<<鳥の巣>>
ここでもう少し、エスタッドとその統治者である皇帝について述べておきたい。
エスタッド皇国。
血継によりて受け継がれた皇帝を頂点とし、末広がりに三角形が大きく広がる巨大軍事国家である。
大陸随一の、流通経済に栄えた都でもある。人口凡そ八十万人。当時の「都」とよばれる各地の街の規模から推し量ってもそれは格段に巨大だ。
勿論、先代、先々代、さらに遡って多くのエスタッド皇の働きあってこそ、の都市国家ではあろうが、それにしても各地より訪れる商人たちですら目を見張る、他に類を見ない繁忙振りである。大陸のほとんどすべての事象は、この都市に集まったと言っても過言ではない。
一番に大きかったのは、その安定力だったのだろう。無論、住みなれた土地に対しての各々の執着もあったにはあったのだろうが、それよりもやはり、経済が安定し、身代及び生命が脅かされる恐れのない生活というものに、人間は惹かれる。形だけではない、目に見えぬまでも確とした生活基盤がエスタッドにはあって、それこそ砂糖水に蟻が集まるように人々はエスタッドへの居住を望んだ。
都は、高く聳える尖塔を中心とし、回りに何層ものドーナツ型区画が立ち並ぶ。中心は勿論皇居だ。次いで皇族、貴族、華族等等爵位を持つものの屋敷が層を成し、それから兵舎区、商業区、工房区、住居区といったこまごまとした建物が軒を連ねひしめき合う。
そうして境には、十尋(一尋は大人が腕を水平に伸ばした平均的な幅である)の高さの外壁がぐるりと街を取り囲んでいて、更に外にはエスタッド皇国への住居の資格を取得できないもの――移民であったり、何がしかの犯罪歴を持っていたりして永久居住権を得られないもの――が、やはり輪を形成していた。
外壁には、東西南北の巨門が外界に開かれている。旅人は、四つのうちの何れかの門をくぐり、番兵の前を通らないと内部へは入れない仕組みだ。
これはそのまま、大事が起こった際には四方の門を閉じれば巨大な要塞へと変化する。
エスタッドは軍事国家である。全人口八十万のうちの凡そ半分――が、何れかの軍籍に身をおいていた。
先に述べたように、職業軍人と言う、それまで空論でしかありえなかった形を、実際に国政で現し示してみせた、大陸初の国家であり、その版図は日々拡大の傾向にあった。
大陸は乱れていた。
昨日建国された国家が明日には白い灰と化し、功をなした英雄が数日後には反逆者として磔刑にされていた時代である。
足元を照らすはずの法も秩序も、やもすればすぐに泡のように掻き消え、親が子を、子が親を、謀り、騙しあい、貶めあった荒んだ時代である。
後世、この時代を、
「暗黒大陸時代」
などと名付けた書物も多く出版された。
「信じる」と言う行為が、愚挙と半ば思われていた時代である。
人が人を信じるという、ただそれだけの単純なことがたいそう難しかった。
とは言え。
それは建前と言おうか、説明上と言おうか、大陸すべての人間が一様に荒んでいたのかと言えばそう言うものでもない。実際のところ、「国家」なる大きな玉を、どうにか手中に転がそうと苦心する連中――例えば王族であるとか、貴族であるとか、富豪であるとか、そう言った一筋縄で行ってはいけない連中――の言葉であり、もっと下層の連中――守るべき高額のものも美しい女も特になく、日銭を稼ぎ、酒場で愚痴をこぼし、酌女に調子に乗って手を出しては頬を張られ、へべれけで家に帰れば女房にどやしつけられ尻を蹴られるような連中――には、特別そういった問題もなかったのが実情である。
このあたり、現代とそうたいして差はない。
民意に差があったのではない。
単に、ほとんどの人間が、失って困るものがせいぜい「自分の命」であったから、虚勢を張る必要もなければ、威圧し相手より優位に立つ必要もなかったからである。
一握りの所謂「有識者」のみが、血で血を洗う一人争いを続けていた訳だ。
その、言ってみれば虚飾に満ちた「国家」と言うものの一番てっぺんに鎮座していたのが、エスタッド皇帝であり、大陸を巨大な盆と例えるとするならば、その真ん中にひときわ大きく垂らした水滴がエスタッド皇国であった。
ちなみに、十年弱前まではその大きな水滴の隣に同じくらいの水滴――アルカナ王国――がエスタッドに張り合うように、貿易にしろ国交にしろ、牽制を利かせてきたものであったが、その国家も既に亡い。
エスタッドとの狐狸の化かし合いに痺れを切らせて、負けた。
現在は旧王統一派、旧王国軍派、革命市民派、貴族議員派など大小さまざまに分かれ、旧アルカナ王国各地で終わりのない小競り合いを続けている。
数年前に一度、ある程度まとまった旧王国軍派が反旗を翻し、エスタッド皇国の貴族の幾領かを乗っ取り、ついでに当時エスタッドを訪れていたトルエ公国の公主を質にしてそれなりな抵抗を見せもしたが、鎮圧。
その時ばかりは皇帝の判決は厳しかった。
旧アルカナ王国軍一党は言うに及ばず、それに手を貸したエスタッド皇遠縁の一系統を明確にすると、叩き潰した。
文字通り、容赦なく叩き潰した。
