<<一番綺麗な私を>>
ばたばたと、慌ただしそうに――というよりは、なんともヒデェ剣幕で、見知った顔が、オレの方へと駆けてくるのが見える。
血相を変える、ってこういうことなのだなと、オレはこっちへ寄ってくるその姿を、ぼんやりと眺めていた。
口をパクパクさせている。
……陸に上がった魚かよ。
想像して、少し笑えた。
笑った肩を掴まれる。
痛ぇな。
何をそんなに急いでんだよ。
慌てふためいて搾り出した言葉は、オレの音感のハシにもかからず、オレは正直、何を言われたのかさっぱり判らなかった。
ただ、歪めた目の前の顔を見て、名前は何だったっけ、だとか、
人間の顔ってこんな風に歪むんだなぁ、だとか、コイツがこんな風に血相を変えること自体がなんだかおかしいと、
ただそれだけが不安だった。
超然としているコイツが、
鉄面皮でムカつくコイツが、
こんな風にオレに向かってくることなんてあるはずがないのに。
……ああそうか。
唐突に、気がつく。
音が、遠いんだ。
そうして、場違いに風呂を思った。
都の風呂が全部そうなのか、ここのつくりが特別なのかオレには判らなかったけど、とにかく皇宮の風呂はやたら広い。
そしてバカみてぇに深い。
立ったまま歩いて真ん中に立つと、頭は水面の下に潜る。
どんだけだよ。
毎度入るたびに、思う。
こういう風呂は風呂掃除する役目の人がいてこその風呂だよなぁ、だなんて、風呂に入るたびにいつも思っていた。
風呂に入るのは正直あまり好きじゃあない。
入らなくていいのなら、風呂になんて入りたくない。
だけど、オレは“アノヒト”の付き人の仕事があったから、
風呂の中でブッ倒れられでもしたらそれこそ迷惑な話だったから、
それに風呂は嫌いだけど、水に潜るのだけはなんだか別世界でオレは好きだったから。
だからいつもしぶしぶ入ってた。
そんな広くて無駄に深い風呂の、ちょうど真ん中で、潜ったときによく似ている。
縁からかけられる声は、水の膜を通して何倍にもぼやけて聞こえて、人間の言葉に聞こえない。
“アノヒト”の低い声も水の中には通らなくて、オレは潜っている間だけ、“アノヒト”を忘れた。
ぼわぼわと響く水琴の音に、少しだけ似ている。
そんなことを思っていると、急に腕を掴まれ、引きずり上げられて頬を二、三発ぶん殴られた。
痛ぇよ。
いきなり何をする、むかっ腹が立って蹴り返すとさらにぶん殴られた。
なんだよ。
掴まれて痛い腕をそのままに、その、知っているのに名前が出てこない顔が、オレの体を引きずり立たせ、まるで連行でもするかのように歩き出す。
やめろ、と。
放せよ、と。
オレは確かに叫んでいたと思う。
だのに、その自分が叫んだ声さえ、オレの耳には届かなかった。
つんぼになったのかもしれない。
音が遠い世界を、不意に怖く思う。
なんだろう。
耳でもぶつけたんだろうか。思い当たる節はないけど。
ただ、急に聞こえなくなった理由がわからない。
引きずられることに、抵抗して踏ん張った足に力が入っていないことに気づいて、今度こそおかしいと、思った。
なんだろう。
なんで地面は、こんなに頼りがいがないんだ?
踏ん張りを利かせているはずなのに、靴の先がめり込む感覚がつま先から離れない。
慌てて見下ろした視界の端が、妙に暗くて、怖かった。
朝だった。
朝だった、と思う。
目が覚めて、確か飯を食うために着替えていたとか、そういう時間だったと思う。
何で暗いんだ。
そういえば。
今気づいたけど、色も少ない気がする。
白黒、だとか言うつもりはないんだけど、思い当たって周りを眺めたらやっぱりオレの知っている世界よりはるかに色が少ない。
三色、とか。四色とか。
なんだよ。世界が、灰色じゃあないか。
ぼやけた視覚と、ぼやけた聴覚の間で、どこか頼りない大理石の床を踏みしめて、オレは見知っているのに名前も出ない顔に腕を掴まれ引きずられている。
掴まれた腕に爪が食い込んで痛い。
痛覚だけがやけにリアルで、笑えた。
……なぁ。
音が。
さっきから音が聞こえないんだよ。
*
それはやけに広く感じる部屋だった。
なんでかな。
いつものアンタの部屋と変わりがないはずなのに。
突き飛ばされるように部屋に押し込まれて、踏ん張りが利かなかったオレは、だから、床から間抜けな格好で、寝台の上のアンタを見上げる羽目になった。
ここんとこ、アンタはオレを夜這ってこなかった。
大概目を覚ますと、オレを抱き枕代わりに抱えてアンタは寝ていて、それが、もううんざりするほど日常の出来事になっていたから、珍しいこともあるんだなとちょっとだけ、思ってた。
飽きっぽいのと同じくらい、執着すると手放さないことを、オレは今では知っていたから。
でも、気まぐれなアンタのことだから。
おかしなところで機嫌損ねたり、直ったり、オレにはとても予測できないところコロコロ気分が変わる、アンタのことだから。
珍しくはあったけれど、じゃあそれが変かっていうと、そうじゃなくて。
ただ少しだけ、珍しいなと思ったんだった。
ああ、アンタがオレを呼んだのか。
押し込まれた部屋にはオレだけって言うのも、なんだかおかしな気がした。
護衛とか、どうなってんの?
