<<花のように気まぐれなひと>>
自分の欲望が見せた夢ではないかと思うことが、チャトラは最近よくある。
実際、自分自身のおかれている状況のことだ。
窓ガラス越し、日差しはやわらかで暖かい。毛足の長い絨毯の上に寝そべると、それだけで数時間は昼寝が出来てしまう。
「よく寝られるものだ」
自分を「飼う」男は、そう感心しきりである。
チャトラにしてみれば、真逆に不思議で仕方がない。
「なぜ寝つきが悪いのか」
睡眠直前に濃い茶を飲もうと、たった今まで走り回っていようと、横になればすぐに寝てしまえるのは悲しいかな、貧民街で身に付けた。
特技といってもかまわないのかもしれない。
腹が膨れ、暖かで、安全である場所で、これ以上睡眠の条件に何を望むというのか。
疑問をそのまま口にすると、傍らの男は薄く笑ってみせた。
苦笑だったのかもしれない。
そう言えばこの男は、よく笑って「みせる」のだな、と思う。
心からほほえましい出来事に遭遇したから、だから男は笑むのではない。
場の状況を、読む。
「そうしたほうがよいから」
笑って「みせる」。
それも、チャトラには不思議だ。
「おかしくもないのに笑えるか」
そうも思う。
寝そべるチャトラを見る男の顔は異様に白い。
元来の色素が薄いということももちろんあるだろう。
それにしても、病的な青白さだ。
ふと興味を覚えて、読みかけの本に添える男の指に触れてみる。
鼻まで埋まりそうな柔らかな銀ぎつねの毛皮に包まれ、あたたかな日溜まりの中にいるというのに、男の指先は相変わらず冷えていた。
指先だけでなく、きっと全身がそうなのだろうと思う。
「どうしたね」
「……なんでもない」
男を象る全てが作り物めいていて、生きているのか確かめたくなった。
触れた理由はそんなところだろうか。
「アンタは」
日溜まりの中、男は少しだけ逆光の中にいるようで、チャトラは目を細めながらたずねた。
「アンタはどうしてオレを拾ったんだ」
「理由が必要かね」
「わからない」
素直に答えるとくく、と小さく喉を鳴らして男が笑う。
――不思議なひとだな。
チャトラには男の全てが謎に思えて仕方がない。
自分の感覚が変わっているのか、目の前のこの男が変わっているのか。
意見を求めるように背後に控える黒尽くめの男に視線を流したが、生真面目な無言で返された。
意見を求めるだけ無駄なような気もする。
「お前を拾った理由、か」
氷のような指先が、やわらかにチャトラの喉をなで上げる。
それが妙に心地がよくて、チャトラは目を閉じる。
「――面白そうだったから――であろうか」
「面白い。オレが」
機転が利くわけでも、一芸に秀でているわけでもない。
思い当たる節が皆無で、チャトラは思わずもう一度黒尽くめの男に視線で尋ねかけ……、
無駄だと悟ってため息をついた。
よく躾の行き届いた猟犬は、自ら何も行わない。
「オレ、もうちょっと何か覚えたほうがいいかと思うんだ」
「覚える、とは」
「だからさ。なんていうの?アンタにとって便利な特技とかさ」
要らないのだろうな。
言いかけてチャトラは気づく。
目の前のこの男は、チャトラ自身のちいさな能力を必要としない。能力の優れたものに囲まれて暮らしていたからだ。
また、男が一声発せば、その下へ優秀なものがいくらでも集まるだろう。
「ふむ」
であるのに、男はどこか楽しそうに思案する素振りを見せ、
「ではシャトランジの相手を願おうか」
薄い栗色の瞳を、酷薄な色に染めてチャトラを眺めやった。
「無理だよ」
男に完全にからかわれている事に気づいて、チャトラは頬を膨らませる。
シャトランジとは、板の上に複数の駒を配置し、互いの持ち駒を取り合いながら、最終的には「皇帝」を奪う遊戯のことだ。
目の前の男が、この都でも一、二を争う実力の持ち主であることを、チャトラですら知っている。
「そもそも、アンタに勝てるヤツなんか、そうそういないって話だぜ」
「ほう」
耳聡いのだな。
男は笑う。
本当に、訳のわからない男だ。
相手にするのもしてもらうのも諦めて、チャトラは勢いよく立ち上がる。
「そういや、アンタ暇?」
「――質問の意図が読めないね」
己はのらくらと話を泳がせるにも関わらず、相手には簡潔さを求める。
男の癖だ。
「あー……だからさ。ここん家の前の広場の、聖誕祭飾りが綺麗だって話だから一緒に見にいかね?」
それは盛大に飾り付けられているのだと、誰かが言っていたのを耳にした。
もともと、祭りは好きなほうだ。
「今夜で最後だって言うし」
