<<猫じゃらし>>


  遅ればせながら、ここでエスタッド皇帝のひととなりについて、話をしておく。
  エスタッド『皇帝』――
  エスタッド国の頂点に君臨する、施政者である。
  完全職業軍人と言うシステムを実際に形にして見せた、先駆者でもあった。
  当時。職業としての「軍人」制度は、机上の空論的な説としては多々あったものの、形にするにはどこの国も難を示した。
  端的に言えば、戦うだけで常は何も生み出さない大人数を、養う国力の余裕がなかったのだ。他に仕事を持つ男たちが、厳戒時のみ兵役として借り出されるのが一般的である。
  皇帝、継承して即座にその独裁振りを発揮し、権力を用いてまず最初に行った仕事がそれであったという。まだ若さの抜けきらない皇帝自らが周囲の懸念を他所に、たちまちエスタッドを、地図上に於いて誰もが間違えることのない大きさと位置――形も広さも一夜で変わるのが常であった――に拡大して見せた手腕は、強引であったとは言え、
 「見事」
  今は滅びた国の、同じような施政者をしてそう言わせしめたと言う。
  後年この国が、麻のように乱れ立つ全土を統一に導き、平定してゆくことになるのだが、当時まだ、その大事の中途にあった。
  エスタッド皇国は、文字通り、皇帝を独裁者とする一点集中型国家である。議会と言う名ばかりの組織もあるものの、殆どは機能していない。
  とは言え、帝国制は元からであったものの、一点集中型に切り替えられたのは現皇帝が座に就いてからのことだ。前帝、前々帝は独裁振りを発揮できるほどの器の持ち主ではなかったらしい。私情に耽り、血で血を洗う親子関係のその最期は、共に「心不全」と公式文書には記入されているものの、真状は定かではない。
  刺殺であったとも、毒殺であったとも、言われている。
  しかし仮に暗殺が真実であったとして、その指示を出したのが誰であったのか、一説によると現皇帝であったとも囁かれているものの、ここでは深く言及しない。
  ただ前施政者が無能であり、現施政者が有能であるとそれだけ述べるに留める。
  この、皇帝。
  生まれつき心臓になんらかの欠陥があったようだ。
 「穴が開いている」とは、本人が回りに漏らしていた話としては有名で、幼い頃はともかく、成長し身体が大きくなるにつれて、幾度となく、文字通り「死に掛け」ていた。四肢に行き渡る血流を送り出すと言う、一番単純でその実大事な機能を、この欠陥部品にかかる負担の割合が上回っていたようだ。
  皹の入った硝子細工のような扱われ方をした。
   十歳まで保たないと生れ落ちて直ぐに宣告され、半死半生ながらそれでものらりくらりと四十を目前に生きてこれたのは、単に彼自身の努力ではなく、いつでも最高最上の医療行為を受けられる立場にあったおかげなのだろう。
  それを強運と言うべきか、不幸と呼ぶべきかは判らない。
  自然であれば、まず真っ先に淘汰されているであろう命が、湾曲し生かされ続けているとも言える。本人がそれを望んだかどうかは定かではない。
  血縁者はいない。
  事になっている。
  公式文書はともかくとして、母を同じにして種違いの妹が一人、公然と隠されて存在していた。
  今は軍籍に身を置く。
  その彼女。まだ幼い頃、槍玉に挙げられたことがある。
  皇帝が彼女を皇国エスタッドへ寄せてから数年、政治的内紛が勃発した。
  俗に言うクーデターである。
  表向きの理由としては、「身体の弱い現皇帝に代わって、ミルキィユを政の長とする」、裏を返せば甘い汁の奪い合いであった。
  遥かに年下のミルキィユである。
  政治の何たるかどころか、まだ己が前皇帝の血継であるとの認識も薄い、ままごとをして大人しく遊んでいるような娘であった。
  クーデターの起こった当日ですら、何も聞かされていなかったに違いない。
  皇帝、ここでもまた本気で死にかけた。
  内蔵のいくつかを損傷し、左腕を肩口からばっさりと落とされている。
  どうして生き延びることができたのか、本人ですら、不思議がっていたらしい。
  国葬の準備を万端に用意し、枕元に死神が幾度となく立って、それでも何故か生き延びた。先に述べた最高最上の医療体制のおかげであったことは、想像に難くないが、
  それでも尚、可能性としては零を下回る確率で生き延びることが出来たのは、おそらく皇帝自身の、
 「生への執念」
  であったのだろう。本人はそれを否定している。
  起き上がれるほどに回復して後に、軟禁とは名ばかりの土牢へ投獄されていたミルキィユを、有無を言わさず権力を用いて、
 「お咎めなし」
  にしたのは、意外に私情を挟むことをしない皇帝の、唯一の我が侭を通した決裁であったとも言える。
 「――殺してほしい」
  救われて直ぐに皇帝の前に見えたミルキィユは、膝を折りそう嘆願した。
  自分はもうすでに一度命を救ってもらっている。今更惜しむものでもない。自分の血や身分や、その他の余計なものが、今後も邪魔にならないとは限らない。むしろ必ず邪魔をするだろう。だからどうか、同じような過ちを犯さないために、侵されないために、自分を今のうちに処分して欲しい。
  皇帝、頑として突っぱねた。
  まるで聞く耳を持たなかったようだ。
  数刻平伏し、頼みに頼み込んで、それでも兄皇帝の首が縦に振られることはないとようよう認識すると、
 「では」
  ミルキィユは悲壮な決意を口にした。
 「ではわたくしは、皇帝陛下の刀となります」
  己の出自により、皇帝を守る盾にはなれない彼女の、最大にして最後の選択肢でもあった。
 「――刀、か」
  ようやく返した皇帝の答えは素っ気なかった。
 「私は使えるものは何でもこき使うぞ。――生半な覚悟であるならば止めておけ」
  権力を行使して、その決意すら留めることもできた彼が敢えてしなかったのは、それ以上の否定は妹を死に追いやると判断したからだろうと思われる。
  僅か数年後、年不相応の異例の大抜擢を受けて、ミルキィユは部隊の長へと昇格している。
  確かに、生来の群を抜く能力と求心力はあったろう。しかし、それにしても能力のみでの十代での部隊長は、年功序列を異様に死守しようとする軍隊ではあまり考えにくい。
  おそらく、皇帝の手が回ったのだろうと思われる。
  態度には表さずとも、多少なりとも皇妹に対して肉親の情はあったものと見え、以降も大っぴらではないものの心にかけていたようだ。
  本人はそれも否定している。
  天邪鬼なのである。
  それも、念には念を入れた見事な捻くれ捩くれようの、底意地の悪い天邪鬼であった。
  底意地の悪さに、こんな話がある。
  皇帝、どんなに名を呼ばれても、返答するということがなかったようである。そもそも国の統治者であるのだから、名前だけは無駄に長かった。
  建国数百年、国の名称やその歴代の各皇帝の名前、それに血筋だの敬称だの所属国家だの所領地だのの各名称も入れるつくりになっていたから、本気で長かった。
 「辞書がひとつ出来る」
  の談は、大袈裟な表現ではあるものの、控え目にしても最初から最後まで高速で発音して120秒ほどかかったというから、やはり長かったのだろう。
  通例は、略称で呼ぶこととしていた。
  この略称が曲者であった。
  皇帝、どんな略称で呼ばれても、まるで反応しないのである。公式会見の記録ですら、
 「エスタッド皇帝ニ於カレテハ、各種様々ナ御名デオ呼ビスルモ、ソノ成果ナシ」
  と書記の愚痴のようなものが書かれていたと言うから、その意地の悪さは相当なものだったろう。
  そもそも、己の名と認識していたのかどうかも怪しい。
 「好きに呼ぶと良い」
  そう嘯くこともありながらその実、周囲が便宜上付けた名称にもまるで反応を示さなかったと言うから、よほどの何か拘りでもあったものか。
  仕方なく、敬称で通されることが多かった。
  国のトップを正式名称でなく略称でもなく、ただ「陛下」と言うだけの曖昧な表現をしなければならなかった呼称係などは、毎回胃の痛くなるような思いをしたことだろう。
  それをしてほくそ笑んで眺めている、と言うような性格であったと言うから、これはもう筋金入りの意地の悪さである。
  その意地の悪さに比例して、容貌もまた奇怪を誇っていたかと言うとまるでそうではなく、
 「蟲惑」
  だの、
 「艶然」
  だの、その他口をきわめた美辞麗句が、各書に書き散らされている。その時分の酒場に座する歌うたいが、必ず挙げる歌のひとつにエスタッド皇帝が紛れていたと言うから、これは相当な美男であったと思われる。
  それも男が男に惚れる要因のひとつの、
 「漢らしい格好良さ」
  ではなく、女性よりも麗しい、どちらかと言えば妖艶と言った美しさであったようだ。仮に皇帝が女であったとしたら、その美貌に騙されて、いくつかの国が右と左に傾いたことだろう。
  そうした意味では皇帝が男であった、と言うのは幸運であったことなのかも知れぬ。
  更に幸いなことに、これだけの容貌を持ちながら皇帝その人本人は己の資質にまるで無頓着なのであった。当人に言わせるところの、「生まれてより変わりのない顔」なのであるから、それはそうなのだろうとも言えるが、それにしても無関心に過ぎた。
  自己愛の薄い性格だったのだろう。
  ただしこの容貌、利用できるところはしっかりと利用したようである。
  己が美しいかどうかは興味がないとして、しかし相手に与えるプレッシャーについてだけは十二分に熟知していたようであるから、これはもう一言に、
 「性質が悪い」
  のである。
  その性質の悪さが、最近気まぐれに拾った、皇帝からすると年の差半分の少女に関心が向いている。
  他に興味を示すことのない皇帝にしてみれば、それだけのことで稀な出来事であった。

