*


 「猫」
  括りかけた腕を放し、焦点の合わない頬を叩く。
 「猫」
  ぱん、と何度目かの頬への衝撃でふっ、とチャトラの瞳に色が戻る。
 「……あ……?」
  きょとんと瞬いた拍子に、表面張力を超えた涙がぽろと頬にこぼれて、不思議そうに彼女はそれを拭った。
 「……なに?」
 「覚えてないのかな」
 「……オレが?なにを?」
 「知るか」
  身を引き離し、男は髪を掻き上げた。我に返ったような気分だ。萎えた。死にかけた雌鶏の痙攣したような姿を見て、それでも興奮する趣向はさすがに己にはない。
  目の奥が鈍く痛む。憑き物が落ちたように冷静を取り戻していた。
 「寝台を使いなさい」
  顎でしゃくってやると、ごしごしと眼元を擦っていたチャトラが眉をしかめて男を見上げる。
 「冗談じゃねェ」
 「私はまだ仕事が残っているから」
 「はァ?……何言ってんのアンタ。ここ、アンタの部屋だろ。オレが別の部屋に行くよ」
 「――いいからそこで寝なさい」
 「だから、」
 「大人しく寝ないのなら襲うよ」
 「寝ます」
  即答だった。
  だるそうな動きで揺り椅子の背から身を起こし、ごそごそと寝台に潜り込んだチャトラが、背を向けかけ、躊躇い、物言いたげに男をじっと見る。
 「――何かな」
 「……いや、その……、もうやんないの?」
 「欲しいのか」
 「いらねェ!」
  これも即答だ。
  言い置いた後で、だけど、と歯切れ悪くチャトラが言葉を続ける。
 「や、そうだけどさ、その、普通さ……嫌がったって止めないよね」
  花売りの客を見てきたからわかるよ。
  そこだけ大人びた顔をされて、男が苦笑を滲ませる。
 「息をしていなかった」
 「え?オレが?」
 「覚えていないのかな」
 「オレが?」
 「興が冷めた」
  身に覚えがないらしい。首を捻ってオレが、と何度か呟いていた猫が、思い返しても覚えがないことは仕方がないと諦めたのか、大きく息を一つ吐いた。
 「なんかオレ、前もいっぺん、そうなったみたいなんだよね」
 「――何が」
 「ハラ空かしてブッ倒れかけた時に、どうしてもメシ代を稼げなくて、客を取ろうと思ったんだけど」
 「ほう」
 「……なんか、直ぐに息苦しくなってワケ判んなくなって、すげェ慌てた客に引っ叩かれて目が覚めた」
  傭兵だったかな。商人だったかな。
  思い出せない風で、首を傾げている。
 「そん時も息してなかったって、死ぬんじゃないかって思ったって言われて、やめて。オレも掏摸の方が気楽でいいから、客引くのやめたけど……寝る」
  そう最後に言い置いて、じゃあ、だとか素っ気なくチャトラが頭から潜った。
  ――だとすると、心因性の何かなのだろうか。
  積み上げられた羊皮紙の量に溜息を吐きながら、男は頭を振ってこれ以上の思考を追い出した。猫の過去に何があろうと、自分には関係のない話だ。
  ただ、強気だった顔が泣き顔に歪めば楽しいのではないか、その程度の興味だ。
  暫く文机に向かい、酒精のために霞む意識を無理やり手元の書類に引き寄せる。

 「……なぁ」

  とうに寝たと思っていたチャトラが寝具の間から顔を出し、声を上げたので男は小さく驚いた。
  熱のせいか、潤んだ目が真っ直ぐにこちらを見つめている。
 「――寝ていなかったのかな」
 「寝るけど……あのさ、さっきの」
 「――先の?」
  どの出来事を指しているのかが検討がつかなくて、男は眉根を寄せた。
 「えっと……味方はいないって言ってたヤツ」
 「ああ――言ったが」
  それがどうした。
 「……アンタ、また怒んのかもしんねェけど。オレ、何も特技ないし、武器とかあんなもん怖くて使えないし、頭もよくないし……つまり、アンタの『役に立つ』ようなことは何もねェけど」
  遠まわしに理由を言い連ねるのは、チャトラなりの防衛策なのかもしれない。視線だけ上げて、男は続きを促した。
 「味方なんてなれないし、なれるとも思ってない」
 「――端的に言うと?」
 「でもオレ、アンタの敵じゃない」
  言われて肩が僅かに強張ったのは、また、もぞもぞと掛け布の中に潜り込んでしまったチャトラには見られていないだろうと思う。
  ――敵じゃない、か。
  投げられた言葉を口の中で小さく転がした。
  ――ならば、一体何だと言うのか。
  急に仕事の書類も見る気が失せて、男は文机に投げ出した。補佐官どもの小言が一瞬聞こえてくるような気もしたが、今は知るものか。
  立ち上がり、飾り戸棚を開けて、男は二本目の酒瓶を手にする。
  呷る。
  寝台からは早々に寝付いた猫の寝息が聞こえてくる。熱が高い以外に症状がある訳でもなし、直ぐに回復するだろう。
  そうして、このまま椅子にでも座して寝てしまおうと男は思った。今度はこちらが風邪を引くかもしれないが、知ったことではない。頭を振り払い、男は瓶口に唇を寄せた。

                   *

  目が覚めると正午をとうに回っていた。まるで気づかず眠りこけていたものらしい。
  慌てて身を起こし、まだ幾分かぼんやりとしながら、チャトラは室内を見渡す。自分以外の気配はなかった。
