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 「わ……ぶっ」
  風呂と告げた瞬間から難しい顔をしていた。好きではないのだろうなとすぐに察しがついた。そういえば一月前、屋敷から皇都へ戻る中途で何度か水浴みをした時も、妙に腰が引けていた。今になって思えば、嫌だったのだ。あのどれもこれも。
  水が嫌いなのか、怖いのか知らない。知るつもりも特になかった。
  と言って、やめるかと言う気もなかった。
  困惑する顔を見るのは単純に楽しい。
  縁に立って恐る恐る、片足を湯に漬けかけた首根を掴んで、思い切り浴槽へ向かって突き飛ばす。小さな悲鳴と、派手な水飛沫を上げて、痩せぎすな体が頭から湯に突っ込んだ。
  ひどい恰好をしていた。
  よくアウグスタ補佐官は、彼女をこのまま連れてきたものだと思う。並みの神経ならば、皇帝自らが呼び出しをかけた娘を、着飾りどころか清拭の一つもせず向い合せようとは思わない。それとも、もしかすると補佐官はそれも考慮したうえで、男へ何かの意趣返しにチャトラをそのまま連れ出したのかもしれない。
  見たことのある服装だと思い、そうして自分がひと月ばかり寝込んでチャトラと離れていたことを思う。とすると今彼女が身に着けているものは、自分と最後に別れた時と同じものだということだ。人の着衣に文句をつける気もないが、垢じみた夜着を脱がしてみたい気になった。他意はない。ただ、洗いあげたらきっともう少し良い見目になると思っただけだ。
  浴場と表現するのが一番しっくりするそこは、広さだけは十分兼ね備えていて、縦横に四、五尋はあるだろうか。中央部分は割と長身な男ですら、立った姿勢で顎の下まで湯嵩が来る。投げ込まれた彼女は男の胸のあたりまでの背丈しかないので、きっと水面は頭上のはずだ。
  下女が湯面へ花を散らしている。今日の散らされていた花は指で輪を作ったほどの黄色小さな花で、それが丁度、咽せながら顔をだし、縁へ手をかけたチャトラの頭にへばりついていた。干し草の色をしている頭にぽつぽつと花が咲いたようで妙におかしい。
  笑いをかみ殺し、縁に腰掛け、咳き込み続けているチャトラの身体を浴衣が濡れるのも構わず引き上げる。壁際へ控えた数人に視線を流すと、心得顔の下女たちが容赦なく、手にした手拭いでチャトラを擦り始めた。
 「や、め……!」
暴れだす気配がしたので、
 「――『できることなら何でも』?」
  四肢を突っ張らせようと力のこもった瞬間を見越して、彼女の耳元へ囁いてやる。思った通りチャトラは完全に硬直して、けれど売り言葉に買い言葉だ。抵抗をやめた。
  低く唸りながら、それでも素直に泡まみれになっている。
  歯軋りしている気配を感じて、男は殺し切れずに声を立てて笑った。
 「……テメェ……ッ」
  笑いにとうとう堪えきれなくなったのか、するりと下女どもの腕の中から猫は抜け出し、仕返しとばかりに男の襟元を掴む。もとよりゆるく腰紐を結んだだけのそれは、弾みでずる、とはだけて、
 「え、あ」
  瞬時にチャトラが狼狽えるのが判る。
  膝を衝いた視線は、男の胸元から胴回りへと向けられていた。醜く引き攣れた傷痕に気付いたのだろう。
 「あ……、」
  ものすごくびっくりした。
  そうとしか彼女を表現できない。もともと吊り気味の瞳を驚きで丸くして、口もぽかんと開いている。彼女の視線を追うように男も己の腹部を眺めて、
  ふ、と。自嘲した。
  左の腕の付け根から、袈裟懸けに右の腰骨まで太いものが一本。細かなものが数本。
  見下ろした己の腰骨が切り裂かれた傷口から白く飛び出して見えたことを、今でも思い出す。あれは結構痛かったな、だとか男は思い、それから凝視したままのチャトラへ目を移した。
 「――猫?」
 「アンタこれ……。……どうしたの」
  浴槽へ突き落されたことも泡まみれなことも、驚きで掻き消えてしまったらしい。真ん丸な目が男の顔を映していた。
 「どう――したのだったか」
  恍けた訳ではない。実際、夢のような出来事だったのだ。
  回廊を歩いている時だったと記憶している。どうしても外せない急用ができたと、その日ディクスはいなかった。何に置いても仕事人間の彼が外せない用事とは何か、今になって思えば、その不在ですらおそらく巧妙に仕組まれたことだったのだと思う。