                   *

 「手に負えませぬ」

  屋敷に戻った主の顔を見るなり開口一番、不満を叩き付けるように侍従長はボヤいた。撫で付けた黒髪に半ば白いものが混じり始めた彼は、雇い主のまだ頑是無い頃からこの屋敷を仕切っていた記憶がある。接する機会が少ないとは言え、その主に対しての経験と言うならば、十分すぎるほどの経験を積んできているはずだった。
  屋敷の主が欲し、そうして成すことに対して口を出されることをどんなに嫌うか、どれだけ不興を買うか、彼は十二分に理解しているし、またそういった諸所に意見を持たないだけの教育を受けてきている。
  教育。
  屋敷で働く人間は、人間に非ず、と言う。
  ヒト以下と言う意味ではなく、言葉通りに「人間ではない」と言うことだ。
  例えば、木石。
  例えば、無機物。
  屋敷で意思を示すのは、唯一の決定権を持つ主のみで良いのだ。
  働くものに意思は要らない。
  意思を持ってはならない。
  主の成すことに無感動云々の話ではなく、成されていることに対して何とも思わないように訓練を受ける。無感動であったにしろ、何か思うところがあれば必ずそれは所作に出てしまう。
  それでは、この主の意にそぐわない。
  侍従長はそれを知っている。
  であったから、その長年の経験に裏打ちされた侍従長にして音を上げるほどの強情ものが、現在屋敷で問題を起こしているという訳で、聞いた屋敷の主は珍しくうっすらと笑みを口の端に上らせた。
  ひどく珍しい。
  屋敷に戻ってすぐの主は、機嫌が悪いことが多い。
  大概、と言うべきか、常に、と言うべきか。
  草臥れているのだ。
  その普段の機嫌の悪さをも承知している侍従長が、木石に徹することを弁えている侍従長が、自身の意見を口にしたのは、であるから余程腹に据えかねていたのだった。
 「もう七日にございます。いい加減、諦めても良いものを」
 「――今日は何をした」
  問い返すのは耳障りの良いテノール。空気に溶けるように柔らかな声だ。
 「……居間にておとなしくしていると思えば、家人の眼を盗んで暖炉より攀じ登ろうといたしました」
 「ほう」
  思い浮かべたのだろう、主が眉を上げた。
 「登れたのか」
 「笑い話ではありませぬぞ。煤けた奴が逃げようと居間は一時もうもうと惨憺たる状態。真っ黒なそれをそのままに置く訳にもいかず、風呂場にて侍女が三人がかりで洗い上げましたが」
 「暴れたであろうな」
 「暴れるわ、喚くは引っ掻くわ!女等は悲鳴を上げるし、隙を狙って再び逃走を図りました」
 「ふむ」
 「数人で押さえつけ、此方様の居室に閉じ込めておきましたが……まさにけだもの。育ちが知れまする。じっとしている様子がまるでございません」
 「山猫、よな」
  鹿爪らしく頷きながら、主の声が明らかに楽しんでいる。気付いて侍従長は肩を落とした。
 「……まさにそれ。何とかはなりませぬか」
 「何とか、とは」
  彼の声の含むところに気付いたのだろう。主がちらと、一瞬見遣った気配がした。
  見遣られて侍従長は、自分が相手との間に引かれている境界線に踏み込みすぎてしまっていることに今更ながら気が付いたが、勢いだ。
 「逃れようとする様が、痛々しくて見てはいられませぬ。……あれでは、迷い込み、出口を探してガラスに突進する野鳥。傷だらけ、痣だらけで懐く様子がありませぬ」
  恐れながら、と付け加えた言葉が自身白々しいなと思った。
 「手なづけるつもりも無い」
  けれど主はそんな白々しさも含めて一蹴する。
  呆気にとられた。
 「しかし……それは、あまりにも」
  あまりにも。
  何だと言いたかったのか、流石に彼は分を超えた言葉を口に仕掛けた自分を恥じて口を噤んだ。
 「それに。そろそろであろうよ」
 「……そろそろ、とは」
  また脈絡のない言葉に侍従長が眼を上げると、主は既に外出着を脱ぎ捨て手持ち無沙汰に佇んでいた。ほんの数瞬思いに耽っていたらしい。慌てて手にした部屋着を肩口に掛け、主の真意を探ろうとした。
 「今夜は、冷えるね」
  それ以上説明する気はないらしい。これでも主にしては、侍従長相手によく喋った方だ。余程機嫌が良いのだろうと、彼はそれ以上主に踏み込まぬよう、常日頃の「人間ではない」人間の自分に、瞬時に切り替えた。
  藪は突かないに限る。


  当たり前のように寝室の扉が誰かの手によって開かれ、それに意識を払うことも無く男は寝室へ足を踏み入れた。
  熾された火に、適温に暖められた空気が彼を迎える。
  入室した瞬間寝台傍の卓上に、数枚文鎮を置かれた紙束を眼にする。瞬時に不愉快になった。彼の裁可待ちの書類である。無粋な。声には出さず呟いて近づき、無造作に払い落とす。
  その書類が如何ほど重要かどうかは、男にとっては然したる問題ではない。
  己が快か、不快か。
  それが男の基準だ。
  落とした一枚がふわと暖められた空気に舞って、意外と遠く、遠くまで散った。それとなくつられて眼をやると、暖炉前のソファから、にゅ、と裸足の片足がはみ出している。
  この数日間で、見覚えのあるものになった足である。あの角度は確実にソファで眠り込んでいるな、そう思って男は唇の動きだけで笑って、音も無く暖炉前へ寄った。
  ソファを覗き込む。

