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        *

  そうしたことがあってから、一月ばかり過ぎていた。
  緩やかに流れる雲を見上げる。白くて丸い形が妙に旨そうだった。雲の真横に見える白い月を見て、ああ、もうすぐ満月が来るな、だとか思う。
  まだ一月というか。
  もう一月というか。
  楽観主義者はベーグルを見、悲観主義者はベーグルの穴を見るだとか、昔どこかの酒場で酔っ払った男が声高にご高説を披露していた。
  どうでもいい。今になって思い出す。
  自分が口にするとしたら、どちらの方がより似合っているのだろう。そんなことを思った。
  皇都に連れてこられてからひと月。
  到着した日以来、チャトラはエスタッド皇帝にまみえていない。調子が良くなった、だとかいうことも、特に聞かされていないので、相変わらず顔色悪くつらつらと男は日々を過ごしているのかもしれないが、そうした話題を立ち入って聞ける人間がチャトラにはいない。
  残暑が厳しい。
  男の身体によくない影響を与えているのかもしれない。
  せいぜいがところ、窓の外で大量の洗濯物を干しながら立ち話をする、下女の会話に耳をそばだてるくらいで、まったくもってチャトラは宮内の世間というものから切り離されている。
  そもそも、部屋から自由に出歩くことすらできないのだ。
  下働きの者どもが多く寝起きする皇宮内の一角に、チャトラをあの日放り込んだのは、セヴィニアと名乗る男だった。
  「三補佐」なる役職に就いているらしいだとか、その「三補佐」が、宮内でかなりの実権力を伴うらしいだとか、部屋にほぼ監禁されているとはいえ、一月も過ごせば嫌でも覚えた。
  皇帝直下の補佐官。
  一目見た時から不快だった。
  見た目であるとか口調であるとか、そういったものは後からのものだ。
  ウマが合わないのだろう。生きていれば一人や二人、好き嫌いの感情はともかく、何をどうしても合わない人間というものは、必ず存在する。
  要するにイラつく。
  ウマが合わないのだから、それはそれで潔く認めて、以後出会わないように工夫すれば解決できる問題でもあるとは思うのだが、あいにく男は毎日顔を出した。
  顔をだし、チャトラを日がな一日監視している戸口の男どもから一日の報告を聞く。
  何があるわけでもない。
  監禁当初は、皇帝への借りを返す目的はとりあえず棚に上げて、何とか部屋から逃げ出そうと試みたが、知ったセヴィニアに容赦はなかった。
  左足首が重い。
  まるで囚人につけられる足枷をはめられて、チャトラの行動許容範囲は、部屋の数歩、それだけになった。
  エスタッド皇その人にも、似たようなことをされたなと頭の片隅でチラと思う。
  それでも皇帝は、ここまで極端に苛烈ではなかった……はずだ。
  ……ああ、でもそうでもないか。
  思い直す。
  後で知ったが都を離れ、エスタッド皇は避暑の名目であの地を訪れていたらしい。
  その避暑地の屋敷を離れる際に、容赦なく束縛されたことを思い出してチャトラは渋面になる。
  ――存外お前を気に入っている。
  そう告げた口で、縛り上げられたチャトラが目の前にいても平然としていたのだから、もしかするとそれがエスタッド皇都流、なのかもしれない。
  理解ができない。
  やっぱりあのときにげだしておけばよかったかな。
そう思った。
  借りだとかなんだとか建前はやめて。
  思えばあの移動中が、脱走するには最適だったような気がしてならない。
  それも今更、なのだけれども。

 「ああああああああ飽きた!!」

  喚いてそのまま、チャトラは向かわされていた机上の本をばさばさと盛大に落としながら、椅子ごと背後にひっくり返り、床の上で不貞寝する。
  戸口の向こうの男が、のぞき窓の隙間からちらとこちらを見やった。
  飽きた。
  おとなしくしていることも、この部屋にいることも、セヴィニアに課せられた学習を繰り返すことも。
  セヴィニア補佐官は、男の言うところの
 「皇宮内での最低限の知識」
  とやらを徹底的にチャトラに叩き込むつもりらしい。
  一夜漬けならぬ一月漬けで、開始当初は全力で抵抗していたチャトラも、そもそも監禁され束縛され、一日のうちで自分に許された行動範囲内にあるものが机の上の本を開く行為だけとあっては、不本意ながらも学習するよりほかない。
  と言っても読みはもとより書き取りすらもできないのだから、開いた書物は単に記号の羅列された紙切れにしか過ぎない。
  仕方がないから挿絵を眺めていた。
  一月も同じ挿絵ばかりを眺め続けて、戸口の外では暇そうに男が自分を監視している。
  窓があるのが唯一の救いだ。
  これで外の様子も判らなかったら、本気で気が狂いそうだとチャトラは思った。
  悟りでも啓けるかもしれない。今日から試してみよう。
 「お嬢ちゃん」
  欠伸をしたついでに目尻にたまった涙を拭っていると、戸口のあたりから声がした。
  跳ね起きる。
  暢気な声を上げたのは、これもまた「三補佐」の一人、アウグスタ補佐官である。監視役である兵士が、どこかへ追い払われてしまっている。補佐官の権限というものだろう。
  このひと月の間、チャトラが、破裂しそうになりそうながらもなんとか自分を保っていられたのは、アウグスタ補佐官によるところが大きい。男自身も職務が忙しいのであろうから、そう度々と言う訳にはいかなかったけれど、それでも何かと口実を作って部屋から連れ出してくれていた。
  飄々とした風情の彼は、チャトラを面白がって観察しているところがある。「エスタッド皇帝が連れてきた」部類にしては、何ら特質をもたない彼女が珍しいのかもしれない。
  あるいは、単に現状況を楽しんでいるだけかもしれない。
  どちらにしてもチャトラには構わなかった。
 「オッサン」
 「寝ているのか」
 「……息抜きだよ」
  誰でもいい、会話をできる相手が現れたことが嬉しかった。椅子を引き上げ座りなおしたところで、
 「なぁ」
 「ああ」
 「晩飯には、まだ早いよね」
  チャトラはアウグスタに尋ねる。
  数時間前、セヴィニアの息のかかった年増の女官に半ば監視されながら、もそもそと座りの悪い食事を済ませたばかりだ。何度か口実の中に男は彼女との食事を交えていたが、今日の来訪理由はそうではないらしい。
 「お嬢ちゃん」
 「うん、」
 「支度しなさい」
 「うん……、なんで?」
 「陛下がお呼びである」
  言われて瞬間、首の後ろあたりが強張るのを感じた。
  それが緊張だということに、少し遅れて思い当たる。