仮に普段、アンタがオレにちょっかいを出すたびに、人の目が気になるって言うのに、今に限って誰もいない。
今日、何か特別な日だったっけ。
式典だとか、なんかそういう大掛かりな、準備でおおわらわな日だったっけ。
オレはそこでようやく立ち上がる。
寝台の上の、アンタは眠っていた。
眠りが異様に浅いアンタは、廊下でたてられるちょっとした音でも、目を覚ます。
だから当然、オレが部屋に放り込まれた音は聞こえているはずだった。
目を開けるのが億劫なほど、くたびれているのかな。
昨日も遅くまで仕事してたんだろうな。
「チャトラ」
そうしてオレは、背後から耳障りな声に呼ばれて飛び上がる。
なに。
音が世界に戻っている。
とてつもなく耳障りな、ダイナモ。
振り向きながら、いっそ耳をふさぎたいと思った。
聞きたく、なかった。
不意に聞こえてきた音は、もう煩いだけだった。
だのに協和音は、容赦なくオレの脳髄へと飛び込んでくる。
誰の声か、だなんて知らない。
――陛下ガ、御崩御サレタノハ、恐ラク明ケ方ノコトデ、
なに。
――苦シマズニ、眠ルヨウニ、オ隠レニナッタト思ワレ、
なに。
――マダ身近ノモノニシカ、知ラセテイナイカラ、今ノ内ニ、
……なに?
*
いつのまにかオレは一人部屋の中に取り残されていた。
しん、と冷えた空気が痛い。
気がつけば、オレはアンタの枕元に佇んで、アンタの顔を眺めていた。
気がつけば、勝手に腕が伸びて、アンタの頬をそっとさすっているオレがいた。
眠っているようだ、アンタは。
眠っているようなアンタは、とても、穏やかな顔をしていた。
目を閉じたアンタは、見なれていると思っていたアンタより、ずっとあどけなかった。
「……なぁ」
頬をさすった。
オレの体温がアンタに移ればいいのに、だとかしょうもないことを思った。
冷たい頬から指が離せない。
「起きろよ」
なぁ。
「起きろよ。もう朝だよ」
言いながらオレは、どこかでアンタが目を開けないのを知っている。
本当はさ。
本当は、アンタが最近弱っていたことを、オレは知っていた。
飯の量が極端に減った。
低体温のアンタが、暖かかった。
歩き出す力がなくなって、オレひとりの力じゃ支えきれなくなった。
元からそんなに喋る人じゃあなかったけど、口数が減った。
そのかわり、じっとオレを見つめている時間が増えた。
軽いはずの鵞ペンを握ることができなくなった。
だけど。
「なぁ」
だけどオレは、その全部に目をつぶってただ、アンタの顔を眺めていたのだった。
オレにできることはあまりなかったから。
そうして、アンタの顔は相変わらずとてもきれいで、アンタはオレの傍若無人な視線を受け入れてなお、穏やかだった。
栗色の瞳がオレを見て、何か言いたそうに唇が動いていたけれど、オレはそれをきちんと尋ねることもしなかった。
尋ねたら。
尋ねて言葉が発せられたら、小さな沈黙の世界が終ってしまう。
オレはそれを恐れていたし、アンタはオレがそうして恐れていることを知っているようだった。
だからアンタはオレを見た。
そうして、尋ねる代わりにオレは歌を歌った。
どこかの町できいた、母が愛し子に歌う子守歌を。
オレの歌を聴きながら、アンタはじっとオレを見つめていた。
今は、その瞼も降ろされている。
吸い込まれるような土の色だった、その瞳。
オレが好きだったその色。
アンタはオレに、何を言いたかったのだろう。
これ以上ごちゃごちゃと考えたら、なにかが喉元から溢れてしまいそうで、オレは咄嗟にアンタの胸に耳を寄せた。
音はよく聞こえる。
……アンタの鼓動、以外は。
「朝飯。どうするんだよ」
ああ、アンタは「気分が優れない」から、抜いてしまうのかな。
厨房の調理人さんがまた困った顔をするのが手に取るようにわかる。
好き嫌いはよくない。
なんでも全部食べないと、大きくなれないって昔姉ちゃんが言ったから。
「皇帝」
どうして瞼を上げないのかな。
抱き起こそうとした。
背中に腕を回すと、寝台に押されていたそこはまだ、アンタの体温を残してあたたかかった。
“――お前はあたたかいね。”
アンタの口癖が不意に耳の奥によみがえる。
オレが今感じているのはアンタのぬくもりなのに、オレのじゃなくてアンタのもののはずなのに。
どうしてアンタはあったかいの。
アンタの体はとても重くて、オレの力で抱き起すことはできなかった。