  思ったとおり『猫』が寝ていた。

  頭からタオルを被り、適当に男の室内着を裸の上に羽織っている。やわらかで肌触りの良い室内着が気に入ったのか、この数日何度か勝手に着ているところを見かけた。小柄な彼女の身体には、細身とは言え男のそれは大きすぎるのか、羽織ると言うよりは室内着に羽織られている気がする。
  剥き出しの手足はこれで言葉の通り十六なのかと疑いたくなるほどに痩せている。
  先の侍従長の言葉から察するに、腹を立てた侍女たちに八つ当たり気味に洗われたのだろう。頬と言い剥き出しの二の腕と言い、赤く細い――有り体に言えば引っ掻き傷――が生々しい。
  女は感情的になると怖い生き物だな、などとどうでもいいことを思いながら男はさらに『猫』へと顔を寄せた。
  寄ると石鹸の匂いがふ、と立ち昇る。
  石鹸の匂いは嫌いではない。
  寝こける顔に男は眼をやった。
  不意に男の懐に飛び込んできて混乱気味だった当初はともかく、己に自由の選択肢が無いと判ると、途端に敵意をむき出し威嚇してきたそれも、寝ているときは鳴りを潜めている。それでなくとも精一杯背伸びをしているような、気負った、ませた顔をするものだと出会ったときから思っていた。
  生意気だと言うのならばそれはそうなのだろう。ただ、どこか必死で切羽詰っていた。
  今は年相応にあどけない。
  小さく開いた口元から白い歯と桃色の舌が見え、ふと惹かれて男は片腕を伸ばす。
  夢でも見ているものか、微かに口元が動いた。
  名を呼んでいると思った。
  名。誰の。
  す、と閉じた両瞼の下から透き通る水が溢れて、何だろうと男は指で拭う。
  舐めた。塩辛い。
  この水滴は一体何なのだろう。
  何故これは両眼からぬるい水を流すのだろう。
  それが何か、思い当てることが出来なかった。
  気が付いたのは、唐突に彼女がぱちと眼を見開き、男と視線が合うや否や弾かれたように飛び起きて、
 「……あ?」
  今更呆然としながら目元をごしごしと拭った仕草を見てからだ。
  ああ、これは涙だったのか。
  ずいぶんと静かに泣くのだな。
  ぼんやりと思った男へ、つい今しがたの幼い表情が嘘のように掻き消え、きつい視線でこちらを見据えてくる眼がある。
  感じると、ある種の悦びの形に己の頬が歪むのをやめられない。
  判り易い敵意は歓迎だ。慣れている。どうしてその強さを挫けさせてやろうか。考えただけで内心舌なめずりの気分だ。
 「何だよ。じろじろ人の顔見んなよ、『皇帝』」
  気味悪ィ。
  男を睨んだまま、まだ気になるのか目尻をこするチャトラが、ぶっきらぼうに告げた。乱暴にこするものだから、少し赤くなっている。
 「ふ」
  そうして、呼ばれた男――皇国エスタッドの、文字通り頂点を極める、皇帝――その人は酷薄に笑んでいた。
  男へどう呼びかけるか、彼女は散々に迷ったようだ。好きに呼ぶと良い、と嘯いて相手の反応を楽しんでいた彼は、数日経って徐に「皇帝」と呼ぶことにしたらしい彼女へ、面白がって理由を尋ねた。
  ――だってよ。
  ぱちぱちと忙しく瞬いて、チャトラは首を傾げた。
  ――いつまでも「アンタ」呼ばわりは良くない気がするけど、アンタ名前教えてくれないし。そこいらで働いてる人らに聞いても、「おそれおおい」だの「めっそうもない」だの。訳判らねぇ返事しか返ってこないし。埒明かないし。
  ――「へえか」だか「へいか」だかって皆は言うけど、なんか「へいか」ってなんかマヌケな響きだろ?
  ――アンタ、役人なんだろ。アンタの役職名教えろって言ったら、ディクスさんが教えてくれたんだ。
  ――オレ何か間違ったこと言ってるか?
  あの時男はどう応えたのだったか。
  男はその辺りをどうもよく思い出せない。
  それで良いと言ったのだったか。
  きっとチャトラは、「皇帝」の純然たる響きの意味を理解していない。
  それでも良いと男は思う。己の地位に媚びを売る人種には飽き飽きしていた。
 「……い?おい?」
  怪訝し気に眉をひそめ呼びかける声に気が付いて、男は我に返る。
 「ぼんやりとして、平気か?ボケてんじゃねぇか?」
 「――ああ、」
  大事無い、応えながら首を振る。疲れているのかもしれない。
 「フラフラと青い顔して平気とかウソついてんじゃねぇよ。座れよ」
  敵意を剥き出しにしながらそれでも、心配してくれているらしかった。
  根が優しいのだろうな、と思う。
 「メシ喰ったのか?」
  まるで男が尋ねるほうが妥当な言葉を、チャトラは口にした。
 「――忙しくてね」
  応えながら言い訳のようだな、と男は思い、思った自分が可笑しくてまた小さく笑った。
  ソファから起き上がったチャトラは、男の座る場所を開けるべく自分は暖炉を背にしてラグの上に直に座り、男へ向き直る。無愛想ではあるけれど、
 「ちゃんと喰えよ」
  ああ、やはり心配してくれているのだ。
 「お前は」
 「オレ?」
  オレは毎日喰ってるよ。応えて彼女が肩を竦めた。
 「そもそも、喰うか寝るしかやることが無ェじゃねぇか」
 「屋敷内は自由に動いて構わないと言ったと思うが」
 「は……!」
  男の言葉に瞬時に反応し、吐き棄てるようにチャトラは鼻で笑う。
 「自由も何も、ほとんどの扉に鍵かけやがってよく言うよ!」
 「鍵でも掛けねば、お前はこの部屋へ近付かぬだろう」
 「当たり前だろ。何が楽しくてアンタの顔見なきゃいけねぇんだよ」
 「――成る程」
  つれないことだね。
  チャトラの言葉に男はうっすらと嘲笑する。頬は歪んだが、こうした彼女の飾るところの無い直情的なやりとりが、男にとって新鮮に感じることは否定できない。周囲は男の顔色を伺ってばかりで、これほどあけっぴろげに内面をさらける者はいなかったからだ。
  先の侍従長然り。
  唯一の肉親であった母ですら、男を面と見据えたことがなかったように思う。伏せがちに避けられた視線のそれしか記憶にない。
  それが生まれてより当たり前ではあったから、不遇だと特別感じたことも男にはない。
  けれど、この『猫』は。
  恐れ気もなく男を見据える。
  もう三、四年も前になろうか、やはり男へ正面切った少女がいた。
  他国の、まだ幼いと表現しても良いような、公主であった。その時も、些かばかり挑む視線に心を動かされはしたが、それだけのことだ。
  エスタッド皇国へ、正々堂々喧嘩を売る腹積もりの視線であった。それはそれで興味が湧いたのは事実であったし、実際必要以上にトルエ公国へ肩入れしたように思う。けれど、どれだけ食指が動いたものであっても、公主から向けられたそれは、男を「皇帝」と認識しての視線には違いなかった。
  目の前の娘の眼差しは、本質が異う。
  彼女は決してエスタッド皇国頂点のそれと知って、男へ視線を投げかけているわけではない。
  単に、男への印象が最低最悪なのだというてらいもない視線。だのにそれはひどくまっすぐだ。
  炎の明かりを背後から受けてこちらを向く彼女へ視線を流すと、襟刳りから覗く細い首筋に眼が動いた。折れそうに細い。
  前屈みに腕を伸ばした。
 「な、なんだよ」
  喉元に着けられた小さな銀の鈴が、『猫』が身動きする度にちりりと震えた音を立てる。着けられた一日二日は何度もむしり取られていたそれも、男が懲りずに繰り返し繰り返し結ぶ内に慣れたらしい。
  諦めに、近いか。
  男が腕を伸ばした分だけ、チャトラがじりじりと顎を引く。その攻防の緊張を急に破って男はぐいと胸元を掴みあげた。不意打ちに逃げる間もなく、くう、と喉を鳴らしてチャトラの半身が男へ引き寄せられる。
 『猫』は軽かった。そう力があるわけでもない男が、やすやすと引き寄せられるほどに。
  引かれた彼女の背筋が自然、強張るのを手のひらに感じて男は嗤った。
 「怖いか」
  口にし、我ながら卑怯だなと思う。
  利かん気が強く、意地っ張りで、負けず嫌い。一週間で男がチャトラに下した評はそれだ。
  であるから、男がそう尋ねてしまえば彼女は決して怖いとは言えない。
 「……怖くねぇ」
 「目が泳いでいる」
 「うるせぇ!」
  判ってるならいちいち聞くな、と蹴りが飛んできた足首を受け止め、右腕で掬い上げる。勢いそのままチャトラを絨毯の上へとひっくり返すと、受身を取れずに後頭部を打ったらしく、低く呻いた。
 「この屋敷は敷物が薄いからね。打ち付けると存外――痛む」
 「何度も引っくり返ったことがあるような口ぶりだな」
  そんな成りをして。
 「引っくり返ったのかもしれないな」
  小莫迦にしたはずの彼女の口調に、男は生真面目に頷いた。一瞬呆気にとられてチャトラの力が緩む。逃さず、その両手首を彼女の頭上にまとめた。
 「……おい!」
 「何だ」
  口の端で笑って顔をずいと近づけると、抗するようにチャトラが男の瞳を見返す。
  ああ。この眼、だ。
  気後れもなくひたすら真っ直ぐに睨んでくる視線が、心地良く感じる自分はどこかおかしいのだろうかと、男はふと思った。
 「初めにお前が言ったね」
 「……何をだよ」
  見る限り可愛らしい外見をしているのに、一人前に威嚇をする声には確かにドスが利いている。
 「突っ込むのならば早く突っ込め――だったか」
  言葉通りの行為に及ぶ気は、まるでなかった。ものの、一体その言葉に猫はどんな反応を示すのだろうと、
  慌てふためくさまでも眺められればそれはそれで面白いと、男が興味半分呟くと、

 「――ああ、」

  意に反して、すっとチャトラから表情が消えた。
  驚くほど唐突に、無機物の目になる。同時に、ばたばたと暴れていた彼女の身体から、力が抜けた。
 「なんだ」
  結局アンタもそれが目的だったのか。
  一瞬哀しげな色がそこに過ぎった気もしたが、
 「いいぜ。……とっとと突っ込めよ」
 「――」
  呟いた冷たい声の彼女の瞳を、男は覗いた。軽蔑の色さえそこには滲まない。
  墓石のように灰色だと思った。
  押さえつけた小さな身体に圧し掛かっていた男は、顔には出さなかったものの軽く驚いて、チャトラの頬へと手を伸ばす。
  解放されたにも拘らず、彼女の手首はそのまま、頭上に押さえつけられたままの形で力を失っている。
 「殴ると良い」
 「どうして」
  指を這わせた頬は、とても冷たかった。
  達観でも諦念でもなく、ただ振りかかる嵐に無感動な死んだ眼。望んだものはそれではない。見て楽しみたかったのは、そんな空ろではない。
  お前も並居る男どもと所詮は同じ獣だ。
  そう言われていると思った。
  ――面白くない。
  微かな苛立ちを感じて、男はチャトラを投げ出し、己の身を返す。
 「気が失せた」
  言ってソファへと深く腰を下ろし、横たわったままのチャトラから視線を逸らすように足元の書付を一枚拾った。
  読みたくもなかったが、眼をやれば文字が頭に飛び込んでくる。
  再三再四、男に皇都エスタッドへ戻るようにと乞う文書である。
  もう何度見たことか。
  最近では懇願一辺倒の文面から、半ば脅すものに変わりつつある。
 「今のうちに帰ってこないと後がないぞ」
  言葉自体は慇懃なものの、内容としてはそれだ。
  おおよそ形ばかりではあるものの、男にとって「静養」目的であったはずのこの十数日は、結局皇都にいる時と何ら変わりのない、仕事に追われる日々で終わった気がする。
  身体どころか、気すら休まる暇もない。
  唯一の収穫は、目の前の「これ」――であったろうか。
 「――そろそろ帰り時かもしれないね」
  一人語散ると、ゆっくりと怪訝気に起き上がったチャトラが、膝を己の胸へ引き寄せながら、男の言葉を探るようにじっと見つめてくるのを感じた。
  ほら。また。
  俯きながら口角が上がる。
  そうして、また恐れ気もなく見るから。