  強張った彼女に気付いたのだろう。アウグスタはやや不審な顔をしたが、
 「案内する」
  言ってそのまま踵を返した。
  支度と言われても化粧するわけでもなし、せいぜい埃を払うだけの仕草で、それから椅子の背中に掛けていた上着を取ると、チャトラは大きな背中を追った。


  皇宮内は広い。その上自由に出歩きを許されていないチャトラには、未だまったく土地勘がない。
  先を進むアウグスタの背を追いながら、チャトラはきょろきょろと周りを見回し、小走りについていく。男は割と控えめに、チャトラの速度に合わせて進んでくれているようだったが、何しろ背丈が倍ほど違う。歩幅は推して知るべし。
  こわい髪に覆われた後頭部を眺めても、アウグスタがどんな表情で自分を案内しているのか判らず、代わりにチャトラは天井画だとか、壁に掛けられた人物画だとか、回廊のあちこちに置かれた壺や鎧だとかに目をやった。
  チャトラの監禁されていた部屋のある区画周りは、割と人の動きで溢れている。生活臭があるのだ。皇帝だとか宮内だとか言った暮らしに、馴染どころか想像すらつかなかった始めと変わって、そこに暮らす大勢の人々がいることを、今では理解していた。
  何しろ彼らは己のことを己でこなさない。
  例えば、なにをそんなに洗うものがあるのかと、当初いぶかった洗濯場は、洗い女たちの主人の着衣や夜具や、そういったもので、洗い女たちはその仕事で一日を終える。彼女らの食事を用意するのは、また別の者ども。掃除をするだけの係りの者や、それを点検する係、その点検する係について回る護衛の兵士。
  そうした者どもの下に、更にずっと大勢の下働きのものがいて……、いったい合わせて何人になるのか、チャトラには判らない。
  規模も、住んでいる世界もまるで違うのだなと頭の片隅で思っただけだ。
  要するに大きな三角形のようなもので、その天辺に位置するのがエスタッド皇帝、そうして末広がりに仕える者たちが付く。
  男がものすごい地位にいることを、その時初めてチャトラは知った。知ったが、だからと言ってどうと言う物でもない。彼女の中での「地位」の基準付と言う物は、エスタッドの身分制度とはまた少し違う。だから、男が偉いと気付いても、ああそうなのかと思っただけだ。
  人気の多い区画を抜け、いくつかの回廊を渡り、だんだんに空気すらしん、と冷え込んでいるような気のする、宮内奥へ案内される。
  何度か食事で連れ出されたときにも、こんな場所までは来なかった。
  壁に並べられた人物画を眺め、緩やかに上る螺旋回廊を小走りに駆けて、
 「なぁ」
  アウグスタの背中に問いかけた。
 「ああ……?」
 「ここ、どこ?最初に行った、皇帝の部屋とは並びが違うよね」
 「お前……わかるのか?」
  割と感心したように振り向いた男にうん、と頷いて返す。
 「配置とかさっぱりだけど。においが違う気がする」
 「におい、な」
 「皇帝の部屋へ続く廊下は、もっと甘いにおいがした気がするんだよ」
 「お前、わかるのか」
  二度目の台詞は驚いた色が混じる。再びうん、と頷いたチャトラに、
 「……蜜蝋の香りだろうな」
  男は言った。
 「蜜蝋?」
 「気分を安らげる効果があるとかで、陛下のご寝所付近の蝋燭は、蜜蝋を含めたものを使っているはずだ」
 「へぇ……」
  区画によって香りを変える、だとか。
  バカバカしいにもほどがある。
  関心というよりは半ば呆れて、チャトラは口を開けた。
 「それと、さっきの質問だけどな。ここは皇宮内……というよりは皇都の中心と言った方が早いかもしれん。お嬢ちゃんは、外から中央塔を見たか?」
 「見たよ」
 「そうか。じゃあ、あの部分だと言えば判るな?」
  高く聳え立った一本の塔。それを取り巻く巨大な街並み。
 「……なぁ、この壁に延々と並んでるのは」
 「……建国当初からの、歴代のエスタッド皇であらせられた方々の御肖像だ」
 「ふぅん」
  生返事で頷き返して、チャトラは最後の辺りの肖像画に差し掛かる。細面の、どこか険しい神経質な憂い顔。黒い髪であったし、肌も地黒で男と似ているパーツは無いようで、けれど、あの男に似ているように思う。
  何が似ている気がするのだろうと、ほんの数瞬眺めて気づいた。きっと男の父親に当たるのだ。似ているのも道理だと納得する。
  それが、狂太子と呼ばれるほどに、実父との諍いを繰り広げ、遂には皇都半分を動員して血みどろの肉親争いをした男であることを、チャトラは知らない。
  また、そうして手に入れた皇位もせいぜい数年のことで、ある日玉座で毒杯を呷った姿のまま、冷たくなっていたということも、チャトラは知らない。
  その首謀者が誰かついぞ判らず、真相は闇に葬られたまま、なし崩し的に現エスタッド皇が即位したということも、もちろんチャトラに知る由もない。
  チャトラが知っているのは、ただ。

 「――ほう」

  不意に透き通る声が聞こえて、弾かれたように振り向いた。その声を探す。
  懐かしいという思いと、耳障りだと不愉快になる思いが、背反しながら一挙に湧き起こる。
  乱立する円柱の影の中に、もたれるようにしてエスタッド皇帝がチャトラへ視線を投げていた。
  気怠そうな男のその背後に、見知ったディクスの忠義顔。無感情にチャトラに目をやっている。
  涙が出るほど変わり映えのない、あの屋敷で見た時と同じ姿。
 「猫」
  明らかに笑いを含んだ声とともに、ゆったりと皇帝が動き出す。いつの間にか前に押し出され、脇に控えたアウグスタが、畏まって腰を折るのが視界の端で見えた。
  動きに合わせて、練り香水。きっとそんなに主張していないのであろうそれに、けれど馴染んでしまったように思うのは、それだけ近くにいたということになるのだろうか。
  呼びかけたまま、背を向け広間の端まで足を進めた男は、何を言うでもなく黙って飾り柵の外、エスタッドの街並みを見下ろしている。
  斜め後ろで、彼女を押し出したアウグスタが静かに戻る気配がした。振り向いて呼び止めかけ、どう呼び止めたものか考えあぐねて――結局は背中を見送る。
  少し迷って、それからチャトラは同じように男の傍らに並んだ。
  息を飲んだ。
  夕暮れの気配の立ち込めてきた街並みが一望できる、そこは想像を絶する一角だった。
  灯りが溢れている。そう思った。
  足元というにははるかに高い、エスタッド皇都の夕餉支度に向かう灯り。一つ一つは小さなかがり火だろうに、こうして見るとまるで橙色の光の海である。
 「な……に、ここ」
  見たこともない景色に膝が震える。そのままへたり込むようにしゃがんだ。
  これは。
  これは、人が見てもよい景色なのだろうか。
