アットウィキロゴ
<<お風呂は嫌い>>


  どうにもおかしなことになった。

  その言葉を今日何度頭の中で反芻したろう。

  頭から粉石鹸を振りかけられ、反射的に暴れるチャトラの四肢を難なく取り押さえて、男が腕まくり、がしがしと行水させられていること自体がそもそもおかしい。
  贅沢を言える立場ではないし、むしろ湯であるということ自体がかなりな贅沢であることがチャトラにも判っているものの、ぶっ掛けられる手桶からはせいぜいがところぬるま湯で、浴びるほどに寒い。水でないだけマシと言う程度のそれに、そもそもあまり風呂好きではないチャトラは、爪を立てて暴れた。
 「何しやがんだよいきなり風呂に突っ込むとかやめろよ放せよ結局男はやるこた一緒かよこのエロ親父!」
 「うるせーよガキヤるつもりもヤる元気も何もあったもんじゃねぇよ何よりおめェ臭ぇよおとなしく黙って突っ立ってろ!」
 「ガキガキ言うんじゃねぇよオレもうじゅうろ……うぐ」
  猛烈に罵り合いながらの行水というのも、チャトラの人生で初体験である。
  二度としないでおこうと誓う。
  男が腹立ち紛れに容赦なく湯を頭から振りまいた。反論しようと大きく開けたチャトラの口の中に、泡まみれのぬるま湯が雪崩れ込んで、勢い、咽た。
 「テ、メェなぁ……ッ」
  苦しさに滲んだ涙を指の腹で拭って、拭ったついでに瞼の裏にまで泡が入り込む。痛い。だから風呂は嫌だ。チャトラは本気で大騒ぎをした。
 「――十六だとか言う自覚があるならちったぁ黙ってろガーガーがなるなこの喇叭娘!!」
  喚く彼女に、そうそう長くはなかったらしい男の堪忍袋の音が音を立ててブチ切れ、本気で押さえ込まれて有無を言わさず頭のてっぺんからつま先まで、力任せに泡立てた手拭で擦り上げられた。
  元が小柄なチャトラであったし、小柄でなくとも男女の力の差は歴然としている訳で、以降の彼女の抵抗は悉く無視。
  この男は怒らせると厄介なことになるなという認識が、深くチャトラに刻み込まれた。
  体育、の一環であるとも言える。