  また虐めたらどうなるか、などと己に似つかわない執着を抱いてしまうのだ。

                    *

  力のある男なのだろうな、とは薄々感づいていた。
  力のある。
  何を基準に「力」と評すればいいのか、チャトラにも明確なところは判らなかったが、権力であるとか財力、知力、武力、
  そういったものを一通り備えている男なのだろうなと思う。
  ただし、劣悪最低の。
  数えで十六、これまでそこそこ「世知辛い」世間の水を頭から飲んできて、この年にして自分はそれなりな経験を積んできたように思う。綺麗に見えるものにでも必ず醜悪があり、表のあるものには裏、明るい場所には影が出来る。
  それくらいは判る。
  二親がいればともかく、十になるかならないかそんな年頃から掏摸をし、生きてきた自分は、であるから今更白の真逆の黒の部分を見て現実に幻滅したであるとか、汚泥に恐れ戦いただとか、そんな甘い言い訳は言うつもりはない。
  ない。
  ないはず……だ。
  けれどその不相応に大人びた感性をもってしても、やはり目の前のこの男――馬車に同乗しているこの男――憎たらしいほど小奇麗な顔をしてその実、どこもかしこも不明瞭でつかみどころのない男――だけは理解できないと、凍み入るように思った。
  懲りずに逃走を図り続ける自分自身もどうかと思うが、その彼女を猿轡と後ろ手に拘束し、しかもそれを隠すでもなく堂々と己の馬車に放り込む男の神経がやはり知れない。
 「あのね」
  馬車が走り出してしばらく、黙りこくった彼女に目を流して今更ながら猿轡に気付いた風の男に、解放されて一番、ここぞとばかりに悪態をついた。
 「何かな」
 「アンタは俺を、どうしたいんだ」
 「――どうしたい――のかな」
  言われて初めて気付いたように、小首を傾げる男の目の色は割りと本気で、それがチャトラを莫迦にしているとか演技であるようには見えない。
  傾げる動作につれて、これだけは性格はともかく見事だなと彼女がこっそり思っている、細くあえかな金の糸にも似た髪が、さらさらと男の肩から流れた。
  知らず目を奪われる。
  触ったら気持ちいいだろうな。
  場違いにそんなことを思っていた。
  男の存在は、チャトラの今までに生きてきた世界と比べると、まるで判別の付かない世界であることに違いない。そもそもこの髪の長さからして異常である。
  生まれてこの方、街ですれ違う一行に、膝裏近くまで髪を伸ばした男――と言うより女も含めて全ての人間――についぞ出会ったことがない。
  無論、放置しておけば、髪は伸びる。そんなことは子供でも知っている。それでも皆肩口より下がせいぜいで、どうして長く伸ばす猛者がいないのかと言えば、理由は至極単純で、
 「洗う手間に捌ける時間も、それだけの水を無駄に使う余裕もない」
  からに過ぎない。
  何故敬われているのか理由はさっぱり判らないが、屋敷内であれだけ多くの人間に傅かれている男だからこそ、ここまで伸ばせるのだろう、だとかどうでもいいことをチャトラは分析していた。
 「アンタ、オレがそんなにムカつく訳」
 「ムカつく――……?」
 「オレなりに色々考えたけどさ。結局アンタはオレが、アンタの懐を狙ったことが許せないんだろ?自尊心だか自己満足だかなんだか知らないけど、お役人に突き出す代わりの私刑、てヤツなんだろ?」
 「私刑――……」
 「見せしめっつーかさ。……まぁ、世の中にゃ何をしてもカンに障るような、ソリの合わない同士がいるってことはオレにも判るし、それでアンタがイラ付きついでにオレを閉じ込めたり縛ったりするんだったら、もうどうしようもない訳だけどさ。どこに連れて行くのかくらい、話があってもいいんじゃね?」
  冴えない相手の反応に、苛々としながら言って説明を求めかけたチャトラは、やがて対面する男が、軽く驚きの目を見張っていることに気付いて口を噤んだ。
  接して判ったことがある。
  この男は、実に表情に乏しい。
  無感動ではないのだろうと思う。が、それを表に出す術を忘れてしまっているように、小さな苛立ちや機嫌を視線に含ませる程度で、大袈裟に表情が歪むことがない。意図しているものなのか、無意識なのかはチャトラには知りようもなかったが、これでは、じっと男を見つめてでもいないと、感情を読み取ることは難しいだろうと思う。だのに、屋敷内で男を見返す人間など、どこにも居はしなかった。
  腫れ物に触るように。
  出会った瞬間男が声を立てて笑ったことに対して、何故ダインがあそこまでぎょっとしたのか、今なら判るような気がした。
  その男がこうして僅かなりとも表情を変えると言うことは、一般的表現に置き換えると、
 「ものすっごくびっくりした」
  に当たるのかもしれない。
 「――カンに、障る」
 「……?」
 「ソリが、合わない――」
  チャトラの皮肉を口の中で小さく転がして繰り返し、男はしばらくその意味を吟じているようだったが、
 「存外、お前を気に入っているつもりなのだが――」
 「はぁッ?」
  逆にチャトラの方がびっくりした。
  自分の耳を一瞬疑う。
  びっくりついでに起き上がろうと身を起こしかけ、後ろ手に回されたバランスを崩して、座席から半ばずり落ち、慌てて両足で踏ん張った。
 「……ちょっと待て。待て待て待て。オレ、今、異常にワケ判らないこと聞いた気がするんだけど」
 「どのあたりかな」
 「もうね。いっぱりありすぎて、どこから突っ込んでいいのかわっかんねぇよ」
  縛られている腕が自由だったら、確かにチャトラは頭を掻き毟っただろう。
 「まぁ、とりあえず言いたいことは、オレの『常識』では、『気に入ってる』相手を縛ったりはしないってことなんだけど。それともアレか、アンタ、たまにいるような縛ったりすると性的快感を覚える、イカれたヘンタイ趣味でもあったりすんのか」
 「縛らねばお前は逃げるだろう?」
  不思議そうに返す男へ、彼女は眼を剥く。
 「ああ……そりゃ逃げるよ!力いっぱい逃げるけど!!逃げるけどさ、なんつーか、縛ったりしたら余計にオレが嫌がるだろうなとか、頭にクるんじゃねぇかとか、そう言うの思わないワケ?」
 「お前が嫌がることと、私がお前を気に入っていることとの関連性が見出せないのだが――」
 「えっと」
  あっさりと切り返されて、チャトラは沈黙しかける。
  ――そういや、ダインのオッサンもコイツとやり合って撃沈してたよなぁ。
  十数日前のことが、今は懐かしく思う。
  そうだ。男はチャトラ自身を、『愛玩動物』として扱っていたのではなかったか。
  頭に来た彼女は、あの時手にしたサンドを男に打ん投げた。
  ああ。そうか。
  訝しげに自分を眺める男に、不承不承ながらチャトラは再確認してしまう。
  オレ……ヒト扱いされてないんだ。
  あの時はかっと目の前が赤くなった。瞬時に沸騰し、捨て台詞を吐いて廊下へと飛び出し、けれど男の宣言通りに屋敷のどこからも逃げることは出来ず、廊下で立ち尽くす行動にすら監視まがいの人間があてがわられて、散々に暴れた。
  今はなぜか少し悲しい。

  そうだよな。

  納得する。チャトラ自身の今まですごしてきた生活は、自分ひとりが生き延びることに精一杯で、犬や猫や鳥であるとか、所謂、『飼育動物』を養う余裕などまるでなかったから、これは想像でしかないけれど。
  路地裏で拾った犬が、撫ぜることを嫌がったところで自分自身がいちいち
 「犬の気持ち」
  になって撫ぜることをやめるかと言うと、きっとやめないだろうなと思う。
  撫ぜたいから撫ぜるのだ。そこに理由を求められても困る。
  そうだよな。
  男の「力」がどれほどのものかチャトラには判らないし、判りたいとも思えなかったが、
 「……外せよ」
  肩を落とし、力なく顎をしゃくって、ぎしぎしと痛み始めている腕を示した。
  どうせ逃げようとしたところで、馬車の周りをぎっちり取り囲んでる兵隊の誰かに取り押さえられるのは目に見えている。
  男が自分を放す意思がない以上、どれだけ逃げても捕らえられるのだろう。
  捕らえられるたびに幾本もの腕に押さえつけられ、力任せに振り出しの場所に戻される痛みに、チャトラ自身気付かないうちに、徐々に蝕まれていたようだ。
  しばらくは大人しくしていても良いような、捨て鉢な気分になった。
  ただ――、男が自分の何を気に入ったのか、少しだけ知りたいと思った。
 「お前は――」
 「何だよ」
 「いや」
  不意に覇気をなくしたチャトラの様子を、男は長い睫毛の下から探るように見ていたが、やがて袖口から細く鋭利な小刀を出すと、片腕で器用に戒めの縄を切り解く。
  今日は朝起きてすぐに縛られ馬車に放り込まれて、実際呆気に取られているうちにことが運ばれた感が強く、そう暴れたつもりもなかったが、それでも麻縄で固く縛られていた手首は擦れ赤剥け、血が滲んでいた。
  無理な姿勢を取らされていた肩の関節が痺れるまでに痛んでいて、両手で擦る。
 「困ったね」
  チャトラからすると、まるで困っているように聞こえない声音で男は呟き、それから彼はひょいと手を取る。驚く間もなく、手首に唇が宛がわれていた。
  いっそ血よりも赤い舌が臙脂の唇から現れ、じくじく滲む傷口を舐める。
  俯くしぐさに関連して、またさらさらと音のしそうな髪が彼女の腕に降りかかる。
  とてもやわらかだ。
  獣が己の傷口を舐め癒すように、ゆっくりとそれはそれは丁寧に舐る男を、思わずぽかんとされるがままにされてしまったチャトラは、
 「……やめろよ」
  怒りではない血液が、顔に上るのを感じながら我に返って慌てて手首を胸元に引きかける。
 「放っておきゃ治る」
 「困ったね」
  同じ言葉を繰り返して、男が放しもせず再び手首へ顔を寄せるのへ、
 「やめろって!」
  今度こそ本気になって、チャトラは狭い馬車の中で最大限に飛び退った。
  強かに背中を打ったが、それよりも男から離れるほうが彼女には先決だった。
 「――嫌われたものだ」
  自嘲の形に頬を歪めて、男が薄く笑む。
 「……わかんねぇ。アンタが理解できねぇ」
  舐められた手首を握り締めて、チャトラは唸った。本心だ。
  聞いた男が頷く。
 「よく聞く」
 「結局オレをどうしたいの?」
 「多分、」
  他人事のように男が、
 「痛い思いをさせたい訳では――ないのだろうな」
  言いかけたまま。
  次の瞬間、男は急に表情を固く警めた。
  厳しいとも取れる凍りつくそれ。あまりの豹変振りに、何か別の仮面でもひょいと手に取り顔に被せたのかとチャトラは思った。驚いて硬直した彼女へ、
 「な……、」
  今度こそ遠慮なく片腕を伸ばして、力任せに座席下へ押し倒す。もんどりうった所に、

