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<<お月見と猫>>



  月見をする、というからついてきた。
  チャトラである。
  よくある、夜半のそぞろ歩き、見回りの衛兵が翳す松明の他はほとんど人工の光源のない闇の中を、月の明かりを愛でるために敷物でも敷いて酒を酌む。
  ――のかと思えば、何のことはない。
  大広間でのただの大宴会だった。
  三補佐はもちろん、元帥だとか大将軍だとか、そういった軍籍の重鎮の主主。それから、大臣その他配下の数十名。
  無礼講、という名の日頃の政務の息抜きと交流。それと少しばかりの面々の画策。
  そこへ今夜は珍しく皇帝までもが参加しているのだから、嫌が応にも盛り上がるというもの。
  もともと、皇帝がこうした催しに顔を出すこと自体が稀有だ。珍事、として扱われてもおかしくないほどそもそもが公務以外に、私の顔を見せる回数の極端に少ない男なのである。
  ひとつはそうした騒ぎが好きではないこと。
  ひとつはそうでなくとも体力的に日常業務だけで精一杯で、夜分に参加のできる余裕がないこと。
  ひとつはこれを好機と媚を売る輩の多さに辟易としていること。
  宮廷での宴席の際には、必ず上座に皇帝の席を設けることを形式上義務付けてはいたものの、その上座が本来の主によって占められるということは、片手の指でも有り余る。
  珍事の原因を作ったのは、他でもない三補佐の一人、アウグスタ。
 「月見」
  の言葉に、皇帝お気に入りのチャトラを連れ出した。必然的に皇帝も参加せざるを得なくなる。
  たまには参加して貰わないと、宴主である己の面子に関わる。
  というのは建前の理由で、実際のところ、渋々ながら皇帝の重い腰を上げさせるのが単に面白いから、なのかも知れない。
  そうした、瓢と判らぬところがこの補佐にはある。
  まんまと仕組まれて、面白くないのは当の本人の皇帝である。
  当初はあからさまに不愉快な顔で寝椅子にもたれかかり、訪なう家臣どもの挨拶を不遜に聞き流していた。その機嫌たるや、低気圧の渦の中心よりもなお低かった。
  恐れをなして、普段は媚び諂いにやってくる輩が三割減ったほど。
  酒宴が進みそれぞれがそれぞれの話に花を咲かせ始める頃合から、ようやくうっとりと煙る視線で酒を呷っている。
  視線があいまいなのは、透明質な長い睫毛に剣呑な光が緩和されているからだ。
  軍籍の重鎮や大臣その他に特別に親しいものがいるわけでもないチャトラは、「無礼講」をいいことに、宴席のあちらこちらへ顔を出し、好物の果物を掻っ攫っては皇帝の膝元へと戻る行為を繰り返していた。
  それくらいしか、やることがなかったとも言える。
  甘く芳醇な香りを放つ果実の表皮に、爪を立て薄皮を破る。滴る果汁に指先をべたべたに汚しながら、柔らかな果肉にかぶりつく。
  橙色のその果実は、宮廷に来てから知ったチャトラの好物だ。
  その満足げな顔を目にして、皇帝は機嫌を直したとも言える。
 「――猫」
  舌なめずる様子を興味深げに見ていた皇帝が、不意に杯をチャトラの目の前に差し出した。
  弾みで受け取ったそれへ、なみなみと皇帝手ずから果実酒を注ぎながら、そら、と勧められるところへ、彼女は口をつけた。
  飲めないわけではない。と言うよりも、年不相応にいける口だ。
  理由は至極簡単で、真冬、チャトラが街の路地裏で寝泊りしていたころの手っ取り早い暖まり方は、酒を呷って寝てしまうことだった、から。
  歯の根も合わない寒さにも、鈍った頭は役に立つ。
  朝方目覚めて、元気のなかった隣のご同輩が、真っ白な霜を肌に張り付かせて冷たく固くなっていた――などと言う、洒落にならない殺伐とした状況も、一度や二度ではない。
  次は、自分か。
  思う時間のあることが、あの頃は一番怖かった。
  男に注がれた、琥珀色のとろりとした果実酒は、喉元から臓腑にしみた瞬間かっと火の点いたように熱くなる。
  それなりに度数の高いそれを、顔色ひとつ変えずに皇帝は今まで呷っていたと言うのだから、人は見かけによらないと思うチャトラだ。
  一気に飲み干しかけ、思わず小さく咳き込むと、くすくすと可笑しそうに男が笑いを漏らした。
  僅かにこぼれ顎に伝った滴を、指を伸ばして掬い取る。
  舐めた。
  赤い舌が淫靡だと思う。
 「アンタ、酔ってるね」
 「そうかもしれない」
  常よりは眼光の薄らいだ色素の薄い茶の瞳。彼女が無遠慮に覗き込むことを、男は咎めない。
 「猫」
 「……なに」
 「本来の趣旨を、叶えたくはないかな」
 「本来、っていうと」
  月見?