 「……ぜってぇ皮一枚むけた……」

  ようやく拷問とも言える時間から解放され、乾布で髪の毛を拭き絞られるチャトラだ。涙目まじりに恨みがましく睨みあげると、同じく豪く不機嫌そうな顔で、男が彼女を見返す。
  けれど不機嫌そうながらも、どこか満足そうな色もその中には見えていた。「良いひと仕事をした」という自己満足。それが若干腹立たしい。
  面白くはないものの、けれど思えば一月半ぶりに風呂に入ったことも事実だ。全身が軽くなった気がする。身動きすると石鹸のよい香りがぷぅんと漂う。発育途上であろうと、貧民外で寝泊りしていようと、チャトラも女である。心地良かった。差し引きゼロで勘弁してやろうと思った。
 「なぁ、……あー……、」
 「……ダインだ。そう呼べ」
 「オッサン」
 「俺ァまだオッサンじゃねぇえ!」
  呼びかけようとして今だ男の名を聞いてないことに気付き、口篭るチャトラへぼそ、と男――ダインと名乗った――が応えを返す。
 「いちいち反応する辺りからかい甲斐があるな、アンタ」
 「……ガキが」
  割と本気で感心して呟くチャトラに同じく呟きで男が返す。口調は荒いながら、見下ろす視線に害意はまるでなく、むしろ率直な分安心する部類だ。
 「お前の名はなんてぇんだ」
 「オレ?チャトラってんだ。よろしく」
 「チャトラか。良い名前じゃないか」
  にっと男が歯を見せて笑った。その顔の人懐こさにチャトラは思わず感心する。敵意を抱かせないこの雰囲気は、計算されているそれなのか、それとも元来の男の性質なのか、おそらく後者なのだろう。
 「お前、一人か」
 「ん?」
 「掏摸で日銭稼いでたんなら、家族はいねぇのか?」
 「ああ……、うん。一人だよ」
  唐突な質問に、けれど隠すことでもなかったので、チャトラは素直に頷いた。家族。ひどく遠く感じる昔、一人だけそんな名前の誰かがいたような気がする。家族。頭の中で繰り返すと、じくりと胸が痛んだ。深く思い出し始めると前を向いて歩けなくなる。意識を逸らし、無かったことにした。
  痛みを気にしていては、生きてゆけない。
 「だから、アンタ等がオレをどこに連れて行っても拉致だの誘拐だのって騒ぎにゃあなりはしないけど。……ぶっちゃけ、オレ何されんの?」
  代わりに口をついて出たのは、そんな言葉だった。
  一番彼女が疑問に思っていたこととも言える。
  聞いたダインが怪訝そうな顔をした。
 「何かって」
 「だからさ。一緒にメシ食えって連れて来られた訳だけど、それって言葉の意味通りじゃあないんだろ。多分、こう、裏の意味があるんだろうけど、オレ、頭悪ィし考えても訳わかんねぇし。アンタは割りと話が通じそうだし。説明してよ」
 「……期待されてるところ非常に残念なお知らせだが、きっと、『飯を食おう』はまんまの意味だと思うぞ」
 「え?」
  率直な声が出た。
 「あのひと――を常識で判断しようとすると、頭痛くなるから、やめとけ」
 「てゆうか。なんなの、あの変なひと」
  確かにそこにいたはずなのに、三人の中で一際存在を放っていたのに、思い出そうとすると酷く朧気だった。霞のように不確かなもの。思い出そうとしてその顔すら思い出せないでいる自分にチャトラは気付く。
 「うーん」
  バラすなって言われているんだよなぁ、だとかなんとか口の中でブツブツとぼやきながらダインが頬を掻く。困っているらしい。
 「詳しくは言えないが、まぁ……、なんだ。エスタッド皇国のお偉いさんだな」
 「お偉いさん」
 「ああ」
  この程度は許されるだろう、と男が一人頷いたところへ、
 「エスタッドこうこくって何」
 「――は?」
  チャトラの言葉は不意打ちだったのだろう。男の顎がかくんと下がった。
 「お前……他国の出か?」
 「たこく?……ああ、エスタッドって言うのは国の名前のことか」
  合点がいって頷く。そう言えば、何度か「エスタッド」なる文字は耳にしたことがあった。
 「国の名前も判らねぇか」
 「ていうかさ。オレ読み書きできないんだよね」
  あっけらかんと独白するのは、それが恥だとは彼女はまるきり思っていないからだ。学を身に着けるよりも、日々を生き延びることに必死であったし、不便を感じたこともない。
  せいぜいが見よう見真似で覚えた、自分の名前の綴りくらいで。