  無論エスタッド皇帝――この部屋の主の姿もない。
  昨晩、仕事をするから寝台を使えと言われたきり、大した会話を交わすでもなく、言われた通りに布団に潜り込んで寝てしまったが、男は本当にあの後寝台に寄っては来なかったようだ。
  目が覚めた瞬間に添い寝でもされていて、げんなりするのではないかと若干の覚悟を決めつつ、それでも熱のだるさには逆らえず、半ば捨て鉢になって眠ってしまったのだが、空振りした気分だった。
  勿論、添い寝されていないに越したことはない。ない――が、普段と異なるエスタッド皇の側面を見せられると、どう対処してよいものか判らなくなる。
  昨晩。抑え込まれた時が、そうだった。
  あの時男は明らかに何かに対して苛立っていて、多分それは自分の言葉や態度がそもそもの原因ではないのだろうなとチャトラは思う。
  部屋に戻ってきた時から、気配が荒れていた。
  顔に出してまで驚きはしなかったものの、男が戸棚から酒を呷りだしたのを見て、何かあったのだろうなと直感はしていた。
  だから、きっと男がチャトラを抑え込みかけたのも、その「何か」のせいなのだろうなと、そこまでは分析している。
  男を怖いと思った。
  それは、抑え込まれた恐怖などではなくて、もっと以前の、静かに沸々と苛立つ男が怖かったのだ。
  正直、椅子に押し付けられた後のことはあまり覚えていない。やめろと暴れたところまでは判るけれど――すぐに息が苦しくなって頭が真っ白になった。
  見覚えのある誰かの死に顔が浮かんだような気もする。判らない。
  頬を張られて我に返ると、そこだけ切り取ったように皇帝が見えた。瞬くと一瞬安堵したような色を滲ませた。だから、混乱して何も言えなくなった。
  ……何が、あったのかな。
  夕刻には戻ると言った。その男の帰りが遅かったこととも、関係があるのだろうか。
  聞いてもきっと答えてはくれないだろうと思う。
  喉の渇きを覚えて、寝台から足を下ろす。立ち上りかけた拍子に、脇の小卓に細かな水滴の浮く水差しとグラスが、用意されていることに気が付いた。飲んで悪いこともないだろうと判断し、グラスに注ぐ。ほど良く冷えた水は僅かに柑橘の香りがした。蓋を取り覗き込むと、輪切りになったまだ青い柚子が数枚、ゆらゆらと沈んでいる。
  汗もかいたせいか、口に含むと体に染みわたる気持ちになる。
  小さく溜息を吐き、首を回した。
  少しだけ頭が重い気もするが、一晩ぐっすり眠ったおかげで、ほぼ完調した。さすが「皇帝」の使う寝台だと妙なことを思った。起き上がりの節々の痛みもなければ、凝りもない。寝返りを打ったところで軋み一つしなかった。
  安普請の、半ば連れ込み宿まがいの寝台しか知らないチャトラにとっては、軽く驚きだ。素材からして違うのだろうなと変に感心した。
  それから、椅子に脱ぎ捨ててある男の礼服に近付く。
  チャトラが皇帝の身の回りの世話を受け持ってから、着替えを手伝うのも彼女の「仕事」だったけれど、今朝は一人で着替えて出て行ったのだろうか。
  身分云々はこの際脇に置いておくとしても、皇宮で着回されている衣装の造りは、あちらこちらに留め金があったり結び紐があったりで、結構面倒臭い。片手しか使えない男が一人で身支度を整えることは不可能ではないのだろうが、かなり手間取ることは確かで、目を覚まさないで寝続けてしまったことに若干の罪悪感があった。
  それとも、誰かが手伝ったか。
  昨夜男が着ていた礼服を拾い上げて、何気に皺を伸ばすように指でなぞっていたチャトラは、ある一点でぎくりと指を止めた。
  血痕が点々と飛沫いていた。
  前身ごろの裏の部分。一瞬男が噛み切った自分の喉元の傷のせいかと思った。けれどあれは僅かに滲んだ程度だ。袖口程度なら汚してしまうかもしれないが、吹きつけた覚えはない。
  男が怪我でもしたのかとも思ったが、それなら染み入りこそすれ、こんな風に丁度対面から細かな跡にはならないような気がした。
  勢いよく噴き出した、「何か」がないと、こうはならない。
  男が苛立ちながら部屋へ戻ってきたことをもう一度思い出す。
  最初、男はチャトラが判らなかったのだ。あれは何か他のことに気を取られていたに違いないと思う。
  何があったのかな。
  かさぶたになり始めている喉元の傷へ手をやって、チャトラは嘆息した。
  そうして、汚れた礼服をひとまとめにして、籠に突っ込むと、洗濯ついでに教えてくれそうな「誰か」を探しに行くことにした。部屋でじっとしていても落ち着かないばかりだし、何しろ男の雰囲気は尋常ではなかった。
  幸い、皇宮内の造りは昨日教わって頭に入っている。今日は迷わない。
  籠を抱えてとりあえず洗濯場へと向かうことにした。


  まず洗濯場を選んだのは偶然だ。そこへ至る道に、裏木戸を抜けずに表の回廊を選んだのもほんの気まぐれだった。
  であったから、回廊を曲がった瞬間にセヴィニア補佐官とばったり対面してしまったのも、運命の悪戯と言う物で、
 「うぇ」
  体は正直に思わず酷い声が出た。