  視線で尋ねたチャトラに、皇帝が小さく頷いてみせる。
 「ここは少し、うるさいね」
 「……それも、いいかもな」
  チャトラの感覚では、どうにも、「御偉い方」についていけない。表と裏を巧みに使い分ける、よく言えば政治的手腕、歯に絹着させなければただの陰湿な大臣どもも、軍隊仕込みの無駄に大きな身振り手振りをする将軍どもも、苦手な部類だ。
  そうした酔漢の胴間声にそろそろ辟易してきたチャトラは、男の提案を幸い、退場するつもりで立ち上がる。
  続けてゆらり、と男が立ち上がる。どんな酒盃を重ねた席だとは言え、男の存在感は絶大だ。静かに緊張が走り、気づいた酒席の頭数十、慇懃に低頭する。
  さすがに三補佐が立ち上がりかけたところへ、鷹揚に手を振って皇帝は窘め、
 「――月を愛でて来よう」
  言い置いてさっさと踵を返し、いつものように陰に控えたディクスが、音もなく付き従った。

                   *

 「……あー煩かった」
  寝室とは逆の方向の回廊を皇帝が歩むのを見て、たたた、と小走りに後を追いながら、チャトラが大きく伸びをした。
  両腕にはちゃっかりと、お気に入りの果実、そうして男が呷っていた酒甕が二本。
  前を歩く男の足取りは杳としてどこか頼りない。千鳥足、と言うわけではなく、これは元来の歩き方だ。
  回廊の大理石の柱の影と、中天より差し込む月光の、黒と白のコントラストの中を男がふわふわと歩いてゆく。
  青白い黒と、淡い黄味がかった白の中で、それはまるで絵画のようで、
 「なぁ、アンタ」
 「――うん、」
  亡霊みたいだな。
  その時、生の希薄な男に対してのチャトラの正直な感想がそれだったが、
 「なんでもない」
  さすがに男に対して失礼な言葉を発してしまいそうな気もしたので、チャトラは首を振って口を噤んだ。
  ころころと表情を変えるチャトラに、どこか面白そうな視線を投げかけながら、それ以上男は追及してこない。機嫌が直っている。
  やがて、回廊の突き当たりに辿り着くころには、広間の喧騒どころか人の気配もほぼない。居住区域だというのに生活感が皆無だ。
  そこは、皇宮の中でも一番に奥まった建物。
  俗に言う「後宮」と言うもので、数人、あるいは数十人の薫陶美姫が皇帝の訪れをまだかまだかと手ぐすね引いて待ち構えている状況が通例ではあったが、あいにく現エスタッド皇に後宮に住まわせる妾はいない。
  どころか、三補佐が毎度頭を悩ませるほどに本妻との結婚すら無下に却下してしまうのだから、いるはずもない。
 「夜の営みを行うことが不都合」
  自身の体の弱さを楯にして、のらくらと言を逃れている様子は、傍観しているチャトラですら、三補佐その配下が気の毒になるほどだ。
  原因を作っている当の本人は、涼しい顔をして主のいない向かい合った部屋の真ん中の通路を歩いてゆく。
 「なぁ」
 「うん」
 「アンタさ、嫁さんもらわないの」
 「貰って――どうするのかな」
  想像した通りの答えが返ってきて、チャトラは苦笑う。
 「なんか、お貴族様ならいろいろあるだろ。体裁とか」
 「体裁で世継ぎはできぬ。それに嫁がされる女性が独り寝では、淋しいだろう」
 「独り寝前提かよ。構う気なしかよ。んじゃ、一緒に寝てやりゃいいじゃん。ナニするかどうかは別としたって」
  男の心臓には生まれつき穴が開いているのだそうだ。
  夜の営みに耐え切れない体なのだと、男が自身でそう言った。