 「でも言われてみりゃエスタッドって聞いたことあるよ」
 「ふーん」
  複雑そうな顔になる男へ、今更とチャトラは肩を竦めて見せる。
 「知らなくても困らなかったし。死にゃあしないし」
 「まぁ……暮らすだけなら、国の名前も学も、必要ないわな」
 「オッサンは出来んの?」
 「ああー……そこそこは、な」
  オッサンと呼ばれることを早々に諦めたらしいダインが、割と素直に頷く。
 「以前の仕事は地図だの政治の読み取りが必要だったからな」
 「傭兵とかかな」
 「どうしてそう思う」
  チャトラの言葉に男が驚いて見せた。本心なのだろう。黒い目が丸くなっている。
 「なんだろう。雰囲気……とか。歩き方とか。親の名声成り上がりのボンボンじゃ、あんな重心の低い歩き方はしないよね」
 「ほー……」
 「独特なんだよ。戦場に関わってる奴らってのは。雰囲気がさ.。それに」
  チャトラの中で、兵士は主に二分だ。役人か、傭兵。難しい仕分けの仕方は判らない。彼女にとって一番に重要なことは、
 「金も持ってるしね」
  その一点に尽きる。
  聞いてダインが一瞬渋い顔になった。転職したとは言え、彼の傭兵暦も長い。中には一度二度ならず、掏摸に懐を狙われた経験もあったに違いない。
 「――失礼します」
 「まぁ、とりあえず服を着ろ」
  控えめなノックの音と共に、顔を出した中年の女にひとつ頷いて、ダインはチャトラにそう告げる。仕着せの服を纏っていたから、彼女はきっとこの屋敷に仕えるものなのだろう。
  被っていた大きなタオルを剥ぎ取られ、代わりに顎で指し示された長椅子の上に、丁寧に畳まれた上物の着替えがある。
 「あいにくこの屋敷にゃあ、妙齢のお嬢さんなんざ住んでいねぇし、男物だがそれで我慢しろな」
 「いいよ、別に。気にしない」
  もともと身だしなみをそう気にする性格でもない。隠すところが隠せて、暖を取れる機能さえあれば他はどうでもいいと彼女は思っている。
  それでも持ち上げた服の意外な豪華さに小さく失笑が漏れた。
  たっぷりと余裕のあるシャツは、細身に作られた上着から袖飾りが零れ落ち、白いタイツと膝丈のズボン。首元にレースのタイ。役人特有の「無駄」好きという物だなとちらりとチャトラは思ったが、それでも身繕いを終え、半乾きの髪を手櫛で整えると、割と良い気分になった。
  振り返ると男が顎に手を当て苦笑いをしている。
 「なに?」
 「……いや。予想はしていたが以上に似合う。褒め言葉かどうかは判らねぇが」
 「ありがと」
  とりあえず礼のようなものを返しておいた。
 「失礼します」
  続けてもう一人、先の女とは異なる顔が覗いて、
 「応接間にて、陛下が」
 「気が早ぇな」
  ダインに告げるとやれやれと男は首を回した。
  行って来い、と背中を押されてチャトラは急に不安になって振り返った。
 「どこに、何をしに」
  未だにここに連れてこられた訳がいまひとつ判らない。けれど言葉を交わしてみて、目の前のこの「ダイン」と名乗る男は信用してもいいような気がした。
  深い理由はない。強いて言うなら彼女が今まで培ってきた審眼、だろうか。
 「お前、飯食いに付いて来たんだろ。飯食って来い」
 「……オッサンは行かないの」
  不安はそのまま口に出た。
  正直、今この面倒見のよさそうな男から離されるのは少し怖い。
 「俺ァそろそろ戻らねぇと」
 「戻る」
 「上官のところにな」
 「上官」
  鸚鵡返しに呟いて、チャトラは曖昧に頷いた。
  自分を拾った男が「エスタッドのお偉いさん」だと言うのなら、きっと役人なのだろうと思う。
  その役人を護衛する役目――そういう認識でいいのだろうか。
 「あの人をこの屋敷まで送るのが、俺の任務だった訳だしな。ずいぶん時間を食った。多分――待ってる」
 「ああ」
  その一言に、チャトラは不意に合点が行った。
 「そのひと、アンタの大事な人なんだな」
 「――……どうしてそう言う方向になる……」
  ダインが本日二度目の眼を剥いてみせた。
 「違うの?」
 「お前は怖いガキだ」
  否定は返ってこなかった。だからきっとそれで合っているのだろう。感心しているのでそれは褒め言葉だ。
  苦笑を背に受けながら、どうなるかさっぱり判らない不安を抱えチャトラは廊下に待機する女の側へと歩み寄った。