  たまたま、護衛が交代する時間で、周りに人気は無かった。執務室で代わりの兵士を待ってもよかったのだけれど、そうして待ち惚けを食うことが皇帝はあまり好きではなかったから、一人で部屋の外に出た。まるで無人と言う訳でもなく、あちらこちらにかがり火と不寝番の見回り兵が行きつ戻りつしていたので、まさか突然石柱の陰から何かが飛び出してくるとは思わなかった。
  衝撃は一瞬だった。
  鋭く焼けるような痛みが体を走った。見下ろす。首を狙った手元が狂ったのか、未然に己が避けたのか。斜めに一閃、切り裂かれていた。喘いで膝を衝く。右手で胸元を押さえた瞬間、返し刀でもう一度。今度ははっきりと首筋を狙う白刃が見えた。
  無意識に首を庇って左腕が上がった。ごきり。脳髄に響く嫌な音が不快で顔を歪めた。自分の身体がバランスを崩すのが判る。左半身が唐突に頼りなくなって、身体を捻りざま床に傾ぎ、倒れる。
目の前に、よく見知った塊が見えた。
  瞬きひとつした後に、それが己の腕であることに気が付いた。
  意味もなく、その腕に向かって手を伸ばしていた。拾わなければ、だとか非常識な思いが駆け抜ける。
  拾えたらどうしていたのだろう。
  そこでようやく、異常に気付いた見回りの兵士が、何事か叫びながら走り寄る気配がした。剣戟と苦鳴。狂った哄笑と断末魔の血泡。
  息絶えた襲撃者の躯の横に、同時に数本の腕に押さえつけられた己の体。掲げられたかがり火。安否を気遣う言葉とともに覗き込んだ護衛兵士が、たちまち驚愕に顔を歪めるのが見えた。これは。誰かが呻く。自身は既に一本失った状態であるというのに、多数の腕が己に群がる様子に、こんな時だというのに可笑しかった。それのうちの一本をくれ。蹲った体を無理やり仰向かされて、鉄錆の臭いを不快に思う。口中に丸めた布が押し込まれた。直後に絶叫。
  その叫びが己の喉から迸ったものだということに、男は愕然とする。同じ勢いで、肉の焼け焦げた臭気が鼻を衝いた。
  飛沫を上げる左腕の付け根を、誰かが手にした焔で焼いたのだ。緊急の止血に間違った処置ではないそれは、けれど酷い苦痛を伴う。叫びはたちまち擦れたものになり、噴き出す汗。遅れて襲い掛かる激痛。のたうち回る体を尚も幾本もの腕が押さえつけて、早くしろと怒鳴る声がする。
  ――腹は焼けないから。
  ああそうだ、骨が見えているものな。縫合しなければいけないのだろうな。
  他人事のように頭の片隅が己に囁く。
  これは駄目だ。誰かがまた囁いた。
  これはもう助からない。
  莫迦、と低い怒鳴りと平手の音。
  ――そうかもう助からないのか。
  そうだな。心臓がきっと保つまいよ。
  大量に失った血液のせいか、全身が細かく震えて光がちらつく。瞼を上げるのも億劫だ。
  それもいいかもしれない、そうも思った。こうして呆気なく死んでゆくのもまた良い。できればいつまでも冷静でいるこの意識が、先に途切れてくれるとより良いのだが。
 「……痛ェの?」
  怖々伸ばした指先で、腹部の引き攣れを撫ぜたチャトラの声で皇帝は一挙に我に返る。
 「ああ――、」
 「痛ェ……よな」
 「――痛くない。痛くはないよ」
  そう。もう痛みはない。時折引き攣れ疼こうともそれは、「あの瞬間」に比べたら、どうと言うことはないのだ。
  あの、劈くような痛みよりは。
 「アンタは」
  言いかけてチャトラが一瞬何かを堪えた顔になり、それからゆっくりと胸に顔を寄せる。
 「猫――?」
  彼女の小さな額が己の傷跡に押し当てられていた。
 「……アンタは、強いね」
  唖然とした男の耳に、ぷちぷちとチャトラの体にまとわりつく泡粒の弾ける音が、妙に響く。
  額の当たったそこから、高体温のチャトラの熱が滲みてゆくような印象を受ける。同じように体内でじんわりと何か温かなものが広がってゆく気がして、
 「うわッ」
  気が付くともう一度、チャトラを浴槽へ放り払っていた。不快ではない。けれど愉快でもなかった。これ以上己に触れられることを男は好まない。踏み込まれる――浸食されてしまう。
  なに、に?