 「――宮内ではここが割と気に入りの場所でね。特にこの時間は良い。お前に見せてやろうと思った」
  彼女の反応に満足したのか、見下ろしてくる皇帝の淡々とした声が、麻痺したような頭に響く。
 「はー……、」
 「圧巻だろう?」
 「……いやもう……圧巻っていうかなんて言うか……神様が空から見る感じってこんな感じかなって思うよ」
 「神、か」
  ――面白い発想をするね。
  くく、と喉を鳴らして皇帝は低く笑った。
 「久しぶりに――お前を見たような気がする」
  右手をへたり込んだチャトラの頭に乗せた皇帝は、最後に見た姿から変化がない。頭を掻き撫ぜられ、むっとしてチャトラは男を見上げた。彼に、時間が流れた気配がない。変化があるとすればそれは、纏った衣装の色形だけだ。
  部屋に閉じ込められ、あまつさえ足枷をはめられて、何をするでもなくただ緩慢に時間が経過してゆくのを願った彼女と比べて、あまりにも。
 「ひとつき」
 「――ぅん?」
 「ひとつき、放置されてたんだけど」
  この際不満が混じるのは許してほしいと思う。
 「――雑務が忙しくてね」
 「雑務……」
 「片づけるのに手間取って、なかなかお前にかまけてやれなかった」
 「呼んだってことはそれなりに片付いたんだ?」
 「ひとまずは」
 「そう」
  不満の声音に男が気付いたのかどうか。気怠く返されて、この一か月分の鬱憤がチャトラにどっと押し寄せた。「飼う」、だとかそう言って、男はチャトラをこの都へ連れてきたはずだ。未だにその言い回しにかなりの抵抗を感じるが、それには目をつぶるとしても、目の届く範囲に生活させることが気遣いと言う物なのではないか。
  男が不調とおもったからこそ、自分は最大限譲歩しておとなしくしていたし、あまりと言えばあまりなセヴィニアの処置にもぐっと堪えて待ったのだ。
  何のために自分はあの部屋に閉じ込められていたのか。ウマの合わない補佐官に毎日イビられ、枷をはめられて尚、泣きも喚きもしなかった堪忍は、いったい何だったのだ。男に八つ当たるのは間違っている。それは判る、判っていたけれど、吐き出し口が他にない。
 「そういうの、釣った魚にエサをやらないって言うんだぜ」
  チャトラを庇護したことも、そのまま皇都に連れ帰ってきたことも、思えば男の気まぐれだ。その気まぐれを判った上で、自分は男に借りを返そうと誓ったのだ。口に出してはいない。男に知る由もない。
  けれど言わずにいられなかった。
 「――猫?」
  男が呟く声が余計に耳障りだった。
 「オレ。オレ、アンタの具合が悪いって思ったから。思ったから、じゃあ少しは大人しくしといてやろうとか思ったわけよ」
 「――」
 「オレがどういう状況にひと月置かれてたのか、アンタ理解してる?」
 「さぁ」
  わからない。
  真顔でそう返されてますますいらだちが募る。
 「あのさぁ」
  睨みつけるように見上げて、チャトラは置かれていた右手を振り払う。そもそも気の食わない男だと思っていたし、自分が「ヒト」扱いされていないことも今では判っていたが、
 「オレ、アンタのおもちゃじゃない」
  吐き捨てた。
  言わないと気が済まないと思った。
 「アンタの気が向いたときに、箱から出して眺めるだけのつもりなら他を当たれよ。なんだったら最初に戻って役人に突き出したっていい。百叩かれておっぽり出される方が、ここにいるよりなんぼかマシだよ」
  腑に落ちない表情の男に腹が立つ。
  きっと男にいくら口が酸くまで説明しても、この感情は伝わらない。
  なぜなら、男と自分の世界は遠く隔たれているからだ。
「オレはアンタの気まぐれに付き合わされるだなんてまっぴらごめんだ」
  本当はひどく心細かった。
  部屋から出られない生活があと幾日続くのか、先の読めない毎日は不安だった。
 「――猫?」
  不思議そうにチャトラを覗き込む男の取り澄ました顔が嫌だ。膝に顔を半分うずめてドス黒い感情をわだかまらせている自分がいっそ哀れに思える。いっそ、この顔が苦痛か恐怖に彩られたらせいせいするのに。醜くゆがむ顔を見られたくなくてそむけた拍子に、男の眉根が寄せられて、
「……陛下!」
  膝を衝くのが視界に入った。
  苦痛を堪えた表情なのだと思い当たるのに数瞬かかる。
  男が自身の胸元をつかんでいた。
  近寄りかけたディクスを片手で制して、
 「大事ない」
  男は視線を上げ、ゆっくりと首を振る。
 「猫」
 「え?……え、アンタ、マジに具合、悪……」
  演技ではないだろう。額に細かな汗が浮いていた。
  狼狽えて尻を浮かせたチャトラは、ぐいと腕を引かれて抑え込まれた。
 「――セヴィニアに、何かされたのかね?」
  有無を言わせない口調と、掬い上げる眼光に射止められる。
 「いや、なにも、されてな……」
 「――跡がついている」
  彼女の左足首を不意につかんで、皇帝の口調が変わる。
  殺気が籠っている。
 「あ?」
  セヴィニアが用意した着衣はどれもチャトラはとことん気に入らなくて、意固地になって、一月ほぼ同じ装いをしていた。フリルの付いたコルセットを締めるくらいなら、寝間着の方がよっぽどマシだ。
  けれどさすがに、皇帝へまみえるのに寝間着一枚もどうかと思って、都に来た時に着ていた上着を羽織っていたのだが、皇都の暑さにうんざりして下履きのタイツは放り出していた。
  素足に隠しようのない枷の跡。
  暴れまわったわけではないので、擦り傷その他はできなかったけれど、それでも一月近くも同じ場所にはめていれば鬱血した跡が黒々と輪になる。
 「誰が――やったのかな」
 「いや、これは、別に跡とかじゃねぇし」
  セヴィニア補佐官を庇うつもりは毛頭ない。
  毛頭なかったが、若干低くなった男の声色に交じる不穏さが、妙に気触りだ。慌てて足を引き戻し、隠せもしないのに上着の裾を伸ばして隠そうとした。
 「――チャトラ」
  語尾に含む息をわずかに抜いて皇帝が彼女を呼んだ。
 「私のものなのにね」
  足首の跡を撫ぜた指先が異様に白い。血の通っている気のしないそれが触れた個所から冷えていくようだ。
  氷のようだと思った。
 「冷てぇよ」
 「――お前はあたたかいね」
  男は薄く笑って彼女を見ている。薄茶色の瞳に見られることが妙に落ち着かなくて、そのまま黙ってチャトラは街を見下ろした。内郭ばかりか城壁、さらにはその外に連なる外郭まで遠望できて、その向こうに草原地帯や山がある。山の上にはいくつもの城塞が見えて、こちらからはさすがに見えなかったけれど、きっとその向こうにも城塞があるに違いない。皇都の真ん中のここは、ぐるりと見回せる大きな監視台のようなものだ。
  うまく話をはぐらかされたような気がしてチャトラは顔をしかめる。
