ん坊なんか育てられないよ」
 「……」
  安心しろ。そう言ってアリオンはゆっくり笑う。
 「お前はきちんとシラスに大事にされてるよ」


  そうして、アリオンは母さんたちへのお土産とライラへの結婚祝いと、
  ……盛大な二日酔いと。
  たくさん抱えて村へと帰って行ったのだった。


  しかし。
 「困ったな」
 「予想外だねぇ」
  付き合いのいい(?)ハルアは、未だに帰る様子を見せず、そんなこんなしているうちにシラスが書置きを残してから三日。
  こんなに帰ってこないとは思わなかった。せいぜい次の日には帰ってくると思っていた。流石に今までシラスが、二日も三日も家を空けたのを見たことがないので、何となく落ち着かなくなる。
 「参ったー……」
  補修してもらった手の中の髪飾りの包みをぽんぽんと弄びながら、ボクはがっくりと項垂れる。
 「んなにオチこむことでもないだろ」
 「謝るきっかけが逃げてる気がする……」
  ちなみに今は夕方だ。若干薄暗いとはいえ、のんんびりと隣を歩いている元大司祭は、今や世間の目を憚らなければいけない、前科者、のハズなんだけど。
 「王子、これ食べておくれよ」
 「王子様、最近顔見ないね」
 「王子、ウチにも寄ってってよ」
  ちょっと出歩けばあちこちからハルアにかかる声。いや、いいんだけど。いいんだけど!
  お忍びっていうか、隠密っていうか、なんていうかコレじゃ城下町にハルアがいるってことお城の方にも筒抜けなんじゃないんですか。
  冤罪だということをボクは知っているけれど、一応、世間的な発表では、ハルアは父親である王さまの命を狙っって謀殺未遂の首謀者、てことになってるハズだ。実際王さまも重傷を負った訳で、未遂とはいえ結構大きな事件になって……
  ると思うんだけど。
 「なんでこんなにフレンドリーなんだろね?」 
 「俺の人徳?」
 「それはない」
  まぁ、口に出したらきっと調子に乗るから言わないけど、きっと人徳と言うのはあたってるんだろう。人徳と言うのとはちょっと違うのかもしれないけど、確かにハルアは城下の人たちから慕われてて、それは風の噂で流れてくる国王暗殺未遂なんかよりきっとずっと強い力で結ばれている。
  それが本人の資質によるところなのか、昔っからお城を抜け出してはちょくちょく城下町に遊びに来てたおかげなのかは知らないけども。
 「あ」
  いきなりハルアが素っ頓狂な声を上げて、足を止めた。
 「……ハルア?」
 「今お前のパパがいた気がする」
 「え?」
  ちょいちょい、と親指で脇の路地裏を指さされて、ボクも数歩離れたハルアの元に戻った。
 「シラスだった?」
 「ぱっと見だったからはっきりは判らねぇけど、真っ黒のまたぞろ長い服着てる人間はそうそういないよな」
 「九割方シラスっぽいなぁ」
  言いながらボクは路地裏へ頭を突っ込んで様子を伺う。路地裏と言ったって家と家の隙間を何とか人が通れる程度の幅取りました的な、道と言うには人がすれ違えそうにもない細い通路で、
  先に進んでいたハルアがひゅっと息を飲む音がして、
 「なに?」
  ボクは興味津々、ハルアの脇から前を眺めた。
  そこにいたのは。
  そこにいたのは、相変わらずな恰好をした黒ずくめのシラスと、
 「……こりゃまた言い訳が効かないな」
  きれいなおねぃさん。


  ウロたえた様子のハルアとは違って、こうした場面を見てしまうことが二度目のボクは、正直落ち着いて――と言うのとはちょっと違うのだろうか、だけどなんだか冷めた頭で眺められてしまった。
  女の人の服装とか。
  二人が熱烈に抱き合っているとか。
  シラスの左手が、女の人の小さな頭を支えて二人の顔が重な――
 「ハルア」
 「……なぁ、レイディ」
  後ろからそっと囁いたボクを相当気にしているんだろう、肩越しに振り返ったハルアの顔はえらく神妙だった。
 「とりあえず回れ右して駆け出すか?」
 「ううん、だいじょぶ」
 「泣くか?」
 「や、それも平気」
 「ムリしなくていいぞ?俺の胸でいいならいくらでも貸してやる」
 「ありがと、でもそうじゃなくってさ」
  心配してくれているらしいハルアの顔は心底「困った」顔をしていた。頼りなく下がった眉がおかしい。いつも自信満々なヤツでもこういう顔するときあるんだなぁ、だとかどうでもいいことを思いながらボクは、