前々から、不穏分子との繋がりを臭わせていたような、そんな遠戚であった。なかなか馬脚を現さず、前皇帝との密だった関係を誇示してはのらりくらりと責任逃れをしていたような、遠戚であった。以降の反乱分子への「見せしめ」という意味でもそれは有効ではあったのだろうが、にしては苛烈に過ぎた感が否めない。
政治に私情を挟むことのほとんどなかったと言われた皇帝が、この遠戚ばかりは許さなかったと言うから、これは相当腹に据えかねていたと考えるのが筋だろう。
しかし、おかげでそれを機に不満を抱いていた幾つかの箇所から煙が燻り始め、現在はその火消しに追われているといっても良い。
この辺り、内紛呼応の煩わしさに、後先を忘れて教団本部を焼き払い、「凶皇帝」「狂太子」と囁かれた前皇帝、前々皇帝の面影を見ることも出来る。
「愚挙」
大陸統治の偉業に一目を置き、ともすれば英雄扱いをしかねない歴史分析学者達にも、そう酷評されるエスタッド皇帝の一面でもあったが、それはまた後世の物語だ。
*
「……なに、ここ」
第一声はそんな呆れた言葉だったように思う。何、と言われてその意味が理解できなかっただろう向かいの男が、手元の書類から顔を上げて彼女に目をやった。
多頭牽き馬車の中である。
馬車と言っても、今まで彼女――チャトラ――が凡そ認識していた、板張りやせいぜい藁の詰まったクッションが無造作に転がされているそれではなくて、総絹張りレース張りの、まるで何かの冗談のように思える豪奢な一室(とチャトラ的には言いたい)の中である。
突込みどころとしては勿論、その馬車内も十分彼女にとっては満載であったけれど、今発した言葉は、その内部に向かうものではない。
外、だ。
窓際の陽射し避けの更紗をめくってひょいと眺めた、そのチャトラの目に、皇都エスタッドの街並みが不意に飛び込んできて、
「……街なんだよな」
感心を通り越して何故か呆れた声が出た。
彼女の理解の範疇を遥かに超える街並みである。
そもそも建物一つ一つの高さが尋常ではない。流石に、民家や工房と言ったそれなりの他の町でも見かけるものは、全てが石造りという点はさておき、見慣れたと言えないものでもない。が、その他の何に使われるのか彼女には判らない広場、教会寺院、そうして簡易とは言え武装した大勢の兵士が出入りする兵舎等、チャトラにとって見たことも聞いたこともない巨大さと異質さである。
見上げているだけで首を痛めそうだなとふと思った。
どこの何より大きい、だとか比べるべくもない。
その全てが瀟洒で、華美で、そうして随分と――無機質、なのだ。
目の前の男に似ていないこともない。
「ああ、そうか」
一人合点し、チャトラは大きく頷いて見せた。
「ここ、アンタが治めている街なんだっけ」
だったら雰囲気が似ているのも仕方がない。
そうも思う。
言われた男が小さく首を傾げた。目で問うている。彼女の一人合点を口に出している訳ではないのだから、仕方がない。
男は、エスタッドの皇帝なのだそうだ。
チャトラにとって未だに目の前の男の「皇帝」たる意味が、正確には理解できていないものの、ざっと一月も共に行動していれば否が応にも身体に浸透してくるものがある。
男は「偉い」のだ、と。
ただし、その「偉さ」をチャトラは認めてはいない。
そうした権威に服従するつもりも、彼女には全くなかったが、とにもかくにも成り行き上とは言え、売られた恩もある。渋々ながら男への同行を決意した。
決意し、逃げる隙を伺わなくなった彼女に対して、男は優しかった。
繋がれることも縛られることもない。
拍子抜けがするほど監視も緩んだ。
乱暴されることもなく、毎晩整えられた寝床にどこか不思議な気持ちで潜り込んだが、残念ながらそれで男への警戒を全て解くほどチャトラは生易しい人生を送ってきてはいなかった。
それが彼女に対する「信頼」の証なのだとしたら、あまりに残酷な「信頼」だ。
男はチャトラが「逃げない」ことを知っているのだ。逃げられない、が正しいのかもしれない。いくら嫌悪していようと、借りを返すまでの期間は我慢を重ねて傍にいる、それを見透かされている。
けれど鬱憤を溜めることはもう諦めた。苛々するだけこちらが損だ。
「なぁ」
しかし、今彼女の頭を占めるのは、男の仕打ちやこれからの生活への不安などではなくて、
「何かな」
「ちょっと見てきても、いい」
まるで見たこともない要塞街に対しての興味だった。
彼女の言葉に男はやや考える素振りを見せたが、それは一瞬のことで、すぐに小さく頷く。目に留めたが瞬間、彼女は更紗の隙間――馬車の窓から外に飛び降り、とんぼを切って男に向かいなおして手を振った。
ちりり、と首につけられた銀の鈴が追って音をたてた。
音に、男が僅かに目を眇めたことを、背中を向けていたチャトラは知らない。
「ぐるっと眺めてくるよ」
「――ああ、」
「どこに向かえばいいのかな」
「中心に、大きな塔があるだろう」
指し示されてぐるりと頭を巡らせると、遥か向こうに天高く聳える一本の尖塔が見える。