「――見てくるといい」
「ああ……そっか」
曖昧に微笑する青褪めた男の顔を数秒眺めて、チャトラは慌てて頷いた。
「アンタ、行けるわけないよな」
そもそもが、男は自由に出歩き出来る身分ではないことを思い出す。
仮に、自由に出歩き出来る待遇であっても、男の体がなかなかそれを許さない。
「悪い。オレ、後で一人で行ってくるよ」
ごめん。
それとはなしに本心から謝ると、男はまた小さく笑った。
そうして、巨木を眺めている。
催事も時に行われる大広場だ。
広場の丁度真ん中に、巨木がそびえている。
見上げるだけで口が開く高さの、かなり大きな樹である。
大人の男が腕を一杯に広げたとして、抱え込むのに五、六人は要りそうな太い幹だ。
その巨木一杯に、華やかな飾りつけがなされている。
見上げて思わず開いたチャトラの、口元から吐く息が白い。
今夜は冷える。
小さく身震いをして、肩にかけた薄手のショールを胸の前でぎゅ、と合わせた。
寒さには慣れていたはずだった。
都に連れてこられ、男とともに過ごすうち、いつの間にかぬるま湯のようにふやけた生活に身も心も感化してしまったのかもしれない。
時間はそろそろ日をまたぐ辺り、流石に人影も無い。
と言うより、まったくもってチャトラ一人と言った方がいいかもしれない。
都といえども、この時代、
「日が沈むと家に戻る」
ことが常識とされていた。律法で制されていたわけではないが、その時間の流れが
「当たり前」
で、みな生活していたのだと言える。
きらびやかに飾り付けられた巨木の広場といえども、夜更けに見に来る酔狂はいなかったようで、
「さ、みぃー……なぁ……」
吐かれた白さとともに、言葉が小さく空へ上る。
「――色気のある言葉を少しは吐けないものかね」
「うわッ」
唐突に。
耳元で言葉をささやかれて、チャトラは文字通り飛び上がった。
音も無く近づいた声の主は、最近ようやく見慣れたチャトラの飼い主だ。
「こここここここ」
「鶏の鳴きまねの練習は他所でやりなさい」
「ア、ア、アンタいきなり現れすぎなんだよ」
どきどきと心拍数の上がった胸を押さえながらチャトラは振り返る。
先に見かけた銀狐をどこかに置いてきたか、頭から厚手のフードを被って男がくつくつと笑っていた。
「アンタ、いいのか?」
「良いとは」
「アンタ、こんなところ来ちゃダメだよ」
「なぜ」
「いや……」
きょろきょろと辺りを見やると、少し離れた柱の影に溶けるように潜む大柄な男。
こちらも、気配を絶つという意味ではまったく完璧だ。
「お忍びったってホドがあるだろ」
「誘っておいてつれない事だね」
私を。
言葉とは裏腹に、男が楽しそうでチャトラは思わず手を伸ばした。
男の頬に触れる。
頬は相変わらず、まるで陶磁器。
「アンタ……大丈夫なのか?」
「心配してもらえるとは、来た甲斐のあったものだ」
今日は存外調子が良いのだよ。
チャトラの触れるに任せていた男がついと身を離し、巨木を見上げた。
なるほど。
感心する男の吐息は、白く染まりはしなかった。
同じように聖誕祭の飾りを見上げかけたチャトラは、男の様子のほうへと目を奪われる。
アンタ……ちっとも大丈夫じゃない。
「噂になるだけのことはある」
ふと胸が痛んだが、口にするほど子供でもなかった。
無粋、そう男に言われるのがオチだろうから。
「……洗濯場のオバさんたちが言うには、大切な人と並んでお祈りすると、願いが叶うとからしいぜ」
「ほう」
であったから、別の言葉を口にする。
「私を”大切な人”扱いしてくれるとは、嬉しいね」
「あー……一応、な」
底なしの奈落に差し伸べられた男の手。
気まぐれだろうと、一時の酔狂だろうと構わないとチャトラは思っている。
それで自分は救われたと思うから。
その言葉を最後に、大きく張った枝に吊り下げられた蝋燭の赤や黄色の灯りをチャトラが眺めていると、不意に男の右腕が伸び、
「わ」
その胸元へ抱き寄せられる。
「冷えている」
「アンタほどじゃないよ」
すっぽりと男と同じフードに包まれて、チャトラは迷惑そうに顔をしかめた。
次の行動が読めない。
何を望んでいるのかすら、わからないことが多い。
やっぱり不思議なひとだ。
「チャトラ」
ふいに名前を呼ばれて、彼女は目をしばたたく。
「なんだよ”皇帝”」
「お前は、あたたかいね」
ささやいた声が、珍しく安らいでいるのを感じてチャトラは男を振り仰いだ。
闇に隠れて、男の表情は見えない。
ずるいと不意に、思った。
最終更新:2011年07月28日 07:12