<<猫をひろう>>
自分ひとりの食い扶持を稼ぐことは、そう難しいことだとは思わない。
プライドを捨てるか。
良識を捨てるか。
そのどちらかも選択出来ない人間、と言うのは、まだそこまで追い詰められていない証拠。
要は、まだ他に生き延びる手段を持っているのだ。
ぬるい。
そんな風に思っている。
名をチャトラと言った。女。数えで十六。
小柄な体格と童顔で、見ようによっては十に見えないこともない。
それはそれで、好都合だと思っている。
……こんな風に人混みの中を縫って歩くときは、特に。
日暮れ前の大通りは、盛況だ。仕事帰りのもの、今から一杯引っ掛けに出かけるもの、晩の食材を求めるもの。
人の波に流されるように、その実すばしこく辺りに視線を走らせて、チャトラは獲物を品定めをしていた。
失敗は許されない。
今夜の暖かな寝床と、食料が懸かっていた。
行き交う懐を狙っている。
掏摸、なのだった。
それも、もう片手の指以上の年月をそれで過ごしている、年季の入ったもの。
見た目は幼くとも、品定めする眼は玄人のそれである。
さりげなく獲物に近付き、すれ違いざまに抜き取る。
目を合わせない。視線で追いもしない。できれば、意識にも上らせないのが一番いい。
駆け出しの頃はともかく、長年やっているとそれなりに度胸もついた。
とは言うものの、あまり長時間大通りをうろつくのも、露店を構えた商人たちに嫌がられることを、チャトラは知っている。この街には、半年ばかり居ついている。商人たちからは、掏摸だと半ば認識されているだろうと思う。
黙認されているのは、彼らの商売の邪魔にならない程度にしか「仕事」をこなしていないからだ。
彼らが取り立てて慈悲深いわけでも、憐憫の情を示してくれたわけでもない。
荒稼ぎしていないチャトラに対する、徹底した無関心。
それはそれでありがたかった。
とは言え、この年で「年季が入った」と表現するのだから、過去に数度、痛い目にも会っている。
吊るし上げられたことも一度や二度ではない。
蔑む人の眼に怯え、罪悪感に苛まれ、そうしてじきに慣れた。
慣れなければ、生きては行けなかったからだ。
街から街へと流れ、狩場を変え、そうしてチャトラは生きてきた。
ところが、そんな彼女が珍しく、今夜の獲物をまだ定められずにいる。
目ぼしい獲物が見つからずに苦労していたというのがひとつ。
慣れた仕事とは言え、発覚される危険は常に付きまとう。可能性はゼロでは有り得ないのだ。だから、できれば多数よりも少数がいい。欲を言えば一人がいい。
しかし誰でもいいという訳にはいかない。この街に定住するものを選ぶことは厄介だ。背に腹は変えられないのは勿論だったが、定住者に警戒されては「仕事」はたいそう不便になる。
懐の暖かそうな、そうして隙のある、旅人――……、
ふと、油断なく見回していたチャトラの目が一点を捉えた。
いた。
明らかにひとつ、目立つ影がある。
場所によっては肩が触れあい押し合いする中で、人混みの中を歩きなれていない足取りがある。
頭から紗を被り、顔のほとんどはヴェールで覆われているものの、細身のそれはどう見ても女の一人歩き。
纏う衣服が、目立たないように色や飾りを押さえられていながら、それでもひどく高価な絹布と言うのは少し近付いて判った。
時折どっと動く波に惑っているようにも見える。
いける、と直感した。
正直獲物が男の方が、懐に忍ばせている金入れの比重が重いのがほとんどだが、この際贅沢は言わないこととした。今夜、目の前のこの女以上に金目の男に遭遇できるかも分からない。
これにしよう。
瞬く間だけ悩んで、チャトラはそっと獲物に忍び寄る。
うまい具合に、少し向こうから驢馬に山ほど荷物をくくりつけてこちらへ向かってくる商隊がいる。人混みとは言え、流石に荷駄が通る間はさっと左右に流れが分かれる。
そうしてさらに幸運なことに、右手少しに細い路地が見えた。
今日はなんて都合がいいんだろう。
信心深いほうではないが、小さく幸運の女神に対して口笛を吹く。
荷駄を避ける勢いで女へよろけ、手早く「仕事」をこなしてあの路地へ消えるだけで済む。
決してチャトラは女へと近付く。
実はそろそろ、限界だった。
前回仕事をしてから一週間と少し、手にした金入れをやりくりやりくり、精一杯に切り詰めた生活をしていたが、一昨日でとうとう一文無しになった。
それから何も食べていない。
満足な食生活を確保できないために風邪を引いたのか、寒気が止まらない。
霜のまだ降りる夜半から明け方に掛けて、震えるばかりで眠りを取れない、野宿も拍車を掛けた。
今のチャトラの願いは、くちるほど食い、暖かな寝台で眠りたい。ただ、それだけ。