                   *

 「――ほう」
  部屋に入ったチャトラへ向けられた第一声がそれだった。ついで何が気に入ったのか、くすくすと喉奥で笑う声がする。
 「洗われたか」
  流石に室内ではヴェールもフードも外した寛いだ格好で、男が頬杖を突いてこちらを眺めていた。男が無遠慮にこちらを見ていたので、チャトラも遠慮なくじろじろと眺め返した。
  薄暗いとは言え、暖炉の赤い光に照らされてさえ、男の頬は青白い。病でも患っているのか、標準より長身にありながら、全体的に細く頼りない。
  雪崩る薄栗色の髪が、暖炉の明かりに映えてきらきらと透き通る。
  腰の辺りまであるのだろうか、手入れが大変だな、などとお節介がチャトラの頭をちらと掠めた。
  結ばれた臙脂の唇は元がその色なのだろうが、全体的な青白さと相まって、不吉なほどに赤い。
  そしてその視線。
  上目遣いをしていながら尚、細かく長い睫毛越し、透かされて見える瞳の色はやはり剣呑だ。
  それが、珍獣でも見ているようで、彼女には面白くない。
  不愉快さが顔に出たのか、含み笑いながら男がすっと視線を外した。
  途端に妙に居心地が悪くなる。
  成程。
  チャトラは内心舌を巻いた。
  この男は計算尽くで他人を眺めているのだ、と気付いたからだ。じっと見つめてそれから故意に視線を逸らす。唐突に訪れる不自然な無言に、居た堪れなさを覚えて他者は口を挟めない。
  己の容姿を十二分に活用しての行為だ。
  すごいな。場違いに思った。
  確かに、美しいと言えば美しいのだろうが、それは力強い野花の美しさではなく、温室に育てられた硝子の薔薇の美しさだ。
  外気に触れなば、直ぐに萎れる。
  人形のようなひとだな。
  そう思う。どう見ても生気が希薄だ。
  しかし、今チャトラの意識の大半を占めているのは男の容姿云々ではなくて、
 「えーと」
  目の前に用意されただだっ広いテーブルのその長さである。案内された女に対面に座るように指示され、恐る恐る椅子に腰掛けた彼女が口にした一言は、
 「まだ他に誰か来んの?」
  だった。
 「――いいや?」
 「……そっか」
 「何故そう思う」
  彼女の疑問に興味を抱いたのか、男が僅かに身を乗り出す。肩を竦めてチャトラはそれに応えた。
 「無駄に長すぎるだろ」
 「ほう」
  対面の男まで何歩あるのだろう。間に挟まれた果物の盛り鉢や花瓶の数は。
  ――お役人ってのは無駄が好きなんだな。
  とりあえず今までに生きてきた年数の「常識」が早々に通じないらしいことに気付き、チャトラは顔をしかめて内心呟いた。
  判断しようと言うのがそもそも間違っているのかもしれない。
  彼女が席に着いたのが合図だったのか、控えていた数人の男女が動き出し始め、やがて彼女の前に最初の料理が運ばれてくる。
  男はそれ以上口を挟むこともなく、手元の紙束に眼を落とした。
  であったから、彼女は遠慮なく部屋の様子やテーブルの上、各男女の動きを追う。やがてふと見下ろしたテーブルの上を見て、さらに眼を見張った。
  うわ。
  音に出して呟かなかっただけのテーブルマナーが僅かでもあったのが、ありがたいと思う。
  彼女のテーブルの上、左右に並べられたスプーンとフォークとナイフの数がまずもって彼女の常識を完全に否定していた。
  思わず数えて、五組あることを確認する。
  有り得ない。
  一体どれを何に使うのか。
  運ばれた料理に口をつけてもいいものかどうか。
  男の様子を伺おうと眼を上げたチャトラは、そこで初めて男の、
  ――あ。
  男の身体の状態に気付いて一瞬ぎくりと動作を止めた。
  若干前に傾ぎ、フォークを手にした男が、片腕しかないことに今更気が付いたからだ。
  ゆったりとした寛衣はかたわである身体を巧く隠してしまっていたし、出会い頭の衝撃は、チャトラにはそれどころではなかったので、気が付く余裕もなかった。
  左半身はどうしたものか、肩口からばっさりと失っているようで、よく見れば袖口が頼りなく揺れている。
  前に屈んで見えるのは、引き攣る傷口でもあるものかどうか。
  痛々しいと、思った。
  それが事故で失ったものなのか、生まれつきのものか、医者でもない彼女に判断は付かなかったが、単純にただ痛々しいと思った。
  百孔千傷の。
  見てはいけないものを見てしまったような気がして、チャトラは眼を逸らす。
  彼女の動揺も、気まずさも、恐らく全て感知しているであろう男は、けれど彼女を見止める訳でもなく、淡々と料理を口に運んでいる。
  尻座りの悪いことこの上ない。
 「――食べぬのか」
 「え、あ、ああ……食う、けどさ」
  不意に声をかけられ、見遣ると男がこちらを眺めている。
  視界の端に入れていたものと見える。
 「……オレ、チャトラって言うんだ」
  何と話しかけてよいものか判らなかったので、つっかえつっかえ、チャトラは口を開く。
 「ふむ」
 「アンタの名前、教えてよ」
 「――名か」
  何が面白かったのか、聞いた男がうっすらと笑みを浮かべた。
  自嘲にも見え、チャトラが見咎めたところへ、