  轟。

  馬車が揺れた。
  聞きなれない、ざらりと心を擽る声が聞こえる。
  それは風を切り裂く絶叫だ。
  喉元からくぐもる断末魔の雄叫び、憤怒の声、居丈高な威嚇、何か固いもの同士を打ち付け合う、音。
  倒された男の肩口、今の今まで頭のあった高さに、数え切れない数の棒が突き立っているのが見えた。
  生えたのかと思っていた。
  弩だと気付いたのは後になってからだ。
  その瞬間はただ、生えた、と思った。
  次いで、ばすばすと不気味な貫通音を引き連れて、炎が射込まれる。突き立つと同時にぼうと燃え、平衡を失った荷台が、大きく傾いで勢いのまま二人は外へと投げ出された。
  頭を打つ痛みを予想してチャトラは身をすくませたが、男の腕がそれを防ぐ。庇われたのだろうか。判らなかった。
  たいした衝撃もなく地面に尻餅をついたチャトラの目に、車輪が砕かれた残骸が燃えているのが目に映る。
  数瞬前まで彼女が乗っていた車台だとは思えなかった。それほどに無残な襤褸屑だった。
  驚きに呆然と眼を見開いたままの彼女の上に覆いかぶさる格好で、男がチャトラを閉じ込める。おかげで辺り一面遠慮なく金糸の雨が降り注ぎ、まるでその中に囚われたようだ。引っくり返ったまま見上げると、金の檻の隙間から黒い甲冑の背中があった。「皇帝」である男の一番近くに常に付き従う、影のような男だ。
  ディクス。
  チャトラが名を問うと、静かな声でそう答えた。
  その男が立ちはだかるように、塞き止めるように、壁となって二人に背を向け長剣を手にし油断なく身構えている。
  たった一人しかそこには立っていないのに、上回る安定感は何だ。
  ディクスの腕が舞うように流れる動作で動いて、
  しゅぶ。
  鈍い音がチャトラの耳に飛び込んで、同時にびしゃびしゃと吹き散る温かで不愉快な水滴。
  降り注ぐ水滴に男の金色の髪が、次第に朱に染まる。
  血、だ。
  弾かれたように男を跳ね除け、飛び起きた。どこからそんな力が湧きでたのか判らない。無我夢中だった。
  チャトラの目に、まず、首を失ったいくつもの肉体が飛び込む。
  ……くび。
  く、びが。
  転がっていた。
  その少し向こうに眼をやると、名前も知らない幾人もの兵士たちが、同じように剣戟を響かせながら襲撃者と対峙している。
  血しぶきが噴く。
 「存外遅かった」
  ――それから、至極冷静な声にゆっくりと視線を移す。
  嗤っていた。
  朱に染まった髪を掻き揚げた、男が嗤っていた。


  そのまましばらく記憶が飛んで、次にチャトラが我に返ったのは半刻ほど経ってからのことだ。
  記憶が飛んだ、では語弊があるかもしれない。性格には意識を失った訳ではなく、促されるままに馬上に引き上げられ、揺られて進んだ覚えもうっすらとだが残っている。ただ、薄い膜一枚通して眺めている夢のように、茫然自失の状態に暫くなっていたに過ぎなかったようだ。

  頬を叩かれて、気が戻る。
 「猫」
  数度、呼ばれていたようだ。無感情に見下ろす薄茶色の瞳と、横から心配そうに覗き込む黒い瞳。皇帝とディクスだった。
  大樹を背に寄りかかった男の胸に、横抱きに抱えられて頬を張られたものらしい。
  上半身を起こす。
  のろのろと周りを見回すと、あちらこちらで炊爨の支度の煙が上げる男たちが見えた。あるものは甲冑を身にまとい、あるものは設えは良いものの身軽な軽装で、年齢も格好もさまざまだ。
  その一団が、野営するものらしい。
  野営すると言うことは、ずいぶん遠出をする予定なんだな。
  どうでもいい思考がぼんやりと頭をよぎる。
 「大丈夫か」
 「だ、いじょう……ぶ?」
  大丈夫。何が。
  ディクスの言葉を鸚鵡返した自分の声は酷く掠れていて、チャトラは驚き喉に手をやって……それから、状況を理解しようと努める。
 「えっと」
  気が戻った瞬間からガンガンと痛む頭に手を当て、
 「オレ……、何してんの」
  ようやく発することの出来た疑問はそれだ。
 「こんなところで何してるんだろ」
 「どこまで判る」
 「えっと……朝、起きてメシ食いにいこうかなって廊下に出たら、侍従のオッサンがいきなり縄持って立ってて。ワケわかんねぇまま縛られて猿轡かまされて、」
 「――襲撃された。覚えているかね」
 「……しゅう……げき……」
  ディクスの声に、まだぼうとする意識を必死にかき集めて、とりあえず覚えていた朝の出来事を口にしたチャトラへ、皇帝が静かに告げる。
 「しゅうげき?」
  男の発した音が上手く頭の中で言葉として変換できず、チャトラは繰り返す。
 「……陛下。急に告げられるは刺激が」
 「緩だろうが急だろうが変わらない。事実だろう」
 「……」
 「馬車が燃え、車外に逃げた。それは判るかね」
 「……」
  意見したディクスを、軽く首を振る動作で男は払った。見上げる彼女へ促すように、補足するように、直ぐに思い出せない記憶を焦れる声色で、男が尋ねる。
 「騒ぎはすぐに収まったし、こちらの損害も最小限に済んだのだが、お前だけが自失した」
 「……」
 「怪我はないと思うが」
 「……」
  怪我なんてするようなことしたかな。
  言われて思わず確認した自分の手首をまず確認して、そう言えば縛られた痕が擦り剥けていたな――などと思い、
  それから自分と、自分を抱える男の服のあちこちに、まだら模様に赤い染みが見えて、
 「……ああ」
  あちこちどころではない。
  チャトラはともかく彼女に覆い被さった男は、流石に顔の汚れは拭ったようであるものの、まだべっとりと肌に張り付くほどに上着は血塗れていて、
 「あ、あ、あ……、」
  ――血。
  怒涛となった認識と恐怖が、容赦なくいっぺんに襲い掛かる。
  怯えて逃げようと身を引きかけたところを、無造作に寄せられた。
 「いや……いやだ」
 「嫌だ――何が」
 「……いっぱい、でてた」
 「一杯――何が」
 「血」
 「ああ」
 「いっぱい……空中に、いっぱい」
  濁流のように起こった現実を受け止め切れなくて、チャトラは自身の胸元を鷲掴んで小さく喘いだ。
  呼吸が上手くできない。
  思い出した途端、身体が瘧に罹ったようにがたがたと無様に震えだす。
  歯の根が合わなくなっていた。
 「い、いっぱい降ってきて、金色だったアンタがどんどん赤くなって、オレ、ア、アンタが怪我したんじゃないかって思って、そしたら」
  そうしたら。
 「く、首……、首が無くなっ……、る人間の……、身体がいつの間にかい、いっぱいできてて、周りにいっぱいあっ……、き、切れたとこから莫迦みたいに血が噴き出し……、オレ、」
  オレは。
  呼吸が上手く出来ない。
  言いながら生々しく骨と血管の飛び出た断面を思い出し、むかむかと胃が押し上げられて、チャトラは酸吐いた。
  酸吐く僅か前に、このままでは男を巻き込むなとふと思い当たる。血濡れた男へ、今更巻き込むも込まないもないようなものだが、そのときチャトラは何故かそう思って、身体をずらそうと身もがき、
  更に強く胸元に抱き寄せられた。
  切羽詰った彼女に突き放す余裕などあるはずもなく、そのまま数度込み上げた胃液を戻してしまう。
  身を震わせ、吐瀉しながら思う。