 「あのさ」
 「うん」
 「あれ、シラスじゃない」
 「は?」
  目を剝いたハルアに、二度繰り返した。
 「あれ、シラスじゃない」
  そう。
  上げたシラスの左手に、ボクの左手とおそろいの模様の、主従の契約のしるしがそこには刻まれていなかったんだ。
決して消えない契約のしるし。
  そう気づいてよくよく見れば、シラスに似てはいるけど何か違う。朧というか虚ろというか、シラスであってシラスじゃない、よく知っているような顔かたちなのにそれはどこか違う、貼り付けたお面のような表情の、どこかで見たことのあるようなそれは、
 「あー……なんか知ってるな、ボク」
 「レイディ?」
 「ていうか思い出した」
「なにを」
「あれ、アドグだ」
 「はぁッ?」
  そう言ったボクの言葉に、今度こそハルアは抑えきれない声を出して、それを聞いたんだろう、熱烈にキスしてた少し離れた袋小路の二人が、驚いてボクらの方を向いたのだった。

                  *

 「……。……。……とりあえずだな、ちょっとそこに座れ」
 「何ダ」
  つかつかと近付いたハルアが、無理矢理アドグをおねぃさんから引きはがす。その強引と言うかぶしつけな行為に、若干どころか、あからさまに不愉快そうな顔をした女のヒトの耳に、何かをハルアが囁いた。シラスの恰好をしたアドグと、ハルアを一瞬見比べ、途端に頬をポッと染めた女のヒトは、それ以上何を言うまでもなく投げキッスを一つ二人に寄越して、それから路地裏を出て行った。
  何を囁いたのか知らないけど、何となくタラシのテクニックを目の当たりにしたような気がするよ、ボクは。
 「お前なー……一体王都来て何やってるんだよー?」
  目の前にアドグを正座させて、ハルアが呆れたように溜息を吐く。
  そうだよね、確かに王都に来て何しているんだろうねとボクは頷いて同意しそうになったけど、
 「ハルアも大して違ったことしてないよね」
 「ややこしくなるから、レイディはとりあえず黙っててくれ」
  思わず本音とやらが口を衝いて出てしまった。あ、すいません。
 「神殿で大人しく留守番しててくれって言っただろ?なんでこっち来てるんだよ」
 「アナタを探シに来た」
 「……俺?」
  素直に正座はしたものの、上目使いに不満を訴えるアドグは、前に見た時よりよほど人間らしくなっているような気がする。
  や、そもそも魔物相手に「人間らしい」が褒め言葉なのか判らないし、ボクがアドグと接したって言うのは、頭ブン殴られる手前のちょっとした時間だけだったから、そんなに詳しくは知らないんだけど。
 「国王の使いガ、かすたーずぐらっどカラやって来て、アナタ……に変化したワタシに封書を渡したのダ。けれど、ワタシでは返事の判断ガ出来ナイ」
 「理由は理解したが、で、なんでシラスの恰好してるんだよ」
 「ヒトの姿を取らナイと、ワタシ本来の姿では目立ちすぎる……のダガ、アナタに変化するには王都では支障がアル。と言って、見たことがナイ人間には変化しニクイ。他にワタシがよく見たコトがあってヒトの姿をした物と言えば、彼しかイナイ」
 「んじゃなんでそのままおねーちゃんとシケ込んでんだよ?」
 「本意ではナカッタのダ」
  問い詰められ、情けない顔をして(シラスの顔で困った顔をするもんだから、大変に気色が悪い)、アドグが肩を竦める。
 「王都に来たはイイガ、アナタの足取りの手掛かりがワタシには全くナカッタ。たまたま、道を歩いていた人間の女に道を尋ねたラ、付いて来レバ教えてやると言ワレテ、そのまま」
 「そのまま……」
 「連れ込まレ、生気を吸わせてクレたのはイイガ、一向にアナタの住処を教えてくレル気配はなかったカラ……実は困っていたトコロだったのダ」
 「一週間?」
 「そう。一週間」
 「あー……そう」
  唸ってハルアが眉間を指で揉む。
 「あのな。お前、そりゃ騙されてるんだよ」
 「……騙されル」
 「うーん。騙すとか言うとなんか誤解生みそうか。つまりだ、あのおねーちゃんは、好みの顔をしたお前とイイコトしたかっただけであって、俺の居場所知ってた訳じゃあない気がするぞ」
  ですよねー。
  聞いてたボクもそう思う。