「なんだありゃ。でっけぇな」
「街のどこからでも見える。あれを目印に来なさい。入り口へは話を通しておく」
必要最低限のそれだけを口にすると、じゃあ、だとか気を付けて、だとかそういった愛想もなく、男はすぐに帳を下ろし、それを合図に止まりかけた馬車はまた動き出す。
「あ、おい」
着いて行く、だとか。
――もっと、駄々をこねられるかと思った。
意外にあっさりと開放されたことに拍子抜けし、引き止めようと言葉を投げかけ、それからその行為がどんな騒動を巻き起こすのかとすぐに思い巡らせて、チャトラは結局口を噤む。
気まぐれな男のことだ。そう簡単に彼女に同行するとは言いそうにもなかったものの、いったん気を変えてしまえばそれはそれで厄介。
男が、周りの諌めに素直に耳を傾ける性格だとは、一月ばかり共に過ごしたチャトラにはもう思えない。
良い意味でも悪い意味でも、唯我独尊なのだと思う。
そして、天邪鬼だ。
このエスタッドに辿り着くまでに、チャトラも巻き込まれた大きな襲撃が一回。些細な小競り合いは両手の指では足りないだろう。彼女たちの馬車周りまでそれが到らずに済んだのは、ひとえに周囲を張り巡らせたディクス、ミルキィユの率いた護衛の手柄ではあったのだろう。
そう思えば、あの日あの時、男がディクスとダインのみを連れて街をさ迷い歩いていたのもおかしな話だ。
餌だ、と。
男は確かにそう言った。
成長過程である程度の変則的な捻じ曲がりはあったものの、それでもチャトラの感覚は一般市民に近い。そう自分でも思う。その彼女には到底理解できない、皇帝自身をダシにした反乱分子の一斉検挙――、咽喉元に迫る刃を見て顔色一つ変えない男は、やはり、異常だとチャトラは思う。
……恐怖心が鈍っているのかな。
そうも思った。
確かに、あの男が恐怖に顔を引きつらせている姿が、まるで想像できない。
「恐怖どころか」
本音が思わず口に出た。
感情と言うものに歪む表情が想像できない、のが正しい。
精巧に作られた人形のようなものだ。
美しいけれど空虚なもの。
その虚ろな部分に少しだけ惹かれた、と告げたら、あの男はどう反応するのだろうか。
思いつつも、チャトラの興味は目下のところ、賑わいを見せる街中だ。
小腹も空いたが、手持ちはない。
「飼われている」からと言って、男に乞う積もりもなかった。
けれどチャトラには、ここが男の治める都であるから自身の稼業を控えよう、だとか言う殊勝な気もまた、なかった。取り敢えず獲物を定める目つきになって、雑踏に同じように身を任せて溶ける。
往来を行き交う人の身なりはそれなりに整っている。懐具合も良いに違いない。
別れ際、男が元気がないように見えたのが少しだけ気になった。
……旨いものでも土産に持って行ってやるか。
手頃な獲物を狙うつもりだ。
*
踵を返し、群衆に紛れ込んだチャトラの小さな後姿を見送る。
ディクスである。
「拾った」当初から、皇帝の傍らで猫と呼ばれる彼女を眺めてきた。
口は挟まない。意見をしない。
皇帝の影法師たれと己に言い聞かせて、十数年を過ごしてきている。
けれど見送った背中に思うのは、あの小さな猫がおのれの主に及ぼしているらしい効果――それも良い意味での――である。
主はここのところ終始機嫌が良い。前例がないほどに、だ。
その原因を作っているのが、あのどこと取り柄のない娘であることをディクスは知っている。
取り柄がない、とは本人に対して失礼かもしれない。そう思い、けれどディクスには他に彼女を表現する言葉を持たなかった。
くるくるとよく表情の動く、喜怒哀楽のはっきりとした娘であると思う。
そうして裏表を持たない。少なくとも、王宮の媚び諂いに慣れ親しんだ感性には、あの真っ直ぐな気性は見ているだけでも気持ちが良いと思う。
まるで彼女の今まで経験してきた世界とはかけ離れた感覚の、「政治適思惑」とやらが絡んだ世界にもおっつかっつ、適応しようと努力しているのは好ましいと思う。
それが仮令本人が望んだことではないとしても。
けれど、それは娘の内面的な本質であって、
例えば、百人に一人の美姫であるだとか。
例えば、追随を許さない思考の持ち主であるとか。
特質は何もない。どこにでもいる娘、そのままだ。
良い意味でも悪い意味でも「十人並み」なのだろうなと思う。
それはまるで当たり前のようでいて、実は主の周りに今まで居た試しのない種類の人間だったのだ、とディクスは今更ながらに気が付いた。
何故なら、男はその地位ゆえに、周囲には有能な人間しか集まらなかったから。
無能であること、平凡であることは政治的に何の価値もなく、不必要だった。
だからだろうか。
皇帝が未だに飽きる様子を見せないのは。
まだひと月ばかりとは言え、そのひと月を過ごしたものが他に類を見ないと言うことも。
移り気な主の興味は、ひとつの物に三日と保たない。
今までは。
執着と言えば執着なのだろう、か。
思いながら視線を移し、即座に己の仕える主の異変に気が付く。
俯いた主は、小刻みに震えていた。
「陛下」