  アンタのものになったつもりはない、だとか言い返すのも大人気ない気がして、仕方なく彼女は大きく溜息をついた。
 「……とりあえずさ」
 「うん?」
 「閉じ込められるのはごめんだ。あとなんか仕事させろ」
  精一杯の譲歩だ。これで男が何か訳の判らないごね方をしたら、本気でこの高みから突き落としてやろうと思う。
  ……そのあと、どうなるかだなんて構うものか。
 「――仕事?」
  怪訝な表情で繰り返した男にああ、とチャトラはぞんざいに頷いた。
 「タダメシ食らうのは性に合わねぇんだよ」
 「ふむ――」
  チャトラの言葉に男は唇に指を当て若干考え込む。痛みが去ったのだろうか。血の気の引きかけていた唇に色が戻っている。
  唇の臙脂に見惚れそうになって、チャトラは慌てて目を逸らした。
 「何ができる」
 「できることなら何でも」
 「ほう」
  であったから、次に尋ねた男へ返した言葉は随分大盤振る舞いなものになった。
  それは勇ましいな。言って男が薄く笑う。
 「では、お前に最初の仕事を与えようか」
 「いいよ」
 「浴場へついてきなさい」
 「あ?……よくじょう?」
  聞いた覚えのない単語だった。一瞬詰まり、首を捻った彼女に思い当たったのか、ああ、と男は言いなおす。
 「風呂場だ」
 「風呂……」
  呟きながら難しい顔をしているのだろうと、チャトラは自分のことながら思った、苦虫を潰した顔になっているのかもしれない。風呂は嫌いだ。大嫌いだ。
 「入らなくたって死ぬもんじゃなし」
  それぐらいには思っている。
  綺麗になるだとかさっぱりするだとか、花街の女たちでさえ口にしたが、チャトラは何より水に濡れるのが嫌いだ。雨も嫌だ。水浴びも嫌だ。理由はない。生理的なものである。
  実のところこのひと月で湯浴みをした記憶がほとんどない。もしかすると自分は今、凄まじい臭いを放っているのかもしれない。
 「臭い」
  セヴィニアが吐き捨てた言葉がよみがえり、チャトラは思わず片腕を上げてくんくんと鼻を蠢かせた。
  しかし。
  臭うことと、風呂に入ることは、チャトラの中ではまるで別の次元で。
  ……しかし。
  できることなら何でも、そう胸を叩いた手前、
 「風呂が嫌いだからそれはできない」
  そう断ることは、チャトラのプライドが許さなかった。というより男に弱味を見せるのが単純に癪に障る。
 「いい、けど」
  逡巡が顔に出ていたのだろう。様子を伺っていた男が揶揄うように、くつくつと喉を震わせている。
 「……んだよ」
 「いや」
  ぎろりと腹立ちまぎれに睨みつけると、笑いを収めた男は、ディクスを伴ってチャトラの先に立って歩き出した。
  やっぱり一発殴ろうかな。
  不穏な考えがふと頭をよぎったが、先に胸元を押さえていたことを思い返した。平気な素振りをしているけれど、男はきっとあまり具合がよくないのだ。
  頬が、若干そげていた。
  もしかすると、本当にこのひと月寝付いていたのかもしれない。聞いてみたい気もしたけれど、男が素直に答えるとも思えなくて、やめた。
  はぐらかされて苛立つのは自分だ。
 「……アンタさぁ、いつもこんな風景眺めてんの」
  仕方がないので細い背中の後を追いながら、取り留めのないことをチャトラは尋ねた。
  男の足取りはゆっくりとしたものだったので、小柄な彼女でも十分付いていくことができる。
 「――うん?」
 「楽しい?」
 「――……どうかな」
 「オレさ。アンタの『皇帝』っていう意味ですら、ここに来るまでよく判らなくってさ。今でもよく判ってないんだけど。なんでアンタが個人的にそんなに超然としているのかっていうか、人間離れしているっていうか……ぶっちゃけ、ズレちゃってるのか、すごい不思議でならなかったんだよな」
 「――」
 「でもなんとなく今判ったっていうか……こんな高みから眺めてたら、感覚違うのも当然だよな」
 「――」
 「下界を見下ろしてアンタはどんな気分でいるのか。アンタのいろんなことを知ったら、アンタのそのある種のものすごい感覚にもついていけるのかな」
 「さぁ」
  どうだろう。
  男が笑う。
  笑いを背中越しに感じて、チャトラは長々と息を吐いた。
  今、自分と男との感じている世界は、きっとこことかがり火ほどの差があるのだ。下にいる自分は、上はどんなものなのかと見上げることはできる。想像することもできる。立っている誰かを遠目で見ることもできるかもしれない。
  けれど最上から見下ろす眼には。下にうごめく一つ一つの灯りを手のひらに掬い上げるには、あまりにもたくさん見えすぎて。
 「アンタの目で世界を見たらどんな見え方をするんだろうな」
 「――識れば良い」
 「え?」
  ぽつと呟いたチャトラの言葉を拾って男が答える。
 「拒みはしない。上がりたいのなら――この高みまで上がってきなさい」
  面白がっている声音でもなく、不機嫌がった声音でもなく。男が静かに言った。
 「そっか」
  まるで他人事のようにチャトラは聞いて、
 「そうだな」
  頷いた。


 「わ……ぶっ」
  風呂と告げた瞬間から難しい顔をしていた。好きではないのだろうなとすぐに察しがついた。そういえば一月前、屋敷から皇都へ戻る中途で何度か水浴みをした時も、妙に腰が引けていた。今になって思えば、嫌だったのだ。あのどれもこれも。
  水が嫌いなのか、怖いのか知らない。知るつもりも特になかった。
  と言って、やめるかと言う気もなかった。
  困惑する顔を見るのは単純に楽しい。
  縁に立って恐る恐る、片足を湯に漬けかけた首根を掴んで、思い切り浴槽へ向かって突き飛ばす。小さな悲鳴と、派手な水飛沫を上げて、痩せぎすな体が頭から湯に突っ込んだ。
  ひどい恰好をしていた。
  よくアウグスタ補佐官は、彼女をこのまま連れてきたものだと思う。並みの神経ならば、皇帝自らが呼び出しをかけた娘を、着飾りどころか清拭の一つもせず向い合せようとは思わない。それとも、もしかすると補佐官はそれも考慮したうえで、男へ何かの意趣返しにチャトラをそのまま連れ出したのかもしれない。
  見たことのある服装だと思い、そうして自分がひと月ばかり寝込んでチャトラと離れていたことを思う。とすると今彼女が身に着けているものは、自分と最後に別れた時と同じものだということだ。人の着衣に文句をつける気もないが、垢じみた夜着を脱がしてみたい気になった。他意はない。ただ、洗いあげたらきっともう少し良い見目になると思っただけだ。
  浴場と表現するのが一番しっくりするそこは、広さだけは十分兼ね備えていて、縦横に四、五尋はあるだろうか。中央部分は割と長身な男ですら、立った姿勢で顎の下まで湯嵩が来る。投げ込まれた彼女は男の胸のあたりまでの背丈しかないので、きっと水面は頭上のはずだ。