残り一歩のところまで近付いて、ふわ、と女のかすかな練り香水の香りが鼻へと掠め――、驢馬に驚いた振りをして、チャトラは女の側に飛び退って、彼女の身体に軽く触れた。
はずだった。
瞬間、何が起きたのか意識が付いていかなかった。
風のようにチャトラの目の前の風景が流れ、ど、と押し付けられた後頭部の固い感触に、目の前に星が散った。
路地の壁に押し付けられたのだと数秒遅れて理解した。
手首はひとつに纏められ、頭上で捻られて関節が悲鳴を上げている。
両足を割り開かれ膝を挟まれ、身動きを完全に封じられていた。
ひりりと焼け付いたような喉もとの痛みに視線だけ下げれば、細く尖った短剣の先端が、皮一枚切り裂いて突きつけられている。
寸分の隙もない。瞬きひとつの出来事だった。見事だ。
「――なんだァ?ただのガキかァ?」
そこで初めて音声が耳に届いて、形を成す。
一連の動作をしたとは思えない、妙に暢気な男の声だった。
「刺客では」
「武器は仕込んでねぇぞ」
やりとりの声と共に、無遠慮に胸元から腰までをまさぐられた。悪寒よりも生命的な恐怖を感じて、身がすくむ。
「……き」
「あァ?」
「気軽に触るんじゃねェ」
唯一自由になる視線で、押さえつける男を睨みつけ、チャトラは悪態を吐いた。
状況を探る。
押さえつけている男が一人。その背後に今ようやく構えを解いた大柄な男が一人。奥に佇む細身が一人。これがおそらく先ほどの「獲物」だ。
どうやら「獲物」は護衛付であったらしい。護衛付の旅人の懐から掏った経験も何度となくあったが、今回は相手が悪かったのだろう。
自分の技量よりも、相手の察知能力が高かっただけのことだ。
仕方ない。
諦める。
暴れようとは思わなかった。暴れたところで無駄だ。逃げる隙がない。
仮令上手く押さえつけている男の一人を振り切ったところで、その背後に控える巨体が許しはしまい。
男たちの腰に佩く剣が、装飾のない実用的なものだということを瞬時にチャトラは読解している。飾りのない剣は文字通り、「飾りではない」と言うことだ。
ああ。失敗したな。
そこでようやく己の不運を呪った。
「掏摸か」
チャトラを押さえつけた男がポツリと言った。
「だったらどうするよ」
鼻を鳴らして小莫迦にしてみせる。
精一杯の虚勢だった。
「路地裏だ。そこそこ人も通るだろうけど、まあ大通りよりは犯すにゃマシだろ。突っ込むなら早く突っ込めよ。役人に突き出すなら、物騒なもの突きつけてないでとっとと突き出しな」
彼女の悪態に、息を呑んだ様子の男がすぐにげんなりした顔になる。
「……お前ね、」
可愛いくねぇな。
言外に顔がそう言っていた。
「ガキを犯す趣味はねぇよ」
――ふふふ。
その呆れた様子の男の声の隙間を縫って、どこか華やかな風が流れる。
「威勢が良いね」
楽しんでいるような色が滲む。
テノール。
チャトラがその声へ眼をやる。一番奥で守られるように佇んでいた「獲物」が、こちらへ近付く気配がした。
薄く笑んでいる。
「おいアンタ、不用意に近付くなって……」
押さえつけた男が苦渋った声を出すのへ、まるで聞こえない振りをして、練り香水の香りと共に「それ」がチャトラにずい、と顔を近づけた。
無警戒に短剣へをも顔を近づける動作に、慌てたように男が刃を納めた。それでも、半ば持ち上げられ、チャトラは身動き出来ない。その彼女へ遠慮なくじろじろと眺め回す気配がある。
「ディクス」
「はい」
「この街での掏摸への懲罰は何だったかな」
「鞭打ち五十の上、放逐だったように記憶しますが」
「ふむ」
僅かに思案する素振りを見せて、
「女」
「獲物」が口を開く。
「な……なんだよ」
「逃げたいか」
「――え?」
聞かれた意味が分からなくて、チャトラは素の声で聞き返していた。
「……逃げたいと言ったら、アンタ、オレを逃がすの」
「さあ。どうしようか」
なんなのだろう、これは。
未遂とは言え掏摸に遭遇し、その現場を押さえつけて、騒ぎ立てもしなければ逃がす気配もない。
役所に突き出すならば、ここまで勿体をつける意味が判らない。
かと言って弱みを幸い、陵辱したい訳でもないらしい。
男たちの目的がどこにあるのかチャトラには理解できず、ただそれだけが不気味だった。
それとも、最近名高い人買いの集団であるのだろうか。
聞けば彼らは目立たぬように少人数で徘徊し、女子供を拉致すると言う。
そう思えば目の前の「それ」が彼女を眺める無遠慮な視線は、掏摸の小娘を捕らえその罪を非難しているというよりも、どこか競り市場で商売ものを品定めするそれに近い気もする。
「女」
一体どんな顔でこの状況に対応したらいいのかと悩んでいるチャトラへ向かって、「獲物」が再び口を開いた。
「腹を空かしているね」
「……空いてたら何なんだよ」
「ついておいで」
「……、……、……は、」
はぁ?