  汚してしまう。
  アンタを汚してしまう。
  ……嫌だな。

  汚してしまうのは、嫌だな。

  苦しさにぐちゃぐちゃになった思考の片隅が、そんなことを呟いた。
 「――チャトラ」
  涙か洟か、吐き出したものか、チャトラの顔を袖口で拭いながら、男が痙攣する彼女の耳元に顔を寄せる。
  名を呼ばれた。
 「ゆっくり。息を吐きなさい」
 「……あ……は、は、」
  囁きに抗うだけの力もなくした彼女は、ひゅうひゅうと引き攣りながら吸うばかりだった息を、言われるまま恐る恐る吐き出す。
  身を襲う衝撃に見開いた眼の上に、男の手のひらが当てられ、瞼を閉じるように促された。
  抗えず大人しく手のひらの下で瞼を伏せた彼女へ、
 「吸って」
  冷えた吐息と共に、落ち着いた声が吹き込まれる。
 「吐く」
  その通りにした。
  何度か繰り返すと身体が不思議なほど楽になり、強張っていた肩の力が自然、抜ける。
 「――終わっている」
  邪魔にならないよう、適当に切り揃えていたチャトラのぴんぴん跳ねる癖毛を、男はそっと撫ぜた。
 「怖いことは何もない。もう終わっている」
  繰り返し吹き込まれるテノールはひどく心地が良い。塞がれた視界のせいで、押し付けられた胸元の人肌より若干冷めたぬくもりが、徐々に徐々にチャトラの緊張を解いて行く。
  ことことと、音がした。
  聞こえる心音は、男のものなのかそれとも耳の奥で鳴り続ける自分のものなのか判らなくなっていた。
  それは、安心できる鼓動だ。
  およそ十月十日を母親の胎内に孕まれて過ごす人間は、宿主の心音を聞いて育つと聞く。育つ過程で多くはその記憶を失ってしまうが、身体に染み付いた絶対的な――原始的な――ここは無条件で大丈夫だと言う安心感、何があっても自分は守られていると言う被保護感、それはどうやら生涯付きまとうものらしい。
  少なくとも、今のチャトラはそうだった。
  黙りこんだまま男に大人しく抱かれる彼女が、落ち着きを取り戻すまで男は辛抱強く、何度も何度ももう終わった、もう終わった、と繰り返す。
  終わった。
  放心していた判断力が彼女の裡へと舞い戻り、混乱がようやく鳴りを潜める。

  やがてチャトラは、人の気配を感じてのろのろと身を起こした。
  他者に気が配れる程度まで、半刻はかかったように思う。
  その間、おそらく立ち尽くしたまま、声を掛けることをせず待機していたその影が、
 「……陛下」
  控え目にそっとかけられた声は、女のものだった。
 「ご無事で何よりです」
  皇帝の肩越しにたちまち好奇心、目を出したチャトラが見とめたものは、かっちりと武装に身を固めた姿だ。
  背中まで流れる、銀髪にも似た真っ白な髪をしていた。
 「これは――」
  まだ若い。
 「――久しぶりだね」
  自分を抱いた皇帝の声音が、確かに上機嫌になっていた。女を認めた瞬間、男の体にかすかな緊張が走ったことを、抱き寄せられ密着していたチャトラは気づいた。その変化ぶりを怪訝に思い、男を振り仰ぐ。
  常は気怠く眺めやることの多いように思う栗色の目が、今は少しだけ意志を湛えている。振り向いて女を見るでもなしに、けれどうっすらと口角が上がっていた。
  嬉しいのかな。
  ぼんやりとそれを眺め、それからもう一度肩越しにチャトラは女を見る。
  瞬間に男を変化させられるこの女の正体に、興味を覚えた。
  年はチャトラより少し上、二十歳は超えているだろうか。すっと縦に伸ばされた姿勢が実に良い、凛とした美人だ。
  着飾ればたいそう見栄えがすると思えるのに、女の着ているそれは無骨な色と形の、甲冑である。
  軍人でもなければ、武の心得もないチャトラには詳しいことは判らなかったが、それでも無駄を一切省いた、機能性を重視した装いであるように見えた。
  朱色の腰帯以外黒で固めた姿は、けれどそれが逆に、女の真っ白な髪と肌を際立たせている。
  似た装いの黒一色のディクスは一見、影法師のように見えるのに、女はどこかしら不可視戯で、ふわふわと宙に溶け出していきそうな雰囲気だ。
  ――似てる。
  どこか懐かしみを女から感じるような気がして、それが視線のせいであることに気が付いたのは、しばらく無遠慮にしげしげと眺めた後だ。
  軽く身もがき、放してほしいと意思表示をしているチャトラを、完全無視し抱きかかえている男のその色と、同じように思った。
 「君が来るとは珍しいこともあるものだ――……第五特殊部隊ミルキィユ将軍」
  呼ばれて女は、小さく敬礼した。
 「陛下」
 「うん、」
 「少しく無茶です」
  言って一旦口を噤み、男とチャトラを見下ろして困ったように眉尻を下げる。
 「何かあったらどうします」
 「だが何もなかった」
 「……そう言うことではなくて」
 「ディクスが側にいた。大概の敵は敵うまいよ」
 「そう言うことではなくて」
 「燻り出すための餌はいずれ必要だったのだ。時期が遅いか、早いかの違いでしかあるまい」
 「そう言うことではなくて」
  はっきりとした音程のアルト。何を言っても同じことを繰り返すそれを、皇帝が楽しんでいるように見えるのは、きっとチャトラの錯覚ではないのだろう。
  片眉が上がる。
 「怒っている――のかな」
 「怒っているとしたらどうなされます」
 「――おや」
  それは困ったね。
  まるで困っていない飄々とした顔をしながら、そう言って皇帝は声を立てずに笑んだ。
  やはり、上機嫌だ。
 「……とにかく。皇都まで我等が護衛いたします」
 「君のところは、つい先日帰都したばかりだろう」
 「火急を要しましたので。取るものもとりあえず馳せ参じる余裕と準備があった部隊が、わたしのところしかおりませんでした」
 「なるほど。――それで、馴染みの大剣がないのだね」
 「……ええ」
  皇帝の言葉に、言われた女が肩越し背中へ手をやって、軽く苦笑した。
 「見られてないのにわかりますか」
 「音」
 「音、ですか」
  皇帝の返答は短い。これは、日頃彼女が背負っている大剣による甲冑への反射の音――、もしくは大剣の荷重のかかった足音――を指し示した言葉であったのだろう。
  ミルキィユには、通じたようだ。
 「君のことは大概判っているつもりであるよ」
 「皇都に戻った際に、砥ぎに出しました。慌てて出立してきましたので、間に合わなくて」
  苦笑に、はにかみが混じる。
  笑うと凛と張り詰めた雰囲気が和んで、女も軍人の鹿爪らしい顔から、年相応のものになる。
 「ミルキィユ将軍」
 「はい」
  ミルキィユ、と発音する声が、噛み含めるようにやさしい色を帯びていて、チャトラは小さく驚く。
  ……アンタ、こんなやさしい声も出せるんだ。
  途端に生来の好奇心が湧いて、さらに首を伸ばして覗き見始めようとしたところを、見通していたのだろう。男の手がチャトラの首根っこをぐいと引き、己の胸元に押し付ける。
 「テメ……」
 「あれはどうした」
  放せ、のチャトラの抗議は、男の声に被せられて消えた。
 「あれ――とは」
 「虎」
 「ああ、」
  短い皇帝の問いに、合点が言ったように女は頷いて、
 「置いてきました」
  顔を引きしめた。
 「ほう」
 「都もまた、あちらこちらから煙がくすぶりそうな気配。お迎えいたしますのに少しばかり物騒でしたので、よく目を光らせておくように言い置きました」
 「ふむ」
 「虎」というのもまた、男が日頃自分を指して「猫」と表すのと同じように、誰かを指した言葉なのだろう。目まぐるしく変わる会話に聞き耳を立てながら、チャトラはそう分析する。
 「三補佐は」
 「変わらずお待ちしております」
 「――ふむ」
  聞くだけ聞くと、徐に男は肩を竦め、会話を打ち切る姿勢を示した。
 「詳細は後で聞く。小言も――後回しで良いかね?」
 「……承知しました。あとで小言はたっぷりと」
  こういった会話に慣れているのか、女も笑って頷くに留めた。
 「この後いかがなさいます」
 「君と向かい合うには、私は少々血で汚れてしまっているようだ。あちらに湖畔が見えていた。流してこよう」
  やれやれと男が掻きあげた髪は、血糊に固まり始め、確かにこのまま放っておくと大変なことになりそうではある。
  手を伸ばしてチャトラは、ごわごわした男の髪を掬った。
  そう言えば車から投げ出された瞬間、男がためらいもなく自分の上に覆い被さったことを、今更ながら、実に今更ながら彼女は思い出す。
  ――……庇って、くれたのかな。
  上目で眺めても、押し付けられた胸元から眼に入るのはせいぜいがところ男の喉ぐらいのもので、その表情は知れない。
  ずるいとふと思う。
 「陛下」
 「うん、」
 「ひとつだけ、よろしいですか」
 「何かな」
  唇を尖らしているチャトラを、見ずとも男は気付いていたのだろう。喉奥で低く笑いながら、彼女の頭を無造作にぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、そうしてミルキィユに答える。
 「この度の休暇」
 「うん」
 「ひとえに、くすぶりを誘発させるために皇都より離れられましたか」
 「――さぁ」
  どうだろうね。
  どちらともとれる笑みだけ残して、男は立ち上がる。
  それきり、今度こそ会話を打ち切った。