  下女が湯面へ花を散らしている。今日の散らされていた花は指で輪を作ったほどの黄色小さな花で、それが丁度、咽せながら顔をだし、縁へ手をかけたチャトラの頭にへばりついていた。干し草の色をしている頭にぽつぽつと花が咲いたようで妙におかしい。
  笑いをかみ殺し、縁に腰掛け、咳き込み続けているチャトラの身体を浴衣が濡れるのも構わず引き上げる。壁際へ控えた数人に視線を流すと、心得顔の下女たちが容赦なく、手にした手拭いでチャトラを擦り始めた。
 「や、め……!」
  暴れだす気配がしたので、
 「――『できることなら何でも』?」
  四肢を突っ張らせようと力のこもった瞬間を見越して、彼女の耳元へ囁いてやる。思った通りチャトラは完全に硬直して、けれど売り言葉に買い言葉だ。抵抗をやめた。
  低く唸りながら、それでも素直に泡まみれになっている。
  歯軋りしている気配を感じて、男は殺し切れずに声を立てて笑った。
 「……テメェ……ッ」
  笑いにとうとう堪えきれなくなったのか、するりと下女どもの腕の中から猫は抜け出し、仕返しとばかりに男の襟元を掴む。もとよりゆるく腰紐を結んだだけのそれは、弾みでずる、とはだけて、
 「え、あ」
  瞬時にチャトラが狼狽えるのが判る。
  膝を衝いた視線は、男の胸元から胴回りへと向けられていた。醜く引き攣れた傷痕に気付いたのだろう。
 「あ……、」
  ものすごくびっくりした。
  そうとしか彼女を表現できない。もともと吊り気味の瞳を驚きで丸くして、口もぽかんと開いている。彼女の視線を追うように男も己の腹部を眺めて、
  ふ、と。自嘲した。
  左の腕の付け根から、袈裟懸けに右の腰骨まで太いものが一本。細かなものが数本。
  見下ろした己の腰骨が切り裂かれた傷口から白く飛び出して見えたことを、今でも思い出す。あれは結構痛かったな、だとか男は思い、それから凝視したままのチャトラへ目を移した。
 「――猫?」
 「アンタこれ……。……どうしたの」
  浴槽へ突き落されたことも泡まみれなことも、驚きで掻き消えてしまったらしい。真ん丸な目が男の顔を映していた。
 「どう――したのだったか」
  恍けた訳ではない。実際、夢のような出来事だったのだ。
  回廊を歩いている時だったと記憶している。どうしても外せない急用ができたと、その日ディクスはいなかった。何に置いても仕事人間の彼が外せない用事とは何か、今になって思えば、その不在ですらおそらく巧妙に仕組まれたことだったのだと思う。
  たまたま、護衛が交代する時間で、周りに人気は無かった。執務室で代わりの兵士を待ってもよかったのだけれど、そうして待ち惚けを食うことが皇帝はあまり好きではなかったから、一人で部屋の外に出た。まるで無人と言う訳でもなく、あちらこちらにかがり火と不寝番の見回り兵が行きつ戻りつしていたので、まさか突然石柱の陰から何かが飛び出してくるとは思わなかった。
  衝撃は一瞬だった。
  鋭く焼けるような痛みが体を走った。見下ろす。首を狙った手元が狂ったのか、未然に己が避けたのか。斜めに一閃、切り裂かれていた。喘いで膝を衝く。右手で胸元を押さえた瞬間、返し刀でもう一度。今度ははっきりと首筋を狙う白刃が見えた。
  無意識に首を庇って左腕が上がった。ごきり。脳髄に響く嫌な音が不快で顔を歪めた。自分の身体がバランスを崩すのが判る。左半身が唐突に頼りなくなって、身体を捻りざま床に傾ぎ、倒れる。
  目の前に、よく見知った塊が見えた。
  瞬きひとつした後に、それが己の腕であることに気が付いた。
  意味もなく、その腕に向かって手を伸ばしていた。拾わなければ、だとか非常識な思いが駆け抜ける。
  拾えたらどうしていたのだろう。
  そこでようやく、異常に気付いた見回りの兵士が、何事か叫びながら走り寄る気配がした。剣戟と苦鳴。狂った哄笑と断末魔の血泡。
  息絶えた襲撃者の躯の横に、同時に数本の腕に押さえつけられた己の体。掲げられたかがり火。安否を気遣う言葉とともに覗き込んだ護衛兵士が、たちまち驚愕に顔を歪めるのが見えた。これは。誰かが呻く。自身は既に一本失った状態であるというのに、多数の腕が己に群がる様子に、こんな時だというのに可笑しかった。それのうちの一本をくれ。蹲った体を無理やり仰向かされて、鉄錆の臭いを不快に思う。口中に丸めた布が押し込まれた。直後に絶叫。
  その叫びが己の喉から迸ったものだということに、男は愕然とする。同じ勢いで、肉の焼け焦げた臭気が鼻を衝いた。
  飛沫を上げる左腕の付け根を、誰かが手にした焔で焼いたのだ。緊急の止血に間違った処置ではないそれは、けれど酷い苦痛を伴う。叫びはたちまち擦れたものになり、噴き出す汗。遅れて襲い掛かる激痛。のたうち回る体を尚も幾本もの腕が押さえつけて、早くしろと怒鳴る声がする。
  ――腹は焼けないから。
  ああそうだ、骨が見えているものな。縫合しなければいけないのだろうな。
  他人事のように頭の片隅が己に囁く。
  これは駄目だ。誰かがまた囁いた。
  これはもう助からない。
  莫迦、と低い怒鳴りと平手の音。
  ――そうかもう助からないのか。
  そうだな。心臓がきっと保つまいよ。
  大量に失った血液のせいか、全身が細かく震えて光がちらつく。瞼を上げるのも億劫だ。
  それもいいかもしれない、そうも思った。こうして呆気なく死んでゆくのもまた良い。できればいつまでも冷静でいるこの意識が、先に途切れてくれるとより良いのだが。
 「……痛ェの?」
  怖々伸ばした指先で、腹部の引き攣れを撫ぜたチャトラの声で皇帝は一挙に我に返る。
 「ああ――、」
 「痛ェ……よな」
 「――痛くない。痛くはないよ」
  そう。もう痛みはない。時折引き攣れ疼こうともそれは、「あの瞬間」に比べたら、どうと言うことはないのだ。
  あの、劈くような痛みよりは。
 「アンタは」
  言いかけてチャトラが一瞬何かを堪えた顔になり、それからゆっくりと胸に顔を寄せる。
 「猫――?」
  彼女の小さな額が己の傷跡に押し当てられていた。
 「……アンタは、強いね」
  唖然とした男の耳に、ぷちぷちとチャトラの体にまとわりつく泡粒の弾ける音が、妙に響く。
  額の当たったそこから、高体温のチャトラの熱が滲みてゆくような印象を受ける。同じように体内でじんわりと何か温かなものが広がってゆく気がして、
 「うわッ」
  気が付くともう一度、チャトラを浴槽へ放り払っていた。不快ではない。けれど愉快でもなかった。これ以上己に触れられることを男は好まない。踏み込まれる――浸食されてしまう。
  なに、に?