  極力顔を合わせたくはない。できれば姿も見たくない。もっと言わせてもらえば金輪際関わりを持ちたくない相手へ、こうして不可避な距離まで接近してしまうと、回れ右をして逃げる訳にもいかない。後はなるべく穏便に、なるべく刺激せず、なるべく素早く撤収してしまうに限る。
 「……お前……」
  チャトラの願いは叶わなかった。
  いつものように冷血質な目で一通り上から下まで見下された後、急に眉を顰めたセヴィニアに腕を掴まれ、有無を言わせない足取りで手近の部屋に押し込まれた。補佐官の後ろに続いていた数人に指示を与え(先に行っていろ、だとかそういった類の)、不意にチャトラに向き直る。
 「何を考えている」
  低く抑えた声の語尾が神経質に震えている。そんなに自分が気に食わないのなら、いっそ無関心を装えばいいのに、だとかチャトラは捻くれた気持ちで思った。
  反論すればするほどきっと手酷い「教育」を施される。黙り込んでいるのが一番だ。
 「聞こえているのか」
 「聞こえているよ」
  気に食わないのはこちらも同じだ。黙っていようと念じた端から、つい不貞腐れた声が出た。
 「意図的か?」
 「はァ?」
 「お前、自分が何をしているのか判っているのか?」
 「何がだよ」
  苛々しながら答えると、盛大に呆れた溜息を吐かれた。掴まれた腕に指が食い込んで痛い。いい加減放してほしいと思う。
 「判断できないのは相当の阿呆だな」
 「……だから何が!」
  つい頭に血が上って声を荒げた。なるべく穏便に、なるべく刺激せず。そんな言葉は糞食らえ。
  喚いた瞬間、容赦なく側頭部を張られる。相手にダメージを与えることだけを考えた、軽い音の割に内部に響く叩き方。だのに叩かれた部分が頭では、相当のことがない限り目立つ跡が残らない。チャトラが口外しない限り、張られたことは誰も気が付かない。
  ああやっぱり。
  そんな言葉がよぎった。男が唐突に掴んだ腕を放したので、ずるずると壁伝いに尻をついた。最悪の気分だ。
 「オレはテメェの羽枕じゃねェぞ!パンパン簡単にブッ叩くなよ!」
 「意味もなく叩くような愚行はしない」
 「判んねェよ。判る言葉で話せ」
 「底無しに愚かな。教えてやるのも腹立たしいが、そこまで無知なら言ってやろうか。……なんて恰好だ」
 「あ?」
  まるで感情の読めない瞳で見下していたセヴィニアが、不意に腕を伸ばしてチャトラの胸倉を掴んだ。
  持ち上げる。
 「答えろ。ここに至るまで何人とすれ違った」
 「知……るかよそんなん!」
  意識して数えていた訳でもないし、そもそも見張りの兵士も含めれば、相当な数と行き違っているような気もする。何にせよ、相手は自分に注意を払わなかったし、自分も相手のことなど知らなかったから、無関心に通りすがった、その程度だ。
 「お前は何がしたい」
 「あ?」
 「自分の立場を何と心得ているのだ」
 「立場ってなんだよ!」
 「救えんな」
  ぞんざいに突き放され、壁に突き当たりチャトラは唸る。本当にこの男は気に食わない。殴りかかってやろうかとも思うが、男の腰に佩いた細身の剣が目に入って躊躇する。人目のない部屋の中で、男が本気で激昂し、あの剣に手を置かれたらそれはそれで笑えない状況になる。躱す技術は持っていない。
  ずるい。武器はずるい、と口の中で呟いた。
 「部屋の外に出る時はそれなりな恰好をしろ、と言っているのだ」
  歯軋りをしていた彼女の頭上から、吐き棄てるように男が叱責した。
  叱責。そう、それは叱責だった。
  感情を以って振る舞われる怒声ではなく、苛烈ながら冷静で叱る物言い。
  だから、チャトラの頭が冷える。
 「え?」
  割と素直に我に返ったチャトラは、初めて己の身繕いを見下ろした。何も考えないまま、寝台から起きだしたそのままに部屋を出てきたのだが、言われてみれば確かに、
 「鏡を見ろ」
  示された部屋の一面の壁は姿見だった。大きな鏡に呆けた彼女が、彼女を見返している。そこに映った自分は確かに、
 「……あー、」
  確かに――酷い恰好だった。
  半ば引き千切られたタイが、結んでいるというよりは紐のように首に数回巻きつけてある。その間から痣とも傷ともつかない赤い印が点々と散らされ、けれどそれは所有の刻印と言うにはあまりにも痛々しい。釦は飛んでいくつか失われていた。両手首にも指の跡。恐らく昨晩、男がチャトラを抑え込んだ時の名残だとは思うのだが、
 「部屋の中でお前が何をしようと何をされようと、私は一切の興味がないし口を挿む気もないが。その恰好で出歩いて風評を流され、その厄介ごとが私に回ってくるのは御免だ」
 「……ああ、悪ィ……なんか、全然気づかなかった」
  これはセヴィニアでなくとも眉を顰めるだろうと思う。
  ダインに会わなくてよかった。
  どうでもいいことをぼんやりとチャトラは思った。
  何とかしてやる、だとか息巻いていた男に見つかったら、根掘り葉掘り聞かれるに決まっているし、上手くはぐらかす自信はない。下手に答えると、エスタッド皇でも殴りかねない。