握り締めた拳が、いつの間にか紙のように白い。まるで血の気がなかった。
エスタッド皇は心臓が弱い。長年傍らに使えているディクスには慣れたくなくとも見慣れた光景になりつつある。
――軽いといいが。
発作の前触れだと判断し、無礼を承知で主へ腕を伸ばす。
途端に主が喉を掻き毟り、苦鳴の声を食いしばった歯の間から微かに漏らした。
「陛下」
力を失い、ずるずると沈み込む身体を横抱き、座席に寝かせる。胸元をきつく引き絞る身体は強張り、ひどく冷たかった。
「陛下」
少しでも楽な姿勢をとらせようと、添えたディクスの腕を無造作に払い除け、男は苦悶する。払い除けた腕はそのままだらりと膝上に落ちて、もう男の意思では持ち上がらない。
放っておいてほしいのだろうな。
長年見守るディクスには良く判る。
限界と言うのならば、もうとっくに限界は超えているのだ。
「十歳まで生きない」
生まれて直ぐに医師が継げた。言葉を裏切って、三十四。男は命を引き伸ばして生きている。
――否。
正確には「引き伸ばされて」生きている。
男の意思に関わらず、周りの都合で引き伸ばされて生きている。
放っておいてほしいのだろうな。
もう一度、ディクスは思った。
は、は、と浅く繰り返す呼吸音が、男がまだ生きていることを伝える。噛み締めた犬歯が唇を破ったのか、鉄錆の匂いがする。
自分なら耐えられるか、だとか言う馬鹿げた疑問は頭に浮かべるだけ無意味だ。
その答えならとっくに出ている。
――俺なら耐えられない。
気道を確保した頃には、主の意識はほとんど飛んでいた。
全身にびっしりと脂汗。苦しいのだろうなと不意に憐憫の情が湧く。
痛ましいものを見る目つきで、けれどディクスは無慈悲にも外に控える医師団へ合図する為に、馬車の扉を開ける。
また、男の時間を生き伸ばすために。
護衛。それがディクスの仕事である。
己の仕事に疑問を覚えたことはない。
なにより、男がエスタッドの皇帝だったからだ。
*
いつ自失していたのか知らない。
次に目を開いたときは、見飽きた寝室の緞帳の模様が真っ先に飛び込んだ。
見慣れた、とは言いたくはない。
(――ああ。また)
また。
生かされたのだと知って、薄らぼんやりとした絶望感と全身を襲う虚脱感に、男は深々と溜息を吐き出した。
知らず強張っていた体を、改めて寝台へ沈める。
洗い張った敷布の糊の利いた香りを感じながら、男は天蓋を眺めた。
気を失う痛みは久しぶりだ。
このところ、比較的体の調子が良かったので高をくくっていたのが、どうやらよろしくなかったらしい。医師から、口を酸くほどに繰り返し言われ続けてきた薬湯を飲む習慣ですら、面倒で、何度か飛ばしたように思う。
あまり覚えていない。
そもそも、普段の刺激の少ない生活を過ごしていてさえ、男の心の臓は時折不満を訴えるのだ。馬車での移動とは言え、隣街からの峠を越える数日の移動に、真っ先に根を上げたのだろう。
年々その具合は重くなる。
(やれやれ)
枕元に置かれた水差しへ手を伸ばすと、視界に入るのは可否を待つ書類の束。こんなところにまで押し寄せている。
不愉快になるには草臥れすぎていて、それも叶わなかった。
エスタッドは、皇帝を頂点とした独裁政治国家である。
もちろん一人ですべての業務は到底こなせないから、補佐官であるとか、形ばかりとは言え議会も存在する。
けれどやはり最後の審査、国の大事ごとを決裁するのは飽くまでも皇帝である男の仕事で、彼の認可なしには、物事のほとんどが進まないシステムになっている。
そういう仕組みに男が成した。
頭の中で図面を引いて、策を巡らせることは嫌いではない。完読した蔵書軍籍を数えれば恐ろしい量になる。
とはいえ。
男に課せられたものは、とんでもない仕事量だ。
人間が一日にこなせる仕事を優に超えている。
殺す気か、と以前。雑談交じりに不服を唱えたら、補佐官に、殺す気だと半ば真剣な顔で返され憮然するしかなかった。
そんなことを思い出す。
詰まれた書類は見なかったことにして、体を少し起き上がらせると、部屋の隅に控えた侍従が勝手知ったる無表情で、男に手を貸し背中へ膨らませた羽枕をあてがう。
絶妙のタイミングで水を注がれたグラスが、男へ差し出された。
受け取り、口をつける。
合図のように寝室の扉が控えめにノックされ、「何か」と問いかけた侍従が全ての言葉を言い切らないうちに、ものすごい勢いで扉が開かれた。
ばぁん。
音で表すならばまさにそれ。
弾かれるように開いた扉から、ちりちりと鈴の音とともに小さな体が転がり込んでくる。
怒り狂っていた。
「勝手に寝込んで清清しく次の日迎えてんじゃねぇよこのクソが!!」
目をやらずとも容赦のない悪態で判る。
チャトラ以外にいるはずもない。
掴みかかるばかりの勢いで、彼女は男の寝台に半ば乗り上げた。
心配してきてくれたのかな、だとか冗談めかして何かを言いかけた口が、途中の形で止まった。
変わりに口の端がにぃと、上がるのを自覚する。
面白い。
かつて男が寝込んだ寝室に、こんな勢いで怒鳴り込んでくる輩がいたかどうか?