 「無い」
 「え?」

  予想外の答えが戻ってきて、チャトラは一気に混乱する。
  名が無いとはどういう意味だ。
  意味が判らない。
 「無いって……何だよ……」
  であったから、口を付いて出たのは心もとない声だった。
 「――教義問答集が一冊仕上がるほどの下らぬ名称はあるようなのだが、覚えた例がない」
 「……はぁ、」
  男の言葉が理解できなくてチャトラは首を捻った。
  耳に入ってはくるのだが、どうにも、男と自分の世界があまりにかけ離れている。自分の「常識」がやはり通じない。本日二度目の溜息をつきながら、
 「じゃあどうしたらいいんだよ」
 「好きに呼ぶと良い」
 「……好きに、って言ったってなぁ……」
  ポチとでも呼べというのか。
  残念ながらチャトラは、初対面の年上である人間に向かって、唐突にインスピレーションで名付けられるほど奇異な性格ではなかった。と言うより、できる人間がいるのならばお目にかかってみたい。
  そんなどうでもいいことを思う。
 「食べぬのか」
  戸惑っているところへ、男が再び声をかけ、
 「うん。食う」
  仕方なく、一番大きいスプーンを掴む。
  今の会話に満足したのだろうか、男はまた口を噤んで眼を落としてしまった。その様子が、男にそれ以上話しかけることを拒んでいるようにも見え、押して尋ねるのも気が退けて、チャトラもまた口を噤んだ。
  見様見真似に料理に手をつけてみたものの、無言の食卓はもそもそと紙屑でも飲み込んでいるようで、正直味はちっとも判らなかった。


  昔の夢を見た。
  まだチャトラが分別が付くか付かないか。そんな昔の夢だ。
  姉、と呼んだ年上の女性がいた。
  チャトラより十ほど上の、優しいひとだった。
  抱きしめられた記憶がある。
  撫でられた記憶がある。
  いつでも彼女に微笑んで、両手を広げて受け止めてくれたような、本当に優しいひとだった。
  そんなひとの、夢を見た。
  ――姉ちゃん。
  呼ぶと、彼女は光の中でゆっくりとチャトラに振り返る。
  光に照らされて彼女の表情は伺えない。
  笑っているような気がした。
  怒っているような気もした。
  そうしてそのどちらでもないような気もした。
  彼女が静かに腕を伸ばし、チャトラの頬を撫ぜる。彼女の少し冷えた指先は、けれどとても良い匂いがしてチャトラの鼻をくすぐる。
  とても懐かしい匂いだった。
  とうの昔に忘れてしまったはずの匂いだった。
  その手を握って、こちらに引き寄せてしまいたかったのに、チャトラの身体は動かない。
  ――姉ちゃん。
  動かない身体がもどかしくて、チャトラの視界がぼやけ、姉の姿が朧になる。慌てて瞬きを繰り返すのに、彼女の姿は次第に空気に溶けて消え、それがチャトラには切なかった。
  瞬いた拍子に水滴が頬に零れ、温かなそれは直ぐに冷えて一筋の跡を残す。その冷たさに夢なのだな、と思った。
  涙に気付いたものか、柔らかに拭う指を感じる。
  姉であるはずは無い。姉は今溶けて消えてしまったのだから。
  誰。
  瞼を開けてその持ち主を確かめようと思ったが、拭う仕草があまりに穏やかで心地良い。このまま見咎めずに委ねても良いような心持になった。
  何故ならこれは夢なのだから。
  確かめるように触れる指が、頬を辿り唇に触れて、頤を軽く擽った。ちりり、と高い音がして首筋に何かゆるく結ばれているのを感じる。
  な、に?
  そのまま眠ってしまうのは勿体ないような気がして、夢うつつに唇を僅かに開く。名前を呼ぼうと思ったが叶わない。動きに気付いたか、チャトラより一回りは大きな手のひらがひた、と頬にあてがわれ、確かめるように幾度か撫ぜさする。
  やさしい動きだった。
  そのままゆるりと口に進入した親指を、チャトラは僅かに噛んでみた。夢ではない、そこに確かにいる感触。
  氷のように冷たい、けれど何処か安心する、それは。
  ――誰?