  自分でも何度か殴り倒そうとは思っていたものの、客観的にダインが皇帝を殴る場面を想像すると笑えない。
 「悪い」
  唖然としながらもう一度呟くと、呆れた溜息をもう一度吐かれた。
 「懲りたらせいぜい部屋を出る前に身支度を整えることだ」
  薄汚すぎて見ていられぬぞ、言いながらも乱暴に上着を脱いでセヴィニアがチャトラに放り投げる。
 「羽織って歩くのも目立つ気はするがな。……それでも幾分かまともには見えるだろう」
  思いもよらなかった行動に、チャトラの瞳が点になる。温情を示すような男には思えなかったけれど、もしかすると、
 「えっと、でもオレ」
 「ああ、返そう、などと言う気は起こさなくていい」
  きっぱりとセヴィニアは言い切った。
 「お前が羽織ったものを私が二度と羽織る気もない。早々に処分しろ」
  ……やっぱムカつく。
  一瞬見直しかけたのが莫迦だった。内心舌を出しながら不機嫌にチャトラが頷くと、舌打ちを一つ残して、男が踵を返しかける。
 「おい」
  ここまで貶されて、これ以上この恰好で出歩く気は流石にチャトラにはなかったし、かと言って着替えて出戻るのも癪だった。いっそ腹立ちついでに目の前の男に聞いてやろうと言う気になる。
 「……何か」
 「昨日、皇帝になんかあったのか?」
  こちらを振り向く義理はないとでもいう様に、足を止めはしたものの、セヴィニアの声は肩越しに投げかけられた。
 「……何か、とは」
 「あのひとちょっとおかしかった」
  上手く説明できなくて、結局思った通りをチャトラは口にする。
 「どうしてそう思う」
 「何かに怒ってた。忘れたいって言うか……気晴らししたい風に見えた。あと服に血が付いてた」
 「……陛下には」
 「聞けるかよ。聞いたって答えてくれると思えねェし」
  なるほどな。セヴィニアが呟く。
  僅かに間が開いた。
  セヴィニアが言葉をまとめているのが判ったので、チャトラは大人しく待つことにする。
 「……お前に言って理解できるとは思わないが……まぁどうせどこからか話を仕入れてくるのだろうから、尾鰭の付いた下世話な話よりまともだろう」
  相変わらず彼女の方へは向き直らずに、セヴィニアは淡々と告げた。だから、一体彼がどんな顔でそれを口にしたのか、チャトラは知らない。
 「昨日。午後に、地方の太守が謁見を申し込んできてな。予定には組み込まれていなかったのだが、それ程急ぎの用が他になかったことと、陛下のご予定が他に空いていなかったことと、――まぁそれはお前に言っても無意味か」
 「……うん」
 「我が国にはいくつもの主要の城塞が配備されていて、太守はそのうちの一つを守る位置にある。ある程度の爵位や軍位のある者が就くとは言え、通常ならば陛下直々にお目通りが叶うことは難しい……が。我々三補佐誰の許可も通さずの謁見が行われていることに、『遅れて』報告されて気付いた。我々の目を盗んで何者が許可したのか、画策したのかは、目下調査中だ。何かきな臭いと駆けつけたら案の定だった」
 「だった、って」
 「太守の脇に控えたお前と同じくらいの子供が数人、獲物を持って陛下へ襲いかかる直前であったよ。……直後であった、と言おうか。控えた護衛兵によって事なきを得たが」
  引き攣った太守も含めて全てをその場で斬首した。口止めと言うよりは、その対応が一番楽だと誰もが判断したからだ。
  辻褄は後からでも合わせられる。
  埃ひとつ吹かない風に何気なく立っていたエスタッド皇帝の、無味乾燥な表情が印象的だった。
  いや。
  皇帝は嗤っていた。
  声も立てずに嗤っていた。
 「……死んだ、の」
 「いいや?」
  僅かに震えた声が出たので、拳を握ってチャトラは腹に力を入れた。意気地なしと思われるのは業腹だった。
 「肝要なのは、『昨日は何も無かった』と言うことだ」
 「なにも、なかった……」
 「そう。陛下は長引いた会議のご公務以外、公式記録には『何も無かった』のだ」
 「だって」
 「『そういうもの』なのだ。判るか。五、六の死骸が今日か明日の何時だかに皇都のどこかに打ち捨てられようと、それは皇宮とは何ら関わりのない事件だ。違うか?」
  だから黙っていろ。
  呆気にとられたチャトラの耳に、被せられる無言の圧力。理解できないけれどここは頷くしかない。不承不承首を揺らしたところに、
 「じゃあなんでオレに教えてくれたんだよ」
  ふと疑問が出た。
 「だから。お前はどこからか話を仕入れようとするだろう?」
  尾鰭の付いた噂話を信じ込まれるよりは余程ましだ。言外にそう言われて、かちんと来てもよかったのに、怒りは何故か湧かなかった。
 「以上だ。人目を避けて部屋へ戻れ」
  言い置いて今度こそさっさとセヴィニアは部屋を出て行った。
  後に残されたチャトラは、その背にかける言葉もなく、かといってすぐに立ち上がって部屋へ戻る気概もなく、壁に凭れて対面の鏡の自分を眺めながら、聞かされた話を反芻する。
  自分と同じくらいの子供が数人。
  それが男だったのか、女だったのか、セヴィニアは言わなかったし、チャトラは知らない。男でも女でも、その部分は重要なことではなかったのかもしれない。