「こっち見ろよ聞いてんのかオイ!今何時だと思ってるんだ、あぁ?」
「何時――なのかな」
「んなこたぁどうでもいいんだよ!何時だって構わねぇんだよ!言葉のあやだよ!」
これはかなり腹を立てている。
まだ安定しない視界の中で、チャトラをぼんやりと眺めながら、男は自身の口が意識せずとも動くのを知った。
「何が、」
「あったのかじゃねぇ!アンタ昨日、街で別れるときに、ここのとんがった塔目指して来いと言ったろ!入り口には話をつけておくとか何とかほざいてやがったよな!」
「ああ――……言ったね」
「話も何も、入り口のおっさん共なあぁぁんも聞かされてねぇじゃねぇかよ!阿呆か!オレどんだけおっさんと、通せ通さないの押し問答したと思ってるんだよ?おかげで……わぶ」
さらに言い募ろうとするチャトラの首根っこを文字通りつかんで、背後の手が彼女を宙にぶら下げた。
「オイオイ。元気なお嬢ちゃんだな」
呆れた重低音。見なくても分かる。
三補佐の一人、アウグスタ、だ。
日がな一日座り放しが多い室内業務に、まるで似合わない巨躯。背丈と幅だけで言うならば、皇帝の直属護衛ディクスを超えるかもしれない。
反比例して性質は以外に穏やかだ。
恐らくアウグスタが、チャトラをここまで連れて来たのだろう。怒りまくった様子からして、どう好意的に見積もっても、先の扉をチャトラが「控えめにノック」したとは思えない。
何が楽しいのか、アウグスタは陽質な笑いを浮かべながら、吊ったチャトラを目線の高さに持ち上げた。
もう片方の手で、彼女の口を塞いでいる。
大きな手のひらは、チャトラの口元どころか顔半分をすっぽりと覆って、これでは喚き立てようにも発音できないに違いない。
怒りのままにもがき暴れるチャトラの動きに、その腕はびくともしなかった。
「……お嬢ちゃん」
噛み付きそうな顔のチャトラにじっと目を据えて、アウグスタは含めるように一語一語発する。
「皇帝陛下に怒鳴りつける姿は勇ましいし、微笑ましいし、日頃の鬱憤を思うと正直胸がすく思いだが、喚きたいなら外に行け。ここは寝室だ。寝室は静かにするものだ」
「……ッ」
「二度は言わせるな。判るか?判れ」
言って、それからアウグスタは彼女を床に下ろす。開放されたチャトラは未だ怒り収まらない調子で、ぎらぎらとした視線を思わず傍観してしまった男に向けてきたが、歯軋りしつつもとりあえず、騒ぎ立てることはやめたようだった。
「で」
興味を覚えて、火に油を注ぐ結果になるかと半ば思いつつも、男は身を起こす。
「どうやって入り口を通してもらえたのかな」
「……。ヒゲ」
「髭」
「……陰険な。顔の。ヒゲ男」
「髭――」
「セヴィニアが娘を見つけたようですな」
鸚鵡返した男へ、補足するつもりなのか、アウグスタが口を挟む。
大雑把な彼でも、さすがに男への口調は少し改まったものとなった。
「――セヴィニア」
「入り口へ話をつけたのも、この娘の身元を『思い出した』のも、彼が行ったようです」
「ほう」
「なんか小せぇ部屋に連れてかれて。窓もなくて。外も見えないし、部屋の入り口には物騒に武器構えたおっさんが立ってるし。牢屋かと思ったし。俺、アンタにだまされてここまで連れてこられて、やっぱ売られるのかとか思ったし。とか思ったら、ヒゲ男が急に俺のこと遠縁の娘だとかなんか言い始めるし。俺意味が判らなくて、違うって、こんなヤツ知らないって言ったら、問答無用で頬張られるし」
「ほう」
三補佐の一人、冷酷な鉄面皮を思い出して男がゆっくりと頷く。
セヴィニアならば、言い聞かせるためにそれぐらいはやるだろう。
「数発ブッ叩かれて、このおっさんに引っ張り出されるまで閉じ込められてて、俺、また、」
言いかけて、そのまま不機嫌に口を噤み、チャトラが床に視線をそらす。
それでも男には、彼女が言いかけた言葉がよく判った。
――縛られたりつながれたりするのかと思った。
「怖かった――のかな」
言葉が口を衝いて出ていた。何故かは判らない。
「怖くなんか」
ねぇよ、すぐに反発しかけたチャトラに手を伸ばして、男はその痩せぎすの体を引き寄せる。
「怖かった?」
「怖くねぇって言ってんだろアンタちったぁ人の話を聞け!」
悪口を叩きながら、それでも割と大人しくチャトラが男の胸に収まっているのは、怖かった……と言うよりは不安であったのだろう。