 「……っにすんだよテメェ!」
  不意打ちだったので鼻から水でも入ったか、顔を出したチャトラが涙と鼻水をいっぺんに垂れ流しながら喚いた。
 「ちょっと見直したと思ったらコレかよ!」
  鼻をすする仕草の彼女の前に、ぐいと手拭いを差し出す。のけぞったチャトラがなんだよ、と唸る。
 「背を流しなさい」
 「はぁッ?」
 「お前の最初の『仕事』だ。背を流しなさい」
  言われてそれでも反論が見つからなかったのだろう。
  噛み付きそうな顔をしたたチャトラは舌打ちをした後に不承不承頷き、浴槽から体を持ち上げた。


  そんな相手と食卓を挟んでいる。
  夕食を一緒に取るかと尋ねたら、割と素直についてきた。嫌だ、だとかアンタの顔なんざ見たくもねぇ、だとか。さんざんごねるかと思っていたので、意外だったのも事実だ。

 「……ああもう!」

  食前酒は、薬膳効果のあるもの。飲みなれたそれは薬草の臭い芬々たるもので、それを打ち消すための甘ったるさが、飲みにくさを倍増させていると思う。
  向い合せた遠い対面の席で、グラスに口を付けたチャトラが瞬間何とも言えない顔をしたのが判った。あれは、吐き出そうかそのまま飲み込もうか悩んだ顔だ。
  男にとっては日常飲みなれたもので、干薬草独特の臭気もさほど気にならない。澄ました顔でグラスを乾した。チャトラがちら、とこちらを伺うのが判った。
  結局飲み込むことにしたらしい。
  ごくり、と音がしそうなほどゆっくりと嚥下される様子が見えて、それからますます苦渋い顔をしていた。笑いをかみ殺すのに苦労する。
  男が卓上にグラスを戻した仕草が合図で、次の前菜が計ったように運ばれる。今日は朝食に少し手を付けた程度で、昼は何も取る気になれず、こうして夕餉を前にした訳なのだが、やはり食欲は湧かなかった。溜息を吐いてほんの愛想程度に、野菜を突いてフォークを下す。控えた侍従が腰を折り、前菜が下げられ、次の皿が運ばれた。
  あ、だとか言う声がして、遥か向かいに座ったチャトラが何かを言いかけ、言葉を飲み込む。
 「どうしたのかな」
 「……なんでもない」
  悔しいような訴えるような微妙な表情は、初めて見る部類だ。何か知らない作法でもあったか、そう思いながらそれ以上尋ねることはせず、次々と運ばれる皿を前にし、ちらと見やり口にするかしないか。その間も何とも言えない微妙な表情を崩さないまま、チャトラはフォークを握っている。口に合わない物でもあったのだろうか。尋ねようとしたが億劫だった。
  皇帝自身も、こうした食事は思えば久しぶりのことだ。それまで寝室で半分横になった状態で、運ばれた軽食を摘まんでいた。
  座っているだけで草臥れる。
  肘を衝いて思わずまた溜息を吐いたところに、様子を伺っていた給仕がすっと白葡萄酒を差し出した。グラスを受け取り一口含んで、差し戻す。畏まって受け取った給仕が、グラスを下げたところに冒頭のチャトラの静けさを壊した声だった。
 「猫?」
 「アンタ遠すぎるんだよ!」
  苦い顔でチャトラがそう吐き捨て立ち上ると、椅子を抱えて男の斜め向かい――左方向へ移動し、音を立てて座った。
 「あと。早ェよ!」
 「早い……?」
  腑に落ちなくて首を傾げると、あのな。苛々とした所作でコツコツとテーブルの角を叩き、苛立ちを滲ませた瞳で、こちらを見上げてくる。
  彼女の行動に驚いた給仕が、彼女を咎めようと足を踏み出したところで、
  ――良い。
  男は無言の視線で止めた。
 「あのさ。ちなみに聞くけど、アンタいつもメシ食う時は一人?」
 「ああ――一人が多い、かな」
  己の役職上、誰それとの晩餐、だとかそういう括りの食事もかなりの回数であったが、チャトラが聞いているのはそう言うことではないのだろう。
 「いつから一人?」
 「いつから――?」
  聞かれて思わず考え込む。そもそもそう言った意味で「食事をした」と言うのならば、
 「物心ついた時からではないかな」
  誰かと食卓を囲んだ記憶などない。
 「は?」
 「物心ついた時から一人」
 「あー……そう」
  なるほど、だとか一人合点して頷くチャトラに、猫?問いかけると、がりと頭を掻いた彼女が嘆息する。
 「私の――食事作法のどこかに問題があったかな」
 「大アリだよ。……あのな。どういうしきたりか知らねぇけど、アンタのペースでメシが運ばれてくんの」
 「ふむ」
 「運ばれてくるのはいいよ。運ばれてくるのはいいけど、おんなじ、アンタのペースで皿が下げられるんだよ!」
 「ふむ……?」
 「小食なのか節食なのかなんなのか知んねぇけど!アンタがフォーク置いちまうと、オレがまだ食ってる途中でも、オレの分まで皿下げられちゃうんだよ!」
  判れよ、眉をしかめるチャトラの顔を見て事情を呑み込んだ皇帝は、思わず口の端を上げて喉を震わせた。
 「……笑ってんじゃねぇ」
 「なるほど」
  先ほどからの、何か言いたそうな微妙な表情の原因を理解する。確かに自分は、遠い向かいの相手の食事状況など目に入れてすらいなかった。
  と言うより、そもそもそうして気遣う相手もいなかったのだ。
  どこそこの大使だとか将軍などと言う相手との食事は、食事ではなく歓談交じりの腹の探り合いで、相手も同じように気負ってきている。正味皿の上の様子を気にしている余裕はない。
  あれは、食べ損ねて困った顔だったのだ。
 「お前が、満足するまで私は待っていたら良いのかな」
 「待ってなくていいからアンタもちゃんと食え」
  口にする少なさを見咎められていたらしい。食欲が全く湧かないのだが、言って苦笑う男にチャトラは眉をひそめている。
 「お前は元気だね」
 「元気っつーかな……食えるときに食っとかないと、次いつ腹いっぱいになれるかわからないだろ」
 「なるほど」
 「なるほど、って。つか、アンタ腹空かして倒れたりしたこと、ないだろ」
 「いや――」
 「……あんの?」
 「いや。そもそも腹を空かす感覚が今一つ、掴めない」
 「……」
  これだよ。
  がっくりと項垂れてチャトラがぼやいた。
 「アンタとオレの間に、ものすッげぇ溝があるってのだけは判った」
 「なるほど」