 「……?……。??……????」

  眉間に皺を寄せてばっかりいると将来跡が残っちゃうわよ。そう、いつの日だったかからかい気味に年上の女性に注意された記憶もあるが、この場合、やはり怪訝な顔になるのが妥当なところだとチャトラは思う。
  なんとなく違和感を感じて、不意に意識が浮上したのだった。浮上する一瞬の間に、どうにも寝心地が悪いのは、最近満足に寝台に上がらなかったからか、それともチャトラの今までの経験からして有り得ないほどの膨らませた羽根枕や、手触りの良い薄掛けのせいか。
  冗談のように重ねられた敷き布団のせいかもしれない。
  などと思って瞼を開き、開けたと同時に情報が怒涛のように襲い掛かり、一瞬チャトラは頭を呆けさせた。
  抱きしめられていた。
  真後ろから。
  自分よりもまだぬるい、けれど確かな人の温もりと存在感がそこにはあって、それがまるで当たり前のようにチャトラをくるんで放さない。
  息苦しいほどではなかったけれど、しっかりと意思を持って彼女は抱きしめられていて、
  瞬間頭を過ぎったことは、寝起きで忘れているだけで自分と、この誰か判らない腕の持ち主は、こういった関係に何がしか陥っていたのだろうか――と言う、混乱と言うよりはむしろ冷静な分析であったが、途端に昨日一日の記憶がぶり返して、
  それは無い。
  無情に否を唱えた。
  しかし。ぜんたい、この状況は何だ。
  あまりに突拍子も無い現実を押し付けられて、頭がそれに付いていかない。寝起きであることを差し引いても、十二分に狼狽えて良い体勢であるような気もする。
  突拍子も無い現実。
  静かな寝息を立てて眠っている男に、チャトラは抱きしめられている。
  名前も未だ知らない、人形のような顔の男に。

  目まぐるしく一日が過ぎ、気が付けば思っている以上にへとへとに草臥れていた。ひとまず腹が満ちたことだけが慰めだったろうか。けれど言葉と常識の通じない相手との相席の食事は、まるで粘土でも食べていたようで味も香りもあったものではなかった。
  どころか、彼女を呼び寄せたにも関わらず、断りも無く男は中途に席を外してしまい、だだっ広い部屋の無駄に長いテーブルの上で、気まずいままにこなした食事はチャトラのそう長くは無い人生の中でも一、二を争う不味さだったと今なら断言できる。
  それでも出されたものを全て平らげたのは、飢えへの恐怖とただの自暴自棄心だ。
  なるようになれ。
  最後にはそんなことを思っていたようにも思う。
  そんなさんざんな食事を終えると、終えたチャトラに気付いた女が、流れるように近付いて慇懃に寝室を勧めてくれたのだった。
  食べるだけ食べて帰ろうとしていたチャトラには振って沸いた話だった。泊まる気はさらさら無かった。あまり長居していてはいけないような気もした。
  遠慮、だとかそんな殊勝な理由ではない。単純に、得体の知れないこの屋敷の主人とはあまり係わり合いになりたくないな、と思ったのが正直なところだ。
  幸い(と言って良いものかどうか)、ここの主は彼女を役所に突き出す気はないようである。その主の姿の見えない今、騒動に巻き込まれるより前に早々に退散するのが賢い選択かもしれない。
  そうも思った。
  日常に早く戻るに限る。
  だのにチャトラが女の勧めにおとなしく従ったのは、前記のように草臥れていたのがひとつと、
 「ここに泊まったら宿代が一日浮くな」
  と言う、割とあざとい理由だったに過ぎない。
  ――寝て、起きたらそのまま出て行ってしまえばいい。
  内心呟いて、案内された部屋に何の疑問もなく入室した。
  先にダインに洗われた部屋とはまた様相が違い、より落ち着いた雰囲気の居心地の良い空間だと言うことだけは彼女にも理解できたが、それだけだ。
  設置された家具の良し悪しなぞ判る筈もなかったし、覚える気もない。
  背後で扉が閉まったことを確認し、さっさと施錠すると、目の前にあったこれまた無駄に大きな寝台にまっすぐ進み、倒れこんだ。後はあまり覚えていない。
  ひとつだけ言えることは、その時部屋には一人だったと言うことだ。