 「他人の肌に触れる趣味が生憎と――なくてね」
 「どの口がほざく」
  しれっとした返答に、思わずチャトラは目の前の背中に呆れた声を投げつけた。
 「毎晩毎晩毎晩毎晩。布団にもぐりこんでくるのはどこの誰ってうわ」
  つと振り向いた皇帝が徐に手を伸ばし、チャトラが身構える。ところへ彼女が抱きかかえていた酒甕をひとつ手に取ると、無造作にひとくち、ふたくち。呷った。
  日頃、優雅に席に着いて食事を摂る男の姿は、その食卓に強制的に面子に加えられているチャトラにとって見慣れたものであったものの、こうして行儀をどこかに置いた風情はそれなりに目新しい。
  知らない男のようで、少しだけ不思議に思う。
  最初の緊張を解いたチャトラの隙を突いて、二度男の腕が伸び、今度こそ彼女の体を引き寄せる。
 「わぶ」
 「どの口が言うかはお互いさまだろう」
  鼻先から男の懐に衝突して、文句を言いかけたチャトラの耳朶に、男が低く囁いた。
 「オレは何もシラきってねぇ!」
  喚いたチャトラが前を向いた息を呑む。
  いつの間にか、男の目的の場所に着いていたようだった。
 「う……わ」
  思わずチャトラは声を上げる。
 「な、に……、ここ」
  そこは小さな箱庭。
  ひそやかな淡白色の月光が照らす中に、朧に光る小さな塊。ふわふわと浮き沈みするそれは、
 「綿毛……?」
  夜光虫なのかと腕を伸ばして捕まえたそれは、チャトラの手のひらの中でぼんやりときらめく。
  とても柔らかな綿毛だった。
  光るのは、その種子の部分だ。しげしげと眺めるチャトラの手のひらから、
 「あ」
  男がそっと取り上げ、息を吹きかけ宙へと放る。
  どんな生態反応なのか、再び舞った綿毛は静かに黄色からもう少し淡い赤へと変色して見せた。
  たゆたう水面に睡蓮が浮かび、壁と通路にはみっしりと蔦。訪れる者のない証拠に、まるで手入れをされていない。
  名前もわからない小さな花がほころび、その間を発光する綿毛が泳ぐ。
 「庭師もほとんど入らないものでね」
  いつの間にかこうなってしまったのだよ。
  引き寄せられたままチャトラの体は開放してはもらえなかったので、石畳に胡坐を掻いた男の膝上に自然、後ろから抱かれる姿勢になった。
 「いいな……ここ」
  幻想的な光景をうっとりと眺めたチャトラの首筋に、男の吐息が触れた。酒量をそれなりに超えたせいか、いつもより暖かな気がする。
 「って。ちょっと。何してんだよ」
  匂いを嗅ぐように男が鼻先をチャトラの肩口に埋め、乾いた唇が肌を啄ばむ。
 「何」
  無礼講だ。
  ひそやかに笑いながら、肩口から首、耳朶を甘噛みしてくる男へ、
 「アンタ……盛大に酔ってるだろ……」
  このエスタッドと言う国を統べる、頂点に男はいるから。
  誰かしらが必ず傍に待機して、護衛と言う名の監視を行うことは仕方がないことなのだろうと思う。
  思う、が。
 「おい。やめろよ」
  控えたディクスの視線を気にして、チャトラは慌てて男を振り払う。
  生まれつきそうした監視が日常茶飯事で過ごして来た皇帝はともかく、理解はできても慣れることはできないのがチャトラだ。
 「ディクスさんがいるだろ」
 「影と思えばいい」
 「思えるか。ばか」
  戯れだろうと本気だろうと、誰かの目の前でいちゃつく皇帝の気が知れない。
  と言うより、
 「アンタね。話の流れ理解してる?」