その先入観を誰が植え付けたか。考えるだけ本末転倒である。
そうして男は己の行為に疑問を抱かない。
「皇帝」
「うん、」
「……遠縁って何の話なんだよ?オレ、あんなおっさんに親類にはいねぇし。親類っていうか……そもそも、親兄弟もいないんだぜ?オレ」
「一人だと――言っていたか」
「一人だよ。家族とか。そんなもん……ねぇよ」
「――お前の親はどうしたのかな」
「さぁ」
「知らない――?」
「親代わりに育ててくれたヒトはいたけど。そのヒトが言うには、日暮れの広場に一人でウロついてたって。丁度、近場の町から流れの一座が何組かきてたから、その中のどの組からはぐれたんじゃないかって、そう言っているのを一度聞いた。……けど、あんまり深く教えてくれなかった。要は口減らしだったんだろ。捨てられたんだよ」
「探しには来なかった」
「来るわけねぇだろ。まだ三つ四つのガキだぜ?日銭も稼げない、身体も売れない、負担にしかならない。邪魔だったんだろ」
あっけらかんと語るチャトラの瞳に、悲壮感はない。
「なるほど」
頷いた男はまたゆるゆると枕から体を落とし、寝台へ沈める。
視界が明滅していた。
「アンタ……具合、悪ぃの?」
男の不調にそこで初めて気が向いたようで、チャトラが瞬間ためらい、それからおずおずと男へ視線を絡めた。
勢いは鳴りを潜めていた。
「大したことはない――が」
「……そっか……そうだよな。ああ、ごめん。オレもう行くわ」
妙に控え目になって、それからチャトラがもじもじと懐を探りかけ――諦めたようにその手を脇へ落とした。
「――猫?」
「や。なんでもない」
何か胸元に忍ばせていたのだろうか。
興味が湧いて訊ねてみたかった。けれど、想像以上に身体の疲弊が激しくて、男は自身の唇すらすでに満足に動かせないことに、ふと気がついた。
閉じたくもない瞼が勝手に落ちて、たちまち不愉快な闇が意識を覆ってくる。睡魔では決してありえない、気絶のようなその途絶え方は酷く嫌いだ。
何一つ思うままに行かない身体に苛々としながら、男の意識はとうとう暗転した。
――最後に、猫が息を呑んだ音を耳にした気がする。
*
眠りに就いた、と言い表す気にはとてもなれないような寝入り方した皇帝に、何も言えなくなってチャトラはそのまま、部屋を出た。
「お嬢ちゃん」
大きく息を吐いて、次いでへなへなと床に座り込む。
緊張が、解けた。
そのチャトラに大して驚く様子も無く、男が興味深げに覗き込んでくる。
目線を合わせてくれているのか、同じようにしゃがみ込んでいた。
アウグスタ。
皇帝にそう呼ばれていたはずだ。
「どうした」
「……びっくりした」
男の視線は存外温かいものだったので、チャトラも本心をそのまま口にした。
「陛下に?」
うん。
頷いて額に掛かった前髪を掻き上げる。今頃になって汗が滲み出ていた。
「アイツ……あー、えっと……あのひと、どこか身体悪ィの?」
「ああ、」
聞かされていないのか。
心得顔で頷いて、アウグスタがぽんぽんと彼女の頭に手を置いた。
「どう見たって不健康そうな顔してるから、どっか悪ィんだろうなとは思ってたんだけど」
「ああ、」
「本当はさ」
しゃがみ込んだまま、独白するようにチャトラはぼつ、と呟いた。
「オレ、会ったらアイツの顔何発かブン殴ろうとか思ってたワケね。あのいつでも澄ましてお綺麗な顔にアザ作ってやるのも面白いかな、なんて」
「過激だな」
「うん」
でも。
勇んで飛び込んだ部屋にいた、寝台の上の男は、羽化したての蜉蝣のように真っ白で。
光に透き通った栗色の髪に縁取られた顔は、硝子細工か淡雪のように儚くて、とても殴り倒す雰囲気ではなかった。
目の前の巨漢のような男だったなら、チャトラは躊躇いもなく拳を叩き込んでいただろうけれど。
ちら、と流した側付きの侍従の視線が、言葉を発することすら咎めているように感じて、無理やり怒りを掻き立ててチャトラは怒鳴ったのだった。
怒鳴らなければ、そのまま。
「回れ右して逃げようかと思った」
「どうして」
可笑しそうに含み笑ってアウグスタが訊ねる。
「ひとが弱っているのを見るのは、好きじゃない」
顔を歪めてチャトラは吐き捨てた。
押し埋めた記憶が疼くから。
「昔、すげぇだいじなひとが居てさ」
「ああ」
