<<さよなら人類>>

 「何を読んでいるのかな」
 「う、わ」
  唐突に声をかけられて、危うく手にした分厚い本を落としそうになる。
  チャトラだ。
 「アンタね。いい加減、気配を消して背後に忍び寄る癖、やめてくんない?」
  不平を言いながら向き直る。声をかけられた瞬間から、その声の主が誰であるかは判っていた。
  見様によっては深窓の姫君にも見える、れっきとした麗人――、エスタッド皇国の頂点に立つ皇帝その人であった。けれど、見た目で舐めてかかると怪我をする。痛い思いをした諸国の外交官も、二桁では収まらない。
  とはいえ、あながち「深窓の姫君」は間違っていない。
  焼けるどころか、ほとんど陽光に当たらない肌の色は、白さを通り越してまるで磁器。雪崩うつ薄茶色の髪が、ヴェールのように男の体の輪郭を朧に隠している。下から掬い上げるような視線の強さは、長い透明質な睫毛に覆われて、やや柔らかなものとなっていた。
 「気配を消した覚えはないが」
 「無意識かよ。タチ悪ィ」
  舌打ちをしてまた分厚い図鑑に目を落とす。男のいわゆる「暇つぶし」に、付き合う義理はないと思っている。
  どうせ、掻き回されるだけなのだ。真面目に対応すると莫迦を見た。
 「図鑑?」
 「あー……なんか、歴史?……じゃないか。えーと、『にんげんのうまれたしくみ』みたいな。史学のセンセイが、こないだ講義タれてくれたんだけどよ。納得いかなくて」
 「納得が、いかない――」
 「なんか、オレらの先祖?あー祖先ってぇの?は、もともとサルだとか、ああいう動物から進化したんだって言ってて」
 「サルから人に進化したことに納得が、いかない――?」
 「や、そこは別にどうだっていいんだけどよ」
  興味を覚えたらしい男が、チャトラと同じ視線の高さに座するのへ、ちらと眼をやって、
 「つか、アンタヒマなの?」
  聞いた。
 「唐突に暇になった」
 「嘘臭ェ」
  呆れた笑いで返し、けれどそれ以上何をどう言ったところで、男の気まぐれを覆すことができないことをチャトラは身に染みて知っていたから、深くは追及しなかった。
  代わりに、空を見上げた。
  木立を揺らす風が午後の演習場を抜ける。とても静かだ。
  軍事国家のエスタッド皇国、皇宮内にももちろん、宮に詰める兵士たちの訓練用にそういった広場があちらこちらに設けられていたものの、裏庭に近いここはあまり使われることがない。
  理由はひどく簡単で、人の目が少ないからだ。
  もっと突き詰めていうなれば、皇帝の視線が届かない場所であるから。
  訓練に駆り出される兵士たちの都合ではない。
  単に兵士たちを訓練する姿を上官に、しいては皇帝にアピールしようという魂胆の将卒たちにとって、顧みられることの少ないこの場所に価値はない。
  執務室の面する中庭を使用することが常である。
 「静かだ」
  思いついたままにぼつんと呟くと、ああ、と男がゆっくりと首肯した。
 「気が晴れる」
  薄く笑っていた。機嫌がよいのだろう。
  見やるチャトラは皇帝とは真逆の、凡庸な町娘である。
  ひょんなことから皇帝に拾われて今に至る。
  娘、と言い表すには少々難があるほどの小柄な体。少年と言い含められれば、疑問も抱かないだろう。年は大まかに十四。捨てられた経歴があるので、彼女自身詳しいことを知らない。
  己が不幸だとは大して思ってはいなかった。周りを見渡せば、それよりももっと悲惨な状況はいくらでもあったからだ。
  皇都に来て課せられた彼女の仕事は、つまるところ「皇帝の身の回りの世話」なのだった。男は己自身では何もしない。
  仕事内容と、その主に言いたい不平は山ほどあっても、口に出しては限がない。
  そうして元来、課せられた仕事については、真面目なのだった。人間の価値は仕事の率如何だと思っている、下町仕込みだ。
  不満はともかく、こなした。
  男に仕える人間の数は数えきれないほど大勢いたから、彼女へ回される仕事の量も、思ったほどには多くない。綿のように草臥れ果てるまで働かされる経験を積んだチャトラには、物足りないこともしばしばで、自発的に皇宮の掃除もこなしていた。
  下働きの女どもには重宝されている。
  そうして。
  与えられた仕事と、それ以外のことをこなしてなお空いた時間に、こうしてチャトラは「自習」していた。
  知識を蓄えることは楽しい。
  判らなかった問題が、ある日突然悟りを開いたように啓ける感覚も、面白い。
  けれど何より、まるで高みにいるようなエスタッド皇帝の、その
 「何でも判ったような顔」
  が気に食わない。
  その高さに並びたいとぼやいた彼女に、男は来るといいと言った。
  チャトラが、挑まれて引く性格であったなら、もう少し苦労の少ない人生であったろう。
  今は、いつか男の鼻を明かす日が来ることを夢見て、ひたすらに学習する日々だ。
  では、あったけれど。

 「納得がいかない」

  三度男が訪ねる。
  面白がっている。
  男の目が笑っていることに気付かないまま、うん、とチャトラは頷いた。
 「ああ……うん。史学のセンセイはさ、サルからヒトに進化した最大の理由は、道具を使ったことだって言うんだ」
 「ほう」
 「や、そんな言い方はしなかったな。つぅかさ。要はさ。サルとサルの部族同士が、対立して争いになった時に、こう、四つん這いだったサルが、初めて武器として枝だの石を手に取ったって、そうして知能が発達したんだってセンセイは言うんだよな」
 「それが、納得いかない――」
  なぞるように男が含むと、チャトラは渋面を作り、唸った。
 「言っておくけど。オレは別に、道具を使い始めたことがおかしいとか思ってるワケじゃあねぇ」
 「ふむ」
 「道具を使ったことによって、知能が発達したってことに反論したいワケでもねぇよ」
  でもさ。
  そこで図鑑を膝に置き、チャトラは不意にじっと彼女自身の両の掌を眺めて口を噤む。
 「――猫?」
 「……オレさ。違うと思うんだよね」
 「違う――とは」
 「武器を手にするために、最初、サルは四つん這いから二足になったんじゃないと、思うんだ」
  呟く声は割と小さくて、男は思わず寄せるように耳を澄ませた。
 「ほう」
  否定されなかったことに気を良くしたのか、うん、ともう一度チャトラは頷いて、それから不意に視線を上げて男を真正面から見つめる。
  衒いのない視線。
  緑青色の、川の淵に男をからめ捕るようなその深さ。
 「オレね。両腕で、誰かを抱きしめるために、サルはヒトになったんだと思うんだよ」

  頑是ない言葉。
  男は瞬き一つ分、世界を失った。


(20101018)

皇帝と猫にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:14