                 *

 「――偉い――か」
  アンタは何が偉いの。
  素朴と言うには、芯を穿ちすぎて胸に痛いチャトラの問いを繰り返しながら、その男はうっすらと笑いを頬へ上らせた。
  相変わらず、機嫌は悪くない。
  こういう会話が新鮮なのだと言ったら、彼女はどういう反応を示すのだろうか、とふと思う。
 「何故そう言う問いを口にしようと思ったのか、そちらを聞きたいね」
 「……うーん」
  背後に流れ、水面にたゆたう男の長髪の汚れを丁寧に擦り洗う供周りを眺めながら、チャトラは宙を睨んだ。
 「なんかよく判らねぇけどさ。アンタきっと結構偉いんだよな?」
 「どうしてそう思う」
 「……だってさ。メシが毎度毎度、悪い冗談みたいに豪華だ」
 「それから」
 「扉とか、アンタが触る前に誰かが開けてる」
 「それから」
 「みんなペコペコ頭下げる」
 「それから」
 「なんか喋り方もおかしいだろ」
 「おかしい――、」
 「やたらと『御』が多いとか」
 「ああ」
  合点が行って皇帝は頷く。
  確かに、「丁寧語」であるとか「謙譲語」であるとか、他との会話はその連続のことが多い。
  生まれてより周囲の言葉はそれ一辺倒であったので、皇帝自身は特にその言葉遣いに対して何と思ったこともないが、下町に生まれ育ったチャトラからすれば、まるで暗号のように聞こえるものなのかもしれない。
  そうも思う。
 「こないだ、侍従のおっさんが『玉体がどうの』とか言ってるから、一体何のことかと思ったら、アンタの体のことだったりとかさ。玉ってなんだよ、的な」
 「転がるのだろうか」
 「オレに聞くなよ」
  面白がって尋ねるとチャトラが渋い顔になる。
 「まぁ、どこがどうとか上手く言えねぇけどなんとなく、いろんなところを総合してアンタって実のところ『偉い』のかなとか思ったんだけどな。……思ったんだけど、じゃあアンタの何が一体偉いのかって考えたら、思いつくことが何もねぇ」
 「私が偉いと思うかね」
 「……わかんねぇけど。けど、何もないのにアンタに頭下げるってヘンじゃねぇか」
 「――お前は思っていない」
 「当たり前だろ」
  即答だった。
 「アンタに、ヒトを動かす力はあると思うけどな。けどそれが偉いかどうかは別問題だろ」
  歯に衣を着せぬ。本心だろう。
 「――聞くが」
 「……ぅん?」
  興味を覚えて皇帝は口を開く。
 「では何故気にするのかな」
 「何でって……その」
 「その?」
  言ったきり、しばらく口を噤んで言葉を捜すように宙を睨んでいたチャトラは、
 「……あー……だからさ。しばらくの間、大人しくしてやってもいいか、とか思ったわけなんだけど。……思ったわけなんだけど、別にアンタが偉いからそれに従うとか、そういうつもりじゃねぇよ、って言う」
  つっかえつっかえ呟いた。
 「――猫」
 「な、なんだよ」
 「端的に言うと」
  回りくどい説明は好まない。それに手間取る時間が無駄だと男には思えるからである。
  素っ気無く告げると、あからさまに動揺したチャトラが返事に困って足元の小石を水面へと投げ入れる。
  ――動揺ではない、のか。
  背後の気配を探って皇帝はひっそりとまた嗤う。
  そうして、気付いてしまった。
  口に出すのが、悔しいのだ。
  己の負けを認めたような気になるから。
  しかし、そこで彼女が自分から折れやすいように助け舟を出してやるほど、男の意地は甘くはない。相手が窮するほど快感を覚えるのだから、これはもはや性癖である。
 「……つまりさ」
 「ふむ」
  沈黙を楽しんでいた皇帝と違って、無言に堪えられなくなったチャトラがしぶしぶ口を開く。
 「アンタ、オレのこと、屋敷に閉じ込めてたけど閉じ込めてた訳じゃなかったんだろ」
 「――」
 「街でオレがアンタの懐を狙ったとき――アイツら――今日襲ってきたヤツら、アンタのことずっとツケてたんだな?」
 「――」
 「オレがアンタ狙ったってのはたまたまだった訳だけど、どっちにしろそのときツケられてたアンタと関わりを持っちまったから、そのまま役人に突き出すのも見逃すのも危険だってアンタ判断したんじゃねぇかな、とか」
 「――」
 「違うか?」
 「――つまり?」
 「……ああもうだからつまり!」
  静かに男が問うと、癇癪を起こしかけたチャトラはばしゃばしゃと水面を腹立ち紛れに叩き、次いで大きく息を吐き出すと、
 「オレはアンタに助けてもらったんだと思うから」
  言い切った。
  言い切った後に、歯噛みしている。
  恥じらいではなく、はっきりと怒りのためにチャトラの頬は紅潮し、吊り眼がきらきらと光を反射している。よほど悔しいのだ。
  その様子がおかしくて、喉奥でくぐもった笑いで堪えていた男は、とうとう堪え切れなくて肩を震わせて笑い出す。
 「笑うんじゃねぇッ!」
  怒鳴られた。
 「言っとくけどな!!アンタのこと、今でも気に食わないしムカつくし一発くらいブン殴ってやりたいとか思うけど!思うけどああもう仕方ねぇじゃねぇか命の恩人なんだろ!……おんじん!恩人!恩人とか!なんだよ恩人とか恩着せがましいことしやがっていつオレが護ってくださいとか言ったよ!!」
  勝手に言い募って勝手に怒り心頭している。地団太を踏んでいるだけでは飽き足りなかったのか、しゃがみこみぶちぶちと手近の草を引きむしりながら、チャトラは吐き捨てた。
  男の意図はともかく、もし「助けた」のだとすると、それにしては酷い言われようである。
 「悔しいか」
 「……悔しいよ!悔しいに決まってるだろ畜生!この先オレがメシ食って美味くても、昼寝してまったりしても、そりゃ全部、『命』の『恩人』の『アンタ』の『おかげ』なんだぜ?ああああもう!」
  完全に汚れを洗い落とす当初の目的を忘れたのだろう。チャトラは悪態をつきながら湖面に小石とは言いがたい大きさの石を投げ込みはじめた。
 「――恩を着せるつもりは」
 「ねぇんだろ。判ってるよ。判ってるから余計ムカつくんだろうが!!」
 「そう言うものなのか」
 「そりゃそうだろ。いくらアンタがそのつもりがなくたって……、そう言うわけにゃいかねぇだろ。少なくともオレの生きてきた世界じゃそうなんだよ」
 「ふむ」
  笑いを未だに残しながら男は内心驚いている。
  自身の行為が、そこまで彼女に見抜かれていたとは思わなかったからである。……というより、今まで告げたならまだしも、男の真意を汲めるものはどこにもいなかった。
  手の内を見せるつもりもなかったから。
  考えられるのは、側近のディクス、もしくは勘の良いミルキィユあたりが、男の思惑に気付いてチャトラに耳打ちした、ということなのだが、
 「その議」
 「あ?」
 「誰がお前に教えたのかな」
 「はァ?誰か?誰かって誰だよ?」
  違うのか。
 「――では問う。何故そう思ったのかな」
 「何でって。……におい、が」
 「臭い?」
 「何て言うんだ?女のにおいが男に付いた、てヤツ」
 「移り香?」
 「ああ。そう、それ。オレが街でアンタ狙って……、ダインのオッサンに捕まって路地に引きずり込まれただろ。それのちょっと前、アンタに狙いを絞るか絞らないかのあたり。安モンの白粉の匂いがぷんぷん匂ってやがった。どっかの娼館帰りなんだろうな、とかあんまり気に留めてなかったし、アンタらに捕まってからは、アンタのその……なに?香水?が強くてよく判らなくなっちまったけど。たぶん商売女の白粉だとは思うんだけど」
  だけど。
  僅かに俯いて、一瞬暗い目をチャトラが見せたので、男はふと気を惹かれる。
  けれど、上向いた彼女の顔からは憂いの表情は既に去り、元の腹立ち紛れの顔に戻っていた。
 「酒場も、娼館も数多くあのあたりには」
 「あるよ。それくらい知ってるよ。どんだけ穴場にして仕事してたと思うんだよ」
 「では」
 「けどな。あの白粉な。あの街じゃ、売ってねぇんだ。知り合いが昔使ってた。同じヤツだと思う」
 「ほう――」
  急に身を翻して、男はチャトラと向かい合う。面食らった彼女が身を引く前に、ぐいと胸倉を掴み無造作に手前に寄せる。抗う間もなくバランスを崩して、男が腰まで浸かっていた湖水に頭からチャトラは突っ込んだ。
  派手に水飛沫があがる。
  汚れを拭っていた従者たちは何も言わない。言わないように訓練されている。
  であったから、皇帝のその動作に弁え、身を引き、少し離れて控える動きを見せた。
 「な……」
  何するんだよ。
  言いかけたチャトラの抗議の声は、しこたまに水を飲んで噎せる咳に紛れて消えてしまう。
 「猫の鼻も役だつか」
  足を滑らせたのか、満足に立てずにもがいている彼女の襟足を掴んで、男は無理やりチャトラを正面に立たせると、息苦しさに涙目になっている彼女の耳元へ忍び囁いた。
 「なに。なんなの。意味わかんねぇ」
  展開についていけず、怒りすらどこかへ霧消してしまったらしいチャトラが、顔を拭い、呻いた。
 「オレに判る言葉で言ってよ」
 「喜べ。お前の鼻を”信用”しよう」
  男が口にする「信用」の一言が、どれほど重い意味を持つものか、恐らく彼女は気付かない。
 「腹の探りあい」の皇宮内に於いて、一国を統べる主がおいそれと口に出来る言葉ではないことに、彼女は気付かない。
  けれど、それで良いと思った。
  そうして男がひとつ視線を送ると、音もなく岸に控えていたディクスが心得顔で頷く。
  証拠は多いに限る。今のチャトラが言ったような娼館の筋から、またいくつかの動かないそれを抑えることが出来れば、それはそれで好都合だ。
  もとより、大きく張った罠だ。襲撃してきた不穏分子を今度ばかりは徹底的に殲滅する算段だった。
  そうでなければ、男自身を餌としてちらつかせた意味がない。
 「どういうこと」
 「お前は本当に面白い」
  けれど、チャトラに説明する気は男には毛頭ない。話して聞かせたところで、彼女が理解できるとも思えなかった。
  薄く笑って顎を取る。男に説明を求めることを恐らく早々に諦めて、チャトラが腕の中で大きく溜息をついた。慣れたものだ。ふと思う。
  つい十日前はこうして腕の中に閉じ込めることも無理だったのに。
  思うと急に悪戯心が湧いた。
 「――で?」
 「あ?」
 「『命』の『恩人』である私に、お前は何をして報いてくれるのかな」
  答えを求めた訳ではない。予想通りに言われたチャトラは鼻を鳴らして眉根を寄せた。
 「何って……そんなん、考えてねぇよ。まだ」
 「そうか」
  では。
  こうしたら、どうか。
  言うなり男は、つとチャトラの顎を引き寄せてその唇に己を重ねた。抵抗はなかった。
  軟らかくて暖かい。
  無駄に体温が高いのだ。驚いて突き放そうとする彼女の小さな体を押さえ込み、喉元を片手で掴み締める。くぇ、と声帯を鳴らして薄く口を開いたところへ、男は舌を捩じ込んだ。
  そっと探る。
  ぬるとした内部は更に暖かかった。熱いとさえ思う。
  歯列をなぞり細かく震える相手の舌をつつく。逃げるような動きを見せる前に絡めとり、軽く吸い弄った。
  何度も確かめるように形を辿ってやると、徐々にそれは解れ行き、その内ふ、と小さく湿った息がチャトラから漏れた。
  見遣れば、縋る拳を中途で堪え、握り締めている。爪が食い込んでしまうようにも見えて、男は片腕を喉元から外し、その拳に這わせた。おずおずと開く手のひらに重ねる。
  そうしてちゅ、と水音をさせて、口付けてはまた離れる動作を繰り返してからもう一度、至近距離でチャトラの瞳を覗き込む。戸惑いと言う以前に、軽く混乱状態に陥っているのだろう彼女は、揺らいだ視線を男に返す。吹きガラスにも似た深い緑青の色が綺麗だと思った。
 「ああ」
  指を瞼に這わせて、撫でさする。抗わずチャトラが軽く目を閉じた。
 「澱みの色だね」
  いっそ、抉ってしまおうか。
  囁きながらもう一度口付けると、ようやく状況を飲み込めたらしいチャトラにがり、と歯を立てられて、たちまち口内が鉄錆の香りで充満する。
  そうだ。
  それでこそ、だ。
  期待した動きに、くつくつと漏れ出る含み笑いが止まらない。
 「テ、メェ……ッ」
  男を突き飛ばそうと踏ん張った足に力が入らなかったのか、逆によろけ、チャトラは飛沫を上げて尻餅をついた。
  ばしゃばしゃともがきながらなんとか立ち上がり、頭から水滴を滴らせながら、それでも貫く鋭い視線。
 「いきなり何しやがる」
 「何」
  涼しい顔で男は応えた。
 「前払いだ」
 「前払い……ッ」
  思い出したようにごしごしと唇を擦る動きはやけに幼い。
  向けられた敵意は、はっきりと怒りだ。
  それがよくある恥じらいではないことが、逆に彼女らしいと思った。
 「……莫迦かアンタは?!こんだけ人間がいて、人前でやる行為じゃねぇだろ!」
 「成程」
  深く頷いてみせる。
 「今度からは二人きりのときにしよう」
 「そう言うことじゃねぇよこの変態糞オヤジ!」
  あからさまな罵倒に、とうとう堪えていた含み笑いが弾けて、げらげらと男は笑い出す。ここまで面と向かって己を罵った相手が今までにいたか?
  面白い。
  狂気交じりの笑みを零す男へ、殴りかかりそうな殺意をもってチャトラが拳を数度開いたり閉じたり歯軋りし、
 「水にでも顔突っ込んで溺れて死ね阿呆」
  けれど上手い対応が見つからなかったのだろう。噛み付くように吐き棄てて、ざぶざぶと岸に上がりそのまま男を振り返りもせず、点々と水滴の跡を残して走り去った。
  付き人の中でも訳知り顔の一人がそっと腰を折るところへ、
 「――良い」
  煩わしくひらひらと手を振って皇帝は留める。
  口に出されなくても、付き人が口にしようとした言葉は大概は予想が付く。
  逃げるのではないか。
  監視を付けたほうがよいのではないか。
  そう注進しかけたのだろう。
  しかし皇帝には、『命』の『恩人』への借りを返さずに、チャトラがそのまま姿を消すとは思えなかった。あの性格だ。歯噛みしながら、むかっ腹を立てながら、それでも嫌々でも付いてくるだろう。
  そのくらいは、判る。
  おずおずと供周りが再び近寄り、自身の汚れをまた落とし始める行為を当然のように佇んで受けながら、ようやく笑いを収め、皇帝はチャトラの立ち去った方角を眺め、無意識に己の唇を指でなぞっていた。
  熱かったな。
  濡れた臙脂。
  己のものではない体温は熱かった。いっそ不快なほどに。