  チャトラを椅子に抑え込んだ皇帝は、抑え込んだ自分の体に、何を見ていたのだろう。頸切られた血まみれの遺骸を思い浮かべていたのだろうか。
  ……それも、ぞっとしないか。
  チャトラは一人語散た。
  鏡の中の自分が困ったように膝を抱えている。


 「あらかた片付いたぜ、旦那」
  執務室にずかずかと入ったダインに手は止めず、鵞ペンを走らせながら、ちらとだけエスタッド皇帝は視線を投げかけた。
 「ご苦労」
  口調が戻っている。昨晩の冷徹なまでの無表情と比べると、幾分か穏やかな顔になっているなとダインは内心呟いた。
  襲撃未遂とでも言ったらいいものか、あまりにお粗末な皇帝への反旗は、たった数秒で片が付いた。命を狙われる男と、それを守る兵士たちの姿が日常茶飯事とは言え、本当に昨日の襲撃は、拍子が抜けるほど呆気なく終わった。
  きっとそれは、
 「言葉が口に出ているよダイン卿」
 「うへ」
 「そんなに怖い顔をしていたかね」
  つい口に出して呟いていたらしい。
  どうにも苦手意識のあるこのエスタッド皇の前では、ダインの今まで身に着けてきた「処世術」とやらが身ぐるみはがされてしまう。
  ダインは元傭兵だ。宮廷のお高くとまった礼儀とやらが気に食わないし、できれば鼻でもかんで丸めて投げ捨ててやりたい……くらいには思っているものの、まだ実行に移せない。色々と命が惜しい。
  であるから、チャトラの境遇に割と近しい感情を抱いている。戸惑いもよく判るつもりだ。
  そのダインを「便利だから」の一言で、駆り出す皇帝も皇帝だと思う。それには恐らく、皇妹ミルキィユとの関連――曲がりなりにも伴侶に近い関係――胸を張って皇帝にそう言い切れないところが辛い――にも依るもので、面倒な建前その他が省かれて皇帝がダインにある程度の信用を寄せている証だと思うのだが、
  ……信用は、ねェか。
  訂正した。
  エスタッド皇はきっと利用はしても信用はしない。誰に対しても同じだ。
 「だから――声に出ていると」
 「すみません」
  嫌いではない。だがはっきりと苦手だった。
 「――首尾はどうであったかな」
  初めてそこで書類を綴る手を止めて、皇帝が掬い上げるようにダインへ視線を流す。
  ぞく、と背筋が凍った。
  戦場で武者震い以外の震えを体験したことはないが、どうにもこの皇帝の前に出ると無闇矢鱈に緊張する。同じ人間とは思えない一種の気迫がある。
 「上々」
  思いを振り切るように、肩を竦めてダインは答えた。
 「そうか。――ご苦労だった、下がって良いよ」
  手を振られて暗に退室を促され、けれど微かに躊躇った彼の挙動を、皇帝は視界の端に止めたらしい。
 「――ダイン卿」
 「あ?」
 「まだ何か言いたいことがあるような素振りだが」
 「いや……」
 「私は忙しい。言いたいことがあるのなら手短にまとめなさい」
  忙しい、と口で言いながらダインを留めたのはきっと皇帝自身も息抜きを欲していたからだろう。本気で立て込んでいる時は、話しかける隙すら見せない。
  そう判断して、ダインは皇帝に向き直り、部屋には他にディクスしかいないのをいいことに、応接椅子に無断で腰掛けた。
 「……言われた通りに『全員』揃えたけどよ?本当に『全員』、始末するつもりなのか」
 「後腐れがないからね。――君は躊躇するのかな」
 「いや。命令されたら俺は従うぜ?」
  だけど。
  この男にしては珍しく詰まりながらダインは言葉を探す。
 「まだ二つ三つのガキもいたけど……いいんだな?」
 「情けをかけろと?」
 「……命乞いのつもりはねェよ。けどアンタにしちゃあ珍しいなって」
 「珍しい、か」
 「おっかない目で見んなって」
 「見逃す――つもりではあったのだがね」
  あまり買い被るな。そう言いたかったのか僅かに皇帝が苦笑する。
 「昨日の『あれ』を見せられては致し方あるまい」
  苦笑は凶悪だ。研ぎ澄ました牙を瞬時剝きだした夜行性の獣をダインは連想する。
  昨日の、と暗に告げられてダインの顔も顰められる。
  全く酷い急襲だったと思う。
  急襲と言うのもおこがましい。あれは、はっきりと、
 「……あのガキら。お嬢ちゃんに似てたな」
  ダインもあの場にいて、適宣処理した一人だ。刃を握り振り上げ皇帝へ向かい奔る子供を切り捨てたことに悔いはない。それがダインの仕事であったし、傭兵時分幾度かは、倫理に背くような胸糞悪い戦もしてきた。金の為だった。綺麗ごとを並べるつもりもない。
 「君も――ミルキィユ将軍も。惑うたかね」
 「俺が?」
  冗談。
  探る様な視線を向ける皇帝に、鼻先でダインは笑った。
 「俺もお嬢も、お花畑にゃあ馴染めない戦狂いだぜェ?何人戦場でブチ殺してきたと思ってんだ。一人二人のガキを切り捨てるのを躊躇ったところで、煉獄往きは免れねェさ」
 「それは頼もしい限りだ」
  謁見の際に地方の太守に付き従っていた少年少女は六人。左右に分かれて大人しく頭を垂れていた。いずれも似たような顔形をしているなと、ふと気付いた時にダインの脳裏に警鐘が走った。