「さっき話してた、オレのこと、拾って育ててくれたひとなんだけど」
「ああ」
「ある日突然帰ってこなくって、発見されたときは冷たくなってた」
帰ってこない。
それは純粋な恐怖だった。
”どうして帰ってこないのかな。”
”何かあったのかな。”
”オレのこと要らなくなったのかな。”
朝日の差し始めた部屋の空気は饐えていて、その中で膝を抱えて何時までも待っていた。
「亡くなられたのか」
「殺されたんだ」
あの客は危ないと、確かに金離れは良いし上客だが、何をしでかすか判らないと、そう押し止めようとした周りに笑って出掛けたあのひと。
「血の気の抜けた真っ白な顔をして、路地裏に転がってた」
丁度、寝台の上の男のような顔色で。
「……陛下は、生まれつき心臓が悪い」
うな垂れて膝の間に頭を埋めたチャトラの上に、アウグスタの声が降る。
気を惹かれて顔をあげた。
「心臓?」
「ここだな」
「判るよ」
大きな拳を中央より少し左寄りに当てたアウグスタへ、チャトラはうんとひとつ頷いて見せた。
「医者の受け売りなんだが、大雑把に言うと心臓と言うものは、右と左に部屋が分かれているんだそうだ」
「うん」
「全身を巡った血液が心臓に片側の部屋に到達し、そこからまた押し出されて全身に巡り、もう片側の部屋へ流れ込む。詳しい仕組みは忘れたが、そうして体のいたるところへ空気だとか栄養だとかを送り込む」
「うん」
「陛下は、その隔壁に、穴が開いているのだそうだ」
「心臓の?」
「そう。心臓の」
それって。
しゃがんだまま、天井を見上げそれから床を見下ろし、アウグスタの言葉を頭の中を整理していたチャトラは、しんと真面目な顔をした。
「それって、すげぇ大ごとなんじゃねぇの?」
「大ごとだな。生れ落ちて直ぐに、医者から十まで保たないと宣言されたそうだが」
「アイツ、今いくつ?」
「三十と四」
「ふぅん」
頑張ってるんじゃんね。
一人語散る。
それから、
「ああ」
腑に落ちて頷いた。
「だからダインのおっさん、あんなにすげぇ剣幕でオレのこと皇帝から引き離したんだな」
「ダイン卿?」
アウグスタはもちろん、チャトラの出自を知らない。
「オレね、アイツの懐、狙ってたの」
「懐……?」
「うん」
鸚鵡返したアウグスタへそのまま頷きながら、チャトラは指先を特徴的な形に結んで見せた。
鈎針に模したその形は、巷で言うところの、
「掏模なのねオレ」
悪びれるつもりも無い。
彼女の生きてきた世界には、掏模稼業が悪いだとか言う『良識』は存在しなかったからだ。
「お前がか」
「うん。身なりの綺麗なカモが来たなって近付いたんだけど。肩ぶつけるよりも先に、ものすっげぇ勢いでダインのおっさんに捕まってたな」
「ああ……、」
「身体、ぶつけたりしちゃあ心臓に響くんだろ?」
「とても宜しくないな」
「――成程」
突然、しゃがみ込んだチャトラとアウグスタの上から冷徹な声が降る。
驚いて見上げたチャトラは首根っこを掴まれて、軽々と持ち上げられていた。
そのままつかつかと回廊を運ばれる。
「ちょっ……」
不意打ちに虚を衝かれて、怒るタイミングを逃す。その彼女の懐へ無遠慮に手を差し込んで、
「セヴィニア公」
咎める声が背後より追うアウグスタから発せられた。
その声が聞こえているだろうに、振り返ることなく足を運ぶ男は、チャトラの脳内には既に「気に食わない」男としてインプットされている。
「な……にすんだよッ」
そこで我に返り、チャトラは無茶苦茶に暴れ始めた。
そもそもアウグスタといい、この背後の男といい、ひょいひょい猫の子のように吊り下げるのはいかがなものかと思う。
痩せぎすな身体がこういうときは恨めしい。
「手癖の悪さは――育ちか」
「放……せ!」
唸るとそこで放り投げるように床へと解放され、
「返せよ!」
いつの間にか懐に忍ばせていた、彼女の大切な『収穫』が抜き取られている。
商人風の男から抜き取った金入れ。
獲物の身なりに比例して、ずしりと重かった。
そうしてもうひとつの紙包み、先ほどチャトラが男に手渡そうかどうか逡巡して、結局言い出せずに終わったもの。
「テメェ、それはオレのだ!」
掴みかかった身体をすると交わされ、挙句高い音を立てて頬を張られた。
容赦の無い一張りに、目の前を星が散る。
「喚くな、やかましい」
「返せよ!!」
