<<綿菓子のような時間>>
最近自分の居心地の良い場所が、あちらこちらに増えてきた。
訂正。
別段急に増えた訳ではなくて、居心地の良い場所に気がつく余裕が出てきたのだろうなと思う。
チャトラである。
例えば。
応接広間へと続く、宮廷内でも一番長い廊下の、大きな壷と壷の間に隠れるのが好きだ。
それから、暖炉の前のすべらかなラグに丸まって、転寝をするのも好きだ。
それから、中庭の大きな樫の木の枝に登って、目下で兵卒たちが訓練を行っている風景をひっそり眺めることも好きだ。
それから、洗濯室の隅、乾いてあたたかなシーツが軽く畳まれた間にもぐりこんで、日の匂いに包まれることも好きだ。
けれど、一番居心地が良いのは目の前の男の足元。男が深く腰を掛けたカウチの傍で分厚い本を開ている午後だと思った。
丁度「今」がそれにあたる。
「なぁ……これ、なんて読むの?」
「――『さすらい』」
眺めていたページの、読めない単語を指差しチャトラが声を発すると、男が僅かに手元の書類から視線を流し、簡潔に呟いた。
「はー。……さ、す、ら、い」
「『目的もなくただ歩き回る』。『あちらこちら当てどなくうろつく』」
「へぇ」
意味は、と問う前に見越していたのだろう。
手にした鉛筆で、チャトラはページの空白に文字を書き入れる。入れていると、頭上からくぐもった含み笑いが聞こえた。
「……なに」
「お前の文字は面白いね」
男がこちらを見ていた。
言葉通りに取るならば莫迦にしているようにも聞こえるが、見上げた男の顔を見てそうではないのだろうな、とチャトラは判断した。ただ可笑しかったらしい。
「象形文字と言おうか、暗号と言おうか」
「いいんだよ。オレが判れば」
大きくぐりぐりと文字へ丸をつけて、照れ隠しにチャトラはボヤいた。男が几帳面に繊細な文字を書くことを彼女は知っている。
そもそもがこの分厚い本自体、男の持ち物なのだ。彼女自身の読解力ではかなり難解な文章がつらつらと並べ立てられている。と、言うより、読んでいるといっても文字の羅列を眺めているだけで、九割以上は理解できていない。実際、本気で文字の勉強をしようと思うのなら、小さな子供向けの教練本でも朗読したほうが、よほど学習としては効率がいいと思う。
――いいんだ。
文字を覚えることが目的で、広げているわけではない。
ただ、この空間が心地良かったからだ。
男の持ち物を開いて、いくつか知っている単語を拾い読み、それで読んだ気になりたかっただけだ。
アンタの世界を知りたい。
そう望んだチャトラの言葉をどの程度まで男が酌んでくれているのか判らないが、それでも受け入れる懐は広くなったように思う。
許容される範囲が広くなった、と言うべきか。
例えば、大事な本であるのだと思う。重要文献だとは言わないけれど、男が存外気に入ったものしか手元に置いておかないことをチャトラは知っているから、そう言う意味ではこの男の居室の棚にある何冊かは、男の「お気に入り」だということになる。
けれど、文字を書き込むことにたいして咎められたことがない。その行為を男がどう思っているのかはチャトラは聞いたことがない。好き嫌いだけははっきりしている男のことだから、落書きにも見えるチャトラの書き込みが本気で気に食わないものであったなら、ずっと以前に口にも態度にも出していることだろうと思うので、この行為は許容範囲内なのだと彼女は認識している。
「猫」
「何だよ皇帝」
「私の――」
私の名前も書いてみてはくれないか。
難問を突きつけられた。
「名前、……ねぇ」
言われてすぐには否定せずに、チャトラは思案した。
男が定まった名称を持たないことに戸惑ったのは始めのころの話で、最近は名がない、と言うことに違和感を感じることもなくなった。順応力とは恐ろしいと自身のことながらそう思う。
「そう言えばさ」
「――うん?」
「アンタ、会ったころから、オレに限らずいろんな人に好きに呼べとか勝手に名づけろとか言ってるだろ」
「言っているね」
「でもアンタ、そうやって呼ばれる名前にも反応したためしないじゃん」
「そうかね」
「そうだよ」
大きくひとつ頷いて、それからチャトラはこちらを眺めやる男の顔を真正面から臆面もなく見上げた。
「アンタさ。本当は、名前があるんじゃねぇの?」
言われて男が虚を突かれた顔をした。
眉尻が下がる。実際はとても小さな動きなので、こうして正視でもしていないと気がつかないほど些細なものではあるが。
困っているようにも見えた。
「名前――」
「名前っていうとややこしいか。そうだな……アンタ自身が呼ばれたい『音』。アンタが自分で気付いてるのか気付いてないのか知らねぇけど、なんか引っ掛かりがあるから、『それ以外』の音には反応できないんじゃないかなってオレ思ったんだよね……判んねぇけど」
その困っているような顔が可笑しい。見続けてもいたかったけれど、きっとそうすると男が何がしかの悪戯で報復してくるだろうことは容易に想像が出来たので、チャトラは本に目を落とした。
内面を覗かれることを、男は嫌う。
「呼ばれたい、音」
「うん。だから最近オレ、アンタの好きっぽい音探してるんだけどな」
「好きな音――」
私に?
「オレに聞くなよ。判んねぇって言っただろ。でもさ。例えばオレが、『チャトラ』って名前ついてるのに、そうじゃない名前で呼ばれても、多分オレのことだと思わないと思うし、好きでもない名前で無理に呼ばれ続けたら、ムカっ腹がたつと思うんだよ」
「私もそうだ――と」
「だから判らねぇって。聞くなって。そうかなって思っただけなんだ」
「――」
「でも、そのうち判ると思うんだよね。アンタの『名前』」
「――」
黙りこんだ男に不審を抱いて、指でなぞりながら追っていた文字から目を上げると、未だ困ったような顔をしていた男が、少しだけ口角を上げてチャトラを眺めていた。
「なに」
「判ると思うか」
「判るんじゃねぇの?閃きみたいなもんだろ、きっと」
頭で考えることより、身体で感じることのほうがチャトラは得意だ。
「そのうち判るよ」
繰り返すと、男が不意に手元の鵞ペンを取り上げ、突きつけてきた。顎を引く。
「……なに?」
「書きなさい」
「なにを」
「私の好きであろう音」
「難しいこと言うなよ」
ボヤきながら、思案に戻る。
それから、
思いついたようにニヤニヤとほくそ笑み、男の蔵書の空白に、同じ文様を大きく書いた。いくつも。
「――何と」
「書いてあるかなんて教えない」
オレがアンタの好きな音を探すんだから、アンタもオレの文字を理解しろよ。
そう言うつもりで笑いながら目を上げる。男が自分の文字を読み取れないことを承知の上だった。
と言うより、小っ恥ずかしくて決して口には出せないだろうと思う。
そもそも口に出せるような性格だったら、苦労はしないだろう。
――だいすき。
だなんて言葉で表すわけにはいかないのだ。
(20100428)
最終更新:2011年07月21日 21:17