 「……っにすんだよテメェ!」
  不意打ちだったので鼻から水でも入ったか、顔を出したチャトラが涙と鼻水をいっぺんに垂れ流しながら喚いた。
 「ちょっと見直したと思ったらコレかよ!」
  鼻をすする仕草の彼女の前に、ぐいと手拭いを差し出す。のけぞったチャトラがなんだよ、と唸る。
 「背を流しなさい」
 「はぁッ?」
 「お前の最初の『仕事』だ。背を流しなさい」
  言われてそれでも反論が見つからなかったのだろう。
  噛み付きそうな顔をしたたチャトラは舌打ちをした後に不承不承頷き、浴槽から体を持ち上げた。


  そんな相手と食卓を挟んでいる。
  夕食を一緒に取るかと尋ねたら、割と素直についてきた。嫌だ、だとかアンタの顔なんざ見たくもねぇ、だとか。さんざんごねるかと思っていたので、意外だったのも事実だ。

 「……ああもう!」

  食前酒は、薬膳効果のあるもの。飲みなれたそれは薬草の臭い芬々たるもので、それを打ち消すための甘ったるさが、飲みにくさを倍増させていると思う。
  向い合せた遠い対面の席で、グラスに口を付けたチャトラが瞬間何とも言えない顔をしたのが判った。あれは、吐き出そうかそのまま飲み込もうか悩んだ顔だ。
  男にとっては日常飲みなれたもので、干薬草独特の臭気もさほど気にならない。澄ました顔でグラスを乾した。チャトラがちら、とこちらを伺うのが判った。
  結局飲み込むことにしたらしい。
  ごくり、と音がしそうなほどゆっくりと嚥下される様子が見えて、それからますます苦渋い顔をしていた。笑いをかみ殺すのに苦労する。
  男が卓上にグラスを戻した仕草が合図で、次の前菜が計ったように運ばれる。今日は朝食に少し手を付けた程度で、昼は何も取る気になれず、こうして夕餉を前にした訳なのだが、やはり食欲は湧かなかった。溜息を吐いてほんの愛想程度に、野菜を突いてフォークを下す。控えた侍従が腰を折り、前菜が下げられ、次の皿が運ばれた。
  あ、だとか言う声がして、遥か向かいに座ったチャトラが何かを言いかけ、言葉を飲み込む。
 「どうしたのかな」
 「……なんでもない」
  悔しいような訴えるような微妙な表情は、初めて見る部類だ。何か知らない作法でもあったか、そう思いながらそれ以上尋ねることはせず、次々と運ばれる皿を前にし、ちらと見やり口にするかしないか。その間も何とも言えない微妙な表情を崩さないまま、チャトラはフォークを握っている。口に合わない物でもあったのだろうか。尋ねようとしたが億劫だった。
  皇帝自身も、こうした食事は思えば久しぶりのことだ。それまで寝室で半分横になった状態で、運ばれた軽食を摘まんでいた。
  座っているだけで草臥れる。
  肘を衝いて思わずまた溜息を吐いたところに、様子を伺っていた給仕がすっと白葡萄酒を差し出した。グラスを受け取り一口含んで、差し戻す。畏まって受け取った給仕が、グラスを下げたところに冒頭のチャトラの静けさを壊した声だった。
 「猫?」
 「アンタ遠すぎるんだよ!」
  苦い顔でチャトラがそう吐き捨て立ち上ると、椅子を抱えて男の斜め向かい――左方向へ移動し、音を立てて座った。
 「あと。早ェよ!」
 「早い……?」
  腑に落ちなくて首を傾げると、あのな。苛々とした所作でコツコツとテーブルの角を叩き、苛立ちを滲ませた瞳で、こちらを見上げてくる。
  彼女の行動に驚いた給仕が、彼女を咎めようと足を踏み出したところで、
  ――良い。
  男は無言の視線で止めた。
 「あのさ。ちなみに聞くけど、アンタいつもメシ食う時は一人?」
 「ああ――一人が多い、かな」
  己の役職上、誰それとの晩餐、だとかそういう括りの食事もかなりの回数であったが、チャトラが聞いているのはそう言うことではないのだろう。