この男が、何故チャトラを掴んで移動したのか、意図に気づいて彼女は唸った。
自身の喚く声を、物音を、居室で休む皇帝に聞かせないためだ。
それはきっと、皇帝その人の身体を慮ったためではなく、
「セヴィニア公」
もう一度呼び止めたアウグスタへ、セヴィニアと呼ばれた男は、冷血質な視線を向けた。
「何か」
声も同じように冷えていた。
「お嬢ちゃ……この娘の成した行為が、褒められたことでは決して無いとは言え、公の行動は横暴に過ぎよう」
追いついたアウグスタが、立ち上がりかけたチャトラへ手を貸そうと伸ばす。妙にそれが腹立たしくて、振り払い、彼女はよろめきながらひとりで立ち上がった。
口の端を切ったのか、鉄錆の味がする。
「横暴、な」
語尾を繰り返してセヴィニアはうっすらと笑いの欠片を頬へ上らせて見せた。
「では逆に問う」
「――何か」
いつの間にか、チャトラを庇うように立つ大柄な男の背筋が伸びている。
感じられるのは威圧感。
先の、同じようにしゃがみ込んでいた人懐こさは、今のアウグスタのどこにもない。
「公は――何を考えておられるのかな」
「何、とは」
「皇宮には皇宮の、相応しい立ち居振る舞いと言うものがある。その基礎すら理解していない獣を、御身の一存で部屋から出し、加えて皇帝陛下のおわす居室へ、どこの馬の骨とも判らないそれを導き、あまつさえお疲れである玉体へ更なる負担を強いる。……これを横暴と言わずして、何を横暴と言うのだ?」
「ちょ、っと……待てよ。アウグスタのおっさんは何もしてねぇだろ」
「おまけに、臭い」
僅かな時間とは言え、ここへきて初めて彼女の話を丹念に聞き、人並みに扱ってくれたのはアウグスタだ。
――悪いひとじゃない。
単純と言わば笑え。
彼女はそう判断した。
その男が責められることに我慢がならずに、思わずチャトラが口を挟むと(そもそもがチャトラと男のやり取りの途中であったので)、眉をひそめ、汚物を眺める目つきで返された。
手にした『収穫』の紙包みを無造作に開くと、床へ投げ捨てた。
ばらりと包みから零れ落ちたそれは、チャトラが露店で購入した皇帝への、
「……ッ」
思わず伸ばした手で受け止めることができるはずもない。割と呆気なく、紙包みから炙った肉が転がり落ちる。
「臭気を撒き散らすな。不快だ」
昨日の別れ際に、覇気がなく見えた男への土産のつもりだった。
もっとちゃんと食べろよ、だとか小言を言いながら渡すつもりでいた、それ。
小言を言うきっかけもなく、男があまりにも憔悴していてまるで食べられる状態にないことは見て取れたから、結局渡しそびれてしまった、それ。
唖然としたチャトラの耳に、男の声が響く。
皇帝が自分の事を「拾った」と公言し、対等扱いされないことも相当理解に苦しんだが、
「どう言った経緯で、それがここに居る事が許されているのか知らぬが、躾のひとつもなっていない獣を、皇居内で身勝手に徘徊させるわけにも行くまい」
それ以上にこの男に獣扱いされることに我慢がならなかった。
かっと頭に血が上ったと認識するよりも先に身体が動いて、
「ほら」
小馬鹿にした声が耳元で聞こえて、したたかに後頭部を打ち据えられた。
瞬間息が詰まり、視界が暗転した。今度こそバランスを崩して、顔から崩れ落ちる。
「チャトラ……!」
アウグスタの声が何故か遠くに聞こえる。
耳鳴りがした。
「――言葉で勝てねば牙を向く。やはり”けだもの”だな」
だが。
言ってセヴィニアは、脳震盪を起こしかけたチャトラの胸倉を掴み、乱暴に引き摺り起こした。
「感謝するがいい」
「な……んだ……よ」
口が上手く回らずもつれたチャトラは、それでも気丈にぐらぐらする視線を、なんとかセヴィニアへと合わせる。
「陛下のお召しとあれば、放逐する訳にも行かぬ。私の遠縁としてしまった責任もある」
「公!」
「覚えておけ。ここにはここの規律がある。お前がここに居座るつもりでいるのならば、最低限のそれを身に付けることだな。異論は認めない。嫌なら出て行け」
「ち、く、しょ……」
畜生。
悔し涙を滲ませて、チャトラは小さく唸った。
(20100829)
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最終更新:2011年07月11日 10:18