  ――と言うことは、この男はチャトラが意識を飛ばした後に入室してきたのだろう。
  しかし、そもそもまるきり未発達とは言え、決してもう五つや六つの子供ではない自分のいる寝台に、男が潜り込んで来る良識とは一体どうなっているのか。
  普通は、遠慮するもんじゃないのか。
  遠慮と言うよりははっきりと、それは奇態である。
  背後の男が凹凸のほぼ無い身体に欲情する趣味だとは思いたくなかったが、世の中にはそう言う嗜好の輩がいることも、チャトラは知っている。ぴんとはこないが、もし彼女の身体が目当てなのならば、寝ている間にことに持ち込んでしまえばいい話だ。抱きしめて寝る意図が無い。
  ――騒ぐか。
  場違いに冷静だった。
  それは、冷静と言うよりはただ「この男ならやりそうな気がしなくも無い」、と言う、ほんの数時間ながら掴んだ気のする男へのチャトラなりの感想とも言える。
  しかし、目覚めた直後に「きゃあ」だのと絹裂く悲鳴を上げてしまえればそれはそれで良かったのかも知れないが、こうしてしばらく分析した後に今更悲鳴を上げるのはそれなりに滑稽だ。
 「きゃあ」だのと可愛らしい悲鳴を上げる性質でもない。
  悲鳴を上げうにはタイミングが必要なのだな、とこんな場合だと言うのにチャトラはしみじみと痛感した。
  取りあえず小さく身もがいて、男に向き直る。
  顔が見えなかったにも拘らず、チャトラが目覚めてすぐに男に気付いたのは、男の纏う香りだった。
  鮮烈でいながら、けれどどこか独特な甘ったるさ。
  不快と言うほどには強くなく、だのに一度嗅いだら忘れえぬほどに強烈に思うのは、香りではなく男の持つ雰囲気そのものだったろうか。
  長身の男に抱かれていると、チャトラの鼻先はちょうど相手の胸元あたりに位置する。下から見上げるような格好で、さてどうしたものか、と酷く冷静な溜息をついたところに、
 「――騒がぬか」
  不意に寝ていると思った相手が口を開いて、チャトラは文字通り飛び上がった。
 「な、な、アンタ狸寝入りかよ……!」
 「いつ大騒ぎを起こし始めるかと待っていたのだが。――なかなかどうして、肝が据わっている」
  そこに至って、ようやく狼狽し始めたチャトラに応える男の瞼は軽く伏せられたままで、傍から眺めるとまるで寝言を呟いているようにしか見えない。
 「起きてるなら、放せよ」
 「つれないね。甘い言葉は――吐けぬか」
 「……甘いも何も、どうしてオレはこういう状況になってるんだよ。敢えて聞くけどアンタ何でオレの部屋に入ってきてるんだ?」
 「鍵は持っている」
  取り付くしまもない。
 「いや、そりゃな、アンタが屋敷の主なんだから鍵くらい持ってるんだろうけどさ、オレが聞きたいのはそういうことじゃなくて」
 「ここが私の寝室であるからだよ」
 「あー……ああ……。えぇ?」
  それなら納得できる。
  ――……いや、納得していいのか?
 「放せって」
  取りあえずこの体勢から逃れようと、チャトラが二度目を繰り返すと、ごねるかと思った男の腕の力が抜ける。案外あっさりと解放され、逆に拍子が抜けた。
  起き上がると窓の外はまだ暗い。とっくに朝かと思っていたのに、時刻的には深夜を少し回ったところだろうか。
 「うわ、まだ夜かよ」
  外が明るかったのなら、チャトラは躊躇いなくそのままこの部屋を退出し、屋敷からも出ていたことだろう。すぐに行動に移さなかったのは、
 「――闇が、怖くて夜を歩けぬか」
  背後から掛けられた声にムッとしながら振り向くと、男が片目を開けてこちらを眺めている。
 「なんだよそれ」
 「お前の体が闇を弾いている」
 「は?」
 「全身で拒絶するから、馴染めず怖いのだろうよ」
 「……えっと」
  まるで要領を得ない男の言葉に、チャトラはますます眉間に険を寄せた。男の言葉が難解なのか、己の頭の出来が悪いのか定かではないが、どうもこの男とは「まともな」会話が成立しそうな気がしない。
  どうしたものか。
  男の寝そべる横に再び自分が戻るのも少しおかしな気がして、手持ち無沙汰にきょろきょろと周りを見回したチャトラの視界に、枕元に置かれた紙包みが引っ掛かる。
  軽食を包んだものだ。
  それが何かと認識する前に身体が先に反応して、腹がぐうと鳴った。
  聞こえたのだろう、男がくつくつと忍び笑いを漏らす音がし、チャトラはカッと頬に血を上らせた。恥じらいではない。どちらかと言えばこの目前の人形のような男に、自分の見っとも無いところを見られた屈辱である。
  この男に弱みを見せることが、なんだか少し癪に障る。理由はない。体感的なものだ。
 「起き抜けによく鳴るものだ」
 「うるせぇ」