 「いつから一人?」
 「いつから――?」
  聞かれて思わず考え込む。そもそもそう言った意味で「食事をした」と言うのならば、
 「物心ついた時からではないかな」
  誰かと食卓を囲んだ記憶などない。
 「は?」
 「物心ついた時から一人」
 「あー……そう」
  なるほど、だとか一人合点して頷くチャトラに、猫?問いかけると、がりと頭を掻いた彼女が嘆息する。
 「私の――食事作法のどこかに問題があったかな」
 「大アリだよ。……あのな。どういうしきたりか知らねぇけど、アンタのペースでメシが運ばれてくんの」
 「ふむ」
 「運ばれてくるのはいいよ。運ばれてくるのはいいけど、おんなじ、アンタのペースで皿が下げられるんだよ!」
 「ふむ……?」
 「小食なのか節食なのかなんなのか知んねぇけど!アンタがフォーク置いちまうと、オレがまだ食ってる途中でも、オレの分まで皿下げられちゃうんだよ!」
  判れよ、眉をしかめるチャトラの顔を見て事情を呑み込んだ皇帝は、思わず口の端を上げて喉を震わせた。
 「……笑ってんじゃねぇ」
 「なるほど」
  先ほどからの、何か言いたそうな微妙な表情の原因を理解する。確かに自分は、遠い向かいの相手の食事状況など目に入れてすらいなかった。
  と言うより、そもそもそうして気遣う相手もいなかったのだ。
  どこそこの大使だとか将軍などと言う相手との食事は、食事ではなく歓談交じりの腹の探り合いで、相手も同じように気負ってきている。正味皿の上の様子を気にしている余裕はない。
  あれは、食べ損ねて困った顔だったのだ。
 「お前が、満足するまで私は待っていたら良いのかな」
 「待ってなくていいからアンタもちゃんと食え」
  口にする少なさを見咎められていたらしい。食欲が全く湧かないのだが、言って苦笑う男にチャトラは眉をひそめている。
 「お前は元気だね」
 「元気っつーかな……食えるときに食っとかないと、次いつ腹いっぱいになれるかわからないだろ」
 「なるほど」
 「なるほど、って。つか、アンタ腹空かして倒れたりしたこと、ないだろ」
 「いや――」
 「……あんの?」
 「いや。そもそも腹を空かす感覚が今一つ、掴めない」
 「……」
  これだよ。
  がっくりと項垂れてチャトラがぼやいた。
 「アンタとオレの間に、ものすッげぇ溝があるってのだけは判った」
 「なるほど」
  微かに苦笑したところに主菜が卓上に並べられて、ちらりと見やったチャトラの目が、途端にきらきら輝くのが男からも見て取れた。本当に見ていて飽きない生き物だ。きっと、掛け値なしに食べることが好きなのだと思う。
 「存分に食べると良い」
 「アンタは?」
 「私は――これで相伴しようか」
  顔を向けると心得顔の給仕が先刻と同じように、よく磨かれたグラスに葡萄酒を少し注ごうとするのが見え、
 「――そのまま」
 「……はッ……?」
 「そのままで良い」
  常とは違う男の要求に、戸惑い気味に腰を折る給仕から瓶とグラスを二つ受け取って、
 「飲むかね?」
 「うん」
  岩塩と香草焼きの魚に舌鼓を打っているチャトラにグラスの一つを差し出した。受け取った彼女はぐいと一気にグラスを呷り、美味いな。目を細めた。
 「アンタも食いなよ」
  うめぇよ。
  鼻の頭に胡椒の粒を付けてチャトラがうっとりと笑った。
  ああ、本当に食べることが好きなのだ。
  しかめっ面も困惑顔も正直見ていて飽きないが、こうして満足そうに頬張る顔も悪くはない。そそられて男もフォークを手に取る。一切れ切り分けて口に運んだ。
 「な?」
 「――悪くない」
  口にしたそれは妙に美味かった。


 「何ここ」