  太守の目配せがあったものかどうか、確認する前に体が動いていた。
  流れるように腰に佩いた愛剣へ手をやる。音もなく抜き去るのと、一人目の背中へ投擲の要領で投げつけたのは同時だ。次いで僅かに腰を折り、革長靴に仕込んだ短剣を抜き取り、これも投げる。
  狙いは過たず、少年か少女か、短く切り上げた金髪の首筋へ突き立った。
  苦悶の声は、なかった。
  同時期に、皇帝への進路を塞ぐ形で立ちはだかったミルキィユが、細身の剣で数度宙へ薙ぎ払う仕草をする。三人倒れた。
  手慣れた大剣の姿はない。あれは皇都ではあまりにも目立ちすぎるし、屋内で使用するには何かと不便だ。第一どこかに突っかかる。
  そこまでが、一瞬。
  唯一、はっきりと意識のあるもう一人の子供と太守を跪かせて、ディクスがその首筋に剣を当てる。
  溜めのない動きで引かれた刃が、綺麗な直線でもって二つの首と胴を綺麗に等分した。
  遅れて漂う血臭に、どこか安堵の表情を浮かべたのはダインもミルキィユも同じだ。嗅ぎ慣れた臭い。
  戦狂い。
  正常な感覚ではないのかもしれない。正常な感覚とやらがどこかに転がっていれば、の話ではあるが。生まれてくる時代がここで良かったな、そんな風に酒の席で語り笑ったこともある。半分が自嘲だ。
  検分しようと小さな体の一つに近付いたミルキィユが、ふと眉根を寄せるのに気付いて、その視線の先をダインも追った。
  真っ直ぐに突き立った短剣。
  突き立ったことに対して、ミルキィユが嫌悪を示したのではないことくらい、ダインにも判る。
  皇帝の刃となる為に、彼女は感傷を棄てていたからだ。
  もうずっと前に。
  彼女が眉を顰めたのは、突き立った短剣筋に襲撃者――この場合もそう名づけるべきなのだろうか――に、全く避ける意思が無いことが見て取れたからだった。最初から死ぬつもりだった。明らかに語っている。「つもり」がなかったのは、恐怖のあまり薄ら笑いを浮かべていた太守だけであったろう。
  返した彼らの顔を見て、ますますミルキィユの眉が顰められた。
  金の髪。青い瞳。多民族の集まるエスタッド皇国に於いても、見かけない訳ではないけれどここまで同じ背格好をこの人数集めるのは、それなりに苦労する。
  意図的だ、と言うことだ。
  どの顔もどこか、チャトラに似ていた。
  苦虫を噛み潰した顔で一通りの改めを終えたミルキィユが、指示を仰ごうと皇帝へと振り返り、ぎくりと肩を強張らせる。
  皇帝に一切の色は無かった。
  無機物を見る目付きで、転がった死骸とミルキィユ、そうしてダインを眺めている。
 「見て」
  いるのではないのだろうなとダインは思った。眺めている、それだけだ。
  その場に控えた他の兵士も侍従も動けない。動くことを躊躇う無表情さだった。誰もが息を飲み動向を伺う中で、
 「愚かな」
  皇帝が突如嗤った。
  思わず視線を逸らす類の、あまりに凄惨な笑いだったと思う。かける言葉は無かった。思い当たりもしなかった。
  であったから、皇帝が何を思ってあの時何故笑ったのか、ダインに知る術はない。
 「――鳴かずば雉子もとられざらまし」
  淡々とした皇帝の声。その時もダインは背筋を凍らせた。
  三補佐の調査は迅速だ。未明には主犯の名が報告されている。軍籍に身を置く中将の一人で、実力ではなく家名で世襲した地位に驕った愚か者。
 「火事、かな」
  見せしめには。ぽつ、と呟いた言葉を拾って、ダインが頷く。皇帝は名指しで誰にも命じていない。ダインも何も答えていない。公式記録には何も残らない。
 「……本日夜半、不始末火により書斎から出火。火の回りがかなり早く、就寝中の家人の救出はならず。中将殿以下ご家族全員の焼死を確認。享年五十三歳。不幸な事故でした」
  呟きを耳にした脇で同じく淡々とノイエ補佐官が応じ、それを今度は書記官が書き留める。早送りされた過去に、ダインがもうひとつだけ頷いた。
  あとは無言で部屋を出る。
  夜半までの下準備は、早めに済ませておくつもりだ。
  

  皇帝が執務室を出たのは、日も暮れて辺りの篝火が灯されてからだ。
  昨日の一件以外にも煩わしい急用が次々と舞い込んで、ろくに通常業務もこなせなかった。草臥れているのが見て取れる。それでも自暴自棄気味に押して仕事を続けようとする男へ、静かな物言いで切り上げるように促したのはディクスだ。
  皇帝自身も嫌気が差していたのだろう。大して抗いもせず、そうだね、と頷いて机から離れた。
  皇帝を居室まで警護し、引き継いで、それでディクスの一日の仕事は終わる。あとは明けて翌日の朝まで皇都の一角に構えた自宅で体を休めるのが常だ。
  であったから、部屋を出てからこうして居室へ送り届けるまでの道行は、自然その日の出来事をまとめながらの日課となっていた。皇帝もそれを理解していて、この間は他に人をあまり寄せ付けない。
  言っても、もともと多弁ではないディクスと、見た目よりもずっと無口な皇帝二人では、会話もあまり振るうことはない。どちらかがぼつと呟き、どちらかがが頷く。いつもの光景だ。