だからオレは、動かないアンタの右腕をそっと取って、オレの背中に回す。
その腕の重さと、残されたぬくもりと、アンタのにおいに鼻をうずめた。
抱きしめられている気持ちになった。
アンタのぬくもりが、オレの腕の中から空中に昇って溶けていく。
アンタの体が冷えていく。
においと一緒に、逃げて行ってしまう。
掻き抱こうとしても、オレの腕二本では閉じ込めておけるはずもなくて、それがなんだか切なかった。
動かした拍子、少しだけずれたアンタの枕元に、見なれた銀色がオレの目に飛び込む。
「あれ」
このところ見かけなくて、なくしたと思っていた、それ。
皇宮のどこかに落としてしまったんだろうと、探すこともあきらめていた、それ。
アンタが最初にオレにつけた、所有の証。
小さな鈴。
はずみでちりり、と鳴った。
ああ。
耳元にこれを置いて、アンタは。
“――苦シマズニ、眠ルヨウニオ隠レニナッタト思ワレ、”
この音をひとりで聞いて、ひとりで往ったのか。
思った瞬間そこで初めて押し殺した悲鳴が、オレの喉から、
喉から、
*
――喉から。
「猫」
引き攣けた声に驚いて、オレは目を見開いた。
眉をひそめて見下ろした綺麗な顔に、愕然としてそのまま固まった。
今のこの状況が、どういったことなのか一瞬では理解できなかったから。
アンタの顔が上から覗き込んでいて、高い天井が見える。
世界が逆転していて、オレは瞬きを繰り返すと、頬が妙にかゆかった。
こすると、滂沱と涙。
「……え?」
呆けたオレの、やたらと濡れた頬を、アンタは袖を伸ばして苛立たしげに拭う。
「夢?」
「あ?」
「夢を――見ていたのかな」
どうだろう。
何か胸を引き裂かれそうな、苦しい余韻はあるのに、それがいったいどんな内容だったのか、何が起きたのか、オレはもうすでに思い出せずにいる。
「酷い声だったが」
「え?」
「悪い夢を――」
見たのかね?
聞かれても覚えていないオレは、答えることもできず、肘を衝いて起き上がる。
気づけば、うっかりアンタの膝枕で寝ていたようで、妙に慌てた。
セヴィニアのおっさんあたりに見咎められたら、確実にあとでこっそり難詰される。
不敬だとか、なんだとか。
「夢?」
なんでこんな状況になっちゃってんだ?
頬を拭う。
脇の方に、さっきまで斜め読みしていた教練本があって、そのページはだらしなく開いて床に転がっている。
読みかけたまま寝ていたところを、アンタが膝に乗せた。
そんなところなんだろうか。
眉間をもんでもう一度、夢の中を思い出そうとしたけれど、それはじわじわとしみこむ現実に上書きされて、欠片はどこかに行っていた。
「ああ」
「うん、」
「アンタが出てきた気がする」
言うと、アンタの顔が判りやすくむっとした。
「“勝手に私を出すな?”」
「――いや」
しゃくりあげたオレの頬に手を伸ばしたアンタは、とても不機嫌で。
「仮に私の夢を見たとして。――泣くのが気に入らぬ」
「なんだろう。覚えてないよ」
視線を上げたはずみに、アンタの栗色とかち合って、
ああ。
「チャトラ」
その色を認めた瞬間、たまらなくなって、ぼたん、とまた涙が溢れた。
「何を泣く」
「わ……かんねえ」
刹那よぎったのは未来の記憶だったんだろうか。
どうして涙が出るんだろう。
ごしごしと瞼をこすると、すっと目を細めたアンタが乱暴にオレを引き寄せた。
「鬱陶しい」
「悪ィ」
「泣くな」
「うん」
鼻をすすったオレの髪を苛々と掻き混ぜて、
「気に入らないね」
嘆息しながらアンタはつぶやく。
「ああ……別にアンタに苛められて泣いてるわけじゃあないんだし」
「――そんなことを言っているのではない」
「うん……じゃあ、なんだよ」
「猫」
「うん」
「お前が。私以外のものに涙するのが気に入らない」
言われてオレは呆気にとられ、ついでに涙の名残も引っ込んだ。
まじまじと間近にアンタの顔を見る。
アンタの顔はいたって真面目で、冗談を言っているわけではなかったらしい。
「すげぇ屁理屈」
「所有物とは、そういうものだ」
いいか、と強く囁かれて、喉元の紐をぐいとアンタは引いた。
ちり、と鈴が鳴る。
音を聞いて、アンタが満足そうに眼を眇めたのが、見えた。
(20101018)
いちばんきれいなわたしをだいたのはあなたでしょう?
最終更新:2011年07月28日 07:10