  そんな彼女の敵意にもまったく気分を害する様子のない男が、「良し」と頤使し包みを指し示した。
 「アンタのだろ」
 「湧かぬ」
  男が中途退席したことを思い出し、チャトラが首を振ると男が短く返す。気まずさからの味はともかく、全部啖った彼女とは対照的に、食事中、何か手元の書付を気にするばかりで男はほとんど料理に手をつけていなかったような気もする。
  この場合、頭に「食欲が」と付くのだろうなと思いながら、食べられるなら道端の雑草すら食べる飢餓を知っている悲しい性だ。
 「じゃあ」
  チャトラは遠慮なく包みに手を伸ばした。
  油紙に包まれていたそれは、しっかりと焼き目を入れたパンに数枚の燻製肉や野菜を挟み込んだもの。先ほどの堅苦しく落ち着かない席での料理に比べると、正直なところよほど美味かった。
  かぶり付く彼女へ、頬杖を付いた男が視線を流す。
 「気持ちの良い食べ方をする」
  声がどこかしら満足そうだ。
  口を動かしながら、薄茶色の瞳を見返す。
  透徹したその奥に、やわらかな色が一瞬見えた気がした。
 「……アンタ、オレのこと『飼う』とかさっき言ってたよな」
  口を開いた彼女へ、男が視線で先を問うた。
 「それはオレのことをこの屋敷で雇ってくれる、って解釈でいいのか?」
 「ふむ」
  見返した男の内が、チャトラにはまだ窺い知れない。ダインと対峙した時は割と簡単に相手の思考が読めたものなのに、この男は茫洋と霞んでいる。
  一口で言うなら、「得体が知れない」のだろう。
  であったから、無条件に男に従うことは気が咎めた。おかしな意味での身の危険は無いように思うが、  
 「別にさ。『飼』おうが、『買』おうが、オレは言い方は気にしないし、気にするようなちっちぇプライドとやらもねぇけどさ。オレ、何の取り柄もないぜ?何か期待されてるってんなら、悪ィけど無駄だ」
 「――お前は」
  こちらを眺めているのにどこか夢見心地、男の視線がうっとりと煙って見えるのは、長い睫毛のせいなのだろうと思う。
 「取り柄の有る無しで猫を拾うか」
 「ぇあ?」
  おかしな声が喉から出た。次いで不快になる。
 「……なんだよそれ」
  前言撤回。チャトラにはまだいくばくかの「ちっちぇプライド」が残っていたらしい。気まぐれだろうが気の迷いだろうが、男が自分を気に入った理由に彼女自身そう意味はないと思っていたのだが、
 「オレぁ、ヒト以下か」
  男の応えの意図するところに気付いて声が若干低くなる。
  食べかけていたパンをゆっくりと膝上に下ろした。
 「オレはテメェの愛玩動物じゃねぇぞ」
 「似たようなものだろう」
  不愉快が伝染したか、男がすっと眼を細める。言われてチャトラは一瞬で沸騰した。
  そうして理解する。
  男とチャトラ自身の世界観が異なると思っていた。あのダインには通じる「常識」が、何故男には通用しないのかと思っていた。
  当然だ。男は端から彼女を人間扱いしていない。
  涼しい顔をしている男に、憤懣をぶちまけようと何度かチャトラは口を開閉し、そうして頭を振って諦める。
  張り合うのも無駄な気がした。恐らく男は本気でそう思っている。
 「……帰る」
  ぽつりとそれだけ呟いて、寝台から足を下ろしそのまま扉へ向かった彼女の背に、
 「――帰る?帰る場所がお前にはあるのかね?」
 「ここよりゃドブ板のほうがずっとマシだよ!」
  せせら笑うような声が投げかけられ、カッとなって振り返る。チャトラにとっての帰る場所など、その昔失ってから、ありはしない。それでも指摘されることには我慢がならなかった。
  手にした食べかけのパンを、勢い、男へ向かって力任せに投げつける。
  最低だ。
  避ける仕草も見せなかった男へ、それはまともにぶち当たり、白い夜着ともろとも本人に点々とトマトソースが染みを作った。やりすぎたかな、一瞬湧いた後悔は、
 「屋敷から出ることは――能わぬ」
  次に呟かれた男の言葉に雲散した。

  最低だ。

  激昂している自分と対照的に、男は冷えていた。
  雰囲気が一変している。先ほどの、奇妙ではあるが暖かく思えた穏やかなあれは何だ。
 「逃がさぬよ」
  つ、とその唇が上がり凄艶、微笑みの形を成した。嘲笑にも見えた。先に散ったソースの赤が、血飛沫にも見えてチャトラはぞっとする。
  酷い男の懐を狙ってしまったと気付く。
  今更チャトラは心底後悔した。


(20100312)
--------------------------------------------------------------------------------
最終更新:2011年07月11日 09:59