  回廊を伝い歩き、篝火に照らされながらふと皇帝が生活居住区への道筋から外れ、庭園への足を運んだのは、ディクスにとって割と珍しくもない光景であったので、黙ってそれに付き従った。中途から二人に気付き、会話が聞こえない程度に少し離れた形で追随していた交代の兵士に、目で促して先に居室へと向かわせた。
  使える主が個人的な時間を邪魔されるのを好まないことは、ディクスもその兵士もよく知っている。
  皇帝は黙ったままでもう何も言わない。
  ディクスが付き従っていることも考えから払われているようで、と言うより、主の不興を買ってしまうと、文字通り
 「追い払われる」
  ことは目に見えていた。きっとこうして無関心を装うことが最大限、主の譲歩なのだろうとディクスは内心納得している。
  東屋へ向かい、その一角に腰を下ろしてしまうと、主は石のように動かなくなった。
  僅か顔を伏せ、視線は園丁によって整えられた花壇を見ているようで見ていないようで、想いに沈んでいるというよりは、何も考えない努力をしているようにも見て取れた。
  東屋の内部とその周辺へ、視線を走らせ異常がないことを確認したその後は、ディクスはじっと佇む。
  こうして日常の執務や業務やその他のしがらみ――から逸脱したがる傾向は昔からのもので、それが主の精神的な疲労度合いと比例していることをディクスは理解している。
  草臥れているのだ。
  けれど癒す術をディクスは持たない。
  東屋の立てられたここは、宵の口の歩哨引き継ぎや夕食に携わる仕事をもつ者どもの喧騒からも少し離れていて、音は遠い。回廊ほどに照らされてもいないので、本格的に闇が迫ってくると、主の表情は伺えなくなる。
  ふ、と第三者の気配を感じて、ディクスが頭を巡らし、遅れて気付いたものか億劫そうに皇帝もその視線の先を見た。
  皇宮の側から、小走りに駆けてくる小さな影がひとつ。まるで足音を立てない走り方は、恐らく生来のものと言うよりは掏摸稼業で身に付いたものなのだろう。身のこなしがそうなのに、はっきりと気配を感じさせるのは、その小さな体がぴんぴんと闇を弾いているせい。
  チャトラだ。
  彼女が居室で男を待たずに、こうして探しにやってくることは今日が初めてだったので、一瞬ディクスはどう対処したものか躊躇う。彼女の動作が無礼だとかなんだとか、そんな小煩い意識が頭にあった訳ではなく、そもそももしそう言った
 「常識」
  をディクスが彼女に主張するのだとしたら、皇都に来るずっと前よりそうしたろう。ディクスが躊躇ったのは、草臥れている風な主の時間へ彼女を近寄らせて良いものかどうか、そうすることで主は快か不快か、その一点に尽きた。
  迷った隙にチャトラは無用心にさらに近付いており、ふと顔を上げてディクスを仰ぐ。
 「いいかな」
  皇帝へと言うよりはディクスに確認したのだろう言葉に、仕方なしに彼は頷いた。今更否もない。
 「――猫?」
  億劫そうな声を隠さないまま、皇帝が顔を上げチャトラの名を呼ぶ。皇宮からの明かりを背にしているので彼女の表情は知れず、それは眺めていたディクスへ、昨晩の襲撃を喚起させる。
  呆気なく、実に呆気なく転がった数個の体。あの体の持ち主が何を思って皇帝へと刃を向けたものか、ディクスは知らないし、知りたいとも思わない。けれど軍籍から離れ、皇宮勤めが長い彼にはまた、反抗といえども案外驚くほど軽い――肩透かしにも似た――例えばそれは、その日の家族の糧を満たされるといったような、実に命を懸けると思うには程遠い――理由でも行われてしまうと言うことを識っている。
 「皇帝」
 「――うん、」
 「悪ィ!」
  ぱしん、と軽く打ち合わされた音が響いて、主が小さく首を傾げたのが判った。チャトラが下げた頭の前で手を合わせている。要は謝っているのだろうが、その合わせた手の平が妙に黒い気がした。
  影だろうか。
 「――謝られるようなことがあっただろうか」
  主からして不思議そうに呟いている。
 「……あの。オレ、さっき、部屋を片付けようとして机とか動かしてたんだけど」
 「ほう」
 「インク壺の蓋が開いてるの気付かなくて……その。動かした拍子に壺、盛大にブチかましちまって……なんか、机の上に積まれてた書類とか、救える奴はすぐよけたんだけど、上の数枚がもうべったりで」
 「ほう」
  聞いた皇帝の声が、不意に押し殺された低いものへ変わる。
 「うん」
  頭を上げたチャトラの顔が、今度は明かりに照らされて見えた。心底困っていた。
 「あの、これ」
  差し出した羊皮紙は裏も表も真っ黒で、ついでに彼女の両の手も真っ黒だった。
  確かにこれではもう書類の意味を成さない。
 「『重要書類』……なんだろ。侍従のオッサンに聞いたら、おおごとだって、一枚作るのに一体どのくらいの時間と労力が掛けられているのか判らないって言われて」
 「――」
 「その……そんな大事なものだって知らなくて、って言うか、知らなかったとかそんなん言い訳にしか、なんねェんだけど」
 「――」