  ただ、一つだけ完全に「騙された」だけじゃない気がするのは、アドグが魔物でおねぃさんが人間だったってことじゃないだろうか。おねぃさんにとっては、「若くて顔もそこそこいい男をひっかけた」だけなんだろうけど、アドグにとっては「生気を無償で吸わせてくれる相手」だ。
  生気を吸うと言っても、さっきのおねぃさんの様子から見るに、ブッ倒れるまで吸っている感じじゃあなかったけど、
 「あー……でもキミ、ここでは『そういうコト』やめた方がいいと思うよ」
  思い当たったことがあってボクが不意に口をはさむと、きょとんとした顔でアドグがボクの方を見た。
  きょとん。
  きょとん、とか。
  いやもう本当に、普段仏頂面のシラスの顔でそんな純真無垢な表情されると、ある種の視覚の暴力なんで、どうにも勘弁してほしいです。
 「ここ、強い退魔士いるから、あんまり漁ってると見つかって強制送還されるよ」
 「退魔……士?」
 「うん」
  そう、ボクの問題ある上司のネイサム司教は、実に実にその性格と反して、とても強い力を持つ「退魔士」なんである。
  ちなみによく誤解されてるけど、「退魔士」って別に魔物を殺したり倒したりする訳じゃない。まぁどうしても必要というか不可避な時だけ、そういう事するみたいだけど。
  ボクには理屈がよく判らないのだけど、基本、その名前の通り「退魔」はするけど、「消滅」させるワケじゃあないらしい。理屈はともかく毎日ネイサム司教の仕事を手伝(……うと言う名前の態のいい後始末)っていると、体感できることはいくつもある。
  魔物と一括りに言っても、大雑把に分けるといくつかの種類に分かれるワケだ。
  ひとつ。俗に言う『不死生物(アンデッド)』。
  ホネだのゾンビだの、成仏できてない怨霊だのそういうの。このヒトらは、あんまり自分で考えて行動してるワケじゃなくって、何か心残りがあって引っかかってて、スムーズに昇天できていないわけなので、その原因を突き止めて解決してやれば、勝手に成仏してくれる。
  たとえば、お墓を壊されちゃったとか、埋めておいたへそくりが気になるとか、そういう類のもの。
  ふたつ。魔獣と呼ばれる、街道筋なんかで商隊の馬車なんかを襲う獣類。
  これはどちらかというと、魔物だとか魔物ではないとかあんまり関係なくて、いわゆる野犬の群れみたいなもんだ。こないだのお猿のバブーンとかもそう。あと、ラントリアルとかムドゥブとかもそれにあたる。
  最初は彼らが嫌う音や色を街道筋に設置して、それで襲ってこないか様子を見る。ムドゥブのように相手がでっかい場合や、直接に対決するには相当危険な生物の場合も、まずは生態系を調査して、動きを把握する。
  どうしても抑えきれない場合、例えば人の肉に味を占めて定期的に村を襲ったりする場合は、これは仕方なく退治したりする。
  みっつめ。魔界とやらから来た、水準以上の知能がある生物たち。または知能はともかく身体能力を持つ者たち。
  シラスやアドグ、あと古墳で湧いてたグレイスだとか。これは、ある程度自分の意思であちらからこちらへ移動してきているので、話が通じる相手なら説得して戻ってもらうとか、あとはその「ゲート」とやらを強引に閉じてこちらへ来られないようにしてしまう方法もある……みたい。
  ひとつめとふたつめはともかく、みっつ目の状況にボクは今のところ遭遇したことがないので、ネイサム司教がどうやって彼らを説得するのかは判らないんだよね。
  グレイスの時も、結局ボクはばっさり切られて痛い思いをして、そこから記憶飛んじゃったし。ボクがブッ倒れてる間に、シラスがゲート閉じたりしたみたいだけど、見てなかったし。見たかったか、って言われると、できることならグレイスなんて二度と見たくないわけなんだけど。
  そもそもあの顔ナシ生物に話が通じるような気がしない。しない以前にあの両手鎌とか本当にお腹いっぱいです。ばっさり切られるとかもう沢山です。
  話が大分逸れた。
  まぁそんなワケで、ボクの上司は「そういう」お仕事をしている。ちなみに退魔士だからと言って魔物に多少の愛着はあるんじゃないかとか、憐憫の情を示すんじゃないかとか、甘っちょろいことを考えたら泣きを見る。
  ネイサム司教は、上で言うところの「ひとつめ」と「ふたつめ」には、たぶんある程度の誠意というか敬意をもって接していると思う。成仏し損ねた不死生物にたいしての手加減具合は、たぶんボクや他の見習いに対する態度よりずっと優しい。
  ……んだけど。