  微かに苦笑したところに主菜が卓上に並べられて、ちらりと見やったチャトラの目が、途端にきらきら輝くのが男からも見て取れた。本当に見ていて飽きない生き物だ。きっと、掛け値なしに食べることが好きなのだと思う。
 「存分に食べると良い」
 「アンタは?」
 「私は――これで相伴しようか」
  顔を向けると心得顔の給仕が先刻と同じように、よく磨かれたグラスに葡萄酒を少し注ごうとするのが見え、
 「――そのまま」
 「……はッ……?」
 「そのままで良い」
  常とは違う男の要求に、戸惑い気味に腰を折る給仕から瓶とグラスを二つ受け取って、
 「飲むかね?」
 「うん」
  岩塩と香草焼きの魚に舌鼓を打っているチャトラにグラスの一つを差し出した。受け取った彼女はぐいと一気にグラスを呷り、美味いな。目を細めた。
 「アンタも食いなよ」
  うめぇよ。
  鼻の頭に胡椒の粒を付けてチャトラがうっとりと笑った。
  ああ、本当に食べることが好きなのだ。
  しかめっ面も困惑顔も正直見ていて飽きないが、こうして満足そうに頬張る顔も悪くはない。そそられて男もフォークを手に取る。一切れ切り分けて口に運んだ。
 「な?」
 「――悪くない」
  口にしたそれは妙に美味かった。


 「何ここ」
  居室にいざない、興味津々付いてきたチャトラが最初に部屋へ足を踏み入れた瞬間、弾けるように笑い出した。それが嘲笑や何か含んだものではなく、掛け値なしに可笑しくて笑ったことに声色で気づいた。笑い出す要素が思いつかなくて、男は瞬く。
 「私室――なのだが」
 「ししつ」
  笑いすぎて苦しかったのか目尻の涙を拭っていた。
 「ベッドに天井がついてるってどういうこと」
 「――ああ、」
  合点がいって男は頬を緩めた。チャトラは天蓋付きのベッドと言う物をおそらく初めて見たのだ。
 「天井の下に天井って、ムダ以外のなにモンでもねぇだろ。すげぇな」
  そういった物だろうか。男が首を傾げると、はー、と感心した様子のチャトラが天蓋から下がった紗を引いたり、細かに刺繍された上掛けを撫ぜたりしていた。まだ肩口が笑っている。
  それから不意に振り返る。
 「で?」
 「ぅん?」
 「寝室に連れ込んで、何かすんの?」
 「――なにか――とは」
 「『寝』ろ、とかそういう流れなのかなと思って」
  片頬を上げて挑むようにこちらを見ているが、思ったより開き直っている。この場合の彼女が口にした「寝る」とは、睡眠の意味ではないのだろうなと男はぼんやりと思った。そう言うつもりで誘った訳では全くなかったのだが。
 「期待されているなら応えねばならないかな」
 「期待してねぇよ」
  ゆると近付いて顎を取ると、途端にさざ波のように緊張が走った。あの北の街屋敷での様子と言い、チャトラが極端に「そうした」接触に過敏に反応するのは判っている。
  何故なのかは知らない。
 「だが残念ながらお前を抱くつもりはないよ」
 「へぇ」
  探るように見上げる緑青の目が、不安に揺れていた。抉り出して飾ったら綺麗かもしれない。口に含んだらどんな味がするだろう。瞼に指を這わせて男は薄く笑う。
 「何より私が。保たない」
 「……どういうこと?」
 「『ここ』が」
  そう言って胸の中心から少し左にそれた個所を指し示すと、ああ、とチャトラが理解した。おそらく補佐官あたりにでも、己の身体のことを聞かされていたに違いない。
 「穴が開いてるって聞いた」
 「的を射ているね」
  そう。己の臓器はあまりにも欠陥品で、こうして日常生活を惰性で過ごすにも何かと支障が出る。
  それが煩わしい。
 「そうして生憎、腹上死する趣味もない」
 「……あ、そう」
  興味を失ったのか、チャトラがするりと男の腕の中から抜け出す。そのまま部屋の中を見て回ることにしたらしい。壺に差された孔雀の羽を、つついて眺めている姿を視界の端で確認しながら、男は暖炉側に置かれた文机の上の羊皮紙の束を手にした。
 「それ、アンタの仕事?」
 「――そう。眠くなったら勝手に寝ていなさい」
  全てに目を通すにはまだかかりそうだから。頷いて見せるとふーん、と生返事。
 「なぁ」
 「うん」
 「オレの『仕事』は?」
  聞かれて男は僅かに視線を上げる。できることなら何でも、そう言っていた彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。
 「ここにいることが仕事だ」
 「……どういうこと?」
 「お前は私の身の回りの世話をすることになる」
 「アンタの世話?」
 「他の下女どもより役に立ちそうだ」
  答えながらその言い方には少し語弊があるなと、思った。
  正確にいうのならば、「他の下女どもより支障がない」が正しいのだろう。
  接近されることが不快ではない。それが何より重要だ。他の下女どもと何が違うのかとふと思い、媚を含む姿態かどうかなのだと今更ながら気が付いて、なるほど、と男は内心呟く。こちらを見やるチャトラを眺めなおした。簡単に言えば色気がないのだ。
  己の立場も地位も、男は十二分に理解している。臓器が悪いとはいえ、もし
 「皇帝の寵を受ける」
  下女ともなれば、一族すべてに恩恵が下る。宮内で働く女どもは、それなりに身元のはっきりとしたものが多いと聞く。どこそこの大臣の娘、だとかどこそこの将軍の遠縁の姪、だとか。
  彼女等が、何とかして皇帝の気を引く為に手を変え品を変え、接触を図ろうとするのが手に取るように判った。お家大事の命を受けて必死になっているのが判った。判るからこそ面倒臭かった。
  確かに、側に侍らすならばむさ苦しい男どもより女の方が好ましい。年老いたものよりは若いものが良い。だがその程度だ。それより踏み込んでの興味はなかった。
  とは言え、皇帝たりとも列記とした男である訳で、体がここまで酷く億劫になるより以前は、媚態を振りまく女どもに手を出したことも一度二度ではない。十代前半はそれなりに無茶をした。年上の女たちの手解きのままに肌に溺れた。
  何より死ぬことが怖かった。女の肌に触れている時だけ恐怖を忘れた。
  そう。あの頃はまだきっと「明日」だとか言う物に、もう少し希望を抱いていたのだ。
  いまはもう何も見えない。
 「オレ、あの部屋に戻らなくていいの?」
 「この部屋でよいよ」
 「……そっか」