 「けど、アンタが昨日の夜頑張って仕事してた分、オレが台無しにしたってのは事実で……」
 「それを、謝りにここへ来たと?」
 「うん。部屋に先に来てた護衛のヒトに聞いたら、庭園に向かったって言われて……その、何ていうか謝ってどうなるってもんでもねェけど、本当にごめんなさ、」
  無造作に皇帝の腕が伸ばされた。殴られる、と見ていたディクスですら思った。身構えていた当の本人は、思わず目を閉じている。そのまま、首後ろに手を当てられぐいと胸元へ引き寄せて、
 「ちょ、おい、皇帝!」
  ディクスは目を逸らす。
  主が可笑しそうに肩を揺らして笑っていた。
  瞬間放心したチャトラが、焦って身もがく。
 「放せよ、オレ今、両手インクべったりなんだぞ!付くって。アンタに付くって」
 「汚れる?」
 「に決まってんだろ!」
  突き放したい。けれど両手は使えない。矛盾した焦りに、チャトラがばたばたと暴れるものの、主は彼女を開放する意思はなさそうだった。
 「汚れたら洗えば良い」
 「無理無理無理無理!アンタ、自分で洗ったことないからそんなこと言えるんだよ。しかも今日白い服着てんじゃねェか!インクの染み落とすとか絶対無理!」
 「ではお前は大人しくしていなさい」
 「そう言う問題じゃねェッ……ああもう!」
  付いたら落ちねェだろ、だとか喚いていたチャトラへ、

 「――良い」

  急に笑いを収めて、その細い肩口へ皇帝が額を押し付ける。くぐもった声がまだ少しだけ笑いを含んでいたけれど、
 「良い」
 「……」
 「このまま」
 「……皇帝?」
  敏感に何かを感じたか。チャトラが暴れる動作を収めて、覗き込むように小さく呟いた。汚れた手のひらを、極力男の体から遠ざけたのがなけなしの努力だ。
 「何か、あったのかよ」
 「何もない」
 「……あっそ」
  逃れることは諦めたのか、腕を後ろ手に伸ばした状態で、諦めたようにチャトラが溜息を吐いた。
 「猫」
 「あ?」
 「明日からまた少し周囲が騒がしくなる」
 「うん、……?」
 「逃げようか」
 「え?ど、どこに?」
  唐突な話の振りにチャトラが付いていけなくて、目を白黒させているのが判る。
 「逃げるって、アンタ何か悪ィことでもしたの?」
 「何もない」
 「……いや意味判んねェし」
  そう言って宙を睨んでいたチャトラが、あー、と喉奥で潰れた声を立てた。
 「明日と明後日は無理だオレ」
 「――無理?」
 「うん。園丁の爺さんと、明日、バラの蔓を刈り込む手伝いする約束してる」
 「薔薇」
 「うん。あと明後日は何かアンタの聖誕式?がもうすぐあるとかで、その蝋燭をあちこちに飾るらしくてさ。それ手伝うの約束しちまった」
  明々後日なら行けるけど。
  そう答えたチャトラを不意にしんとした目で皇帝はしばらく眺めて、それから居心地の悪くなり始めた彼女が身動く前に、突然げらげらと笑い出した。
  驚きに目を丸くした彼女はきっと、なぜエスタッド皇が笑いを誘われたのか理解できないに違いない。
  聞いていたディクスには、よく判った。
  思わず苦笑いを噛み殺す。
  男が現在の皇位に就いたのが、今のチャトラより少し上の頃合い。十八か九の辺りだったようにディクスは記憶している。前代の死によって齎された、唐突な即位。整えられた訪れるべき過去。かなり昔の話だ。
  その、継いでから今の間、「皇帝の誘いを断る」度胸のある人間はどこにもいなかったように思う。いなかった、では語弊があるかもしれない。誘いを断る行為が有り得ないのだ。選択肢として用意されていない。
  仮令戯言のひとつだったとしても、平身して周りは男の意思として敬ってきた。男の意思が芯であり、中心であり、当然のようにそれを軸として皇宮は回ってきたし、今も回っている。
 「バラの手入れがあるから」、断られるとは夢にも思っていなかったのだろう。
 「な、……なんだよ。涙流して笑うようなことか?っていうかどこがツボなんだよ?」
 「お前は、本当に――」
  くつくつと喉奥を震わしながら、それ以上の言葉を男は飲み込んだ。チャトラを解放し、立ち上がる。部屋へ戻る気になったらしい。気が晴れたのだろう。
 「あ、おい」
  置いて行かれた風情のチャトラが、ばりばりと頭を掻いた。渋面になっている。掻いた弾みに金茶の短髪が黒く汚れたが、本人は気付いていなかった。
 「……意味わっかんねぇぇぇ……」
  未だに首を捻りながら、皇帝を追う。
  二人の背を護るように付き従って、ディクスが後へ続いた。
  お前は本当に面白い、そう皇帝は続けたかったのかとふとディクスは思い、そうであるような気もしたし、そうでないような気もした。お前は本当に。
  その後に何と言いたかったのだろう。
  思いを巡らせかけたディクスへ、皇帝がちらと振り向き、視線を流す。思考を見通していたのだろうと思う。
  牽制の色だった。
  知らず背筋が伸びていた。


(20101212)
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最終更新:2010年12月12日 21:34