 「みっつめ」に関して言えば、なんか容赦ないって言うか、ぶっちゃけて言えば毛嫌いしているようなところがあるんだよねー。グレイスなんかはともかく、シラスのことは司教、確実に目の敵にしているようなところがある。
  こないだなんか、ボクが忘れたお弁当に気付いてシラスが教会まで届けてくれたんだけど、教会の門扉のところで司教とハチ合わせしたらしく。
 「入れろ」
 「入れない」
  の押し問答を延々30分くらいしてたって言うんだから、なんともまぁ大人気ないと言うか、40ちょいの大人と2000ウン歳の大人がやる言い争いじゃない気がする。
  まぁ言い争いは今はいいや。
  言いたいことはそうではなくて、
 「ハルアと一緒に退散した方がいいよ?」
 「俺もかよ」
 「だってまたアドグが下心あるヒトに引っかかったら大変じゃあないか」
  ネイサム司教が駆り出されるってことは、ボクにまでお仕事が回ってくる可能性が高い。生活の糧に仕事はもちろん必要だけれど、何もひとつ依頼事を増やすことはない。
 「そうか……じゃあ、一緒に帰るか」
  やれやれと首を回してハルアが長々と息を吐き、アドグを見た。……しかしほんっとーにこの人は王都に何をしに来たんでしょうねー?
 「レイディ……と言ったナ」
 「あ……うん」
  不意にアドグがボクを見てそう言う。
  そういや、シラスはともかく、「知能があって」「それなりに会話が成立する」魔物と話すだなんて初めての経験だ。少しだけボクは緊張して背筋を伸ばした。
 「あの時は済まナかった」
 「……あの時?」
 「人間ノ身体の柔らかさが判らなくテ、力加減を見誤っタ。痛かったろう」
 「そういや角材だか鉄棒だかでブン殴られて、おっきなタンコブできたなぁ」
  頭が割れるように痛い、だとか言う言葉を身を以って実感させていただきましたです、はい。
  後頭部を撫ぜながらボクがぼそりと呟くと、アドグはますます困った顔をした。
 「ごめんナさい」
  そこまで素直に謝られちゃうと、文句の一つも言えなくなる。
  と言うより痛かったのはもう前の話だし、ボクは別にアドグをいじめて楽しむ趣味もなかったので、いいよと笑って見せた。
  人間代表、だなんて大それたこと言うつもりもないけど、とてもとても昔ダッタールとかいう皇帝がアドグやその仲間たちにしたことに比べたら、ほんの些細なことだ。
 「もうタンコブ引っ込んだし。気にしてないよ」
  それより家に帰ろう。
  笑っていいものかどうかボクは悩んだけれど、結局笑うことにして、ハルアとアドグを交互に眺めた。謹慎処分を受けている神殿に帰るにしたって、ここから乗合馬車で何日かはかかるワケだし。もう夕方だ。そもそもこの時間じゃもう一日数本の馬車はないと思う。
  一旦ボクの家に帰って、ご飯食べて寝て、明日の朝一番の馬車で帰るのが良いように思う。
  そう言おうと口を開きかけたところへ、まじまじとボクを眺めていたアドグがいきなり抱きついてきた。
 「なななななななー?」
 「ありがとう」
  あ、さっきのボクの「気にしてないよ」発言に感動してくれたんですね。こちらこそありがとうございます。ところでシラスの顔で、そういうワンコ的な行動に出られると、色々とびっくりして心臓に悪いです。
  抱きつかれ、引き攣りつつ、まぁ悪気はないらしいアドグの背中を叩いてあげようかと思った。人間の生活とか習慣に慣れてないなら仕方がない。おいおいハルアが教えてくれるだろう。
  だとか、思った瞬間、背後に不穏な気配を感じた。
  や、不穏、で済ませられないかもしれない。
  はっきりと殺気。
 「――お・れ・の・も・の・に・手・を・出・す・な・」
  ゆらりと陽炎ぐらい立ち込めちゃってるような気がする。怨念と言うか、呪怨というか。負のパワーみたいなものがあるとしたら、きっと今まさしくそれはボク……というより、ボクに抱きついているアドグに向かって注がれているんだろう。
  久しぶりに耳にした声だった。
 「シラス」
  名前を呼ぶと、ボクに抱きついてるヤツと同じような顔をした本物が、凶悪な顔でこちらへ視線を移したのだった。



(20101115)
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最終更新:2011年10月15日 23:14