                    *

  畜生、畜生、畜生、畜生……!
  音にして表すのならば、のしのしと、ずかずかと、けれど生憎足を突っ込んでいた革靴はたいそう濡れていたので、実際はぐすぐすと情けない音を立てるだけで、まるで様にならなかった。
  通りすがりにへし折った小枝をやたらめったら振り回し、チャトラは腹立ち紛れに手当たり次第木立を打ち据える。
  けれどざわざわとしなる枝は、逆に己の額や頬や腕を弾き打ち、赤い太刀筋を皮膚に残した。
  そのうちのひとつがしたたかに顔面を打ち、勢いかっと癇癪を爆発させかけたチャトラは、しかしそこで動きを止めて、大きく深呼吸をする。
  ここで癇癪を起こして暴れるのは何故か、悔しかった。
  それではあの男の思い通りになってしまう。そう思った。
  そうして、何度も深呼吸を繰り返し、頭に上った血が徐々に下がるにつれて、やがて込み上げてきたのは怒りではなく空しさだ。
  涙が滲んでいたのは、痛みのせいだ。あの男に揶揄かわれたから、では断じてない。
  ……ないと、思いたい。
  乱暴に瞼を拭って、しゃがみこむ。こうしていれば薮にまぎれておそらく誰からも自分の姿は見えないだろう。
 見つけてほしくない。今だけは。
  泣き顔を見られることを喜ぶ人間などいないだろうが、中でもチャトラは特に嫌がる部類だ。
  恥ずかしいだとか、情けないだとか、見せ掛けだけの問題ではなく、見られた相手に弱みを握られた気がするからだ。
  傷口を舐めるのは一人がいい。
  そうして半ベソをかきながら、一体自分は何にそこまで腹が立ったのだろうかと思い返す。
  残念ながら、歳不相応に世間の酸い甘いを身を以って知って生きてきたチャトラにとって、実際先の男の行為自体に衝撃を受けていないことは事実だ。
  それが自分でも、少し悲しいと思う。
  幼い頃両親と死に別れたチャトラを、変わりに育ててくれた少し年上の「姉」は商売女だった。薄い戸板一枚隔ててあちら側では姉と、客の男が一晩よろしくやっていた、などと言う、正直、情操教育には少しばかり刺激の強い夜もそれなりにあった訳で、チャトラの行為に対する抵抗感は驚くほどに少なかった。
  適応してしまえばそれは日常の話だ。
  チャトラ自身、日銭を稼ぐ手段として春を売ろうと揺らいだ瞬間を、幾度となく操り返して生きてきた。理性の抵抗は数日の空腹感には敵わない。腹を満たせれば、それは何でもよかったのだ。
  であったから。
  唇を奪われただの、貞操がどうのと喚き散らすつもりは彼女にはなかった。
 「減るもんじゃなし」
  その程度に思っている。
  だのにどうしてこうも腹が立つのだろう。
  男のしれっとした顔を思い出しただけでまたむかむかとしかけ、チャトラは慌てて首を振った。
  代わりに浮かんだのは懐かしい笑顔。
 「姉ちゃん」
  ぼつんと呟いた言葉はしゃがみ込んだ地に落ちて消えた。
 「会いたいなぁ」
  弱みを見せることが即生活基盤の危機に繋がる掏摸稼業において、「頼る」行為は酷く危険だ。
  利用されてしまえばそれで終わりなのだから。
  心弱くなった時に縋れる相手の人数などたかが知れていて、チャトラにとってはたった一人だった。
 「会いたいなぁ……」
  その「姉」はもういない。


(20100516)
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最終更新:2011年07月11日 10:13