  居室にいざない、興味津々付いてきたチャトラが最初に部屋へ足を踏み入れた瞬間、弾けるように笑い出した。それが嘲笑や何か含んだものではなく、掛け値なしに可笑しくて笑ったことに声色で気づいた。笑い出す要素が思いつかなくて、男は瞬く。
 「私室――なのだが」
 「ししつ」
  笑いすぎて苦しかったのか目尻の涙を拭っていた。
 「ベッドに天井がついてるってどういうこと」
 「――ああ、」
  合点がいって男は頬を緩めた。チャトラは天蓋付きのベッドと言う物をおそらく初めて見たのだ。
 「天井の下に天井って、ムダ以外のなにモンでもねぇだろ。すげぇな」
  そういった物だろうか。男が首を傾げると、はー、と感心した様子のチャトラが天蓋から下がった紗を引いたり、細かに刺繍された上掛けを撫ぜたりしていた。まだ肩口が笑っている。
  それから不意に振り返る。
 「で?」
 「ぅん?」
 「寝室に連れ込んで、何かすんの?」
 「――なにか――とは」
 「『寝』ろ、とかそういう流れなのかなと思って」
  片頬を上げて挑むようにこちらを見ているが、思ったより開き直っている。この場合の彼女が口にした「寝る」とは、睡眠の意味ではないのだろうなと男はぼんやりと思った。そう言うつもりで誘った訳では全くなかったのだが。
 「期待されているなら応えねばならないかな」
 「期待してねぇよ」
  ゆると近付いて顎を取ると、途端にさざ波のように緊張が走った。あの北の街屋敷での様子と言い、チャトラが極端に「そうした」接触に過敏に反応するのは判っている。
  何故なのかは知らない。
 「だが残念ながらお前を抱くつもりはないよ」
 「へぇ」
  探るように見上げる緑青の目が、不安に揺れていた。抉り出して飾ったら綺麗かもしれない。口に含んだらどんな味がするだろう。瞼に指を這わせて男は薄く笑う。
 「何より私が。保たない」
 「……どういうこと?」
 「『ここ』が」
  そう言って胸の中心から少し左にそれた個所を指し示すと、ああ、とチャトラが理解した。おそらく補佐官あたりにでも、己の身体のことを聞かされていたに違いない。
 「穴が開いてるって聞いた」
 「的を射ているね」
  そう。己の臓器はあまりにも欠陥品で、こうして日常生活を惰性で過ごすにも何かと支障が出る。
  それが煩わしい。
 「そうして生憎、腹上死する趣味もない」
 「……あ、そう」
  興味を失ったのか、チャトラがするりと男の腕の中から抜け出す。そのまま部屋の中を見て回ることにしたらしい。壺に差された孔雀の羽を、つついて眺めている姿を視界の端で確認しながら、男は暖炉側に置かれた文机の上の羊皮紙の束を手にした。
 「それ、アンタの仕事?」
 「――そう。眠くなったら勝手に寝ていなさい」
全てに目を通すにはまだかかりそうだから。頷いて見せるとふーん、と生返事。
 「なぁ」
 「うん」
 「オレの『仕事』は?」
  聞かれて男は僅かに視線を上げる。できることなら何でも、そう言っていた彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。
 「ここにいることが仕事だ」
 「……どういうこと?」
 「お前は私の身の回りの世話をすることになる」
 「アンタの世話?」
 「他の下女どもより役に立ちそうだ」
  答えながらその言い方には少し語弊があるなと、思った。
  正確にいうのならば、「他の下女どもより支障がない」が正しいのだろう。
  接近されることが不快ではない。それが何より重要だ。他の下女どもと何が違うのかとふと思い、媚を含む姿態かどうかなのだと今更ながら気が付いて、なるほど、と男は内心呟く。こちらを見やるチャトラを眺めなおした。簡単に言えば色気がないのだ。