  曖昧に頷きながら、チャトラが物珍しそうに、じっと男の蔵書の背表紙を眺めていることに気が付いた。読んでも良いと告げると、困ったように頬を掻く。
 「字を識らない」
  そう言う。
  成程、と男は頷いて、それからチャトラを傍らへ手招きした。インクを付けたペンを走らせ、羊皮紙に単語を書き付ける。それは何だと尋ねるのへ、やはりこれすらも知らないかと内心呟いた。
 「お前の名だ」
 「オレの」
  興味津々に手元を無防備に覗き込んでくる姿に、しばしば男へ向ける敵対心は伺えない。興味が不振を上回ったものらしい。乾燥気味の金茶の髪が石鹸の匂いを漂わせている。
 「読み書きができるようになりたいかね」
 「なりたい」
 「覚える気があるなら、手解きしてやらなくもない」
 「ほんと」
  弾かれたように見上げてくる視線は真っ直ぐだ。誰もこんな目で男を覗き込まない。その目につい唆された。
 「が――、お前の日常の『仕事』をこなした上での話だ。楽なことではないが」
 「やる」
 「――そうか」
  口の端で笑って、羊皮紙をペンを差し出した。書き取れと言うと素直に受け取り、暖炉前の床に直に座り込む。毛足の長い絨毯。暖かくて心地良いのだろうと思った。
  ちゃ、と、ら。
  ぶつぶつと繰り返し呟きながら男の書いた文字を眺めては書き眺めては書き。その姿を見止めた後、再び男は認可待ちの書類へ目を落とす。書き取る彼女に告げる気もないが、実はここひと月ろくに仕事もこなせていなかった。寝込んでいたのは本当だ。三補佐が支えたと言っても限界がある。執務室の机の上は恐ろしい状態になっているに違いない。見たいような、見たくないような複雑な気分だ。
  暫くの間、暖炉の薪の爆ぜる音と小さく呟く猫の声、時折己がめくる紙擦れ。
  北方のトルエとの協定がようやく地固まりつつある、との報告。各城塞の守り人からの諸報告。小さな情報から大事に至った例も少なくない。全ての事象を頭に入れておく必要性があった。
  小国のトルエの地それ自体は、エスタッドの国力と比ぶべくもないが、彼の国の公女とラグリア教団の結びつきは強力だ。歴代エスタッド皇と都におけるラグリア教団との確執を思うに、トルエのそれとない取り成しは正直有難い。
  そういえば彼の国の公女は健勝であろうか。
  賢しい漆黒の瞳を思う。うねる様な黒髪と白磁の肌。大国であるエスタッドに一歩も怯まず、媚びず、隙あらば足元を掬おうと虎視眈々とするその姿勢が気に入った。書簡でのやり取りはともかく、恐らく二度と会うことはない艶麗な少女を思う。
  それから、アルカナ関連の報告。
  王国としての形は既に数年前に瓦解しているものの、その残党は恐ろしくしぶとい。国家の再興だとか殊勝な口実を作って、正義を旗に頭数を集めては未だに小競り合いを繰り返していた。直ぐにでも対応しなければいけないような目立った動きは、今のところ成されていないようだが、注意しておくに越したことはない。そもそも国家としての形を失っただけで、まだ一部の者らはエスタッドの所領地になったことを認めていない。そろそろ本格的な「検地」と言う名の新支配を強める必要があるかもしれない。そう思い、また仕事が増えるなと思って男は嘆息した。
  さらに南方。これらの諸国がまた、ちっとも政治が安定しない。新しい領主が立ったと思ったら次の報告では既に墓の下に送られていたりする。国と言う物の形が定まらないと、その施政者との取引もできない。協定ひとつ結べない状態で、では放置しておいてもよいかと言えば、彼らはお構いなしに境界線を浸食してくる。防衛線を強化せねばならず、侵攻するにはアルカナとの国勢が安定していない。背後を衝かれては元も子もなく、非常に厄介だった。
  愛国心がある訳ではない。仕事に誠実な訳でもない。
  ただ、己の父や祖父が余りにも国勢を顧みず、国と言う屋台骨がぐらついていたのへ、見兼ねて好奇心で手を出した。補強すれば何とかなるのではないかと思った。実際、いつ内戦や反乱が起こってもおかしくない状態まで、不満は膨らみ切っていたのだ。
  好奇心が仇となり、全ての厄介ごとが皇帝の元へ集まる仕様となった。そういう仕組みにしたのは自分だったのか、それとも周りの狐狸どもだったか。今ではもう判らない。
  いつか、腕に抱え切れないほどに全てを抱えて、その全てを一気に手放したらどうなるだろうかと思う。いっそ爽快かもしれない。試してみたい気もするが、今はまだその時期ではない。
  ふと。部屋の中が静かになった気がして顔を上げると、書き取りをしていたはずの猫が、暖炉の前で体を丸めてくうくうと寝息を立てていた。風呂に入れられ、腹もくちくなり、暖かい場所で睡魔が訪れたのだろう。
  膝を抱えているとまるで本当に猫の仔のようだ。椅子の背に掛けてあった毛織のショールを取り上げて、男は静かにチャトラの上に被せてやる。弾みで僅かにもぞもぞと身動きしたものの、暖かいそれは心地良かったのだろう。目を覚ます気配はなかった。
  ――こう無防備に寝てしまわれては、ちょっかいも出せないね。
  一人語散る。それから、書き取りをしていた羊皮紙に目をやって、男は忍び笑いを漏らした。まさか、本当に素直に書き取りの練習を始めると思わなかった。自分の名前くらいの文字の認識はできていると思っていた。戯れに書き留めた言葉を、彼女の名前の綴りだと告げれば直ぐに、憤りが返ってくると身構えていた。
  真っ直ぐに見つめてくる目に、実はこの文字はお前の名ではないと言いそびれた。起きたら訂正しよう。きっと真っ赤になって怒り狂うとは思うが。
  ペン軸の握り方も知らないチャトラの書き留めた文字は、あまりにも拙くて、しかもあちらこちら文字が抜けていたり逆さまであったり、あからさまに綴り違いもいくつもあった。それでも、同じ言葉が何度も何度も行を成して書き留められていると、まるで語りかけられているような気分になるのが不思議だ。
  拾い上げてふと文字をなぞる。
  それが呼ばれたことのない男の名であったとしても、誰も知らない話だ。


(20101111)
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最終更新:2011年07月11日 10:25