想像の斜め上の発言に、チャトラの喉から素の声が漏れ――る前に、押さえつけていた男の拘束が緩む。
素っ頓狂な声が上がっていた。
思わず気が逸れたのだろう、隙を突いて捻り上げられていた腕をチャトラは下ろした。
力任せに押さえつけられた手首は、赤黒く変色していた。
――痣になるか。
場違いにそんなことを思った。
「なに?アンタ、何言ってんの?」
「飼う」
「はぁ?」
自分の立ち居地を、彼女を押さえつけていた男は一瞬見失ったのだと思う。
唖然とした表情で問う声を聞き、とりあえずチャトラは二人を代わる代わる見比べる。
「逃げぬのだろう」
細められた剣呑な瞳が楽しそうだ。
ああ、このひとはきっと偉いんだな。
チャトラはふと頭の片隅で思った。
悠然とした視線と、場の空気を己に惹きつけることに長けている気配がある。この「獲物」がおそらく主格だろう。
気付けば虚勢を突き崩されていた。
強く押されれば跳ね返しもしよう。
居丈高に見下されれば、同じ強さで睨み付けることもあろう。
だが、これは。力任せに押さえ込む硬い強さではない。じわじわと締め付ける、真綿の強さだ。
「逃げられる気がしないな」
「ならば」
ついでおいで。
「ちょ……ちょっと待てよ。というか。アンタ……!何なんだよ」
そこでようやく見失った地軸を取り戻したのだろう、憮然としていた男が彼女と「獲物」の会話に割り込んだ。
「このガキね。掏摸なの。判る?」
「ほう」
「アンタの懐を狙って失敗して今捕まってる状況なのね。判る?」
犯罪行為である。
男の口が改めて自分の行為を正すのを聞き、とりあえずこの男と自分の世間は似通っていることに気づいてチャトラは変なところで安堵した。
この男は「話が通じる」のだなと思う。
そうしてその、彼女の理解できる世間を遥かにぶっ飛んだ感のある「獲物」がヴェールの下でにぃいと口角を上げる。
「それが」
「あ?」
「それがどうした」
男の説得は風に流れて消えた。今度こそ撃沈したらしい。
「……アンタさ」
代わりにチャトラが口を開く。
「ぅん?」
「美人局か、人買い?」
「いいや?」
「ああ」
交わした言葉に違和感を感じ、今更チャトラは「獲物」が女性ではなく――、
「アンタ、男か」
思った瞬間口から言葉が飛び出していた。
彼女の発言に、目深に被ったフードの下の男の目がすっと細められ、不穏な空気が流れる。四者四様に口を噤み、沈黙にごくりと誰かの――目の前の「獲物」以外の――唾を飲み込む音が聞こえた直後、弾かれたように言われた本人が笑い出した。
護衛にしては乱暴な口を利く男が、その姿にぎょっとしているのが見えた。
訳も判らず、チャトラはうろたえる。
何が可笑しかったのか、小気味よし、と震える肩もそのままに数度喉奥で呟く声が聞こえた。
「なんだよ……そんなに笑うことかよ」
「付いてくる理由が必要か」
しばらく一人で笑った後に、よほど可笑しかったのか獲物――男が、涙を拭いながらそう尋ねた。
「アンタの意図が判らない」
「ふむ」
ヴェールで翳って見える薄い唇に右手を当て、男が言葉を捜す。
「今日、屋敷に訪問客のあるはずだった」
続いて告げられたのは、まるで場の空気にそぐわない、日常的な牧歌的な……、少なくともこの状況で話題に上らせる人間は百人の中で百人いないだろう。
つまり奇特というわけだ。
チャトラは軽く眩暈を起こす。
「ところが、急な用事で訪問がなくなってしまい、折角の用意された馳走が一人分無駄になってしまいそうなところに、お前がたまたま現れた。お前は腹を空かせている。そうだね?」
そうだね、と念を押されたところで、チャトラが素直に頷けるはずもなく、救いを求めるように常識人であるらしいところの脇の男に眼をやった。
説明されたところで、男の意図が判らないのは同じだ。
「ついてきなさい」
無造作に言い放ち、それ以上彼女と会話する気はなかったのか、男がくるりと踵を返し先に立って歩き出した。ディクスと呼ばれた巨漢もまた、黙って男に付き従う。
戸惑いながらチャトラは、遠ざかりつつある背中と困惑した風の脇の男を眺め――、
「……どうなってんの?」
心からの疑問を口にした。
逃げようという気は失せていた。
おかしな事態に巻き込まれたなという認識があっただけだ。
(20100212)
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最終更新:2011年07月11日 10:15