  己の立場も地位も、男は十二分に理解している。臓器が悪いとはいえ、もし
 「皇帝の寵を受ける」
  下女ともなれば、一族すべてに恩恵が下る。宮内で働く女どもは、それなりに身元のはっきりとしたものが多いと聞く。どこそこの大臣の娘、だとかどこそこの将軍の遠縁の姪、だとか。
  彼女等が、何とかして皇帝の気を引く為に手を変え品を変え、接触を図ろうとするのが手に取るように判った。お家大事の命を受けて必死になっているのが判った。判るからこそ面倒臭かった。
  確かに、側に侍らすならばむさ苦しい男どもより女の方が好ましい。年老いたものよりは若いものが良い。だがその程度だ。それより踏み込んでの興味はなかった。
  とは言え、皇帝たりとも列記とした男である訳で、体がここまで酷く億劫になるより以前は、媚態を振りまく女どもに手を出したことも一度二度ではない。十代前半はそれなりに無茶をした。年上の女たちの手解きのままに肌に溺れた。
  何より死ぬことが怖かった。女の肌に触れている時だけ恐怖を忘れた。
  そう。あの頃はまだきっと「明日」だとか言う物に、もう少し希望を抱いていたのだ。
  いまはもう何も見えない。
 「オレ、あの部屋に戻らなくていいの?」
 「この部屋でよいよ」
 「……そっか」
  曖昧に頷きながら、チャトラが物珍しそうに、じっと男の蔵書の背表紙を眺めていることに気が付いた。読んでも良いと告げると、困ったように頬を掻く。
 「字を識らない」
  そう言う。
  成程、と男は頷いて、それからチャトラを傍らへ手招きした。インクを付けたペンを走らせ、羊皮紙に単語を書き付ける。それは何だと尋ねるのへ、やはりこれすらも知らないかと内心呟いた。
 「お前の名だ」
 「オレの」
  興味津々に手元を無防備に覗き込んでくる姿に、しばしば男へ向ける敵対心は伺えない。興味が不振を上回ったものらしい。乾燥気味の金茶の髪が石鹸の匂いを漂わせている。
 「読み書きができるようになりたいかね」
 「なりたい」
 「覚える気があるなら、手解きしてやらなくもない」
 「ほんと」
  弾かれたように見上げてくる視線は真っ直ぐだ。誰もこんな目で男を覗き込まない。その目につい唆された。
 「が――、お前の日常の『仕事』をこなした上での話だ。楽なことではないが」
 「やる」
 「――そうか」
  口の端で笑って、羊皮紙をペンを差し出した。書き取れと言うと素直に受け取り、暖炉前の床に直に座り込む。毛足の長い絨毯。暖かくて心地良いのだろうと思った。
  ちゃ、と、ら。
  ぶつぶつと繰り返し呟きながら男の書いた文字を眺めては書き眺めては書き。その姿を見止めた後、再び男は認可待ちの書類へ目を落とす。書き取る彼女に告げる気もないが、実はここひと月ろくに仕事もこなせていなかった。寝込んでいたのは本当だ。三補佐が支えたと言っても限界がある。執務室の机の上は恐ろしい状態になっているに違いない。見たいような、見たくないような複雑な気分だ。
  暫くの間、暖炉の薪の爆ぜる音と小さく呟く猫の声、時折己がめくる紙擦れ。
  北方のトルエとの協定がようやく地固まりつつある、との報告。各城塞の守り人からの諸報告。小さな情報から大事に至った例も少なくない。全ての事象を頭に入れておく必要性があった。
  小国のトルエの地それ自体は、エスタッドの国力と比ぶべくもないが、彼の国の公女とラグリア教団の結びつきは強力だ。歴代エスタッド皇と都におけるラグリア教団との確執を思うに、トルエのそれとない取り成しは正直有難い。
  そういえば彼の国の公女は健勝であろうか。