 「流れ」
  割と不思議そうに繰り返す男へ、チャトラは小さく溜息をついた。
 「嫁さんの話してたんだよ。オレ」
 「――セヴィニア辺りに吹き込まれたか」
 「吹き込まれたって何をだよ。……アンタに縁談勧めろって?」
 「そう」
 「言われる訳ないじゃん。オレ、あの人に激しく嫌われてんよ?」
  三補佐の中でも一番の鉄面皮を思い出し、チャトラは唇を尖らせた。
  あの冷徹さは、苦手だ。
 「ではなぜ」
 「いや……別に理由はないんだけどな。疑問に思っただけ」
 「――仮に。私が特定の女性の寝室へ通うことがあるとして」
 「な……なんだよ」
  不意に耳元に熱い吐息とともに囁きこまれ、ぞわぞわと背筋を震わせてチャトラは呟いた。
 「お前が独りの目覚めを迎えると思うと、胸が痛んで到底実行できそうにないね」
 「アンタ頭煮えてる?」
 「いいや?」
 「んじゃ酔っ払ってるんだよな」
 「何故そう思う」
 「だって。オレが淋しがると思うの?」
 「淋しくは――ないか」
 「……どうかな」
  淋しいか淋しくないかと聞かれたら、目覚めた瞬間の、いつの間にか潜り込んできた男がまた横で寝ている、と言うげんなり感を感じないだけ、一人での目覚めの方がマシかもしれない。淋しいかどうかの以前の問題だ。居心地が悪いとも思わなかったが、それでも毎夜毎夜、親しい間柄でもないのに夜這う男の感覚と言うものが理解できない。
  と。
  そう言い切ることは簡単だったけれど、それはあまりにも心無い気がして、チャトラは口ごもった。
 「淋しい――だろう」
  言って、皇帝が彼女のうなじに再び唇を寄せた。
  軽い水音を立てて啄ばんでくるのは、男が明らかにチャトラの反応を見て楽しんでいる証拠だ。髪をかき上げられ、耳朶を弄られて、体から力が抜けるのを自覚した。
 「や、め」
 「やめない」
  つれないお前に拒否権はない。
  言外にそう匂わされて、しまったなと心の中でチャトラは舌打ちする。
  どうやら皇帝のへそを曲げさせてしまったらしい。
  だが、後悔はする。反省はしない。
  だいたい、やめろとチャトラが抗議してやめてくれたことが過去に何度あったか?
 「淋しいだろう」
 「……淋しくない」
 「淋しいだろう」
 「な、に……」
  繰り返しながら上着の裾をたくし上げた手に気を取られ、思わず肩越しに振り返った男の目を見てぞくりとする。
 「アンタ……」
 「うん、」
  続く言葉は声にならなかった。
  ……なんて目でオレを見る。
  深遠を覗き込む色をしていた。
  火のようなのに、冷たい。
  胸元まではだけられ、悪戯を仕掛けてくる男の顔に思わずチャトラは手を伸ばし、ひた、と手のひらを当てる。
  軽くいなすかと思った男は、割と真面目な顔をしたままチャトラを見つめ返した。
  男の薄茶の瞳の色は好きだと思う。
 「……そうだな、」
  この茶色の瞳が別の何かに一転注がれるとしたら、
 「淋しいかもしんねぇ」
  少しは。
  譲歩かもしれない。じっと男を見つめたまま囁くと、意を得たりと男が不意に笑った。
  その笑みに目を奪われ、チャトラは思わず言葉を失う。
  ……淋しいのはきっとアンタのほうだ。
  無防備な笑顔にそう思った。



(20100616)

皇帝と猫にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:16