<<うたたね>>



 「ヒデェ顔してんぞ」
  言われて男が顔を上げた。
  憔悴している。
 「――私が?」
  声にも張りが無いように感じられて、チャトラは知らず、眉を顰めた。
  執務室。
  昼下がり。
  心地よい午睡からようよう這い出して大きな欠伸をひとつ。
  伸びをしながら端が見えない回廊を歩き、細く開いた扉から何気なく中を覗いたチャトラは、
 「アンタ以外今現在この部屋に誰もいねぇだろ」
 「……ふむ」
 「真っ青だぞ」
  男の様子に見兼ねてついつい声を掛けたのだった。
 「私が?」
 「あのね。オレ、今アンタと会話してんのね」
 「ほう」
  おざなりに答えていた男が、書類から目を放す。
  栗色の視線が、彼女に向けられた。
  釣られて、脇に立つ黒尽くめの男の視線も向けられる。
  影のように付き従うのはディクスだ。
 「……いいや。なんかアンタに理を諭しても理解されないような気がしてきた」
 「ありがとう」
 「褒めてねぇ。ていうか横になっとけよ?なんかヤバい顔色だぜ」
 「そんなに悪いか――な」
 「悪いってもんじゃねぇぞ。ぶっ倒れる寸前に見える」
  いっそ透明なほどに青褪めた男は、羽化したての蝉にも似ている。
  色彩が薄い、と言うよりは生気の薄い、
 「存外、そうでもないのだが――」
 「自覚症状薄いんじゃねぇのアンタ」
  飽きれた声がチャトラの口を衝いて出た。
  男の、自身への無頓着ぶりは日常とは言え、
 「そうかな」
 「そうだよ。そもそも仕事仕事って、メシにもこなかっただろ。どっかの国との打ち合わせがあるとかで。つーか、それ以前に昨日部屋に帰ってきてないよな?いつから休んでないんだよ」
 「仮眠は取ったのだよ」
  これだ。
  やれやれと肩を落として嘆息する。
  これで、倒れないほうがおかしい。
 「仮眠じゃなくてさ。きちんと休んでいるのか、ってオレは聞いてるんだ。アンタそうじゃなくたって眠り浅いのに、仮眠なんかで寝てると思えねぇし」
 「体は動くようになった」
 「……それ仮眠じゃねぇし。体力ぎりぎり限界で寝たらなんとか起き上がれた、とかそういうレベルじゃねぇか」
 「――ああ――」
 「……??なんだよ???」
  草臥れているのだろう。
  どこか定まらない、ぼんやりと夢を見ているような瞳でチャトラを眺めていた男が、
 「心配してくれているのかな」
  ようやく焦点が結ばれる。
 「そんなワケあるワケ、ワケねぇだろ!!!目の前で紙みてぇに白いから言っただけだよ!!」
  心配だとか。ありえない。
  むきになって即否定すると、そこで男の表情が初めて和らいだ。
  苦笑したのだろう。
 「それは――残念だね」
 「な、なん……だよ」
 「お前が心配してくれるなら、その思いやりに応じて仕事を切り上げて休憩しようと思ったが」
 「……」
 「全否定されるとはね。残念だ」
  言いながらチャトラの様子を窺ってほくそ笑んでいる。
  相変わらず、意地が悪いのだ。
 「……いや……その、……そりゃあちょっとくらいは、心配してないワケでもねぇけどさ……」
 「ちょっと、ね――」
 「や、ちょっとっていうかだいぶ……って言うか……まぁ、その、なんだ。アンタはよくやっていると思うよ。ちゃらんぽらんに見えて頑張ってるし。たぶん、人一倍以上頑張ってるし」
  どうして掻きたくもない冷や汗を掻かなければならないのだろう。
  理不尽だ。
  憮然としながらチャトラはぼりぼりと頬を掻いた。
  褒めるのも、褒められるのも、どうにも苦手である。
 「――」
 「……」
 「――」
 「……おい」
 「?」
 「褒めてねぇ時に得意がるくせに、褒めてる時になんでぽかーーーんとしてるんだよ、アンタは」
 「少々、驚いた」
  皮肉のひとつやふたつ、返されると身構えていたチャトラは、反応の薄い男に不審を抱いて胡乱な視線を男へ向けた。
  本心だったのだろう。
  いつになく率直に、男が彼女を見ている。
 「お前を揶揄ったつもりでいたのでね」
 「いや、からかわれてるのはよく判ってますよ?」
 「いつものパターンで怒るかと思ったのだがね――」
 「オレも日々成長しているのです」
  つかつかと室内へ足を運び、運ばれてからかなりの時間が経っていたのだろう、とうに冷めた茶を茶碗に注いで、
 「ほら」
 「――うん、?」
 「ちったぁ休め、って言ってるんだよ」
  顎で長椅子を指し示すと、割と素直に男が執務机から立ち上がる。
  そのまま少し、よろけた。
 「おい」
  反射的に駆け寄ろうとしたチャトラよりも先に、側に付き従っていたディクスが男の身体を支えた。
  手馴れている。
  椅子の背もたれに右腕をついて、僅かに前屈む男を慇懃に横抱くと、ディクスはそのまま手を出し損ねたチャトラの脇の長椅子へ男を運んだ。
 「おい……、」
  近くに寄ると、軽く瞼を伏せていた男が、チャトラへと視線を流した。
  その額にびっしりと汗が浮いている。
  少しどころでなく、男が相当無理をしていたのだと理解して、チャトラは顔をしかめた。
 「みず、飲むか?」
 「――いや」
  力なく仰のいた喉が白い。
  弱った男を見ることが、チャトラは嫌いだ。
  胸が怪しく騒いで落ち着かないからだ。
 「なんかしてほしいこと、ある?」
 「――いや――、」
  答えてまた瞼を閉じようとした男が、
 「猫」
  思いついたように再び彼女へ目を向ける。
 「なんだよ……?」
 「膝枕」
 「はぁ?」
  膝枕とか。
  莫迦じゃねぇの?
  ぽん、と長椅子の傍らを叩く男に目を剥いて、チャトラは悪態を吐いてそのまま部屋を出ようとし――、
 「……」
  目を閉じ、逡巡して立ち止まり、
 「……アンタ、ずるいよ」
  肩を落とした。
  彼女が断れないことを、男は知っている。
 「卑怯なのは百も承知だ」
  そうして、嗤った。