  賢しい漆黒の瞳を思う。うねる様な黒髪と白磁の肌。大国であるエスタッドに一歩も怯まず、媚びず、隙あらば足元を掬おうと虎視眈々とするその姿勢が気に入った。書簡でのやり取りはともかく、恐らく二度と会うことはない艶麗な少女を思う。
  それから、アルカナ関連の報告。
  王国としての形は既に数年前に瓦解しているものの、その残党は恐ろしくしぶとい。国家の再興だとか殊勝な口実を作って、正義を旗に頭数を集めては未だに小競り合いを繰り返していた。直ぐにでも対応しなければいけないような目立った動きは、今のところ成されていないようだが、注意しておくに越したことはない。そもそも国家としての形を失っただけで、まだ一部の者らはエスタッドの所領地になったことを認めていない。そろそろ本格的な「検地」と言う名の新支配を強める必要があるかもしれない。そう思い、また仕事が増えるなと思って男は嘆息した。
  さらに南方。これらの諸国がまた、ちっとも政治が安定しない。新しい領主が立ったと思ったら次の報告では既に墓の下に送られていたりする。国と言う物の形が定まらないと、その施政者との取引もできない。協定ひとつ結べない状態で、では放置しておいてもよいかと言えば、彼らはお構いなしに境界線を浸食してくる。防衛線を強化せねばならず、侵攻するにはアルカナとの国勢が安定していない。背後を衝かれては元も子もなく、非常に厄介だった。
  愛国心がある訳ではない。仕事に誠実な訳でもない。
  ただ、己の父や祖父が余りにも国勢を顧みず、国と言う屋台骨がぐらついていたのへ、見兼ねて好奇心で手を出した。補強すれば何とかなるのではないかと思った。実際、いつ内戦や反乱が起こってもおかしくない状態まで、不満は膨らみ切っていたのだ。
  好奇心が仇となり、全ての厄介ごとが皇帝の元へ集まる仕様となった。そういう仕組みにしたのは自分だったのか、それとも周りの狐狸どもだったか。今ではもう判らない。
  いつか、腕に抱え切れないほどに全てを抱えて、その全てを一気に手放したらどうなるだろうかと思う。いっそ爽快かもしれない。試してみたい気もするが、今はまだその時期ではない。
  ふと。部屋の中が静かになった気がして顔を上げると、書き取りをしていたはずの猫が、暖炉の前で体を丸めてくうくうと寝息を立てていた。風呂に入れられ、腹もくちくなり、暖かい場所で睡魔が訪れたのだろう。
  膝を抱えているとまるで本当に猫の仔のようだ。椅子の背に掛けてあった毛織のショールを取り上げて、男は静かにチャトラの上に被せてやる。弾みで僅かにもぞもぞと身動きしたものの、暖かいそれは心地良かったのだろう。目を覚ます気配はなかった。
  ――こう無防備に寝てしまわれては、ちょっかいも出せないね。
  一人語散る。それから、書き取りをしていた羊皮紙に目をやって、男は忍び笑いを漏らした。まさか、本当に素直に書き取りの練習を始めると思わなかった。自分の名前くらいの文字の認識はできていると思っていた。戯れに書き留めた言葉を、彼女の名前の綴りだと告げれば直ぐに、憤りが返ってくると身構えていた。
  真っ直ぐに見つめてくる目に、実はこの文字はお前の名ではないと言いそびれた。起きたら訂正しよう。きっと真っ赤になって怒り狂うとは思うが。
  ペン軸の握り方も知らないチャトラの書き留めた文字は、あまりにも拙くて、しかもあちらこちら文字が抜けていたり逆さまであったり、あからさまに綴り違いもいくつもあった。それでも、同じ言葉が何度も何度も行を成して書き留められていると、まるで語りかけられているような気分になるのが不思議だ。
  拾い上げてふと文字をなぞる。
  それが呼ばれたことのない男の名であったとしても、誰も知らない話だ。



(20101111)

最終更新:2010年11月11日 00:28