 「……どうしてオレなんだよ」
  華奢に見えて、それでも男だ。チャトラの膝に乗せた頭はそれなりにしっかりとした重量を持っていて、それで少し彼女は安心する。
  ああ、この男はまだ『生きて』いるのだ、と。
 「どうして――?」
 「もっと相応しいヒトがいるんじゃねぇの、って聞いてるの」
 「相応しいとは」
 「だからさ。オレよりもっと、柔らかかったり、出るトコ出てたりとかさ。ホネ当って痛いだけだろ」
 「そうでもない」
  片方しかない男の手のひらが、声とともにチャトラの太腿に這う。
 「この薄さが丁度良い」
 「ムカつく」
  褒めたのだが、言って男はくすくすと笑いを洩らした。
  先より顔色が少し良くなっている。
 「なぁ、皇帝」
 「うん?」
 「このまま寝ちまえ」
  通りの良い男の髪を指で梳いて、チャトラは男の瞼へ手を当てた。
 「働きすぎだよアンタ」
 「――心配して、」
 「心配してるんだよ、オレは」
  心配してくれているのかな。
  先刻と同じ言葉を吐きかけた男の声に被せて、チャトラは低く告げる。
  探るような男の視線を塞いだだけで、なんとなく、本音が漏らし易く感じた。
  見下ろした男の、言葉より実は雄弁な瞳は、今は自分の手のひらで覆われて見えない。
  鼻筋から下の唇が、一瞬思案したように軽く開けられて、
 「――そうか」
  次いでにぃ、と端を上げた。


(20100818)

皇帝と猫にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:15